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http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p090  (未定稿)


  神々の歳時記    3月・中旬  但し方位による

次は
3月・下旬
3月・下旬 
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●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 http://
www.omatsuri.com/mailmag/l

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-3月」及び奈良観光連盟ガイドブックの「知れ
ば知るほど奈良はおもしろい」06-07冬号より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

3月・中旬 ・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ 



3/11         


▼09望・満月1138。旧ねはん会。

■東京・上野の下谷神社の稲荷祭・・・・・ご祭神として大年神(スサノオノミコトの御子とされる神)とヤマトタケルを祭る
神社(03−3831−1488)は、忍ヶ岡に創建以来、上野山下、そして広徳寺門前町へと、過去何度か遷宮した。其の
門前が稲荷町となり、現在地は東上野となっている。

因みに、稲荷祭とはこの神が五穀の神として信仰された事によるのだが・・・・@

■京都の太秦(うずまさ)で蚕(かいこ)の社として知られる木嶋(このしまに)坐(ます)天照御魂神社の例祭。祭祀は3/
11、4/申日、9/11、6月晦日(雨乞い)、3/11と9/11とは同神2祭りであるから、都合三神の祭祀の場となる。氏子約
8000戸。此処には三柱鳥居がある。東京向島の三囲神社にも同じ鳥居がある。三柱は三方に対する祭りを意味する。

鳥居の数はご祭神の数に比例する。古来ご祭神1神につき1神殿、1祭、1鳥居となっていた。従って三つの鳥居が有る
のは、時期を分けて三つの祭りがあった事を示している。鳥居は人の通り道ではなくて神を迎える場であり、其処に榊
や御幣を立てた。此処で迎えて御本殿へ案内する仕掛けである。

因みに当社のご祭神は明治の神社明細帳では天御中主命、ニニギノミコト、大国魂神ほか2神。此の辺りは昔は湿原
の中の嶋であったのだろう。養蚕で栄えた秦氏に縁りの宮である。

神戸・涅槃会・・・・・・・・三重・鈴鹿市の龍光寺059-382-1189で06/3/11(土)〜13(月)に涅槃図が開帳される。お釈
迦様の涅槃の姿から俗に「かんべの寝釈迦」と親しまれる。

■06左義長祭【滋賀県近江八幡市】・・・・・・日牟礼八幡宮の左義長祭3/11~12(土日)。

神武天皇の命日・・・・・・01神武天皇は狭野尊・神倭磐余彦尊と言われて畝傍橿原(柏原)宮に即位し、神武76/3/
11日に崩御により、御所市のカンス塚に葬られたが、今は畝傍山の麓とされている(神武天皇祭については4/3日と10
/3日に明治に新設の橿原神宮で行われている)。

其処で次のスイゼイ天皇は逆方位の西に向かい、葛城の高丘宮(御所市・森脇)に遷宮して祭り事を行った。@
其の先は伊那佐山(637m)の山路に都賀那伎神社があって、摂社に斎神社と共に六社神社があり、彼が神倭磐余彦
命として祭られている。また其の先には例えば神奈川の逗子市にも天台宗「神武寺」がある。

行基の開基で聖武天皇の勅願で文徳天皇の祈願寺と言うから只の寺ではない事が分かる。@
行基が直接来たのではなくて、下請けにさせたのだろうか。いやいや神武天皇とはソモソモ無関係だったのだろうか。
ともあれ記紀には彼のその後について下記のように記している。@

更に言えば記紀以外の文書では神武以前を神皇・天皇とするものの神武以後を天皇ではなく「人皇」と記している。弥
生時代以後は其れまでの神代とは逆の、武力と戦争の祭り事としたからである。

因みにスイゼイ天皇(神ぬな川耳尊)の兄の神八井耳命(彦八井耳命)は神武天皇の第2皇子であり、母は媛タタラ五十
鈴媛命(事代主命の娘)。兄の神八井耳命は、神武の命日3/11日・方位の東の下居に居着いたのだが、其れに対し
て、弟のスイゼイが西の葛城・高丘宮で第2代天皇に即位した。

ともあれ、神八井耳命はやがて此の下居(おりい)で亡くなった。よって此処は現在まで下居神社として彼を祭神として祭
っている。無論、神八井耳命は母の里である大三輪の地に向かって葬られた。其れが此の桜井・茶臼山古墳であり、
測量図をまだ精査していないが、命日方位が略12/21日から27日(12/27日を参照)となる。

また、下居神社---桜井・茶臼山古墳---つば市の観音堂に至る。つまり観音堂が神八井耳命の鎮魂方位である。従
って、茶臼山古墳の前方部の先には神八井耳命を祭る下居神社が現存する事となった。

下居神社は式内社で奈良県桜井市大字下163番、ご祭神が彦八井耳命、但し「和州五郡神社神名帳大略注解」では
神八井耳命。現在の例祭は4月25日としている。これは此処に大日寺があった事と、神武天皇の命日(3/11日参照)を
旧暦と誤認して西暦変換した為と思われる。

■08鹿児島・霧島神宮・お田植え祭。

















































3/12         


◆チセ祭り・・・・・・チセとはアイヌ民族の住居の事。北海道。

火伏せ祭り・・・・・・06/3/12に日立市・愛宕神社。0294−22−3111

■06左義長祭【滋賀県近江八幡市】
★11左義長祭り(〜13日:3月中旬の土・日曜日)【滋賀県近江八幡市、日牟礼八幡宮】
http://www.omatsuri.com/movie/sagicyo.html 動画左義長まつり 3月中旬の土・日曜日 滋賀県近江八幡市

松明調進行事・・・・・名張市・極楽寺0595-63-3168から奈良・東大寺の「お水取り」に使う松明を運ぶため徒歩で調
進する。

■例年-東大寺・二月堂の「おたいまつ」(お水取り)・・・・・・・東大寺(奈良市雑司町)で3/12〜14日。大松明に火が
ともされ、振りまわされて落ちる火の粉を浴び、厄除けのまじないにしようと人々がもみあう。752年から一度も途切れ
る事なく続けられて来た祭り。

