http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p125 (未定稿)   

  
 神々の歳時記    7月上旬 但し方位による
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以下のページは「7月」です。・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★

●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版http://blog.
mag2.com/m/log/0000026310/108709763.html?c=trvメルマガ

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-7月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記に
は定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の詳
細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。
 
7月・上旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★



7/1        ★元日の対極、即ち元日から183日目。07年・旧5/17日。


■07-08-09-11山開き、海開き。
■06北海ソーランまつり(〜2日)【北海道余市町】08年は7/5から
▲函館市・港祭り・・・・・・徳川幕府が安政六年に開港した日。国際港としての今の歴史では日本一古い港。

■08-09高田まち・・・・・・専修寺(栃木県二宮町) 7/1〜2日。
■07-08-09-11水上祭(形代流し)【東京都台東区鳥越、鳥越神社】

■06-07-08-09-11
富士山の山開き(6月30日〜7月1日)【静岡県・山梨県】。
▲新潟黒川村の燃水祭。 

■奉灯祭り(あばれ祭)(〜2日)【石川県鳳至郡能都町、八坂神社】
★11あばれ祭り(〜2日:7月第1金〜土曜日)【石川県能登町宇出津】

▲富山・雄山神社の開山祈願祭・・・・・・立山町。48本の玉串を八足に盛って奉る古例から御幣祭とも言う。
■08-09大施餓鬼会・・・・・・青願寺(愛知県)。  

▼11潮かけ祭(旧暦6月1日)【三重県志摩市志摩町】----2011/7/1
▲琵琶湖の日。  

▲多賀・御田植祭・・・・・近江。多賀大社。  
■06-07-08-09-11祇園祭(7月1日〜31日)【京都市東山区、八坂神社】
▲ライトアップ・・・・・・7/1〜10/31.奈良・東大寺外。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900

平等寺の最勝会・・・・・・・8/1日を参照。
▲06橿原神宮・夏越神楽・・・・・・・・6/30日の大祓式に続き、本日は午前11時に神楽殿にて夏越神楽祈祷。
■07龍田大社・風鎮祭・・・・・・・奈良県三郷町。龍田神楽の奉納、風神太鼓、風神花火などがある。

■08-09モラエス忌・・・・・・潮音寺(徳島県)。
■08-09虫干し・・・・・・法然寺(香川県高松市)。 
▲石鎚山の大山開き・・・・・・山頂近くの石鎚の神社から仁・智・礼の三つの神輿を頂上(1982m)まで担ぎ上げる。

▲西条・石鎚祭・・・・・・愛媛。四国で最高峰の石鎚山(1981m)は修験道の山として石鎚蔵王権現と言われ、7/1〜
10日まで大祭が行われる。

■06-07-08-09-11博多祇園山笠(〜15日)【福岡市博多区、櫛田神社】
博多祇園山笠(7月1日〜15日)【福岡市博多区、櫛田神社】・・・・・・奈良時代(757年)に創建と言う櫛田神社の祭礼で7

/1〜15日まで。豪華な据え山車六基が祇園山笠と呼ばれる。静の美とされる「飾り山笠」と動の美とされる「追い山笠」
が有り、所定のコースでスピードを競う。飾り山一般公開・・・・14日まで。

博多祇園山笠 http://www.omatsuri.com/movie/yamakasa.html 動画

■06-07全国安全週間。 ■06-07国民安全の日。 ■06-07社会を明るくする運動。 ■06-07銀行の日。






















































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■06-07-09半夏生(はんげしょう・本日から五日間を言う)。
■11北海ソーランまつり(〜3日:7月第1土曜日〜日曜日)【北海道余市町】
■06-07谷川岳山開き【群馬県】

★09湘南ひらつか七夕まつり(7月第一木曜日から4日間)【神奈川県平塚市】

■京都・祇園祭の「くじ取り式」・・・・山鉾巡行の順番を決める。
■08-09万灯会・・・・・・朝護孫子寺(奈良県平群町)。
■07石切つるぎや神社・献牛祭・・・・・・・・東大阪市。
■07-11久賀のなむでん踊(〜3日)【山口県周防大島町久賀地区】


★ユネスコ加盟記念日。



















































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■09奉灯祭り(あばれ祭)(〜4日)【石川県能都町、八坂神社】
★11谷川岳山開き(7月第1日曜日)【群馬県】

▲木曾福島・馬市・・・・・・長野。安閑天皇の時代に霧が原に馬を放った。市は半夏市と御毛付市と言う年二回行われ
る。
■08潮かけ祭(旧暦6月1日)【三重県志摩市志摩町】

垂仁天皇の命・・・・・11代天皇・活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)は纏向珠城宮にて垂仁/99西暦紀元70/7/3日
に崩御した。紀元後70年7月14日崩御ともあるが7/3が命日である。御陵在・菅原伏見東陵などと有るが、今治定の古
墳(尼ヶ辻の宝来山)ではなくて、本書では伝・仁徳皇后陵に葬られたと見ている。

彼は父(崇神)が磯城瑞離宮を皇居としたので其の命日(12/5を参照)方位に陵を造った。其処が伝・垂仁天皇陵(尼
ヶ辻の宝来山古墳)である。彼は此の陵を軸とした巻向宮に即位して父・崇神を斎祭ったからです。父の陵と命日とは
逆の位置の若宮から父を日迎えする為に南に進んで纏向珠城宮とした訳です。

ただ即位までの85年の間に彼は父の鎮魂方位に当たる北に位置する丹波地方に赴いていた筈であり、其の過程で丹
波道主命の五人娘を次々と妃にした。無論、皇后・狭穂姫やヒバス姫亡き後の事であろうが・・・・

