http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p127 (未定稿)


神々の歳時記  7月中1 但し方位による

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●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版http://
www.matsuri.or.jp/cgi-bin/wforumcgi/wforum.cgiメルマガ

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-7月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

7 月・中旬  ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ 



7/11 



■09千葉・佐原祇園祭。
■木更津市・八剱八幡神社・例大祭・・・・・・関東三大神輿の一つ、重さ1.5トンの神輿渡御が見もの(千葉・木更津市
で13日まで。

▼熱海・来宮祭・・・・・・熱海市・来宮(きのみや)神社の祭り。祭神・五十猛命(いたけるのみこと)が根と化してこの海
辺に流れ着き、鍵取り(創祀者の家筋)の山中家の先祖に拾われて神社に祭られたと言う故事により、其の漂着の旧
暦6/16日、つまり06年の場合、西暦のこの日を祭日として海辺への渡御と鹿島踊りが有る。

■北条 政子の命日・・・・・・7/13日を参照。

■07熱田・松コウ(女后)社祭。
■09郡上踊り(〜9月5日、8/13-16 徹夜踊り)【岐阜県郡上市八幡町】

★桑名・石取祭・・・・・・・桑名神社・中臣神社の祭りで、以前は7/11だったが今は8月の第一土日。町屋川の河原の小石を俵に詰めて神前に奉納
する。市内40数箇所から華麗な山車が出て大賑わいとなる。

■やぶねり・・・・・・大蛇に見立てた数十本の竹の束を担いで練り歩く祭り(三重・津市)。
★06-07生国魂神社・いくたま夏祭り・・・・・・・・大阪市天王寺区。枕太鼓と獅子舞。

■06-07-08-09-11杭全(くまた)神社夏祭り・・・・・・・・大阪市平野区、杭全神社で7/11〜14日、足洗神輿川行事とダン
ジリが出る。http://www.omatsuri.com/movie/kumata.html 動画

■08-09七日法要・・・・・・・粉河寺(和歌山県粉河町) 
■08-09花とり踊・・・・・・・安養寺(愛媛県一本松町)

■世界人口デー。


































































7/12 


■06-07-09福島・伊佐須美・御田植祭・・・・・・会津高田町の伊佐須美神社のこの祭りは伊勢や熱田と共に「日本三田
植」と言われる。当日は神幸祭に始まり、神輿渡御、神幸、お田植となる。其れに獅子追、行列が三周した後、各地の
民家を個別に回る。

埼玉の提燈祭り「天王様」・・・・・・12日と18日に6台の山車と1基の神輿が登場。昼は人形、夜は提灯を点けた
山車が圧巻(埼玉・久喜市の八雲神社・18日まで)。

旧久喜町の総鎮守である八雲神社の祭礼で、200年以上の歴史を誇ります。「久喜の天王様」はかつては牛頭天王
(ゴズテンノウ)を祀る天王社と呼ばれていましたが、明治の神仏分離により素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祭神とする、
八雲神社として生まれ変わりました。

久喜の提燈祭りは「天王様」の愛称で呼ばれている。祭礼そのものは毎年7月12日から18日ですが、山車の曳き廻
しが行なわれるのは初日の12日と最終日の18日です。山車の曳き廻しは、旧久喜町の本壱、本二、本三、新一、新
二、仲町の6台の山車と、東一の神輿一基が参加して盛大に行なわれます。

「天王様」の祭りの由来は、天明3年(1783)浅間山大噴火によって桑をはじめとする作物が全滅し、これから立ち直
ろうと本町の宮本家の祭礼用山車を借りて、これを町内に引き回し、豊作を祈願したのが始まりと伝えられています。
浅間山の噴火が7月8日だったので、10日遅れの7月18日にこれを行なったものが、現在も受け継がれています。

詳細はこちらhttp://www.asahi-net.or.jp/~wn4e-krsw/index.html。

★09岳の幟(7月15日に近い日曜日)【長野県上田市別所温泉】
■08郡上踊り(7/12〜9月6日、特に8/13-16日までは徹夜踊り)【岐阜県郡上市八幡町】
■松坂・祇園まつり・・・・・・市内の三つの神社から神輿が町中を練り歩く(三重・松阪市・13日まで)。

明智光秀の命日・・・・・・彼は5/29に京都・愛宕山の西ノ坊で連歌の会を催し、吉凶を占った。その時に詠んだ有名
な句が「時は今、天ヶ下しる五月かな」である。時は彼の出自である土岐氏に掛けた言葉であり、光秀が本能寺攻めを
決意して謳ったものと言われる。五月とは今の西暦の五月ではなくて6月の梅雨の頃である。

従ってサツキの花が散った頃である。信長の命日も今の6/2(別項参照)である。光秀がサツキの花のように梅雨に打
たれて落ちる事を覚悟の上でした事と分かる。そもそも信長は何故殺されたのか。叡山では4000人、伊勢長島では2
万人を殺戮した為に仏罰や人の恨みで殺されたのか。

信長と光秀は諸説あって謎めいている中で、06/11/5のabcテレビが「信長公記」のドラマをやっていた。フィクションと
は言え当時、此の15巻を残した大田牛一(著作者)の裏話を詳しく語っていた。信長と蘭丸の遺骸が見つからずに光秀
が窮地に立った。其れを隠したのが秀吉であり、予め南蛮寺へ出る抜け道を塞いでいたと言う話である。