「お水取り」の由来は若狭の遠敷(オニュウ) 明神が釣りをしていて祭りが終わる2日前になって、やっと遅れてやって
来たので以後、毎年3/2に若狭から水を送り、其れをこの日に奈良で汲み取る行事と言うもの。

だが到底、地下で繋がっているようには思えない。其処で「火の粉しか見えないのにお水取りとは此れ如何に」(05/3/
14のabcテレビの話)。ではこの辺りから解説すべきだが、この祭りの意味が暦・方位にあるので詳しくは後に述べる。
この祭りは「関西に春を呼ぶ祭り」と言われるが正に其の通り、此れが終わらない間は不思議に寒さが続く。

此の日は東大寺・二月堂の「お水取り」であるが、この行事は752年に始まって今年07年で1255年間、休みなく続け
られて来た世界でも比類ない祭りです。ともあれ東大寺と先の春日大社など、奈良の文化財が1998年に世界遺産登録
となった。さて、この行事では松明の後の深夜に結縁過去帳が延々と読み上げられる。

現在では此れが「国家安泰、五穀豊穣」などを祈願する法会であるとされているが、本来は「修正会」と言って南北線を
基軸とした方位の元で暦を正し、正月の節目を決める儀式でした。このため長谷寺では此れに先立つ2/14前後に
伝統行事「修正会」の最後を飾る「だだ押し」が行われる。

其れに対して東大寺ではやや遅れて3/1から始めて3/12のこの日に二月堂で「お水取り」を行った後も3/14まで
続けられるが、此れも本来は、3/3の春日祭に縁りの行事であったと見られるものの、此処では子午線の方位を正
し、暦を正す事がより重要となった。其のため改暦により修正会が修二会に変わった。

よってこの「お水取り」に先立つ3/2には若狭の遠敷明神が鵜の瀬で「お水送り」の神事をする。東大寺の開基は聖
武天皇によって良弁が開基したものだが、其のとき彼は印度僧の実忠に大仏造立と二月堂を建てさせた。実忠以来、
「不退の行法」が行われているものの、良弁の出身地が若狭の、この鵜の瀬だった事により意味がある。

一般に、東大寺と鵜の瀬の遠敷川とは地下で繋がっていると言われるが、この伝承は的外れであって、実は方位で連
なっていた。若狭の神宮寺は東大寺の略真北に位置する神仏習合の神宮寺である。但し今、東大寺と同じ東経135
度50分36秒に有るのは先の神宮寺ではない。@

何れにせよ、略1000年以上も鵜の瀬から10日前に奈良の東大寺に向けて「ご香水・お水送り」の儀式が続けられて
来た。其れは両社寺の方位が略南北軸に位置するので、暦では冬至と夏至の関係に当たる。つまりは古代の年始
(元旦)がこの軸線で決まったとも言えよう。そもそも東大寺は聖武天皇が国家鎮護の寺として建立したものでした。

その国家の基軸がこの両社寺の位置関係として結び付けられていたとすれば、実に興味ある所です。同時に東大寺
は総国分寺として戒壇院を持つ寺でした。所で東大寺は何故南北に大仏と南大門が位置して長い参道が南に伸びて
いるのでしょう。其の意味は先に述べた通り方位を重視したからです。

此処はつまり国を地方毎に分け、同時に暦と方位を分ける権威の高い寺としての役割が有った。従ってこの日の祭り
は「お水取り」の水問題ではなくて暦と方位を正す祭りと分かる。松明の数は10本あるが、此れは伝統ある「行」ではな
くて言わば今風の観光行事に花を添えるものである。

方位に関して言えば東大寺には二月堂の外に三月堂や四月堂等があって、昔の念仏堂を中心に四季を時計回りで観
測するように配置しているが、此れも暦と方位との関係から構築した所としか思えない。しかし何故、三月に「二月堂」
で「お水取り」をするのか、と言えば、中心点(念仏堂)から見て二月堂が、旧暦の二月の方位に当たるからだ。

また別の見方も出来る。東大寺の伽藍配置は十文字に通路が交わり、東西(左右)に戒壇院と法華堂が並び、南北
(前後)に南大門と大仏殿が建っています。更に巽(東南)と裏鬼門(南西)に東塔と西塔とが有った。この交点である大
仏殿の前で正月を正すための太陽観測が行われた事が分かる。此れこそが修正会でした。

その際に東に位置する三昧堂と法華堂は4月と3月の位置となるため、後者が三月堂と呼ばれた。さて先に修正会と
修二会は正月の節目を正す祭りであると述べた。その正月の締め括りとしての、言わば節分と同類の行事を此処で行
って来た訳です(「節分」を参照)。其れにこの行事は二月堂で行われるが、其れは旧暦の二月に当たるからでした。

二月に其の方位に当たる観音様へ真北に位置する若狭からの水を汲んで捧げる行為が「お水取り」である。ただ此れ
は一番静寂な12日の深夜(13日の未明01:30頃)に行われるので観光客が見るのは中々難しい。この日は05年で
3.1万人もの観光客が殺到するので、この日の参拝は避けたほうが良い。

檀家のない東大寺が観光客に只で見せるのですからエライが、修二会の費用4500万円の中から1000万円以上を警備
費に当てるのは限界と言うのです。特に内陣には練行衆以外は入れないので一般は外陣から拝観するが、此の行事
は絶対秘仏である本尊・十一面観世音に対するケカ(悔過)から始まる。

其れに続く連行衆の五体投地、鬼走り、籠たいまつ、そして未明の「お水取り」となる。先ず声しょうみょうが有るが、此れ
は南無観自在菩薩の宝号を24回、南無観自在を20回、南無観を約15回唱えて五体投地をする(此の辺りは06/2/
25朝日記事より引用)。