やがて彼もこの日に崩御のため、命日7/3日方位とは逆の1/2日方位の奈良から北、または宇治方面の陵に葬られ
た。彼の陵として今は奈良の尼ヶ辻の菅原伏見陵・宝来山古墳が治定されているが、其れは先に述べた通り父・崇神
天皇の陵であり、従って後に彼が其処に居ついたに過ぎない。つまり後の天皇の名が言い伝えられたケースである。

従って彼の陵は其の場から命日方位の7/3---1/2方位に存在する事になる。其の候補地として本書は当初、宇治市
五個荘に二重周濠を巡らした総長218mの二子山古墳を挙げた。此処の築造年代は不明だが、この墳墓の主軸が1
/3方位を黙示しているからである。

此処は先の宝来山古墳の総長が227mだったのに比べて見ても略同規模である。だが此処は彼の皇子の一人が築い
た所であって、他にもある。外に命日ラインに近い形の古墳として1/7←→7/6向きのアンド山古墳120mと中山大塚古
墳120m、川合城山古墳109m、1/10向きの新木山118m、或は1/19向きの西乗鞍古墳123m等もある。@

其の前に余談を1つ。垂仁の長子のホムツ別が垂仁命日のラインの突端に位置する敦賀へ宮を造った可能性があ
る。7/3---1/2のラインは和歌山のすさみ町から和邇、そして敦賀を通じて越前あわら市内に伸びる。例えば気比神宮
には本殿の外にも角鹿神社など幾つかの神社がある。@

また敦賀に至る前の話として琵琶湖の木ノ本には佐波加刀神社[サハカト]がある。以下http://www.kamnavi.net/en/
oumi.htm「神南備」より引用する。佐波加刀神社[さわかと]「日子坐王、大俣王、小俣王、志夫美宿禰王、沙本毘古王、
袁邪本王、佐波遲比賣王、室毘古王」滋賀県伊香郡木之本町川合1277である(引用以上)。


■11龍田大社・風鎮大祭・・・・・・奈良県三郷町立野。暴風や洪水を鎮めて豊作を祈る祭り。「風神花火」は雨天中止。
■08-09信貴山大祭・毘沙門天出現記念日大法要・・・・・・朝護孫子寺(奈良県平群町)

■06-07-09博多祇園山笠(1〜15日)。









































































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★09北海ソーランまつり(〜5日:7月第一土曜日〜日曜日)【北海道余市町】
■08奉灯祭り(あばれ祭)(〜5日)【石川県能都町、八坂神社】

■08-09成田祇園会(〜6日)【千葉県成田市、成田山新勝寺】
■08湘南ひらつか七夕まつり(7月7日を含む4日間)【神奈川県平塚市】

★キューリー祭・・・・・鳥取・三朝温泉。ラジウム発見のキューリー夫人(ポーランド人)の功に感謝する日。但し今は8
月第一週。
▲伊那福神社・夏祭り・・・・・・宮崎・延岡市。


★06-07-09米国独立記念日(1776年)。まだ233年の未熟な国史。































































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★08北海ソーランまつり(〜6日:7月第一土曜日〜日曜日)【北海道余市町】
★09谷川岳山開き(7月第一日曜日)【群馬県】

■09石原裕次郎・23回忌法要・・・・・・・・・09/7/5日、曹洞宗・大本山・総持寺により、国立競技場に石原寺・本尊釈迦
如来を祀って祭主・石原まき子、施主・叶ホ原プロダクションの下で23回忌法要がしめやかに行われた。用意された供
物5万セット。参列者1.1万-12万人に及んだ。

■07湘南ひらつか七夕まつり(〜8日、7月7日を含む4日間)【神奈川県平塚市】

■例年-栄西禅師忌・・・・・・・日本臨済宗の開租明確栄西の忌日(臨済宗各派)。吉備津の賀陽氏の出身。シナから茶
を伝え、頼家の本願によって京都・建仁寺を建てた。

普度勝会(黄檗宗)。

物部守屋公の命日・・・・・南河内の千早赤阪村には森屋と言う地名があるが、此処が彼の古里かも知れない。彼
については八尾市が根拠地と見られているが、其処は寧ろ彼の終焉の地である。さて彼の命日が文献ではハッキリし
ないので吟味する。

先ず京都に太秦(ウズマサ)地区があり、同じ地名が大阪の寝屋川の太秦地区にあって「秦河勝の墓」もある。では此
の日は河勝の命日か、と言えばそうとも言えない。兵庫・赤穂にも候補地があるからです。ともあれ広隆寺で知られる
のは弥勒菩薩なので次に秦氏関連で引用する。

---全国の神社総数10数万社のうち、秦氏の神を祭る神社は八幡系四万社、稲荷系四万社、松尾、出石等その他ひ
っくるめて九万社に上ると言われている。詰まるところ日本の神社信仰は秦氏が形作ったといっても過言ではない。本
拠地京都にある御所紫宸殿は川勝の居宅跡に桓武天皇が建てたとさえ言われる。

ここで再びオオのタタネコが秦氏の人だったことを思い出す。秦氏の信仰の大本はまず道教であろう。秦の始皇帝の
血をひくと豪語する彼らは大陸の・・・それも中国南部の生まれの混交宗教を信じていた。

呪術、バラモン、ヒンズー、仏教、イスラム、ユダヤ・・・ありとあらゆる宗教がない交ぜになったむしろ密教に近い彼ら
の信仰の究極に位置するのが弥勒菩薩である。救われぬ漂白の魂を56億7千万年のちに迎えにくる神・・・それが弥
勒である。その日まで彼らは流れ、追われ、争い修行し、修生し修験しつづけねばならない。