トモアレ結論を言えば、信長は暦法統一を図った為に殺された。暦法は天皇の専権であり、他の者が武力で支配した
り洋式を真似てはならなかったのだ。安土城の天主から見下ろす位置に、帝の清涼殿と同じ物を造っていた。信長の
印も、シナの皇帝と同じ「天円地方」にしていた。

当時、光秀の弟(信秀)が2000人の部下と共に京都にいた。帝に対して信長がクーデターを起こすのを阻止する立場
だった。本能寺から南蛮寺に抜ける抜け道も塞がれていて信長は自害した。其れで目的を果たした近衛前久は光秀を
裏切り、細川忠興も裏切った。光秀は裏切り者・逆臣と見られている。だが天皇に対しては忠臣であった事になる。

とすれば堺の茶屋四郎次郎の手引きで光秀が公家に会って使われた事になる。貴い忠臣を裏切ったのは寧ろ公家で
あり天皇であった(6/2を参照)。また07/3/3日のテレビ大阪によれば、光秀を犯人にする陰謀から秀吉も歴史を改竄
した疑いがある。信長がクーデターを起こし、秀吉が其の後継者として立つには不都合だったと見るのである。

天王山から引き上げる途中、今の京都市伏見区小来栖で土民に襲われ落命した。天正10/6/13己亥日、57歳だ
った。彼は信長の13日後に死んだとも言われている。数字の上ではそうとも言えるが暦法が違えば話は別だ。信長を
弔った大徳寺は臨済宗であり、光秀の娘のガラシャ夫人はキリシタンだった(まだキリシタン禁令はなかった)。@

其処で此の日をグレゴリオ暦に換算すれば7/12になる。信長の死後1ヶ月経っていた。何れにせよ此処が鎮魂方位
に合致する。また其の日の逆方位に当たる叡山下の西教寺に墓地が置かれたが、此処は日迎え方位に当たる。だが
叡山は仏教暦、つまり今の旧暦の6/13己亥日に光秀を弔い、此の旧暦で記録した事になる。

此処は伝・聖徳太子の開基とされる寺であると同時に、叡山とは別の横川派であり、横川は日枝権現の古地である。
信長は叡山を焼き討ちしたが、其れに加担してその後も叡山を監視したのが光秀の坂本城だった。だから光秀の遺骸
を受け入れたのは奇縁である。彼が敗走して坂本城に向かう途中で倒されたが御魂は坂本城に向かったであろう。

他方、光秀の従弟・秀満が壷笠山にいたが直前に琵琶湖を渡って坂本城に戻り、光秀の敗報を受けて天守閣を焼き、
妻子共々、自刃したと言われる。だからもし光秀が戻ったとしても城はなかった。西教寺は其の坂本城の跡地から2`
と近い。今もこの寺には前田利家の娘・菊姫像がある。その外、首塚が亀岡市にある。

市内宮前町にある谷性寺である。此処は彼が生前に家臣を供養した寺であり、今、彼の家紋である桔梗が植えられ、
汚名を着せられた光秀をしのぶ寺となっている。谷性寺は07712−6−2054

また話は前後するが光秀は天王山の麓の山崎の合戦の時に前線基地としての勝龍寺城(長岡京市)にいて近くの山
崎に出て秀吉軍と激突し、1582/6/13に敗走して近江・坂本城を目差して北上する途中に討たれた。その後、★秀吉は
信長の一周忌の為に大徳寺に総見院を建てて七日間法要を行った(★以下は06/6/25のNHK総合TVより引用)。

此れは信長の法要と言う事だった。其れが天下とりの政の大義名分と言うものである。だが大徳寺から見て此の勝龍
寺城が旧暦の7/12方位に当たるのである。つまり秀吉は仏式で旧暦の命日に此の勝龍寺城に向って光秀の弔いを果
たした事になる。

因縁話になるが、此の城はガラシャ夫人(7/17を参照)が細川忠興と2年間の新婚生活を過ごした所でした。

★06-07-09大阪・生国魂神社・夏祭・・・・・・09/7/11土-7/12日日、大阪生国魂神社の「生玉祭り」。本殿の大きさが日
本有数。大阪三大祭りの7/25・天神祭、8/1日の住吉祭り、その前に7/11日の生玉祭がある。名物はマクラ太鼓。クラ
イマックスが7/12日のお練り。疾病退散と邪気祓い。

赤い烏帽子と飾り背結びの叩き役を願人と言う。祭りの最後に「生玉しめ」と言う手締め拍子で結ぶ。

道頓堀の船渡御・・・・・・・大阪ミナミの難波八坂神社では伝統神事の「船渡御」が有る。と言っても01年に約230
年ぶりに復活したもの。16隻の船に乗り込んだ法被姿の氏子らが太鼓を打ち鳴らしながら勇壮な掛け声で進む。
因みに難波神社と言う所が近くにもう二箇所(南久宝寺と南堀江)あるので間違わないように。

難波八坂神社は京都祇園と共に牛頭天皇を祭る。従って昔は6/14〜15が例祭だった。其の方位に大国主神社、
次に大国町、次に戎本町と並んでいるのは偶然ではなかろう。であれば其れをこの7/12にしては少し残念である。