次に人間界の400年が1日と言う天上界に少しでも近づこうと本尊の周りを駆ける「走り」、或いは天の神に扮した僧
が堂内で松明を振って舞う「ダッタン(達陀)」など、全身を使っての祈りである。そして終盤の13日未明に「お水取り」
が此の二月堂で、堂下の閼伽井(あかい)屋にある井戸から密教的作法を司る練行衆によって水を汲む事になる。

長さ2mの松明を抱えた童子を先頭に、密教や神道の作法を司る呪師(シュシ)らが二月堂から石段を下りて井戸へ向
い、「香水ずい」を汲む。此れを庄駆士(ショウノクシ)と言う付き人が桶に入れ、三度に分けて堂内へ運ぶ(06/3/13朝日
新聞)。

此れは霊水信仰の要素も有るが、その吉方の水を其の方位の其の時刻に汲みとって捧げる事に意味があった。所で
観音様でも千手観音や千手千眼観音は多数の手を孔雀のように広げています。

外にも先の興福寺・北円堂や東大寺(三月堂)の本尊の不空羂ケン索観音とか各地の孔雀明王と言う尊像も八方・三十
二方に手を広げたり、或いは輪にして手印を結び、周りに多数の糸を引く形を見せています。此れは古に実際に太陽
観測をした方々の姿と作業の様子を仏像に仮託して後の世に伝えたものである。

インドの諸仏ではなくて日本に実在した方たちの菩提を弔うために生前の彼や彼女の業態を功績として生き写しに象
ったものでした。また後背として後光のように象られている造形も、こうした諸尊にも無数の先祖が実在した事を黙示し
説いている。当時の事は今の価値観ではなくて昔風に見なければならない(ヒジリの「円系図」と「法華」を参照)。

彼らはこうして天体を観測して、暦を確定し、しかも地積の測定を指導したヒジリでした(「玉串の祭り」を参照)。円暦の
ように四周に糸を張り巡らせて暦を作り、それで先祖祭りをしたのです。特に「お水取り」は、この頃に天体を観測して
正月や春の時期を確定するための大事な作業があった事を伝えている。

ただ長谷寺も此処も今では「暦の祭り」が忘れられて、単に鬼が演出する炎の祭典と言うアトラクションで観光客の人
気を集めているのは少し残念ですが、しかしもっと深読みすれば、暦は寺ではなくて朝廷が国策として支配し、其の前
は鬼が支配していた事を、此処では雄弁に物語っているとも言えるのです。

因みに5/7には福井から東大寺に例年、米が奉納されるが、福井の方角は円暦で西暦1/3方位に当たる。尚、東
大寺は聖武天皇の皇太子(基王)が神亀5(728)年9月13日に亡くなった為に、其の菩提を弔うために金鐘山寺を建
てた事に始まる。だから其の日の対極に当たるこの日が祭りのピークとなる訳です。@

尚、南大門には鎌倉時代以前は「大華厳寺」の額が掲げられていたと言う。親としてマナコに先立たれた悲しみは如何
ばかりであったろう。このためか今も9/13←→3/12のラインには←戒壇院←大仏殿(大仏)→宝珠院→若草山が
並んでいる。因みに良弁から現在は218代目の森本公誠氏(イスラム研究家)になっている。

http://www.omatsuri.com/movie/omiztori.html 動画お水取り(奈良東大寺二月堂修二会) 3月1〜14日 奈良市
詳しくは東大寺または奈良市観光センター0742-22-3900

■07八講祭・・・・・・・奈良・桜井市の談山神社0744-49-0001では氏子が鎌足公の御神影を謳いながら掲げる。


























































3/13 


        
■07-08虚空蔵祭・・・・・・・能満寺〔虚空蔵尊寺〕(福島県いわき市)。 
■07-08村松虚空蔵察・・・・・・・日光寺(茨城県東海村)で3/13〜4月3日。日本三虚空蔵の一。 

★11高尾山火渡り祭(3月第2日曜日)【東京都八王子市、高尾山薬王院】

■05「天下の奇祭、まんこ祭り」・・・・・・2005/3/13日(日)。犬山市の大県神社には陰陽石の信仰があり、本殿の背後
に「姫石」(陰石)が安置されている。安産、子授け、縁結び、子育て、婦人病など、特に女性の守護神として信仰を集
めているという。

以下、http://www5a.biglobe.ne.jp/~dai_/diary/mamko.htm「天下の奇祭、まんこ祭り」より引用。愛知県小牧市にある田
県神社では年に一度、「ちんこ祭り」なる奇祭が繰り広げられます(05/3/15日を参照)。光があれば影があり、男がい
れば女がいる、そして、ちんこがあればまんこがある。

そう、そうなのです、ちんこ祭りがあるならばまんこ祭りがあるのも道理であり、ちんこ祭りと対なして、田県神社の近く
にある大県神社ではまんこ祭りなる奇祭が毎年繰り広げられているのです。ちんこ祭りには2年連続で参加したにも関
わらず、まんこ祭りの方は一度も見たこと無かったので、遂に見に行ってきました。

また次にhttp://www21.big.or.jp/~tetsuki/hokan/ooagata.html「大県神社」から引用する。

大縣神社(おおあがたじんじゃ)の概要---鎮座地:愛知県犬山市字宮山3、社格等:旧・国幣中社(現・別表神社)、式内
名神大社、尾張国二宮。祭神 大縣大神(一説に大荒田命)。創祀 不詳。垂仁天皇27年(B.C.3)。
大縣神社の西には真長寺がある。昔は神宮寺だったか?