いや、これは何も彼らだけでなく行きとし生きる者すべてがそうだろう。それを『業』・・・『原罪』という。弥勒菩薩だけが
人々の業が収まるのを待っている。それには56億年かかるというのである。つまりは不可能であると言っているのだ。
では彼らの魂を祭る神社はどこにあるだろう。それは必ずある。秦氏がやってきた道程のどこかに・・・

秦氏が祭る神の国は随書倭国伝に秦王国と記された場所にある!弥勒は秦氏にとってのアマテラスなのである!---
-併収『柿本人麻呂外伝』注・英訳にMr.と表される”氏=うじ”は西欧における”Clan”が正しい。www.oct-net.ne.jp/~
hatahata/hatasi1.html より引用。

次に股引用する。---雄略天皇の時代には、秦酒公(はたのさけぎみ)という人がいて、大和朝廷に絹糸を献上したと
伝えられます。また、聖徳太子のころには、秦河勝(はたのかわかつ)が、秦一族の首長でした。弥勒菩薩で有名な広
隆寺を建立したのも、河勝です。
 
「日本の国宝 第1号」である広隆寺の弥勒菩薩は、「聖徳太子伝暦」や「広隆寺来由記」によると、新羅からの渡来仏
とされています。実は、この仏像と 同じ形の仏像が、韓国・ソウルの国立中央博物館にあります。 ソウルの弥勒菩薩
の材質が金銅であるのに対して、広隆寺の弥勒菩薩の材質は赤松ですが、形はそっくりです。

河勝は、秦氏のなかでも特に活躍した人であるらしく、「秦河勝の墓」 とされる古墳は、蛇塚のほかにも、同じ京都市右
京区の双が丘(ならびがおか)にもあります。時代が下って、桓武天皇が、長岡京や平安京に遷都する際にも、秦氏の
協力なくしては、なし得なかったようです。以上、http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/hebiduka.htmlから引用。

また大阪八尾市にも秦河勝が建立したといわれる寺院がある。http://www12.plala.or.jp/HOUJI/otera-2/newpage109.
htmによれば、八尾の教興寺は正式には『獅子吼山大慈三昧院教興寺』といい、その創建は聖徳太子が物部守屋の
討伐を祈願し、秦河勝が588年(崇峻天皇元年)、四天王寺と同時に建立したのに始まるという。

また八尾市について「八尾地蔵の覚書き」http://blog.qlep.com/blog.php/yao/53778より引用すれば、大聖勝軍寺の境
内や寺の周辺にはこの戦いの史跡が多い。寺の門前に「守屋池」と呼ばれる小さな池がある。迹見赤梼が放った鏑矢
(かぶらや)で倒れた守屋の首を、秦河勝が取って洗ったと言う池で、俗に「守屋首洗池」と言う。

寺の東、八尾市立病院の正面の国道25線に面した所には物部守屋を葬った「物部守屋大連墳」と記された碑が立っ
ている守屋の墓がある。市立病院西側には、守屋を射た鏑矢が落ちた所にその矢を埋めた「鏑矢塚」、この鏑矢を放
った弓を埋めた「弓代塚(ゆみしろづか)」が、すぐそばの竜華中学校南側にあり、いずれも石碑が立てられている。

次に「物部守屋の墓」についてhttp://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage463.htmから引用すれば、所在地:大
阪府八尾市太子堂。 物部守屋は欽明朝の大連物部尾輿の子で敏達朝・用明朝の大連。母は弓削氏の女阿佐姫と伝
えられ、『日本書紀』には物部弓削守屋大連とみえる。

敏達天皇の時代に、仏教の受容に積極的態度をとる蘇我馬子と対立し、中臣勝海とともに排仏を主張して、寺院や仏
像を焼き捨てたとある。

古来より、蘇我・物部両氏の対立は、仏教受容の可否をめぐる争いを中心に語られることが多いが、これは仏家の教
化的意図を中心とした説話にもとづくと考えられ、『日本書紀』にみえる守屋の排仏行為もそのまま史実と考えられず、
権力闘争に勝った側の意図が反映しているものと思われる。

また、権力闘争に負けた守屋の墓が守られ現存することは、時の権力者に対しては、反骨精神を発揮する大阪人の
ルーツを見る思いがする。『日本書紀』によると、587年(用明天皇2年)4月、用明天皇が崩御し、その皇嗣問題をき
っかけに馬子との間に武力衝突となった。

5月、守屋は、欽明天皇の子、穴穂部皇子を立てて天皇にしようとし、淡路に遊猟して事を謀ろうとして、皇子に使者を
送ったが、事は漏れてしまった。6月、馬子は炊屋姫を奉じ、佐伯連、土師連、的臣らに詔して、穴穂皇子と宅部皇子
の殺害を謀り、2人の皇子を殺した。

7月、さらに馬子は諸皇子と群臣に勧め、守屋を滅ぼすことを謀り、泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子らと、紀、巨勢、
膳、葛城、大伴、阿倍、平群、坂本、春日の諸氏とともに軍を率い、河内・渋川郡阿都の守屋の家を襲った。

守屋は自ら子弟と奴軍を率い、稲城(現在の八尾市南木の本付近)を築いて戦い、皇子たちと群臣の軍を三度にわた
り退けたものの、奮戦むなしくついに迹見赤檮(とみのいちい)に射落とされ、その子らも殺され、軍は四散した。馬子と
の戦いでは、『朴の枝間に昇りて臨み射ること雨の如し』と描かれている。
 