此処はまた明治までは七堂伽藍に大門坊(深妙寺)ほか12坊あって深砂大王(毘沙門天の化霊)を祭って賑わった
所。

■湊川神社祭・・・・・・神戸市。

▲06厳島神社の管弦祭・・・・・・・06年はこの日となるが、記事は6/17を参照。広島・宮島町、厳島神社。旧暦の6
/17のこの日に管弦船が雅楽を奏でながら厳島神社前の海上で華麗な王朝絵巻を繰り広げる。日本三大船神事の
一つとされる。

■09博多祇園山笠・・・・・・・・http://www.nishinippon.co.jp/hakata/yamakasa/によれば、09年は、下記の日程で行わ
れる。7月1日-飾り山笠一般公開、夕方・お汐井取り(当番町)。7月9日-夕方・お汐井取り(全流)。7月10日-夕方、
流舁き・流区域内。7月11日-早朝 朝山・流区域内。7月12日-追い山ならし。

7月13日-集団山見せ。7月14日-夕方・流舁き・流区域内。7月15日-追い山。

■日本標準時・制定記念日・・・・・大阪で太陽が真南になった時は、東京では既に真南を通過しており、正午を17分
過ぎた頃となる。




















































7/13 


■06-07盆・迎え火(関東圏)。 盂蘭盆会(関東各地各宗)13〜16日。 

■06-07-09靖国神社・みたま祭・・・・・・・千代田区九段。盆踊りなど和やかな祭り。
■06-07-08-09-11佃の盆おどり(〜15日)【東京都中央区】

■王子・槍祭・・・・・・東京北区。王子神社の祭り。槍祭の由来は家光の乳母・春日の局と言われる。

北条 政子の命日・・・・・・彼女は平の政子である。源氏の棟梁・源 頼朝夫人だったのに何故「源 政子」と呼
ばなかったのか、については最後に述べる。

彼女は平氏の北条時政の娘として美人の誉れ高く、バツイチの身で頼朝に嫁いだが、その後鎌倉幕府を立て、やがて
頼朝未亡人となっても北条政子と言われ、外にも源政子、平政子などの別名があり、夫・頼朝、長子・頼家、次子・実朝
を相次いで亡くした。

其れを待っていたかのように後鳥羽上皇が鎌倉追討令を出した時には、バラバラになっていた御家人たちを纏めて1
9万の軍にして戦い、勝利した。

尼将軍として69歳まで活躍して以後700年間を武士の天下とする礎となった女傑である。命日についても資料によ
り、嘉禄元(1225)年6/11と7/11との二説があるが、彼女の愛した次子・実朝と同じ墓・源氏山の墓所から逆方
位にはあじさい寺・妙月院(後に時宗が創建)がある。

正確には両者の位置は7/13←→←→1/12である。従って、この墓所が確かであるなら7/13日が命日と推定出
来る。次に第二候補として安養寺がある。彼女の尼としての法名は安養尼であり、大町には今も安養寺があり、開基
は伝・政子である。此処と←→祖師堂←→荏柄天満宮の位置関係は7/23.5←→←→1/22.5である。

其れに並行するように荏柄天満宮の約300mの長い参道は7/10方位に伸びている。其処で暦日から整理すれば、
ユリウス暦で7/17(グレゴリオ暦で7/24)が旧暦の6/11庚子である。だがこの三者の位置関係は、ユリウス暦で
はなくて、この日が和暦の7/13であった事を示している。

では旧暦の6/11庚子は何を意味するのか、と言えば、先の妙月院が後に臨済宗寺院となったのに対して、安養寺
は浄土宗寺院であるから暦日の決め方が別になっても当然です。同様に見れば先の7/24方位は、和暦の7/13を
グレゴリオ暦で黙示したものと見る事が出来る。さてそうするとどうなるか。

この日は頼朝の公式の命日1/13(円暦方位では1/18日)の裏になり、即ち「日迎えの日」に当たっていた。従って注
意しないと出口を塞ぐ関係になる。因縁と言うべきか。彼女は夫・頼朝と嫡子の頼家、其れに一幡と千幡(実朝)を次々
殺した。

「頼朝は落馬で死んだ」とする意見も有ろうが「吾妻鑑」にこの時期の事を空白にしているのが何よりの傍証である。

彼女には手足となる時政・義時の外に、頭脳となる公文所(政所)の別当(執権)として大江広元があった。大江氏は歴
史的に第一級の軍師であり、鎌倉幕府の立役者である。でも彼らにはわが子を殺してまで鎌倉政権を守る覚悟があっ
ただろうか。

源頼朝は歴史的には有名であるが、彼は実は北条家の婿養子だった。ただ北条頼朝と名乗らなかったのは源氏の御
曹司と言う看板を手土産に持参したからである。ただ北条氏は源氏ではなくて平家である。だから彼女はその間にあっ
て人一倍、苦悶したに違いない。結果として彼女は男よりも家を採った。

女性にとって愛する夫を失い、子を次々失う事は最悪の人生である筈だが、彼女は運命に流されて見過ごす「手弱女」
ではなくて、平家が源氏に滅ぼされた筈の歴史を再び平家に取り戻した言わば女傑。自ら積極的にその道を選んで実
行した張本人でした。