尚、大縣神社が東にあって西に参道が伸びており、その先には次項の田縣神社が鎮座している。暦方位では此の祭り
の略対極に両社が位置している。

◆田縣神社(たがたじんじゃ)の概要---鎮座地:愛知県小牧市田県町152。社格等:旧・郷社、式内小社。祭神:御歳
神、玉姫命 。創祀 不詳。例祭 3月15日に豊年祭。社伝によれば、この地は大荒田命の邸の一部で、往古より五穀豊
穣の神である御歳神を祀っていた。

玉姫命は夫・建稲種命の亡くなった後に子女を伴って当地へ帰り、父・大荒田命を助けて開拓に努められたため、そ
の功績を讃えて合祀したという。当社の奥宮には、『古語拾遺』の御歳神の故事に因み、男茎形〔おわせがた〕(男根)
を奉納して祈願する風習があり、多くの陽石や木製の男茎形が納められている。

明治維新までは、曹洞宗の護国山久保寺〔きゅうぼうじ〕が神宮寺であり、住職が神事を執り行っていた。例祭の豊年祭り
は小正月の田遊びであり、もとは旧暦の1月15日に行われていたが、現在は3月15日に行われている。『天下の珍祭』
と称し、海外にも知られる奇祭である。

大県神社・姫之宮の豊年祭りが、女陰を象った御輿であったのに対し、当社の豊年祭りでは男根を象った大男茎形を
乗せた御輿を中心とする神幸行列が神社へ渡御する。江戸時代までは久保寺が行列の出発地だったが、明治の神仏
分離以後、一年交替で村内の神明神社と熊野神社から出発するようになった。

地元の伝承では、建稲種命が玉姫命を娶りに来る祭だとされる。また、神幸行列の大榊の枝や五穀の袋、神符などを
持ち帰り、神社のお札とともに苗代の水口に立てると豊作になるという。祭礼当日は、国内外から多くの参拝者が詰め
かけ、殷賑を極める(以上、引用)。

さて性的な奇祭と言う興味本位から離れて、次は本題に入る。此れは年の初めの年占いと豊作の予祝行事である。そ
の点を方位から吟味する。大縣神社と田県神社の位置方位は2/15--8/17日である。旧暦の1/15日・小正月と旧7/20
日頃、建部夏祭りがあり、建部とはヤマトタケルの子孫である。彼の孫に当たる応神天皇の命日も2/15日である。

正月の満月の日に、北、つまり冬の側の姫之宮の女神と、夏の側、男神とが合体して子産みの演出とする祭りで、豊
作を祈願するものであったろう。

★11左義長祭り(〜14日:3月中旬の土・日曜日)【滋賀県近江八幡市、日牟礼八幡宮】
「動画」http://www.omatsuri.com/movie/sagicyo.html 左義長まつり 3月中旬の土・日曜日 滋賀県近江八幡市。

■07比叡山の大護摩・・・・・・比叡山延暦寺077-578-0001では10-2時、西塔峰道の広場で護摩木数十万本を焚く。世
界平和と除厄招福を祈願する法要で甘酒、芋だきの無料接待もある。

■例年-虚空蔵・十三まいり【京都市西京区、法輪寺】

■08東大寺二月堂-おたいまつ・・・・・【奈良市、東大寺二月堂】奈良市観光センター0742-22-3900
此の日が「お水とり」。若狭井と言う井戸から本尊・十一面観音に供える「お香水」を汲み上げて明日14日に繋げる。

■例年-春日祭(春日大社の例祭)・・・・・・奈良市、春日大社0742-22-7788の例祭は古来「申祭り」、「御戸開き神事」
とも言い、勅使参向で行なわれる。此処は武甕槌命を祭るが、その由来は 神護景雲二年に鹿島の神を御蓋山に迎え
て春二月と冬十一月の各々上申の日に祭った事から「申祭」とも呼ばれた。

此処は元々藤原氏の氏神祭りだったが三勅祭の一つとなった。以来、国家の安泰と国民の繁栄が祈願される。場所
は春日大社の回廊内各所の建物、及び二の鳥居からの参道。

但し例祭日については明治以降にこの日となったものであり、元々勧請した神護景雲二(768)年春二月上申は旧暦で2
/9、ユリウス暦にすると3/2日である。@

だが奈良の春日祭は現在、東大寺のお水取りの翌日3/13に行うため、真実の暦・方位とは十日ズレている訳です。
だがその対極に位置する鹿島神宮では今も半年後の9/2に例祭を続けているから祭り方位により誠実であると言え
る(「9/2の鹿島祭」を参照)。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900

■07二の午・・・・・・・奈良市・大安寺0742-61-6312では秘仏・馬頭観音の御宝前で二の午法要(厄除祈願)。
■07二の午・・・・・・・奈良・明日香村の岡寺0744-54-2007で。

安閑天皇の命日(工事中)・・・・・・27安閑天皇/勾大ひね広国押武金日尊/勾金橋宮/御陵在・河内之古市高屋村
也/舊市高屋丘陵/古市高屋丘陵//安閑2/12/己卯17=536/1/15-1/17但し、別に534/12/乙丑17(535/1/6-1/8)、及
び3/13日とする説もある。

このように記紀には命日と皇居、其れに陵が記述されているものの、現在の地名で何処のどれか、を特定出来なけれ
ばこの天皇の実在を歴史書として検証した事にはならないのだが、実際問題として分らない事ばかりである。命日も12
/17日説と3/13日説があるが、前者については別項(12/17日)を参照。

先ずハッキリ分る点から見よう。次の宣化天皇の檜隈寺跡(於美足神社=おみ足=ご足跡と解釈出来る)が安閑の日迎
えのための宮だったと推定して、其処から逆算する手法を採る。

檜隈寺跡を定点として12/17日の方位に向えば、次の伝・欽明天皇陵の東側を通過してヤタガラス神社→花園神社→
鏡作神社→伝・垂仁天皇陵の東側を通過して京都方面に向うが、古墳らしき所はない。とすれば残念だがこのライン
は諦めるしかない。

次は古墳の角度から逆算すべく、探索すると西に偏ればナガレ山古墳と河合・大塚山古墳、其れに別所石塚古墳が
あり、また東に偏れば奈良北部のウワナベとコナベ古墳、其れに沙紀・石塚古墳(伝・成務陵)に加えて天理市には東
殿塚古墳があり、何れもこの日の角度で築造されている古墳が並ぶ。