大聖勝軍寺より国道25号線を100m程東に進んだところに物部守屋の墓がある。墓の周りの玉垣には全国の有名な
神社がこぞって寄進している。神社=物部守屋、寺院=聖徳太子の図式が出来上がっているようである -------

次に「物部守屋公顕彰碑」についてhttp://mononobe.nobody.jp/yao/yao06.htmから引用する。物部守屋公は、建国の
功臣・饒速日命の裔にして、代々宮廷を守護し武を司る家門に生れ給ひ、往古の八尾を中心とする河内一帯の地は
其の所領たりき。

我国に始めて仏教渡来するや、国風たる神ながらの道統を護持せんと、父公・尾輿の固き志を継ぎ、用明天皇二年、
何ぞ国神に背き他神を敬せんやと断じ、蘇我馬子と激しく対立。公は河内に帰り、一族を挙り此の地に干戈を交えて
幾度か勇戦奮闘せられしも、時に利あらず、同年七月七日、遂に果敢くも陳歿せられぬ。

嗚呼、然れとも公の純乎たる憂国の精神は永く日本人の道を照さずてあるべき。春風秋雨幾星霜。当墓所は今日八
尾市の史蹟として最古の墳墓たるのみかは、遠く郷土の領主としてとして其の遺徳を仰ぎつつ、大正九年より吾等先
輩祀職、年毎に墓所を修め来りて愈々懇なり。

今年一千三百八十年祭を迎ふるに際り、茲に年来の司祭を記念し碑を建て聊か黄泉の英雄を慰め奉ると云爾。昭和
四十二年六月吉辰 大阪府神社庁中河内分会建之(誤字脱字があるかもしれません…ごめんなさい)。
さて引用が長くなったが結論とする。京都の広隆寺は南に面しているが、厳密には斑鳩・法隆寺に向いている。

つまり聖徳太子に正対している。だが其れだけではなくて背後には仁和寺があり、反対側、つまり広隆寺の正面には
寝屋川の成田不動がある。ただ此処は歴史が浅いから問題外だが現在、正月三ヶ日に一番賑わう所だ。次に国松、
つまり川勝地区があって此処に秦河勝の墓がある。

次は八尾市の大聖勝軍寺であり、其の先は河内長野の光滝寺「炭焼き不動」がある。此のラインが本日のラインであ
る。何を意味するのかと言えば秦河勝と聖徳太子が共に南方の物部守屋を此の日に弔う形になっている。ただ厳密に
は北側の1/3.5日の方位から南側の夏の7/7の頃、厳密には7/5日に祀る形になっている。
 
















































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■08-09阿弥陀堂祭・・・・・・7/6〜7日 願成寺(福島県いわき市)。
■07-08-09-11村上大祭(7月6日〜7日)【新潟県村上市、羽黒神社】
■08谷川岳山開き(7月第一日曜日)【群馬県】

■例年-入谷鬼子母神朝顔市・・・・・・真源寺(東京都台東区)・入谷鬼子母神の7/6〜8日の行事で夏の風物詩。
■11入谷鬼子母神・朝顔市(〜8日)【東京都台東区下谷】(中止) http://www.omatsuri.com/movie/asagao.html 動画


湘南ひらつか七夕まつり(〜9日)【神奈川県平塚市】
■08-09開山忌・・・・・・光明寺(鎌倉市乱橋材木座)。

▲高岡・七夕祭・・・・・・・富山。7/6〜7日。千保川に七夕竹を流す。



 
































































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●06-07-09小暑。★西暦の七夕。但し、この日を「七夕」とするのは間違い(七夕は旧暦行事であり星祭りであるし、こ
の時期では梅雨の中ですから夜空には殆ど星座が見えない)。

北海道(道南)の七夕・・・・・・・・・小学生くらいの子供たちが晴れ着姿になりグループで近所の家や商店を回って、
「ローソク1本ちょうだいな」と歌ってお菓子をねだる。道南以外の地方では、8/7日に行っていて、歌の文句も「出さない
とひっかくぞ」とか「・・・食いつくぞ」に変わる。日本版ハロウィンみたい。

因みに青森のねぶた祭りの「ラッセーラ」の掛け声も、「ローソク出せよ」から来ているとか(09/5/31日の読売テレビよ
り)。

★07北海ソーランまつり(7月第1土曜日〜日曜日)【北海道余市町】08年は7/6日まで。

■08-09いたこ祭・・・・・・青竜寺(青森県)・普賢寺(青森県)・法蓮寺(青森県)。
▲宮城・茣蓙(ゴザ)祭・・・・・・宮城町大沢の定義如来の祭礼。参詣人たちが男女入り乱れて雑魚寝して「麦畑祭」とも
言われる。

■06-07奉灯祭り(あばれ祭)(〜8日)【石川県鳳至郡能都町、八坂神社】
■06-07-08-09成田不動尊・祇園会(7月7日〜9日)【千葉県成田市、成田山新勝寺】     
▲草刈馬・・・・・・千葉。夷隅郡の子供の行事。

■08-09柴灯大護摩・・・・・・日本三大護摩の一といわれる行事。世義寺(三重県伊勢市)。

■09近江・米原・七夕伝説・・・・・・・・09/6/26日のNHKTV(関西もっといい旅)によれば、この地は今、ゲンジボタルの飛
び交う里です。またhttp://www.kitaomi.com/item/mb/221.html「天野川七夕伝説」によれば、近江町には、天野川とい
うロマンチックな名前の川が流れていて、地元では、息長川とも能登瀬川とも呼んでいます。

