http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」 p101 (未定稿)


 神々の歳時記  5月上旬 但し方位による

次は
5月中1
5月中1
または
トップへ
トップへ
戻る
戻る

●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 http://
www.omatsuri.com/link/linkvex.html
及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-5月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年06-07と追加する形で示しています。ただ凡そ
歳時記には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。

このため開催日等の詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行
事を載せています。

5月・上旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★



5/ 6 


●06-07立夏。   ●08-09振り替え休日(07年の改正休日法により)。

方位と月日・・・・・古来、祭りは方位を基点とし、方位は八方を基準とし、此れを四方四隅(維)と言った。円暦・方位
では先ず真北を冬至と し、其処を基点として時計回りに一周する方位暦なので北東が立春に重なります。以下同様
に、真東が春分、東南が立夏、真南が夏至、南西が立秋、真西が秋分、西北が立冬、そして真北が冬至に重なる。

此れを古来「四至(時)・四立」とも言った。今の月日にすれば冬至と夏至が12/22と6/22となり、其の日から45日
後が立春(鬼門)と立秋(裏鬼門)で、2/5と8/6となります。そして冬至と夏至から91.5日目が春分・秋分(3/23
←→9/21)であり、其の137日後が5/7の立夏(巽)と11/6の立冬(乾)となります。

ただ此れは方位に基づく円暦八方日なので、其れとは別の、星座によって天文台が行う今の西暦月日とは若干ズレま
す。だが古式祭りは西暦ではなくこの八方から見なければ分からない。

■平和大塔法会(〜7日、千葉・成田市・成田山新勝寺)。
■09尾張・大国霊神社祭。
■09尾張・氷上姉子神社・頭人祭。

■09白山比盗_社例祭・・・・・・イザナギ・イザナミの神娘、またはイザナミ自身とも見られる菊理媛神を祭り、加賀
の国一ノ宮としての例祭。或いは白山の神を白山権現(妙理大菩薩)と九頭龍とし、十一面観音として祭った泰澄によ
り白山修験道の行場として栄え、今は白山2716社の総本宮としての祭りである。

元は白山の御前岳にあったが、其処は岩山である上、年中雪を戴く条件にあるため奥宮として残し、そしてより交通至
便な北麓の石川県・河内村(鶴来町)安久涛の森に、其の後また今の「下白山」(船岡山)に遷宮したと言われている。

だが暦・方位では元の白山山上との位置が例祭日の5/6や古遷座祭の5/18日ではなくて12/1←→6/1となっ
ており、後者であれば白山比盗_社と白山頂上(標高2702m)の奥宮、そして三国山(701m)の前後に位置する鶴
来町の金剱宮(ニニギノミコト)と豊川稲荷(ダキニテン、または須佐之男命)が一直線に繋がる。

この関係をどう解釈するか、と言う点になると修験道的な関係としか推測できない。特に豊川稲荷は一般の稲荷神社と
は異質な雰囲気がある。そうすると他の関係先も当たって見る必要があろう。白山には三ヶ所の馬場があった。現代
人に馬場と言えば競馬場を連想するが、本来の馬場とは神のミサキ、つまり御前を意味した。

此処では登山道である。そうした事から先の加賀が一番有名となったが、其の外に越前と美濃があり、其の一つが勝
山市の平泉寺である。此処も白山修験の中心地としてかつては六千坊を擁したが明治から白山神社となった。だが先
の12/1←→6/1の方位から外れる。

其れに対して最後の所が岐阜県・白鳥町の長滝寺であり、かつては中宮と呼ばれたが今は白山神社と中居神社にな
っている。此処は一般に殆ど知られていないが、先の軸線からズレるものの略入っているのである。とすれば白山の神
の祭りは5/6ではなくて、実は6/1とも 判定出来るが問題が違っていた。此処も明治の改暦の弊害が見られる。

昔は二季大祭として4月と11月の午の日だったのを改暦により5/6に変えたと言うのです。そうすると謎の祭りとなっ
てしまうので別の観点から方位で検証する(「10/17←→4/19」を参照)。

■06神宮式年遷宮・お木曳一日神領民募集・・・・20年に一度行われる「式年遷宮」にあたり、伊勢神宮の社殿を新し
く造りかえるための用材を「お木曳き」という伝統行事にて運びます。現在「第62回神宮式年遷宮・第一次お木曳行
事」に参加される「一日神領民」を募集しています。

日程:平成18年5月6日(土)・12日(金)・14日(日)・19日(金)・26日(金)・6月2日(金)・4日(日)。全7日程から1日を選ぶ。参加費:ひとり7
500円。集合:宮町に当日朝8:30。申込方法など、詳しくはこちらhttp://www.pref.mie.jp/TOPICS/2006030030.htm
☆近所の駅にて発行人が情報を収集。

■09金崎宮祭・・・・・・・福井。

■09賀茂祭り「足伏走馬」・・・・・・・滋賀県近江八幡市加茂町1691賀茂神社0748-33-0123
: http://www.biwa.ne.jp/~y-okada/ 