よって其処から南進する各々のラインを引いて、其れらと檜隈寺跡のラインが交差する地点を逆算して継体天皇金橋
、または安閑の「勾の宮」を推測するしか手が有りませんが、この検証は後回しとする。では次に彼を祭る神社から
拾い出して見よう。近畿には彼を祭る宮が各地にあるが、多過ぎても混乱するので先ずは、遠方から見よう。

先ず東北の金峯神社(山形県鶴岡市青龍寺 旧・県社)現在の祭神 大国主命・事代主命・少彦名命・安閑天皇。垂迹 
本地・金剛蔵王権現・釈迦如来・「金峰山万年草」下、金剛蔵王権現垂跡少彦名命、本地釈迦如来。嵯峨天皇勅願
所、金峰山青龍寺即是勅号、天下泰平国家安穏之御守護神社也。

(中略)一書ニ云ク。金峰神社ハ所謂蔵王権現也。祭神ハ少彦名命、即是高皇霊尊之子而共大己貴命経営化被蒼生
之神也。(中略)一書ニ云ク。蔵王権現ハ安閑天皇ヲ祭ルト也。(中略)縁起ニ云ク。役ノ優婆塞鉢森ノ上ニ善男子ノ群
集スルヲ見テ、其故ヲ問フ。

皆云ク、蓮華峰ニ霊光有リ、然ニ山林鬱茂、猛獣隠顕スルヲ以テ、未ダ攀躋スルコトヲ得ズ、是ニ従テ遥拝スト。此ニ
於テ優婆塞試ニ峰頭ニ登ル、其言ノ如シ。加フルニ雲霧漠濛スルヲ以テ、容易ニ到リ難シ。秘法ヲ修シ密呪ヲ唱フル
コト数日。霊場ヲ詣デ閻浮檀金ノ釈迦如来ヲ拝ス。

告テ云ク、善哉優婆塞、我昔シ霊鷲山ニ在リ、今ハ衆生ヲ度センガ為ニ、金剛神ト示現スト。(中略)又云ク。弘法大師
湯殿山ニ入リ大日如来ヲ拝ス。告テ云ク、西方ニ霊山有リ、即リ是釈迦如来誕生ノ道場也。仁者往詣スレバ必ズ利益
有ラント。

次は秋田について「やまとこころ」http://blogs.dion.ne.jp/amabegoro/archives/cat_8387.htmlから引用する。大和には
武烈帝の姉との子・後の欽明(きんめい)天皇がずっといて、継体帝と先妻の子になる安閑(あんかん)天皇、宣化(せ
んか)天皇がさまよっていたのです。

日本書紀には、継体帝が亡くなったとき、安閑、宣化帝の家族も一緒に亡くなったとされています。一説には継体、安
閑、宣化と暗殺されたのではともいいます。東北・秋田にある保呂羽山波宇志別神社(ほろばさん・はうしわけじんじゃ)
には、安閑天皇につかえた大伴氏が事敗れ、出羽・保呂羽山に逃れてきた。

そこに社を設け、安閑天皇を祭ったと伝承があります。波宇志別神社の祭神は「安閑天皇」、社家は大伴氏の子孫で
ある大友家がつづいています(一説には祭神は蔵王権現ともいい、蔵王権現は、安閑天皇のことともいいます)。つま
り、大和での政権抗争に敗れ、継体系の人たちは東日本に逃れたということでしょうか。

次も関係資料である。保呂羽山。保呂羽山波宇志別神社。秋田県平鹿郡大森町八沢木、式内社(出羽国平鹿郡、波
宇志別神社)。旧・県社。現在の祭神・安閑天皇。垂迹本地・蔵王権現・釈迦如来。「菅江真澄遊覧記」には「伽藍開基
記」六巻諸州之部云。保呂羽山。 自此至元禄二年凡及九百余年矣 出羽州平鹿郡八沢木邑。有山号保呂羽。

林岳深秀。?樹玲朧。華果如珠。海似瑠璃。山如幽谷。蔵王権現霊区也。中有精藍。号曰保呂羽山天国寺。昔大友藤
原吉親者有。因遊此山麓逢一猟者。問曰汝為誰邪。猟者答曰我名遠藤太郎。常在油利郡。以殺業為活。吉親与猟
者倶登山。時有一霊樹。放金色光。吉親共怪之。俄有沙門至告之曰。此木有蔵王権現。即釈迦牟尼如来也。

為利人民故現種々方便。垂跡和之金峰山。此州辺地而利人民。故示現此地。汝等疾設社塔。以奉権現。則国家昇
平。万民楽業矣。我即為当山鎮守神。言訖及蜚升而去。即地蔵菩薩也。 以上はhttp://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome
/honji/files/HOROHA.htmlより引用。

次も同内容の記事で、秋田県横手市。大森町にある保呂羽山(438m)の山頂近くに鎮座。東北地方には幾つか保呂
羽山と称する山があるが、保呂羽山信仰のオリジナルはここ。社伝によれば、天平宝宇元年(757)八月、神主大友
吉親が、大和国吉野の蔵王権現を勧請し、金峰と称したのが始まり。

祭神は、蔵王権現と同じと考えられる安閑天皇。近世には、安閑天皇の他に、天日鷲命も主祭神であったらしく、天日
鷲命の方が古くから(修験道以前)の祭神であるとの説もある。保呂羽山信仰は、地主神が猛禽信仰と結合して成り立
ったもので、神使は山鳥らしく、鷲の名を冠した神が採用されたのだろうか。

以上、http://www.genbu.jp/200510.phpより引用。

次は東京・奥多摩の御嶽神社。山岳宗教の霊地で、古代から中世の武士まで多くの信仰を集めた古社。標高929m
の御岳山頂上にある山岳信仰の霊場。祭神として、日本武尊、恵比寿様(少彦名命)、安閑天皇(広国押武金日命)、
大黒様(大己貴命)、櫛真智命の五神を祀っています。