河口に近い近江町世継の蛭子神社で、『世継神社縁起之叟』という古文書が見つかり、その発見当初は「七夕伝説の
湖北発祥説が浮上」とマスコミで取り上げられて一躍有名になりました。この蛭子神社には、朝嬬皇女(あさづまひめみこ)
の墓として自然石が祀られています。

また、天野川を挟んだ川向(南側)の米原市朝妻筑摩の朝妻神社にある石塔は、星河稚宮皇子の墓としてまつられて
います。実は、『世継神社縁起之叟』には、こんなことも書いてあるのです。

「七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び
合わせて川に流すと、二人は結ばれる……」。こんな素敵な伝説、これからも伝え続けていきたいものです。

また、http://kiyotaka.livedoor.biz/archives/51616041.htmlによれば、
古地図には朝嬬女王廟、朝嬬王廟、息長王廟の記載が見えます。湖底に沈んだ筑摩西村伝説があることから、息長
王廟は湖底に眠っているのでしょう。朝嬬女王廟は朝嬬皇女の廟で、朝嬬王廟が星川稚宮皇子の廟だと思われます。

此の古地図は正応4(1291年で鎌倉時代後期)年に作られ、文明6(1474年、戦国時代初期で蓮如上人が活躍して
いた)年に加筆修正したとの記述があり、世継には蓮如上人に関する伝承も残っています。

●近江神宮燃水祭・・・・・・天智天皇を祭る近江神宮で行われる。天智天皇が近江の宮で崩御されたのが日本書紀で
は671「12/乙丑3」とし、其れをユリウス暦にすれば672/1/7、グレゴリオ暦では1/10)となる。

方位から見ればもっと前の日だった(「12/25」を参照)が、此処では1/10に天智天皇祭、そして其の逆の時期に
当たる6/10に「漏刻祭」、そして本日7/7には「燃水祭」を行っている。此れはつまり1/10が鎮魂、其れに対する
6/10ないし7/7が日迎えの神事と言う事になる。近江神宮は077−522−3725

■07-08-09-11水祭(献茶式)【京都市左京区、貴船神社】・・・・・・・京都市ので「水の神」を祭るこの神社では先ず水の
神に感謝して雨乞い神事を行い、其の後に献茶式や式包丁がある。「水の神」とはタカオカミ(高雄神)やクラオカミで
ある。05/7/7は七夕祭りの後に実際に夕立があった。

此処は天武天皇の時代から尊崇され、特に平安京の時代には天気や水の守り神として朝野の崇敬する所でした。ま
た此処は水よりも和泉式部の献歌や宇治の橋姫の丑刻参りの話以来、恋占いや縁切りの効験が期待されて今は若
者たちの人気スポットにもなっている。

ただ現本社は元々奥宮の地にあり、平安時代に洪水で流れたため現在地に移転し加茂社の支配下にあったが明治
に分離したものである。神事は1月初辰祭り、3月の雨乞い祭り、6/1に例祭(明治以前は、4/1に春の例祭と11/
1に秋の例祭だった)。

そして7月には水祭り、11月に火焚き祭りである。奥宮には石垣で囲った船形の壇があって、此れが「貴船」のシンボ
ルでもある。05/7/22放映されたNHK総合TVによれば、奥宮の社殿の下には「龍穴」と呼ばれる穴があり、この
穴は覗いてはいけないので、其の穴を塞ぐ形で建物が建てられた。

と言うのが氏子代表の舌氏である。氏の先祖は人ではなくて貴船の神が天下った際に「牛鬼」と言う伴だった。所が其
の後、貴船の秘密を漏らしたために舌を裂かれたと言う。因みに7/24には宇和島で「牛鬼まつり」があるが貴船との関
係性は不明。さて方位から見よう。奥宮と本社とは1/8←→7/10の暦・方位に位置する。

つまり本日の「七夕・水祭り」とは3日のズレで略合致する。更にこのラインの前後には花背1/8←→7/10水無瀬
神宮がある。ただ加茂社との関係も気になるのでこの際、見て置こう。

位置関係は上賀茂神社7/6←花背・別所→1/3方位には福井・三方町の宇波西神社、または闇見神社があり、後
者のご祭神が沙本之大闇見戸売命、つまりオオクラミトメと言う女神である。此処から二つの推定が成り立つ。一つは
貴船神社が現在地ではなくて高雄神として花背を軸とした位置にあった事。

よって其の東がクラマ(鞍馬)と呼ばれ、大魔王として祀られている。と言う訳で、この7/6のラインから見れば本日7
/7の貴船の祭りは1日の差で合致する。

京都・北野・御手洗祭・・・・・・北野神社の神事。梶の葉を献じて和歌や習字の上達を願う。
■08地主神社の七夕祭り・・・・・・・・京都市東山区の当社075-541-2097は「縁結びの神様」として知られていて、織姫と
彦星に見立てたコケシ形の紙(七夕コケシ)に名前を書いて笹に吊るす。但しセットで500円。


■08白峯神宮・精大明神祭・・・・・・・・京都市上京区の当社075-441-3810では鞠(まり)の守護神で七夕の神とも伝えら
れる精大明神を祭り、蹴鞠の奉納や七夕飾りの大笹の周りで小町踊りをする(次項の崇徳天皇に関連する)。

因みに白峯神宮は崇徳天皇を御祭神とするが、此の宮の他にも香川の白峰宮と金刀比羅宮にも祭られている。

■72白河天皇の命日・・・・・・藤原一族の権勢を抑えるため上皇として初めて院政を敷くが大治4(1129)7/7日に崩御し
て山城の成菩提院陵に葬られた。77歳だった。事績も多いが奇妙な所があって、タマ(璋)子を事のほか寵愛した。仏
法に帰依して希代の法会や七佛薬師法によって彼女の安産を祈願した。