競馬、交通安全、縁結び、安産の守護として有名な此の神社には多くの馬の儀式があったが、今では古式の競馬と言
われる「足伏走馬」神事が残っています。此の神事は、別名「七頭の馬、七番の神事」とも言います。

赤と黒の古来の衣裳を身にまとった騎手が馬場にて競争するもので、13:00祭典(本殿大前にて)、14:30御神幸・御旅
所に到着後、足伏走馬神事(15時頃〜)が行われる。

■鉾振り神事・・・・・・大津市の若松神社で、江戸時代からの伝統として、其の年に厄年を迎える年男が重さ約25kg
の鉾を立てて歩く神事(2004)。
■鑑真和上の命日・・・・・・6/21を参照。

■09神戸・護国神社祭。

■09岡山・護国神社祭。
































































5/ 7    
        

■07-08山形薬師祭・・・・・・国分寺薬師堂(山形市薬師町)で5/7〜10日。山形市長大の年中行事とされ、東北一とい
う植木市が立つ。多くの見世物、露店も並ぶ。
■07-08一切経会・・・・・・慈恩寺(山形県寒河江市)で5/7〜12日。

■金華山・初巳大祭・・・・・・・宮城・牡鹿町。金華山・黄金山神社ほかで5/7〜14日。
■08-09-10-11老神温泉ヘビ祭り(〜8日)【群馬県沼田市、赤城神社】

●06東京・下谷神社祭。
■07-08花供養・・・・・・浄真寺(東京都世田谷区)。 

★09神田祭(〜15日:西暦奇数年の第二日曜日周辺)【東京都千代田区、神田明神】
       (9日:神幸祭、10日:神輿宮入、15日:例大祭)

■八丈富士の方位・・・・・・・・・八丈富士は一万年前に噴火して出来た山であるが島全体としても縄文遺跡がある通
り、古くからの歴史がある。

またその形は前方後円墳のような形の島であり、その主軸は11/6から5/7の暦方角で浜松に向いており、八丈富
士の山頂に浅間神社、それに島の総鎮守として優婆夷宝明神社があり、事代主命(恵比寿様)の妃、八十八重姫とそ
の子、宝明丸を祭っている。

立夏の対極の時期が立冬であり11/7頃であるが今は優婆夷宝明神社では11/13(別項参照)日を例祭としている。 

■07-08大般若会・・・・・・新勝寺(千葉県成田市)。 
■07-08藤切り会式・・・・・・大善寺(山梨県勝沼町)で大蛇をかたどった藤の蔓を山伏が切り落とし、参詣人がそれを
奪い合う。

■10諏訪大社・下社 宝殿遷座祭。5月7日。
因みに御柱祭の日程詳細

4月2日〜4日  上社 山出し 木落し・川越し
4月9日〜11日  下社 山出し 木落し

5月2日〜4日   上社 里曳き 建御柱
5月7日       下社 宝殿遷座祭

5月8日〜10日   下社 里曳き
6月15日      上社 宝殿遷座祭
更に場所など詳しいことはこちら。http://onbashira.jp/

★06石神さん春祭り・・・・・・・三重・鳥羽市の神明神社では06/5/7(日)に新鮮な海の幸の食事をしながら歓談。相差
町内会事務所0599-33-7453

■京都・今宮神社・神幸祭・・・・・・・・・15日まで。
■07-08花供養・・・・・・千本釈迦堂(京都市上京区)。 
■09京都・鴨川をどり・・・・・・・・・1日から24日まで。

■07-08仏生お花祭・・・・・・中宮寺(奈良県斑鳩町)。 

■真田幸村の命日(次項を参照)。

■南宗寺・徳川家康の墓・・・・・・・堺市内には今は荒れ寺だが江戸時代の名刹・龍興山・南宗寺が有る。1556年の当
初、南宗庵と言い、三好長慶の創建で臨済宗の寺院となった。千利休が此処で佛弟子となってやがて茶の湯を大成し
た。また大阪夏の陣では家康の陣地を真田幸村が攻めたが直前の1615/5/7日に幸村が敗死した。

堺の町と共に此の寺も焼け落ちたが当時の住職・沢庵宗彭ホウが再建した。堺の茶人・武野紹鴎(ジョウオウ)や千利久に
よって完成された茶道の「茶禅一如」の精神基盤は此処にある。境内には利休好みの茶室・実相庵、紹鴎遺愛の「袈
裟形手水鉢」、千家一門の供養塔がある。

また古田織部好みの方丈の枯山水は国の名勝庭園指定である(一部は「石長タイムス」から引用)。そして実は史実と
は別に、家康がこの寺で事切れて葬られた。とすれば、此処から逃れたのは影武者だったのか?。墓地もある。唐門
(国重文)は東照宮に通じると言う。