武蔵国では、埼玉県の氷川神社と並ぶ伝説上の古社で、「武蔵」という旧国名も日本武尊の東征の際に、この御岳山
頂に武具を収蔵したため起こったともされています。伝説では紀元前90年に崇神天皇の時代に創建され、天平8年
(736)には、行基が東国鎮護を祈願して、蔵王権現像を安置しました。

一時期、戦乱で荒れ果てましたが、文暦元年(1234)に大中臣国兼が再興しました。中世から近世にかけて武将の崇
敬が篤く、江戸開府間もない慶長10年(1605)には、徳川家康配下の治世家・大久保長安が社殿を造営していま
す。

年中行事も豊富で、4月29日に奉納剣道大会、10月の第一土日に無形民俗文化財にも指定されている薪神楽、9月
中旬にカンタンを聞く会などが行われています。以上はhttp://nihonaruki.info/mitakezan.htmlより引用。

次は、三浦半島の箭執(矢取)不動尊。この箭執不動明王とは何の事なんだろう・・・三浦半島、衣笠城址にある金峰
山大善寺。風土記や三浦古尋録には不動明王之堂の別当寺と記載されています。衣笠不動尊総縁起は、相州三浦
郡衣笠邑大善寺は行基菩薩開闢の古道場なり。往古基公天平元巳の年人王四十五代聖武帝の年号なり。

三浦郡行脚の路次遥るかに此の境を望めば、金色の雲峰を覆ふ、即ち尋ね来て山上に攀れば嵯峨として法性の峰峙
は寂寞として禅定の窟間なり。故に錫を此の山に駐め四方を顧れば、三浦の千峰恰も和州吉野山に似たり、慈に因て
金峰山大権現を勧請して、以て三浦の総鎮守と為す。

蓋し夫れ金峰宮は人王二十八代安閑天皇の垂跡なり、彼の小角に祈誓の時金剛蔵王大菩薩の形像を現す、即ち是
れ普賢菩薩と一体分身なり。特に麓に霊泉あり、故に不動明王並びに金伽羅制釈迦を彫刻して以て国家安全祈祷道
場の本尊と為す。既にして居城を衣笠に定め長門守平為通、此の郡を領し初て三浦を以て家号と為す(中略)。

金峰神の冥感不動尊に霊應偏に是れ年来長門守為通信仰し奉るに依る者か、以来三浦の子孫歴代信敬浅からざる
者なり。就中大介義明は毎月金峰宮及祈祷の道場に参詣し信敬猶深し、人皇七十六代近衛院の御宇久壽二亥年春
二月、玉藻前の妖怪に依て天子不豫安部の易諧之を占て曰く是れ玉藻前の所為なり。

此の部分はhttp://aguba.hp.infoseek.co.jp/yatori.htmより引用。

次は静岡についてhttp://www.genbu.net/data/toutoumi/mitake_title.htmから引用する。
静岡県浜松市引佐町三嶽597の式内社 遠江國引佐郡、大神社、旧村社、主神・勾大兄広国押武金日尊とある。
浜名湖の北東に位置する、海抜467mの三岳山の山頂近くに鎮座。

創祀年代は不詳。境内は、三岳城当時、三の城(出丸)のあった場所にある。三岳城は、井伊氏によって築城された
南北朝時代の南朝側の拠点であった。式内社・大神社の論社。「大」は、オオセチと読むらしいが、タイセチ・タイセキと
読む説もある。当社の鎮座地の字は、「タッサ」という点も論社となった理由だろうか。

現在の祭神は、勾大兄広国押武金日尊(安閑天皇)だが、三岳神社は、三岳権現の社とも呼ばれており、蔵王権現の
流れから、蔵王権現の神である安閑天皇を祭神としたのだろうか。境内の左手から、三岳山山頂にある三岳城跡への
山道が続く。境内から約500m。 

三岳神社鎮座地は引佐郡引佐町三岳字タッサ五九七番地、境内地 一一、七三二坪、本殿四坪、幣殿六・一七坪 拝
殿十三坪、社務所 九・五坪、例祭日 十月九、十日、御祭神 一、勾大兄広国押武金日尊(以上)。少し離れて豊田市
には射穂神社の主神である。

次は名古屋市・片山神社。名古屋市東区芳野二丁目。この社を延喜式神名帳の山田郡所在の片山神社,片山八幡
宮を春日部郡所在の片山神社として考えればよいのではないか。祭神は主神・蔵王(ざおう)大権現。右神・国狭槌尊
(くにさちのみこと)、左神・安閑天皇。

境内に富士浅間社,白山社,秋葉社,香良須社,金刀比羅社,玉津島社,稲荷社がある。この神木のスギは『東区の
昔話と伝説』(岡田弘著)によれば以下のような言い伝えがある。晩秋から真冬にかけて,ドンドンと太鼓の音がする。
急いで蔵王さんまで来てみると,別の方向で太鼓の音がする。

天狗が一晩中叩いていたようだ。この話が江戸に伝わり,神田のおはやしの連中が泊まり込みで来名し,この社の天
狗の神楽(かぐら)に合わせて帰り,それが今の神田明神のおはやしになった。と伝えられている。幹8メートルほどの
天狗が腰かけていたとされる枝が保存されている。

「蔵王の森」の中に入ると,林中にアラカシ,低地にはムクノキがあり,シラカシ,アベマキ,カクレミノなどが雑然として
生い茂り,下には,アオキ,ベニシダなどが群生している。片山神社の境内を中心に縄文時代から中世までの遺産物
が散布する。また,縄文時代中期の炉の跡1基が調査されている。

この遺跡は戦前から知られていたが,昭和36年の本殿改築の際に,弥生時代前期の包含層や中期のかめかんが発
見され,注目されたんです。行事は赤丸神事があり、大国主命(おおくにぬしのみこと),少彦名命(すくなびこなのみこ
と)より受け伝えの病気を治し,災厄(わざわい−悪いこと)を除くおまじない。