其れは良いのだが、其れによって生まれた禧子がまだ生後56日なのに准后の称号を与えた。其処から禧子もまた彼
の子ではないかと思われた。璋子は彼の妃ではなくて、74鳥羽天皇の皇后であったから問題だった。しかも鳥羽天皇
が5歳の顕仁皇太子に譲位して上皇となり、顕仁が75崇徳天皇となっている。

顕仁もまた白河の子だったからだ。此れにより鳥羽上皇は御所を明け渡して別の屋敷に移り住んだ。当然ながら国母
となった璋子も、鳥羽上皇と共に御所を出て其の屋敷に移り住んだ。所が奇っ怪な事に、此の新屋敷にご高齢の白河
法皇も同居したのである(此の部分は夢枕獏氏の「宿神」より引用)。

さて先の成菩提院陵は、今の伏見区竹田の浄菩提院町にあるが、此処とすれば命日と方位とが不一致。

平城天皇の命日・・・・・・51平城天皇は桓武(3/17参照)の第一皇子(あて親王)だったが、次の天皇としては平安京
で即位すべきだったのに、何故か奈良・平城京・大極殿で即位した。なので、奈良天皇とも呼ばれた。父・桓武天皇の
命日が3/17日であるから、旧内裏から嵯峨の方に向かうのが次の天皇としての第一の責務であった。

しかし彼は6/15方位の奈良で即位した。此れは異例の事になる。其れまで天皇家が営々と続けてきた遷宮の基本を
無視した国事行為となったので、例え大同4/4/17日に践祚(せんそ)し同日即位したとは言え、其の場が平城京であれ
ば皇統とは別となり、また後に「薬子の乱」もあって僅か2年で弟の嵯峨天皇が平安京に戻す事となった。

そして天長1(824)年のこの日7/7、51歳で崩御して楊梅陵に葬られた。今其処は奈良市佐紀町の市庭古墳とされ
ている。平城宮の大極殿跡から北500mの古墳であるが、生憎平安京とも平城宮とも彼の命日の暦・方位と合わな
い。ユリウス暦にすれば8/5日となるので更に差が大きくなる。

ただ彼(平城天皇)は空海から密教を受けて天皇の受戒第一号の先例となった。この時代、空海の密教では暦・方位
に余り拘らなかったのだろうか。いや、そうではなくて、元の奈良へ遷都を企てた事で、809年には譲位して天皇として
の皇統の祭りから外れたからである。

彼がこうした異例の国事をしなければ、皇子の高岳親王や阿保親王が続いて皇位を継承していただろうが、前者は廃
太子となり、マレーで客死した。また後者は「薬子の乱」後に大宰府に左遷となった。従って天皇の遷宮は平城天皇を
除き、桓武から1代飛ばして嵯峨(7/15を参照)へと受けれ継がれる。

その代わりに彼・平城天皇の皇子・阿保親王が謙遜にして才、文武を兼ね弦歌を善くし、矢張り父の寿命と同じ51歳
の時、承和9(842)/10/22日に薨去するまで父の命日方位に当たる松原市に遷居した事である。しかし此れも奈良
(平城宮)からではなくて何故か逆の平安京(旧・内裏)から採っているのだ。@

ともあれ松原市の市役所も、元々は阿保村と言った。此処は彼が広大な別荘を造営した所として今も其の名を留めて
いるが、彼・阿保親王もまた死後は矢張り命日の暦・方位に略合致する芦屋市の阿保親王塚(但し今治定の場所とは
別)に葬られた。大江、毛利、菅原氏、前田氏、桑原氏の先祖である。

■07-08-09蓮華会・・・・・・奈良県大和郡山市の金剛山寺〔矢田寺〕。

■07-08-09蓮華会・・・・・・奈良県大和高田市の弁天池。修験道の祖・役の小角が産湯を使った所。此の池に咲いた
ハスの花を下記の吉野の蔵王権現へ運ぶ行事。

■06-07-08-09-11吉野の蛙飛び(蓮華会)金峰山寺の蛙飛び・・・・・・・・奈良・吉野。金峰山(きんぷせん)寺0746-32-
8371の蓮華大法要。http://www.omatsuri.com/movie/kaeru.html 動画

修験道の祖・役の小角が開いた吉野の金峰山寺で蓮の花を蔵王権現に献ずる法会。神力をあなどった男が仏の怒り
に触れてワシに抓まれ、崖に放置されてしまった。

其れを見つけた高僧の功徳で蛙にされて寺に運ばれ、やがて読経の力で人間に戻された故事から、此の日の法要の
後で、縫いぐるみの蛙が練り歩く祭り。

また前項の天満村奥田(大和高田市)の蓮池(弁天池)ではハスの花を摘む蓮取り行事がある。其のハスを持って一
行が吉野に向かう。吉野では1時から「大蛙」を乗せた神輿が竹林院前をスタートして参道を練り歩く。

やがてハスを持って来た一行と合流して金峰山寺へ向かう。1キロほど上った所の寺(蔵王堂前)の鳥居や仁王門の階
段を一気に駆け上がる場面は圧巻。

寺に着いてから蛙にされた人が僧侶の呪文による法力で元の人間に戻ったと言う伝説を元に、室町時代から伝わると
言う「蛙飛び」神事で人間の姿に戻る。

相撲の起源・・・・・・以下、http://www.fururu.net/user/outdoor/20060729194704「フルルkansai」の「相撲神社」より
引用する。---日本最初の相撲が行われた場所を発見して早速見に行く事にしました。日本書紀に寄ると葛城市の當
麻村に勇ましく強い『當麻蹴速』が住んでいました。