その後此処は全焼したが、沢庵和尚が再建し、直後に秀忠、家光が参拝したと言う(05/12/9日の読売TV、「今日は何
の日」より引用)。因みに当時の5/7日をグレゴリオ暦にすれば6/3日に当たり、其の方位には南宗寺庭園があるもの
の、そうすれば家康の命日(4/17日を参照)とも合わず、また上の東向きの唐門と東照宮とも不一致となる。

境内の重層の堂宇(坐雲亭)には、秀忠と家光の両将軍の御成りを記した板額が保存されている事。戦前まであった東
照宮の建物がモノクロの写真として残っている事。その床下に卵形の無名碑が、家康の戦死埋葬碑の伝説であると言
われるが、そうすると上記の現存する唐門の位置との関係では3月が命日となる。

しかし其れでは5月6日、道明寺の戦いで、後藤又兵衛に槍で突かれて家康が戦死した話とも合わないし、また5月7日
に幸村、家康の本陣へ突撃して一時は家康を窮地へ追い込むが、幸村が討死(幸村49歳)との史実とも整合しない。 
其の点について詳しくは「4/17家康・南宗寺」を参照。

愛?の祭り・・・・・大阪・茨木市の北部山地にある阿為神社の例祭日。と言っても此処は570年間、祭りが中断して
いた可能性がある。ともあれ主神は天照と天児屋根命なので藤原氏の祖神。昔は藍の産地だったので近くを流れる川
も安威川と書く。東隣に浄土宗寺院があり、本殿は南向きだが、参道が屈折し、鳥居も略この日の方角にある。

更に其の先に向かえば→交野市・星田妙見→長弓寺→奈良・薬師寺に至るが、相互の関係については不明。ただ阿
為神社の祭神の天照について、人によってはニギハヤヒとする説も多い。因みに逆方位には能勢妙見山(660m)が
あり、能勢妙見宮(日蓮宗寺院)が其の南麓に有る。

従って妙見山←阿為神社→星田妙見と言う二大妙見が、この方位を軸とする阿為神社で結ばれている事になります。
妙見様の祭りは普通、旧暦の7/7(七夕)ですから、5/7と言う意味は天文観測のための方位(立夏・辰巳)座標だ
ったのか。何れにせよ、次の星田妙見山(133m)も矢張りこの日の方位に向いた古墳状の山である。

此処には現在、八幡宮跡と小松神社、其れに12座を祭る星田神社がある。祭神の内訳は小松神社が天御中主神を
祭り、星田神社(妙見宮)は住吉三神と神功であるが、古宮はニギハヤヒを祭る。春日造りの本殿になったのは明治か
らである。尚、例祭は旧9/15、今は10/17日である。

近くに星田寺(不動明王)・光明寺(観音寺)・薬師堂などがあるが、先に述べた通り、八幡宮址←新宮山→小松寺が5
/7方位に並んでおり、新宮山自体が其の方位を向いた古墳状の丘なのです。因みに前項の家康が夏の陣の時の5
/5〜6に此処に布陣した。33年前の「本能寺の変」の時も此処(星田)に来ていた。

蛇足ながら、標記の「愛?」が、このラインにどれだけ散りばめられているのかについては、申し訳ないが各位に於いて
ご判断頂くしか有りません。

■07高野山・旧正御影供・・・・・・・弘法大師の旧暦による縁日。

■09名和神社祭・・・・・・・・〒689-3212 鳥取県西伯郡大山町名和の名和神社0859-54-2260では、名和町御来屋で
名和長年公一族を顕彰する祭事もある。

鹿児島・御田植祭・・・・・・鹿児島神宮で5/5前後の日曜日に行う。





































































5/ 8 


■例年-薬師祭(植木市)(5月8日〜10日)【山形県山形市】

■09鏑矢(かぶらや)祭り・・・・・・・・・群馬県太田市の生品(いくしな)神社で。新田義貞が挙兵したと言われる5月8日に行わ
れる。義貞が出陣前に鎌倉方面へ向け矢を放って吉凶を占った故事に因み、生品地区の小学生が鉢巻に黒袴の井
出たちで、神前での祈願の後、鎌倉方面へ向け、掛け声と共に竹製の弓で鏑矢を一斉に放つ。

問合せ先0276-47-1833(太田市役所商業観光課観光係) 。

■赤城神社・へび祭り・・・・・・先ず5月7日には「清祓の神事」(きよめはらえのしんじ)、翌5月8日の、山開き、例大祭に先か
けて、赤城山の各山々をお祓いをする神事です。そして5月8日に山開き祭。例大祭(やまびらきさい・れいたいさい)春
のお祭りです。かつては、神様が里の神社と山の神社を往き来される日とされておりました。

旧暦の4月8日に行われておりました。旧暦4月8日、卯月8日祭。鎮花祭(うつきようかさい・はなしずめさい)。卯月8日
という日は、生命に新たな息吹を与え、魂の活性の日と信じられて参りました。また、鎮花祭とは病気の流行するの
を、鎮めるお祭りです。心身の健康と成長、活性のお祭りです。