以上は、http://www.higashishirakabe-e.nagoya-c.ed.jp/katayamaj.htmより引用。
また近畿では各地と吉野金峰山に祭られている。吉野は式内社・大和國吉野郡金峯神社・名神大・月次・相甞・新甞、
旧郷社・金山毘古神。奈良県吉野町にある。吉野山(858m)の頂上・青根ヶ峯から500mほど下ったところ。

当社から上を、奥千本と呼ぶ。創祀年代は不詳。通称は、金精明神。あるいは、愛染宮。吉野八社明神の一である。
社名の「金峯」は、吉野から天川村へかけての峯々の総称。地下に黄金の鉱脈があるという伝説を持つ山。

宇治拾遺物語に、京都七条の金箔打ちの男が、この山で黄金を取り、金箔を打って売りさばいたところ、祟りによっ
て、死んだという話がある。祭神は金山彦神。金の峰に坐す神として相応しいのだが、一説には、安閑天皇。安閑天皇
は、「勾大兄廣國押武金日天皇」ともいい、この「金日」からの連想と思われている。

また、林道春の神社詳説によると、「宣化天皇の三年和州金峯山に明神出現、安閑天皇の霊と称す」。明治までは、
麓の蔵王堂を口ノ宮、当社を奥ノ宮と称していた。以上、http://www.genbu.net/data/yamato/kinpu_title.htmより引
用。大阪では例えば南河内各地に祭られているが、和歌山との府県境にも蔵王権現がある。

次は愛媛の内海村。柏の由来。柏の谷の最も奥に今でも「山の神様」を祀っている。近くに「大蔵屋敷」という地名があ
り、金峰神社の前身が「蔵王権現」と呼ばれていたことから、元は柏の氏神はここに祭られていたのかもしれないし、そ
うするとこの地の方が「吉良の岡」より早い時代に開かれていたのかもしれない。

氏神金峰神社は、元は蔵王権現あるいは蔵王宮とも呼ばれ、創立年代や創立の起因は一切不明である。祭神は
閑天皇で、神社の名前から奈良県吉野の金峰神社との関係も考えられるが、よくわからない。宝暦4 (1754)年に再建
され、寛政8(1796)年にも改築されている。

この時の棟札には「寛政八年丙辰六月十九日棟上庄屋五六兵衛組頭儀平横目覚左エ門五人頭源六同宇八同彌之
助同與平願主柏村中」とある。また「蔵王宮」と書かれた神号額があり、これは安政6年5月に柏村の源太郎と虎吉が
奉納したものである。明治6年11月には蔵王宮を金峰神社と改称し村社に指定された。

明治23年に内海浦と柏村が正式合併して内海村となってからは柏に役場が置かれ、行政の中心地として発展すること
になる。明治20年3月10日、柏の浜で「龍ヶ浜」(山口某)の追善相撲を開催中、夜10時ごろ法性寺本堂より失火、火事
と見るやすぐに相撲をやめ消化に駆けつけたが、ことすでに遅く障子2枚を残して全焼してしまったという。

金峰神社は古くから地芝居を催す慣例があり、明治時代には濱本仲治、平尾菊太郎など素人役者としてかなり名が知
られた者もいた。

明治34年に金峰神社の例祭にはじめて神輿渡御の神事がおこなわれ、その後数年の間に氏子各組も牛鬼、四つ太
鼓、唐獅子、五ツ鹿などの練物を出すようになり、現在にいたるまで毎年11月3日には盛大な秋祭りを催している。以
上、http://www.e-ainan.net/deai21/konjaku/kashi/kasiyura.htmより引用。

最後は鹿児島である。金峰神社 (南さつま市)・・・・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.
wikipedia.org/wiki。金峰神社(きんぽうじんじゃ)は鹿児島県南さつま市の金峰山頂上にある神社。旧名「蔵王権現
社」。修験道の修行地であった。現在もトレッキングなどで利用する人が多い。

祭神・安閑天皇 。主な行事・例大祭 毎年10月15日。関係先は観音寺 (南さつま市) 頂峯院。
命日が3/13とすれば、其の対極が9/13になります。其れを旧暦と見て、明治の改暦によって西暦の10/13前後
に変えたものと推量する。

此のラインは西から東に佐賀←→北九州←→香川←→淡路島←→南大阪←→奈良←→松阪←→伊良子←→浜名
湖←→南伊豆←→千葉・館山市に至る。其のラインに祭られていた筈であり、其の別れが金山彦と共に金峰山・蔵王
権現として鍛冶屋に祭られて来た所だ。

其のラインからやや離れて三滝神社【愛媛・城川町窪野】が有る。祭神の中には安閑天皇も祭られていて、此処では
三滝祭りが4月17日に開催され、八ツ鹿踊りが奉納される。此の一文はhttp://www33.ocn.ne.jp/~kotaro_mil/iyosumi/
towninfo/sirokawa.htm(1999/5/29)より引用。

さて、回り道したので次はいよいよ安閑天皇が都とした勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)。現在の橿原(かしはら)
市曲川町付近である。1889年から1956年まで「金橋村(高市郡)」があり、今は橿原市。ただ今ではわずか駅名などに
その名を留める程度である(JR金橋駅)。

では具体的に金橋宮、または「勾の宮」だったと思われる八幡神社を検証しよう。


此処は橿原市金橋にある八幡神社である。正面に鳥居、その先には東に向かって長く参道が伸びていて、その先には
金橋神社(元・蔵王権現社)が有ります。

磐余玉穂宮で継体天皇が2/7日に崩御した。磐余玉穂宮は桜井市内にあったと推定されているものの今なお不明。
なので、逆に安閑天皇が都とした勾金橋宮を方位から特定する事が出来れば、継体天皇の磐余玉穂宮を特定する事
が可能となります。