日本広といえど自分に敵う者は居ない命がけで力比べをしたいと言っていました。この事を聞いた天皇は臣下に蹴速
に敵う強い者は居ないか?と、臣下の一人が私は出雲の国に『野見宿禰』と言う人物を知っています呼び寄せて蹴速
と力比べをさせましょうと。

垂仁七年七月七日相撲神社にて天覧相撲が行われ格闘の末に蹴速は肋骨を折られた末、死亡する。蹴速は傲慢な
性格に見えますが、素朴で野生味溢れる人物です。因みに葛城市の相撲会館の側に蹴速の塚が有ります。片や野見
宿禰は兵庫県龍野市と東京都墨田区に野実宿禰神社が存在します(以上引用)。

野見宿禰(のみのすくね)は、日本書紀に登場する人物。相撲の神。出雲国の勇士で、天穂日命の14世の子孫である
と伝えられる。垂仁天皇の命により、当麻蹴速と角力で互いに蹴り合って、相手の腰を踏み折って勝った。そして当麻
蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えられ、朝廷に仕えた。

また皇后の葬儀の時、殉死にかえて埴輪の制を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられた。土師氏は代々天皇
の葬儀を司り、後に姓を菅原に改めた。菅原道真は野見宿禰の子孫と言う事になる。 大阪郊外の片埜神社の古伝に
は、当麻蹴速に勝った野見宿禰は、垂仁天皇に河内国(かわちのくに)を賜ったと伝えられる。

また播磨国風土記によると、播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県龍野市)で病により死亡し、その地で埋葬されたと
ある(5/5日を参照)。

更に神魂神社(かもすじんじゃ)の伝承では、この神社の裏山にある「岩」を用いて修行したといわれていて、今は穴師
坐兵主神社(奈良県桜井市)摂社の相撲神社、野見宿禰神社(東京都墨田区)などに祀られている。

当麻蹴速の命日か・・・・・・・・奈良の桜井市に兵主神社と相撲神社、そして出雲地区の十二柱神社があって、夫々
野見宿禰と当麻蹴速が最初に天覧相撲をした縁りの地とされ、また各地の相撲の神として彼ではなく勝った側の野見
宿禰が祭られている。また当麻町には当麻寺があって、その東に蹴速塚と言われる石塔が立っている。

野見氏も当麻氏も出雲族として今の島根県ではなくて当麻の東の桜井市に居て、天皇の命令でその日の内に呼び出
されて桜井市内で戦った事になる(9/23を参照)。彼の命日についてはこの日となっているが疑問である。当麻とは
字が違うが寝屋川市にも太間町がある。

此処はかつて淀川の太間浜と呼ばれる船着場だったが、当麻寺との方位では6/6の逆方位になるので中将姫の縁
日ラインと見た方が良い。また当麻寺が昔は河内に有って万宝蔵院と言い、後に禅林寺と言ったが、現在地を頼りに
縁りの地点を結ぶ限りでは彼の命日は寧ろ九月頃になるのです(9月を参照)。

08金剛山「れんげ大祭」・・・・・・・・金剛山は古代葛城王朝の中心地であったが、山頂にある葛木神社と、其れに隣
接する転法輪寺は修験道の祖・役の小角が開いた所とされる。此処ではこの日、信者たちと登山客で賑わう中、「れん
げ大祭」が例年盛大に行われる。

物部守屋公の命日?・・・・・7/5を参照。

▲07機物神社の七夕祭り・・・・・・・・大阪・交野市のハタモノ神社で7/6-7/7。此処は織物を専業とした人々が祖先を祭
っていたが、平安時代頃から織姫を祭るようになったと言う。この日は境内一杯に子供たちによる願いの笹飾りが付け
られ、この日の夜にはお祓いを受けて近くの「天の川」に流される。

▲須磨・海開き・・・・・・・・例年100万人が海水浴にやって来る神戸市須磨区の海岸では「海開き」の神事。

乙女神社の七夕・・・・・・丹後半島の網野町と伊根町には浦島伝説があり、また神社には玉手箱と乙姫の打ちかけ
も残されている。そして峰山町は「羽衣天女」の舞台との伝説があり、713年の「丹後の国風土記」には「天女は天界
へ戻れないまま一生を終えた」とされ、現在は「酒の神」として祭られている。

他方、口伝による説では、人間と結婚して三人の娘に恵まれた天女が、隠されていた羽衣を見つけて天界へ一時帰
省。もう会えない、と思った夫が天の川に架け橋を作り始める。そしてラストは年に一度、この夜に天女が星となって夫
と娘に会いに来る。と言う話が有るのですが、今は新暦のこの日、7/7に行っている。

但し、七夕については西暦でやっては無意味である。何故なら七夕は星、つまり天の川の物語である。其の点で、この
頃は梅雨の真っ最中であり、生憎、夜空は星空、特に天の川が見えない。西暦の05/8/11(旧暦7/7)参照。

乞巧奠・・・・・・他方、シナでは陰暦のこの日の夜、牽牛と織姫の星を祭り、女児が手芸の上達を祈る。此れをキッコ
ウデン(乞巧奠)と言う。日本でも昔は宮中行事とし、また民間では女性たちが手芸や芸事の上達を願って竹の笹に短
冊を掛け、またお月様へのお供えのものを3、5、7、9など陽数作って、屋根など高い所に捧げた。