病気平癒・健康、そして、いつまでも、若々しく元気でありますようにと多くの方々が、ご参拝されます。日にちは、旧暦
行われますので、毎年異なりますので、必ず暦でご確認いただくか、社務所までお問い合わせください。

さて此処・赤城神社のご祭神は6柱であり、其の中で大穴牟遅神(大国主神)が有る。@
特に赤城神社では其の対極に当たる10月8日に秋祭(あきまつり)をしている事は立派です。 
 
以下、赤城の伝説について「赤城神社」 http://www.akagizinzya.com/hime.htmlから引用。・・・・・高野辺大将家成は、
御殿での口論がもとで都を追われ上毛野国にやってきます。家成には、たいへん美しい姫がおりました。名を赤城姫と
淵名姫といい、その美しさと素直さは誰もが憧れていました。

家成一家は仲睦じく幸せに暮らしていました。しかし、姫たちの母は病に倒れ、この世を去ってしまいます。家成は残さ
れた子供たちを不憫に思い、新しい母親を迎えます。側室の柱御前との間に二人の子供が生まれます。しかし、この
二人は姫たちとは似ても似つかぬ姿をしておりました。

柱御前は家成の二人の姫への愛情と、姫たちの美しさに嫉妬し、時あらば二人を亡きものにと考えておりました。そん
なある日のこと、都よりの使者が一通の手紙を携えて家成を尋ねてまいります。それは、「家成の罪を許し、上毛野国
の国司に任ずる」というものでした。家成は国司任官のため、大勢の従者を連れて都に向かいます。

すると柱御前はこの時とばかり、二人の姫の館を襲い淵名姫を殺してしまいます。しかし、赤城姫は追ってを振り切り
赤城の山へたどりつきます。この知らせを聞いた家成は上毛野に兵を向け、柱御前を捕らえて、赤城山へ姫を求めて
大沼の辺りに参ります。すると、大沼の東岸より一羽の鴨が泳いできます。

翼を広げたその背には、赤城姫と淵名姫の姿がありました。二人の姫は赤城大明神に召されて、赤城の神様になった
のです。また二人の姫を乗せた鴨は大沼の東に戻り、小鳥ヶ島にないました。以来、赤城の神様にお願いした女性の
願い事は、必ずかなえられ、この神様にお願いすると美人の娘が授かると伝えられています。 

赤城山麓赤堀の豪族、赤堀道元の娘は幼い時から赤城山に憧れていました。十六歳 のある日,お供の者を連れて赤
城山に出掛けるのです。途中、月田村で一休みしたところ馬が倒れてしまい、かごに乗り換えて出発します。この時、
鞍を掛けさた岩を鞍掛岩といいます。そして、赤城山の小沼に到着すると突然、入水し龍になったのです。

その後、赤堀家では娘の命日に赤飯を、重箱に入れ沼に供えるのです。すると重箱は波に誘われて湖に沈み、やがて
空になって返されるが、その中には龍の鱗が一枚入っていると伝えられています。ある時、赤城山の神様は、日光の
湖の領有を主張し、日光の二荒山の神様は大蛇、赤城山の神様は大ムカデとなり戦ったのです。

此処で足尾の細尾が加勢し、二荒山の神様は下毛野国に押し返されてしまいます。此処では、米作りをしていたため、
大ムカデの赤城山の神様にはワラが都合よく二荒山の神様は苦戦します。しかし、猿丸太夫の加勢したので戦いに勝
つことが出来たのです。

赤城の神様と二荒山の神様の神戦で、赤城山の神様は流れ矢にあたり負傷してしまい、老神にたどりつきます。ここ
で矢を抜き、その矢で岩を突いたところ、こんこんと温泉が湧き出してきました。赤城の神様は、この温泉で傷を治され
たそうです。

老神(おいがみ)温泉の由来は、赤城の神様が追われて来たためで、赤城の神様が時折入浴に来られるといわれてい
ます。しかし、ここでは赤城山の神様は、へびであるとし、五月八日には『蛇祭り』が行われています。赤城山麓に伝わ
る、幾つかを紹介いたしましたが、この中で最も有名なのが『赤堀道元の娘の伝説』です。

これに類した話は『神道集』を始め、廐橋藩の江戸時代の記録である「直泰夜話」にもうけられます。『神道集』〔上毛野
国勢多郡鎮守大明神事〕に、姫が赤城の沼の龍神のあとをついで赤城の神様となったという説話があります。また「直
泰夜話」には、当時赤堀の領主であった小菅又八郎の妻が小沼に入水してしまいます。

これに腹をたてた又八郎は、人夫を遣わし小沼を切り割ろうとしました。しかし、このことが知れて小菅又八郎は改易さ
れてしまうのです。その真偽は別としても、この事故と「神道集」の龍神の物語とが作用して「赤堀道の娘」の伝説をうん
だのではないでしょうか。