何のためかと言えば、京都にあった政権を吾妻に取り戻して平家の天下とする強い意志が伺われる。

此処で固定観念を外して頂くために言って置けば、桓武天皇以来、都は唐風文化に完全に染まっていて、源氏物語絵
巻にあるような十二単の和風文化では決してなかった。また今、平安京は「1000年の都」と謳われるが、結果から見
れば高々400年でした。

桓武の平安遷都が794年ですから、後白河法皇亡き後、頼朝が征夷大将軍となった建久3(1192)年まで398年間
で堕落した都になっていたのだ。とすれば彼女は和風を守るために寄与したのみならず、後白河法皇よりも一枚も二
枚も上手であった。

以後、関西には政子以上の人物が出なかった事は、以後の813年間の歴史時間を懸けても今なお政治の実権も都も
吾妻(関東)に取られたままである事を見れば分かろう。彼女は女傑である以上に、家族を犠牲にした悲しみを乗り越
えて関西から虐げられて来た関東の復権のために苦渋の選択をした大した人物だった事になります。

しかも彼女は有史以来、上方に取られていた政治の中枢を関東に取り戻した実力者とすれば此れは単なる遷都以上
の、関東の悲願の達成であり実に感動的な話である。であるのに大河ドラマでは其の辺りをサラッと流している点で物
足りないドラマと見る人がもっと有って良い。

■08-09遠州・大念仏・・・・・・・静岡県浜松市、浜名・引佐・磐田郡に分布している盆の念仏踊り。この起源は徳川家康
が天正2(1574)年、三方原合戦の戦死者を弔うために貞誉了伝に命じて行わせたのに始まる。若者を中心とした行列
が部落の寺や新仏の出た家々を回る。

■08-09開山忌・・・・・・・善光寺(長野市元善町)

■08長野・和合の念仏踊・・・・・・・林松寺・熊野神社大屋〔宮下氏〕宅(長野県下伊那郡)で庄屋・宮下家の先祖が伝え
たと言われ、7/13〜16日の盆行事として行列を組んで激しく踊る。13日の夜に熊野神社から踊り始めて行列を組んで
林松寺へ行って踊る。15日まで此れを続けて16日には逆のコースを採り、熊野神社で「おさめ」となる。

■愛知・吉田天王祭・・・・・・豊橋市・吉田神社の祭りで祇園祭とも言う。7/13日は大筒、手筒。14日は川煙火、15
日は神輿の渡御と笹踊り。

■ヤマトタケルの縁日・・・・・・8/13鳳大社を参照。
■水軍レース(第11回)・・・・・・約400年前、瀬戸内海で勢力を誇った村上水軍の小早船を復元し速さを競う。宮窪町
なと三町の共催。

■北九州・戸畑祇園祭・・・・・・7/13〜15。起源は1802年。四基の大山笠と飾り山笠が約50〜60基が町中を練
る。夜間は大山笠が堤燈山笠に変わる。其の豪華絢爛さを見ようと、浅生神社前広場は見物人で埋まると言われる。






















































7/14 
 


■08-09大念仏・・・・・・・福昌寺(青森県八戸市)
■06-07-08-09水止め御子舞・・・・・・・厳正寺(東京都大田区) 
★06-07佐原・祇園祭(16日まで)。

■住吉神社大祭(新潟・塩沢町(H14/7/14〜16)。
 
■直江津・祇園祭・・・・・・・新潟・上越市の八坂神社で7/14〜17日まで。但し直江津の神輿は例年、南に位置する
高田の祇園社に神輿を貸す慣わしである。このため高田からお召し船が荒川を下って来る。また深夜には神輿船が到
着するので、裸の氏子たちが水中に入って担ぎ上げて御座所に遷す。

15日には神輿が各町を巡幸し、順々に送って行って17日には還御する。

■11水止舞【東京都大田区、厳正寺】
■07静岡・来宮神社祭・・・・・・・3日間。

■飯山・柱松柴燈神事・・・・・・・長野・飯山市の八所明神社の夏祭りで7/14〜15。
■08-09古式盆踊・・・・・・・鳳来寺(愛知県鳳来町) 
 
■07郡上踊り(7月上旬〜9月上旬、8/13-16 徹夜踊り)【岐阜県郡上市八幡町】

■松名瀬神社の夏祭り・・・・・・三重・松阪市。建仁3(1203)年、源実朝が征夷大将軍になった時に、全国各地の百
戸以上の大村で産土神がない村に命じて奉祀させた。当村には八王子社が創建され、其れが受気比神社と改称さ
れ、更に明治に松名瀬神社となったと社伝に言う。

■安寿の命日・・・・・・丹後・由良。命日前後の土曜日に安寿姫塚・夜祭りが行われる。近くに山椒大夫の屋敷跡があ
る。彼は森鴎外の「山椒大夫」や三島由紀夫の「金閣寺」で安寿と厨子王の姉弟を買い取って使役した悪役とされてい
る。由良浜には「首挽き松」の碑も有る。

宮津は丹後ちりめんの産地であり、北国街道と北前船の交易で栄えたが、此の由良は製塩業だけで貧しかった。如意
寺の地蔵堂には姉弟が額に焼き金を当てられた傷を消したと言われる身代わり地蔵が祀られている。太夫の元から
厨子王を逃がした安寿が入水したと伝わる佐織池の傍に安寿姫塚がある。