だが戦後になって西暦の7/7に七夕をしているが、其れでは梅雨の中や満月になる事も有って全く無意味となるので
す。

■06-07-08-09-11奉納蹴鞠大会【香川県仲多度郡琴平町、金刀比羅宮】

島根・日御碕神幸神事・・・・・・この日に先立って摂社・林神社で御魂代を下の宮に遷す神迎え神事があり、七日は
林神社の神輿が日御碕に渡御する。海上の文島に神職が出て経島神社と百枝神社で祭典をする。
 
■08-09七夕どん・・・・・・徳正寺(鹿児島)。

s12/7/7、盧溝橋事件。11/20には宮中に大本営設置。政府・内閣ではなく宮中にである。12/13南京占領。




























































7/ 8 



★06大潮まつり・・・・・・・・茨城・神栖市波崎。手子后神社と漁港周辺で8-9日。観光協会0479-44-1965

■08-09四万六千日・・・・・・中館観音(茨城県下舘市)の観音の結縁日。この目観音に参詣すると四万六千日分の功
徳があるという。 
■08-09四万六千日(ほおずき市)・・・・・・浅草寺(東京都台東区)で7/8〜10日。

東京・湯島天神の参道・・・・・・@本殿と鳥居・参道が1/6〜7/8の暦・方位を黙止している。鳥居の先には聖橋が
かかり、其の先は何故か大手門に向う。但し聖橋はこの話とは無関係である。神田川は江戸城の外堀だったので橋は
掛けられなかったが、此処に孔子を祀る湯島聖堂があり、明治になって近くにニコライ堂が建った。

其の二つを結ぶ橋として御茶ノ水の橋を聖橋と名付けた。因みに今の聖橋は昭和二年に完工したもの。
■11成田祇園会(〜10日)【千葉県成田市、成田山新勝寺】

★11湘南ひらつか七夕まつり(〜10日:例年7月第1木曜日〜日曜日)
【神奈川県平塚市】(規模縮小にて開催)http://www.omatsuri.com/movie/hiratuka.html 動画

■08-09四万六千日・観音開帳・・・・・・弘明寺(横浜市南区)で7/8〜10日。十一面観音立像の開帳がある。

■08-09ほおずき市・・・・・・7/8〜10日 竜拈寺(愛知県豊橋市)。
■郡上踊り(7月第二土曜日〜9月上旬)【岐阜県郡上郡八幡町】

天智天皇の日迎え・・・・・・7/31日、「王子・片岡神社の例祭」を参照。
■08-09千日詣・・・・・・粉河寺(和歌山県粉河町)。
■08-09四万六千日・・・・・・〜10日 清水寺(長崎市八坂町)。

























































7/ 9 
  


■06-07-08-09-11ほおづき市(浅草寺四万六千日)(7月9日〜10日)【東京都台東区浅草、浅草寺】・・・・・都内最古の
寺で江戸時代から続く浅草観音のほおづき市(四万六千日)。http://www.omatsuri.com/movie/hozuki.html 動画


この日にお参りすれば一生無病息災のご利益があるとも言われる。7/10まで。盂蘭盆会に結んで行われる。

■11郡上踊り(〜9月3日:例年7月上旬〜9月上旬、8/13-16 徹夜踊り)【岐阜県郡上市八幡町】
郡上おどり  http://www.omatsuri.com/movie/gujo.html 動画


★06アルゼンチンの独立記念日・・・・・06/7/9(日)。スペイン人の移民の国、植民地だった。






















































7/10 



■塩釜神社例祭・・・・・・・宮城。塩釜港祭り。昔は竈祭と言った。ご祭神は塩土の翁。因みに3/10には塩釜帆手祭
が有る。「3/29志波彦神社」を参照。

■08ふるさと山百合まつり・・・・・・茨城・行方市の西蓮寺で7/10-7/25日まで。行方市観光協会0291-35-2111
■06-07-09-11東京・浅草観音四万六千日。

▲佐原・祇園祭・・・・・・千葉・佐原の八坂神社で7/10〜12日。佐原囃子。
■08-09一宮うすだい祭・・・・・・観音堂(愛知県新城市)。

■06-07-08-09-11祇園祭-神輿洗い・ちょうちん行列【京都市東山区、四条大橋】

■08-09大峰入行列・・・・・・聖護院(京都市左京区)。
■08-09千日詣・・・・・・清水寺(京都市東山区)。

■08-09千日さん・・・・・・一宮寺(香川県高松市)。
■08-09千日市・・・・・・切幡寺(徳島県市場町)。

▲太鼓祇園・・・・・・北九州市小倉の八坂神社で7/10〜12日。この太鼓の勇壮さは「無法末の一生」で有名。
■国土建設週間。



































   















7/11日 以下、次ページへ進む・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★


■「神々の歳時記」の各項目のご理解には「366円暦」が必要です。円暦は別紙の「日読み1」http://toki.mikosi.com/
page044.htmlで公開していますが、其の実物を希望される方は末尾に従ってご請求下さい。

■尚、各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年06-07と追加する形で示していますので、
*開催日等の詳細には主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。

■「神々の歳時記」に記した例は仮説ではなくて、太陽暦に重ねて古式祭による祭政一致を行っていた古からの日本
文化の原理です。其の具体例を今回、公開したものですが、海外への情報流失防止のため、特に「本文」については0
4/11月から「非公開」としました。

■@マークの付いた以下の部分が「非公開」部分です・・・・・・・@マーク以下には「地理・方位の具体例と其の意味や
暦との関係式」などの詳細を隠しています。この隠れた部分の資料をご希望の方は、「メールフォーム」または「掲示
板」からコンタクト下されば実費で郵送します。

■文中に誤記や間違いがありましたら、恐れ入りますが前項の方法で下記まで御一報賜れば幸いです。尚、参考文献
は巻末に記しました。  



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