また、赤城と日光の神戦の伝説は、郷土史研究家の調査によりますと、その内容が一方的であること、群馬県内でこ
の話を伝える所が栃木に接する地域であることなどからの話は下毛野国の話が上毛野国に伝わり、これが広まったも
のだとしています。

神戦の伝説は遠く見える山と、近くの山を比べ「わが山、高し わが神尊し」とする思いが生んだ物語で、「わが社こそ
本社」を唱える人々と同じように、それは、純粋なる信仰のあらわれでありましょう( 以上)。

■神田祭(東京・千代田区・神田神社で2年に一度。〜15日)・・・・次回は07年。05年は15日の“神輿宮入”に向け、本日各町会
の御神酒所で神輿に御祭神の御霊を遷す“氏子町会神輿御霊入れ”が行なわれた。14日に、神田祭恒例の3基の鳳輦(ほうれん)・神輿をはじめとする総勢
300名からなる祭礼行列の“神幸(しんこう)祭”が有った。

15日には氏子による約90基の神輿が繰り出す“神輿宮入”が行なわれた。電気街界隈を通過するのは14日が17:30ごろ、15日が12:30ごろとなる(5/10を参
照)。  

■09下谷神社・例大祭(陰祭)(〜10日:本祭は西暦偶数年開催)【東京都台東区】

■大般若会(千葉・成田市・成田山新勝寺)。
■09新潟・護国神社祭。

■04年・諏訪大社の立て御柱・・・・・・長さ18mの御柱8本が諏訪大社の春宮に入って御柱立てが始まり、10日までに終わる。
■07-09-10-11豊年祭(花の撓(とう))及び御陵墓祭・・・・・・・愛知県名古屋市、熱田神宮。

■06国分寺の花まつり・・・・・・伊勢・志摩市の国分寺では06/5/8(月)に甘茶を供えてお釈迦様の誕生を祝う。露店が
ズラリと立ち並んで終日賑わう。阿児案内所0599-43-3975
■近江八幡・足伏せ走馬・・・・・・滋賀・近江八幡市。「走りめ」と言う。馬を2頭づつ走らせる。競馬の起源とも言う。

■09鞍馬寺・五月満月祭・・・・・・・・・・・京都市。

淳和天皇の命日・・・・・・・・桓武天皇の第三皇子。やまとねこ天高ゆずるイヤトホノ天皇(西院帝)。嵯峨天皇から譲
られて53代目として即位した。その後、天長10/2/28に仁明天皇へ譲位して西院に遷る。よりて西院帝と呼ばれ、やが
て55歳で承和(840)7/5/8日に崩御。火葬の上、御骨を山城乙訓郡・大原野西嶺上に葬る。

または「葬・乙訓郡物集陵」とあり、其の陵について今は向日市に治定しているが見当違いである。以下、http://
homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian31.html「淳和院址」より引用。右京四条二坊十一町〜十四町までの四町
は、淳和天皇の離宮である淳和院(西院)でした。

淳和院は淳和天皇が皇太弟時代から使っていた宮であり、当初は南池院と呼ばれていました。天皇は天長10年(833)
に譲位するや、この南池院を淳和院と改称し、仙洞(上皇の御所=後院)と定めました。承和7年(840)に上皇は淳和
院において崩御し、その後は太皇太后正子内親王が御所としました。

1993年、大型電気店J&Pの建設にともなって十三町の西南部で行われた発掘調査では、淳和院の一部と見られる大
規模で整然と配置された掘立柱建物群(9世紀)が検出され話題となりました。J&Pの南東角の壁には、発掘調査の成
果を記した説明板がかかっています。

高山寺(四条通西大路東入ル)の門前には淳和院跡の石碑が建っています(引用以上)。因みに西院の此の高山寺に
は大きな古式地蔵石仏がある。また彼の陵は現在、向日市小塩山の北(右京区大原野南春日町の円墳)に治定され
ているが鎮魂方位として不適格である。

墓地は寧ろ先の5/8日の方位に向かう事になり、寧ろ伏見稲荷大社の先の立命館高校、つまり深草であり、或いは逆
方位の雙ヶ岡町にあった筈であるが、当時の常識としては淳和帝の墳墓を雙ヶ岡町ではなくて深草に造った筈である。
この為、53淳和帝の次の仁明天皇が深草に遷って、54深草帝として呼ばれたのである。

もう少し別な角度から見直す為に先代から説明すれば、何故淳和院が西院帝になったかです。其れは先帝の嵯峨天
皇(7/15を参照)が7/15日に旧・内裏(中京区)で崩御したからなのか。従って次に即位した淳和天皇が7/15日の方位
に当たる西院に御座所を移して先帝を弔う祭祀者となった為と推定出来る。しかし嵯峨より先に淳和帝が亡くなった。