或いは太夫に絞め殺されたとも言われる。地元では此の日には池の周りに提灯を下げて、姉弟と別れて「安寿恋しや
ほうやれほ、厨子王恋しやほうやれほ」と歌った母親も含めて霊を慰めて来た。06年は7/15日。

■07京都・祇園祭・・・・・・・本日7/14日はは宵々宵山である。07年は3連休の初日だったが、台風4号の接近のため人
出は約7万人。昨年の1/3と言う。例年は32基揃う山鉾も今年は橋弁慶鉾が延期したので31基。八坂神社で15日に予
定されていた伝統芸能奉納大会も中止となった(7/15朝日)。

■嵯峨天皇の命日・・・・・・桓武の第二皇子。承和9/7/15(U8/28G8/24)崩御。嵯峨山上陵に葬られた。皇子の源融
が臣籍に下って左大臣になり、宇治の別邸を道長に譲って嵯峨清涼寺に居付き、父を弔った。此処には秀頼の首塚
や光源氏のモデルとされる源融(みなもとのとおる)の墓もある。その後、東六条に華麗な河原院を設けた。

よって河原左大臣と呼ばれ、源氏物語にも語られたが実は大坂に太融寺を建てた。@

杭全(クマタ)神社・夏祭・・・・・・・・大阪・平野区で古来、池坊など神宮寺が六坊有って熊野三所権現として素佐乃男
命を祭って来た杭全神社では昔は3/3日に役小角に縁の法会があり、また6月と9月に祭りをして来た。@

其処で方位から此れを見れば、此処からの方位が新宮で5/30、本宮が6/5、那智は6/8である。其れが明治の
改暦により、夏祭りが7/6〜14、例祭が10/17となった模様である。でもこの方位には関係先が全く見られない。
とすれば矢張り本祭りは昔の6/5〜8が正しかったのではないか。06-07年は7/11を参照。


■06-07-08-09-11那智の火祭り(扇祭り)・・・・・・・那智の火祭り(那智の田楽)【和歌山県東牟婁郡那智勝浦町、熊
野那智大社】7/14〜16日まで。和歌山で仁徳天皇時代に創建された熊野那智大社の例祭。

http://www.omatsuri.com/movie/natihi.html 動画
ご祭神は家津御子神・熊野速玉神・熊野夫須美神の三座であり、大己貴神のご神体が那智の滝とされている。

因みに滝は全部で48あるとされる。さて家津御子神は本宮の神(スサノヲノミコト)、熊野速玉神は新宮の神(イザナギ
ノミコト)、そして熊野夫須美神は五男三女神の1人である。従って此処の主神はこの方(又はイザナミとされる)である。

この祭りは応永年間に京都の田楽法師二人が伝えたもので、昔は熊野三山が共に行っていたが、今は那智だけとな
った。ともあれこの日は熊野の神が年に一度、12の赤い「扇神輿」に乗って、本社から那智の滝(飛龍神社)に「里帰
り」すると言われる神事である。

其れを迎える氏子たちが担ぐ12本の大松明に点火して滝前の参道を上がり、神輿と合流して石段を下る(練り歩く)。
神々が滝へ里帰りして清められると言うドラマの「火と水の祭典」である。

所が何故この時期に那智で祭りをするのか、と言う理由が謎である。其処で方位から見れば、この日の方位には伊
串・古座・串本(何れも忌みの座を意味する地名)を突き抜けて神のミサキを意味する潮岬に至る。潮岬の東側に「出
雲」の地名がある外、古墳もあった。

此処から那智社家の平氏・塩崎・小山氏が出ているので那智と潮岬の関係は深い筈である。今も潮岬には朝貴神社と
潮御崎神社があり、大己貴神と少彦名神(及び大己貴神社)が祭られている。他方、那智大社から逆の1/14方位に
は烏帽子岳(909m)がある。

此処では那智の滝が御神体と言われ、滝ノ上には毎年注連縄が懸けられるし、滝壺の傍らには確か飛龍権現などが
あるが、千年も立てば滝は後退するので御神体とは思えない。山伏や行者にとっては滝は滝行の場となり、蛇や龍の
力を授かると言う信仰もあった。だが祭りとはそんな密教行者の信仰を超えた所にあるので矢張り方位である。

滝は岩を砕いて次第に奥へと移動するのに対して山は不動である。烏帽子の名の有る山は新宮にも略同方位に大烏
帽子山(362m)等、各地にあるが、其れは「山の形が烏帽子に似ている」と言う訳ではない。

そうではなくて先祖の山であり、其処で祭りをしたので、一族の中から成人する者があれば、元服名を付ける烏帽子親
となる名主親や首長が近くにいて、祭りの後で神前で元服させた。例えば八幡太郎とか新宮十郎などと名付けたのが
元服名でした。その山をこの日の祭りは背にしているのである。

因みに其の先は海山町→宮川村→津市→鈴鹿市→美濃市→奥飛騨→神岡町→富山・朝日町から日本海に出るが、
海山町の安楽寺には平安末期の薬師如来像が知られている。新宮でも此の日に扇立祭があるが、那智と新宮との方
位は8/9.5←→←→2/8.5であるのでこの祭りに関しては無関係と分かる。

但し、昔は今の6/1日方位に関係する大事な祭りがあった(6/1参照)と思う。
其れにしても伝統の祭日をこうして今に伝えていた事には感服する。恐らく此処にも明治の改暦押し付けがあった筈で
あるが、既に旧暦とは別の和暦を熟知したのだろうか、お上の無知を跳ね返して古式を守り通してくれたのでしょう。

07年は台風4号が接近した。従って此の火祭りは大雨の中で行われた。参拝客約6500人で例年の約4割減。烏帽子に
白装束の氏子たちはずぶ濡れになりながら、最大約50キロの桧の大たいまつを担いで石段を練り歩いた(7/15朝
日)。所で異な事を言うようであるが、此の火祭りが、大雨を齎したとも言える。

四国が空梅雨で水不足となっていた所に此の台風が那智に向かう途中で、四国のサメウラダムをたっぷり潤しました。

■06扇立祭・・・・・・・和歌山・新宮市。熊野新宮大社で行われるが、那智との方位がこの日とは繋がらない(前項を参
照)。
■08-09火祭・・・・・・・歓喜光寺(和歌山県) 

■08-09護法祭・・・・・・・両山寺(岡山県久米市) 

■氷室まつり・・・・・・・7/14前後の日曜日。高知県・本川村(村役場・企画振興課 088-869-2113)。

★06小倉祇園太鼓(7月第三金曜日〜日曜日)【福岡県北九州市小倉北区、八坂神社】

■検疫記念日。

★パリ祭・・・・・・・フランス大使館邸などでは共和祭・フランス革命記念日。09年、パリのパレードには70万人が集ると
言う。




























































7/15 



中元。関東の盂蘭盆会。お盆(盂蘭盆会・西暦7/15日)。 

お盆・・・・・・関東各地では毎年7/13日には先祖や死者の霊を家に迎えるために迎え火を焚く。14〜15日には
家で精霊祭・魂祭として供養し、16日には送り火を焚くのが慣わしです。この間に盆踊りで諸霊を慰めます。

お盆とお正月行事は、相反する時期に各家庭で行う似た行事・祭りであり、西暦(カトリック暦)でお正月を迎える所は
お盆も西暦で迎える。お盆はお釈迦様の教えによるもの(月暦「盂蘭盆会」を参照)ですから、仏式暦(旧暦)でするの
が建前となります。

このためシナでは上元が1/15、中元が7/15、下元を10/15とするようにお盆の行事もお正月に対応する行事と
なります。とは言うものの、日本では改暦によってマチマチになった。関東では西暦の7/15に行うが地方では8/15
と言うように、日本では改暦によってマチマチになった。

関東では西暦の7/15に行い、また九州では博多祇園山笠があり、16日には送り火、17日は京都祇園祭となるが、
その他の大部分の地方では一ヵ月遅れの8/15である。何れにせよ、各地の寺院では其の一週間前から不断経を
唱え、先祖の回向と三界万霊の供養の為に盂蘭盆会の施餓鬼法会を行い、そのための受付けを始める。

藪入り・・・・・・・藪入りは明治以前からあった風習です。この時期には先祖の霊を供養する習慣から、他家に嫁いだ
女性や他郷で働く人たちは休みを貰って、郷里や実家に帰りました。それが仏教の盂蘭盆(うらぼん)、そして16日の
「閻魔参」とも融合して、今も「お盆の帰省」に繋がっている。この盂蘭盆は、もともと旧暦の7月15日でした。

しかし明治以後、お盆は新暦(西暦)と旧暦の二通りに分かれ、さらに「月遅れのお盆」として8月15日の盆ともなり、現
在では「お盆休み」と言えば、一般に8月15日前後を指すようになっています。8月が暑さのまっ盛りで、学校の夏休み
とも重なる事が日本人の列島大移動の習慣を続けさせているようです。

■06-07-08-09-11山形・花梵天(出羽三山花祭り)・・・・・・山形県東田川郡羽黒町、出羽三山神社。山形・羽黒神社
の祭りで、道の両側が造花で飾られる。高いボンデンが社殿から出ると参拝者が四方から登って花を奪い合う。

■07塩釜みなと祭(海の日前日〜翌日)【宮城県塩釜市】

■07金峰神社流鏑馬・・・・・・・新潟・長岡市。越後の国・中越総鎮守。金峯神社の御祭神は、金山彦命(かなやまひこのみ
こと)をご正殿にお祀りしています。古来より鉱山守護の神として崇められてまいりました。製鉄、鍛冶の他、金運・縁結
びのご神徳があると崇敬されております。

また長岡の発祥の地として、信濃川の恵みの漁業や稲作、酒造りをこのちに広めたとされる境内社又倉神社には稲
作・商業繁栄・良縁のご利益があるとされています。また相殿には他に、又倉神社・・・大地主命(おおとこぬしのみこと)、須
勢理比売命(すせりひめのみこと)・沼奈川比売命(ぬながわひめのみこと)をお祀りしています。

由来は和銅二年(709年)四月元明天皇の勅願により、北国鎮護のため大和国吉野(奈良県吉野)の蔵王権現を古志
郡楡原(新潟県長岡市楡原 現在蔵王社鎮座)の地に勧請したのがその創建と伝えております。