だから順序が逆になる。ただ先の高山寺は南池院であった。此れは彼が桓武天皇の皇子時代の院であった可能性が
あり、しかも其の場所は西の京であったと仮定すれば理解できる。兄が嵯峨天皇として嵯峨に御座していた。所が淳和
に譲位した。だが彼が兄より先に崩御してしまった。

よって皇后が嵯峨上皇の崩御後に、其の鎮魂のために西の京から遷して現在の西院・淳和院としたものと推定でき
る。其の一部が現在の高山寺であろう。以上から当時の和暦は太陰暦(大衍エン暦)ではなくて正しい太陽暦であった
事と、院の由来が分かってきた事と思う。

説明不足の暦法に関しては兎も角、少なくとも何故京都に御所とは別に西院が出来て、また次の天皇が深草帝となっ
たかの謎が解けたと思います。ただ淳和皇后(正子内親王)は淳和院の亡骸を山陵を設けず嵯峨の山腹に葬り、国忌
にもしないよう指示し、嵯峨の旧宮を大覚寺として、其処に済治院と言う医療施設を置いた。

其れは立派な行為としても、鎮魂の意味からは外れる。其れでは内裏からの方角は略西に当たり、西方浄土とする仏
教史観では意味が有っても西院からの方位では10/20日の方角になるからです。また向日市には今も淳和天皇火葬
塚と伝わる所があるが、此処は寧ろ嵯峨天皇の火葬の場所ではないかと思われる。

彼の命日が旧暦とすれば5/8日であるが、西院を今の「西院」と仮定してこの日の方位に向えば深草、そして笠置山や
木津町に向う。ただ笠置山(324m)では5/15.5日となり、1週間もズレる。ただ命日(承和7/5/8日)が癸未としてユリウ
ス暦に換算して見ると840/6/11日に相当する。其の方位には木津町に大野山(203m)があるからです。@


宇治上神社・例祭(神幸祭)・・・・此処は二つの神社がある。先ず

宇治下神社の離宮祭り・・・・・・ご祭神は応神天皇である。此処はかつて離宮八幡とも言われた宮なので、当然なが
ら2/15日、または8/15日には応神天皇を祭っていた事が分ります(異論もある※1)。(※1)宇治は古都・京都が出来る
前から栄えていた古都である。従って今分かっている歴史から即断するのは無理である。

例えば応神天皇の兄、押熊王が大津の宮にいて此処、宇治で倒され、次に大山守皇子が莵道(うじ)雅郎子に倒され
た所である。従って、御祭神が押熊王、または大山守皇子の可能性もあるが、此処では其れを別としても、鳥居、参
道、下社、上社、・・・と一本軸で繋がっている事も重ねて見れば、皇子よりも応神天皇の可能性が強い。

例えば、彼の命日・方位が2/15日のラインなので、此の宮を基点に上を見上げると後述の恵心院が有り、真っ直ぐ進
めば石敷きの参道があって仏徳山に面する。だが、其の左右に向かい合うように宇治上神社と興聖寺が並んでいて、
その先には仏徳山(標高131.8m)が有り、更に奥には明星山(標高233m)がある。

因みに「明神」とは日月の暦を読む場であり、また明星とは「明けの明星」、つまり金星の事であるが、此処では曙の意
味、つまり夜明けを観測した山であったろう。しかも、冬至の日の出方角に朝日山(標高124.1m)がある。仏徳山は北
緯34.5320.72秒に位置するので、冬至の日には東西線に対して28.4度北、つまり朝日山の東南から出る。

この様に仏徳山では金星と日の出の両道を観測して暦を作った所であり、従って興聖寺(※2)は「日知り」が興した寺
と言う意味を黙示したのではないか。(※2)だが今は興聖寺は道元禅師開創の道場として、佛徳山・観音導利院・興
聖宝林禅寺と言う禅宗寺院になっている。

また隣地に朝日山・恵心院と言う真言宗の古刹もあるが、此処もまた朝日山の観音とは無関係となっている。そのほ
か、近くには橋寺・放生院がある。此れは八幡様の秋祭りの放生会に由来するのだろうか。そして、明星山の先は石
山の岩間寺・正法寺(5/17日を参照)がある。此処は泰澄大師が開創した寺である。

そして其のラインの奥月に岩間山(標高443m)があるのは、彼(応神)の鎮魂方位を示唆したものに違いない。他方、
この基点(宇治下神社)の下手、つまり逆方位が8/15日であり、この日は全国の八幡宮の大半で例祭がある日である。
方位で見れば、その方位には宇治川が流れており、川を渡れば、対岸に平等院と浄土院がある。

其処を過ぎると城南の神社や円蔵院があり、その筋を更に進めばやがて東淀川区に至るが、其処は応神天皇が崩御
した大隈宮が有った。と言う風に一筋のラインで彼の命日、即ち暦日には其の日の方位で鎮魂と日迎えの祭りがなさ
れていた事が示され、其れに併せて遷宮の方式が垣間見られる訳です。