大伽藍を建立し、寺院数ヶ寺、修験者秋葉三尺坊を始め三十八坊僧徒・山伏修験者を数千人有する巨大な勢力で、
その勢力は北陸から奥州まで及んだという。秋葉三尺坊はこのあと信州戸隠にて修業の後、遠州にて一大修験勢力
を築いた(秋葉山本宮秋葉神社)。

後に蒲原地方の豪族と戦い破れ、大伽藍寺院は焼失し、仏体を守護して三島郡矢田(新潟県長岡市矢田、現在神明
神社合祀)に隠遁する。中世は、仁治三年(1242年)当時越後中越地方の中心として栄えていた又倉村(新潟県長岡
市蔵王)の地の産土神又倉神社と合祀して神仏習合の祭祀となった。

離散した信者は集まり、蔵王権現の信仰が増すにつれて又倉村の地名は次第に蔵王村へと変わる。南北朝時代には
南朝北朝両軍の紛争の焦点となり、神社隣接の蔵王堂城の勢力は北朝に属すが、宗良親王は三島郡王番田(新潟
県長岡市王番田)まで進駐し、交渉した結果南朝に入るが、再び北朝に入る。

合戦後北朝方が越後全域を支配下に治めた。上杉家領有の折、天台宗から真言宗になる。蔵王堂城主堀直竒公は
平方原に城を移築した。これが長岡城であり、その際蔵王門前町を移住した。現在の長岡市の中心の始まりである。

近世では、江戸時代に至り、天海僧正の強い要請により再び天台宗に変わり、寛永二年(1625年)東叡山寛永寺(東
京都上野)が建立するとその附庸となった。またこの地を天領とし代官所を設け、当時「(長岡・三島・古志)八十ヶ町村
の総氏神」、「越後中越地方の総鎮守」などと崇められた。

三代将軍徳川家光公は特に崇敬厚く、御朱印地三百石・御簾を寄進され、また長岡城主牧野家は家督相続の折必ず
参詣された。当時坊屋敷十三坊、社家六軒あった。そして近代、明治維新に入り神仏分離の指令を受け、神祇と決し
金峯神社(きんぷじんじゃ)・御祭神金山彦命と定め、新潟県最初の県社に列する。

明治4年(1871年)大小区制が施行されると共に氏子の大半を分離される。明治四十年火災により社殿炎上するが、
大正二年建立。昭和二十一年社格廃止され現在に至る。以上、http://www.kinpu.jp/金峰神社より引用。11/7も参照。

武蔵第六天神社・例大祭--------http://www.dairokuten.or.jp/yuisyo.html「武蔵第六天神社」より引用----6/15日
(今は7月15日)、さいたま市岩槻区大戸1752"TEL:048-799-1014"FAX:048-799-1485

当社には古来より、耳病・頭痛等の病に霊験著しい護符として、神錐(きり)が伝えられております。毎朝・毎夕、第六天
神の御名を唱えながら、耳(または悪い所)を突く真似事を3回繰り返し行います。そして、平癒の暁には、神錐を2本
にして納めて戴くものです(詳しくは6/15日を参照)。

■神奈川・長井・熊野祭・・・・・・・横須賀市の熊の神社の祭り。豪華な神輿を海中に乗り入れ、2隻の船に囃子船20
隻が附いて海上を渡り、夕刻に還御する。

■長野・松本・田鉾(デンボコ)祭・・・・・・・八坂神社の祭礼。神輿に従うデンボコに向けて人々が藜(アカザ)を投げつ
ける。こうして人の足で踏まれたアカザを茹でて食べると疫病に罹らないと言う風習である。

■長野・小県岳の幟(のぼり)・・・・・・・上田市別所の行事。起源は約450年前の永正年間、この地が大干ばつとなっ
た。其処で夫神岳の九頭竜権現に雨乞いをした。

■08-09さんさい踊・・・・・・・円隆寺(富山県) 
★11豊橋祇園祭(手筒花火)(〜17日:7月第3金曜日〜日曜日)【愛知県豊橋市、吉田神社】

■06郡上踊り(7/15〜9月9日)【岐阜県郡上市】
■06豊浜鯛まつり(7/15〜16日)【愛知県南知多町】

■08-09かんこ踊・・・・・・・かんこと呼ばれる太鼓と歌に合わせて円陣を作って踊る田楽、念仏踊風な芸能。長泉寺(三
重県伊賀町) 

■07伊文祭。

■07二見興玉神社祭・・・・・・伊勢・二見。
■08-09女詣・・・・・・・三井寺〔園城寺〕(滋賀県大津市) 

■06由良の安寿姫塚・夜祭り・・・・・・7/14を参照。

■嵯峨天皇の命日・・・・・・彼は桓武天皇の皇子だった。桓武の皇子は51平城―-52嵯峨--53淳和と兄弟で各々天皇
位を継承した。中でも彼の和名は「神野」と極端に短い。父と兄の後、最澄や空海、そして田村麻呂や渤海使を活躍さ
せた帝として14年在位したが、大伴親王(淳和院)に譲位して承和9(842)7/15崩、57歳。葬・葛野郡嵯峨院北山陵。