宇治上神社の祭り・・・・・・・さて次に此処、宇治上神社の祭りである。ご祭神は応神天皇の皇子の莵道(うじ)雅郎
子であり、彼は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺された。其の命日は文献に明示されてはいないが、この宇治上神社
の例祭が5/8日に行われて来た事から、其の逆の11/7日と判明する。

今、宇治神社では例年11月初旬に「献茶祭」が行われる。その由来は恐らくこの故事によるものではなかろうか。其
処で其の方位に向えば宇治川の畔に、略其の方角を向いて築造された莵道(うじ)雅郎子皇子御墓が存在するが宮内
庁の陵墓として立ち入り出来ず、其の陵形も不明である。

ただ暦・方位と例祭日が略同軸上に設定されているので紛らわしいが、此処は明らかに明治になって新たに作られた
墓地である事が知られているので論外とする。此処よりも、先の仏徳山の方が彼の命日ラインに合致する前方後円墳
である、と推定出来る事である。

日本書紀にも「川の畔」ではなくて、「仁徳天皇が慟哭して宇治山上に葬った」と明記しているのだ。@
そうした傍証も含めて、この山こそ彼の皇子の真の陵であると推断出来ます。「仁徳」に対比する名のこの仏徳山が古
墳の西の後円部とすれば、東側には前方部に当たる小山があり、朝日山と言う。@

更に室町期の五輪塔のほか、江戸初期の五重の石塔や板碑が立てられている。此れは当寺に居着いた一族の僧都
のものと思われる。余談になるが仁徳天皇は大土木王だったと言えます。先ず天然の岩山の頂上にこの墓地(仏徳・
朝日山)を作った。そして次は母(磐之媛)の陵、そして父・応神陵、・・・・等と次々と巨大墳墓を造り上げた。

今のような土木機械がなく、しかも人口が少なかった当時、彼は民の暮らしを憂い、三年から六年間を無税とした。其
れなのにどうして幾つもの山を築き上げる事が出来たのだろうか。実に大いなる聖力家だったようです。

宇治上下両社・・・・・・・つまり、この両社は、応神と皇子の御霊が交差する霊的ポイントとして、二座の祭りを時期を
分けて行う役割にあった事を示している。@

とすれば、正に円暦の教科書のような古式祭儀を其のまま忠実に守って来た模範的な実例となる。仁徳天皇も偉かっ
たが宇治の人たちも立派です。今に至る千数百年の間には史実にない事は別として、源平の宇治川の合戦や南北朝
の戦い、応仁の乱や室町の国人一揆、そして戦国時代や明治維新の影響も大きく受けたでしょう。

其れに、今度の大戦前後の艱難辛苦に加えて、改暦押し付け政策が有り、其の外にも今は人の都合や日曜日に合わ
せて例祭日の変更を迫る圧力も絶えない中、地元関係者は世代を超えて耐えて来たのだろう。この様な古式伝統は天
皇家が独占し、門外不出の乙女(お止め)流としたものでした。

其れが今は天皇家さえ忘れてしまっている中で、其の伝統を守り通したのは実に大きな人たちの努力のお陰か、此処
では埋蔵文化財として塩漬けしたものではないが、有形無形の国宝級の其れをそのまま見事に保守し、守り通してくれ
た事には筆者も脱帽し敬意を払いたい。

此れこそ日本文化の原点であり、こうした所が日本にまだ残っていた事は実に貴く、もっと誇って良いのである。其処を
見れば、きっと、「宇治に来て良かった」、と思うでしょう。

そしてこの事を記した後の2004/2/27日、「世界遺産である宇治上神社の本殿が1060年代の建立と確認され、現存最
古の神社建築と裏付けられた」と大きなニュースになった。年輪年代測定によって藤原頼道が宇治に平等院を建てた
頃にこの本殿も造営した、と分かったのである。

誉田八幡宮・夏祭・・・・・・ 大阪・羽曳野市で応神天皇を祭る神社の5/8日は夏祭<藤祭り>として舞楽・神楽奉納・包
丁式奉納・武道奉納があり、今は安産と厄除け・開運の御利益があると言う。此処は伝・応神天皇陵が隣接していて、
昔は護国寺と言った。そして祭りでは神輿が石の太鼓橋を渡って其の陵に渡御していた。

しかし其の陵は実は仲津姫(応神皇后)の父・誉田眞若王、または成務天皇の古墳である。古墳の築造方位が6/9方
位であり、従って命日が6/9日である事を明示している。ただ欽明天皇の勅願により、社殿を建立して八幡大菩薩を勧
請し、其の後に後冷泉天皇が南へ社殿を1町余り移転し建て直したとも言われる。

なので御祭神が不明になった可能性があり、しかも祭日が1ヶ月早まった可能性がある(9/15を参照)。此の祭りは御
祭神である応神天皇の祭りではなくて、実は彼の先帝、または義父の弔い法要であった事になります。其れが明治の
改暦により1ヶ月ヅレた。