この為、次の淳和院が内裏から其の命日方位に当たる南南西に御座所を遷して西院帝と号した。方位から位置を測
定すれば、其の場所は今の阪急「西院駅」である。祭り事には大義名分がある。先帝を弔う祭祀者としての淳和が西
に出て西院と号し淳和院と呼ばれたかに見える。しかしそうではなかった。

話を少し前に戻せば、実は嵯峨天皇が譲位して上皇である間に次の淳和天皇が崩御してしまった。なので正しくは桓
武天皇の日迎の位置方角に皇子たちが散在した。父が春3/17(U4/9)に崩御したので西に向かって西の端の嵯峨に
居着いた。だから嵯峨院と呼ばれたのであろう。

次子の淳和の場合は長子のスペアとして西の京辺りに居たのであろう。平城天皇の命日が7/7であるから、例えば壬
生辺りに居着いた。其れがやがてご本人・淳和院の5/8日の崩御によって、西院の称号のまま、今度は嵯峨天皇を弔
う場として、場所だけ今の淳和院跡へ移動して名前だけが元の西院として残されたものと推定する。

因みに淳和の次の仁明天皇が5/8日の方位に当たる深草に遷って、54深草帝として呼ばれる事となった。以上から当
時の和暦は太陰暦(大衍エン暦)ではなくて正しい太陽暦に戻った事と、院の位置づけが確認できたか、或いは暦法は
兎も角、少なくとも何故京都には御所とは別に西院が出来て、また次の天皇が深草帝となった謎が解けよう。

さて西院から更に進めば旧都・長岡京に至る。だが嵯峨天皇の陵は長岡ではなくて物集女町に向かった。例えば今も
淳和天皇火葬塚」がある。此処は実は淳和の次の54仁明天皇(3/21参照)が嵯峨上皇の亡骸を火葬した可能性があ
る。当時は突然に叡山・高野山が出来たように、渡来の仏教が一躍、国家鎮護の祭り事と化した時代だった。

従って、在来の和暦よりも仏式暦を優先した可能性もある。従って暦日・方位が違ってきた。よって混乱も生まれる。例
えば既に述べた通り嵯峨上皇は弟の大伴親王(淳和院)より長生きした。けれども命日の2日後には橘逸勢(はやなり)
謀反となった。

■06-07京都・松尾大社・御田祭。
■11玉造稲荷神社・夏まつり・・・・・・・・・・・大阪市中央区・森の宮駅。15-16日。

■阿麻美許曾(アマミコソ)神社の夏祭・・・・・・例祭日は10/16〜17、夏祭りは7/16〜17であるが、参道の向き
は6/15方位に向いて800m伸びている(6/15を参照)。

■07春日神社の夏祭・・・・・・・・大阪の泉佐野市で7/15-16日。
■08-09灯籠焼・・・・・・・興国寺(和歌山県由良町)

■06-07-08-09-11生田神社千灯祭【兵庫県神戸市中央区、生田神社】・・・・・・昔は千燈大祓と言った。左右玉垣前の
七段千燈炉の千燈火が夕方から夜空に映えるとか。
 
■島根・佐太・田植祭・・・・・・・鹿島町の佐太神社の神事で、松葉と黒豆を供えて早乙女が松苗を並べ、松葉を左右に
投げる所作を三度繰り返す田植祭。
■07忠海祇園祭(7月15日に近い日曜日)【広島県竹原市】

■08-09家畜祈祷法会・・・・・・・金剛寺(山口県柳井市)
★06-11小倉祇園太鼓(〜17日:7月第3金曜日〜日曜日)【福岡県北九州市小倉北区、八坂神社】

■06-07-08-09博多祇園山笠(7月1日〜15日)【福岡市博多区、櫛田神社】・・・・・・奈良時代(757年)に創建と言う櫛田
神社の祭礼で7/1〜15日まで。豪華な据え山車六基が祇園山笠と呼ばれる。静の美とされる「飾り山笠」と動の美とさ
れる「追い山笠」が有り、所定のコースでスピードを競う。

8つの山、追い山が博多の町を豪壮に駆け抜ける。男たちは実質7/1日から始まってネジキリと言う所作で連帯を確認
し、先輩の慰霊に礼拝して此の7/15日までの祭りをやり遂げる。

■佐賀・綾部・旗揚げ神事・・・・・・・三養基・中原町の綾部八幡神社の神事で、神木の公孫樹(イチョウ)の上に竹竿に
付けた旗を上げる。この旗は9/25(元は秋の彼岸の中日)まで上げたままにして置く。昔はこれで百日間の風当たり
を占った。

★06勤労青少年の日。































7/土用入り後の最初の日曜日
★南川百万遍祭・・・・・・・高知県・土佐町 (町役場・企画振興課 0887-82-2450)。


7/最後の土曜日
★中島観音様・夏の大祭・・・・・・・高知県・土佐町 (町役場・企画振興課 0887-82-2450)。


旧暦7/6 
▼薬師大祭・・・・・・・高知県・大豊町 (町役場・企画課 0887-72-0450)。

旧暦7/15
▼佐賀・唐津・盆やつし・・・・・旧暦でする唐津市の盆行事。聖霊流しと町中の仮装踊り。

旧暦7/16
▼施餓鬼舟・・・・・・・高知県・大豊町 (町役場・企画課 0887-72-0450)。






























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