■豊臣秀頼・淀の命日・・・・・・・宝塚市には中山寺があり、かつて秀吉がこの寺で祈願して秀頼を授かった、と
されており、やがて其の秀頼も片桐且元に命じて伽藍を再建した(吉野にも同種の伝承が有るが、彼の誕生日は文禄
2=1593/8/3なので誕生説では方位が合わない)。

ともあれ秀頼は家康の策略により各地で寺社を再建しているが、今、此処は西国33観音24番札所として安産守護の
観音信仰の霊場として有名である。有名になったのは、先の「5/5」の縁起から「子供祭り」になったとも推定出来る。

ただ側女が七人もいながら嫡子の無い秀吉は「種無し」でしかも高齢だから無理だと思われていたのに秀頼が生まれ
た、と言う話が好奇な目で見られた。淀殿には秀吉53の時に鶴松が生まれたが二歳で夭折していた。生誕の喜びから
秀吉は淀殿のために山城に淀城を造ったほどだった。

そして秀吉57歳(注)、淀殿26歳の時に秀頼が生まれたのでネネとの立場が逆転した。関ヶ原の戦いはこのような女
の確執が原因であるとも言われる。秀頼を溺愛の余り秀秋など、養子は全て追い出してしまった後で、秀吉は62歳で
薨去した。

(注)秀吉の身の丈は150cmなので、秀頼は実子ではなく、別人の子とも疑われている。例えば秀頼は大野村の百姓
の子(治長)と同日に誕生した。05/10/9日、NHKTVの「禁酒百石」の浪曲によれば、秀吉61の厄年に秀頼が生まれ
た。彼は大喜びでいったん捨て子にした。

其の秀頼を大野村の百姓に拾わせて「お拾い」と命名し、その百姓を気に入って100石で召抱え、秀頼の側近(守り
役)としたと言う。後に片桐勝元と肩を並べるまで出世した大野治長は其のときの百姓ドウケンの息子であり、治長は
秀頼と共に殉じたので生没年月日が同一である。

秀吉の人気が今の大阪にも根強く残るのはこの辺りから出ているのかも知れない。秀吉は数年後の慶長3年1598/8/
18)永眠(9/18を参照)した。秀頼がまだ6歳だったので、秀吉は「自分の死を1年間隠すように」遺言したと言う。

やがて慶長20=元和元(1615)年のこの日、大坂夏の陣で淀の方39歳、秀頼23歳の時、大坂落城により母子共に自
害したとされる。因みに昭和の末に大阪城から秀頼の髑髏が発見され、今は京都の清涼寺に移されて首塚として祀ら
れていると言う。@

関ヶ原以後、淀殿の力は及ばず豊臣は亡びたものの、この豊臣の母子の由来に加えて中山寺の縁日が栄えて安産
信仰が今まで広まった。母子との関係では特に、旧暦10月亥の日の無病長寿の「亥の子地蔵祭り」がある。安産と言
えば、普通は「イヌ」であるが、此処では「亥」と関係すると言う。@

ならば、其の謎解きをするには矢張り暦と方位である。またお二人は滅びたが各地に延命伝説もある。秀頼は6尺5寸
(197cm)の肥満児で、体重約160kgの巨漢だったとも言われ、其の為乗馬も出来ず、従って出陣も無理だったとす
る説も有る。また秀頼は島津家に匿われて宗連と号したとも伝わり、鹿児島市内の福昌寺に墓地がある。

また淀の方は総社城主・秋元長朝に匿われたが自殺したとも言われる。其処が敷島公園の「お艶観音」となり、また前
橋市の元景寺(秋元家の菩提寺)には彼女の石塔もあって若い女性がよく訪れると言う。因みに「お艶観音」と元景寺
との位置関係は凡そ8/31日←→3/3日である。

■07高野山火渡り・・・・・・・山伏11人が護摩を焚いて祈願し、その後の残り火の上を火渡り行を行い、信徒たちも其れ
に続く。

■岡山・吉備津神社祭。
★07-08-09世界赤十字デー。




























































5/ 9  
        

▲09望。旧4/15日。

■10東秩父村(埼玉)の神送り・・・・・・・ 東秩父村白石の神送り。 毎年5月に疫病払い、風の神送り(実は追い出し)とし
て山里1キロを歩いて行う。 

■08下谷神社例大祭(〜11日:本祭は隔年開催)【東京都台東区】
■07熱田神宮・講社春季大祭。
■09大垣祭。

■10花田植え・・・・・・・江津市(島根県)。

★アリス・アダムスの命日・・・・・・・米国から岡山に宣教師として来て、慈善事業に半生を捧げた女性。昭和12年のこ
の日に米国に帰国して亡くなった。彼女の後は岡山博愛会が継続している(読売テレビ「今日は何の日」より)。























































5/10 日、以下、次ページへ
次は ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
5月中1
5月中1
または 
トップへ
トップへ
戻る
戻る
TS

パテント・著作権は本会に属します。    「鬼の会」