後村上天皇の命日・・・・・・後醍醐天皇の次の後村上天皇が天野山・金剛寺(住吉行宮との説もある)で正平23(1
368年41歳)で崩御し、 この日の方位に当たる檜尾山・観心寺に葬られた。其処が後村上天皇・檜尾陵である。当
時、両寺は行宮だったが今は真言宗(仁和寺・御室派)寺院として何れも今の河内長野市内にある。

このため今も観心寺では後村上天皇・御国忌・献茶祭(表千家)が4/6日と4月第1日曜日に行われる。だが公式に
は住吉行宮で崩御されたと言われていて今も住吉には行宮跡がある。よって此処が公式の斎場とされたに違いない。

このため昔の神宮寺(住吉大社)では旧暦二月12日に連歌所・御会、18日には古正印殿(しょういんでん)御歌会を続
けて来た。@

帝は、正平7年(文和元年:1352)に吉野から住吉大社へ移り、正印殿を行宮にした。その後は此処(観心寺)が南朝
の中心地となり、正平23年(応安元年:1368)後村上天皇が崩御して長慶天皇が即位し再び吉野に移るまで約9年間
行宮であった。此の寺は楠氏の菩提寺でも有ったので、楠正儀が北朝と対峙していた。

帝も晩年は北朝との和平も工作したようだが、成果は得られなかった。帝と同じく和平派だった楠木正儀が北朝の軍
門に降るのは、帝の死の翌年の事である(この項の一部はhttp://inoues.net/tenno/5murakami_tenno.html
より引用)。因みに観心寺は本堂と本尊の如意輪観世音菩薩が国宝になっている。@

よって神式の祭りが金剛寺でなされて来たと推定する。其れが今も「御奠供」と言う形で、時期がズレているが4/21
の弘法大師・御影供の時に一緒に執り行われている。

真言宗寺院なのでこの時期には御影供をしているが、「御奠供」については高野山真言宗にも例のない特殊儀礼なの
で、何故こうした祭りを寺院でしているのかが関係者でも分からなくなっている。と言うのも、本来此れは寺院の儀礼で
はなくて、命日の逆方位(9/13頃)に行う天皇家の神式の「日迎えの祭り」だからです。

ただ先の、観心寺の陵は古墳の形を成していない。其の手前には陵墓参考地があるが、それらよりも寧ろ、府営長野
公園北側の標高225.7mの丘陵地 の方が適格かと思う。南北朝時代は戦乱時代であり、両朝対立して敵味方も不
明な中では敵の目を欺く必要があり、天皇の陵や年忌であっても堂々とする訳には参らなかったのです。

しかも暦法・年号に於いても南北朝は別々でしたので、例えば南朝が当時、渡来の旧暦の仏教暦、具注暦(平安時代
の道長や陰陽師が使っ た)、宣明暦(859〜)、三島暦、伊勢暦の何れを使っていたかさえ定かではないが、方位から
見れば、寧ろ和暦を使っていたと推定出来る (「8/16 後醍醐」も参照)。

▲九州新幹線・・・・・・2004年のこの日、八代と鹿児島で一部開通した。営業運転は3/21から。

★09漁業法記念日。



































































3/14 



彼岸会(各宗)。お彼岸は春分前後7日間。 
土砂加持法要(天台宗・真言宗)。 
正御影供(天台宗・真言宗)・・・・・・・3/14日が弁財天祭。

■07-08正御影供・弁財天祭・・・・・・賢沼寺(福島県)で3/14〜15日。 
★10高尾山火渡り祭(3月第2日曜日)【東京都八王子市】

涅槃図開帳・・・・・・津市・林性寺。猫を招いた室町時代の涅槃図。津市産業課059-255-3110
★09左義長祭り・・・・・滋賀県近江八幡市、日牟礼(ひむれ)八幡宮で14〜15日(3月中旬の土・日曜日)。春の訪れを告げ
る火祭りで、国の無形民俗文化財。15日を参照。

左義長の中心に据えた山車に、黒豆や鰹節などの食材で作った「エト」を飾る。13時に13基の左義長が同宮に勢揃い
して各町内を練り歩く。15日は10:30分に「喧嘩」と呼ばれる左義長のぶつかり合い。20時には奉火となり、夜空を焦が
す。同市観光案内所0748-33-6061

■09琵琶湖開き・・・・・・・・大津市の由美ヶ浜で3/14日の夜から、5000本のヨシのたいまつを焼く。

善導忌(京都・黒谷浄土宗)。
■07-08-09涅槃会・・・・・・・東福寺(京都市東山区)では3/14〜16日に大涅槃図開帳、甘酒の接待がある。 
■07-08-09涅槃会・・・・・・・泉涌寺(京都市東山区)では3/14〜16日に大涅槃図開帳。

■07-08涅槃会大涅槃図開帳・・・・・・・清涼寺〔嵯峨釈迦堂〕(京都市右京区)では十五月夜、本堂前に大松明を点火
しその火勢で米の豊凶を占う。

■08-11東大寺二月堂-おたいまつ・・・・・【奈良市、東大寺二月堂】奈良市観光センター0742-22-3900(3/12日を参
照)。練行衆の足元を照らす長さ6mの大きな松明が二月堂の舞台に上がる。降り落ちる火の粉を浴びると無病息災の
御利益があるとされる。

■當麻寺・中将姫の成仏(命日)・・・・・・・・昔は当麻寺中将姫練供養会式(當麻れんぞ)が旧暦のこの日にあったが、
今は新暦の5/14に行われる(奈良県の當麻町や有田市の得生寺など)。


★ホワイトデー






































































3/15       



■09一之宮貫前(ぬきさき)神社・例祭・・・・・・・・・群馬。
■07-08般若講・・・・・・・信福寺(千葉県)。 
■07-08お会式・・・・・・・善光寺(長野市元善町)で本尊如来の日本渡来の日を記念して行われる法要。 

■07-08-09-11豊年祭・・・・・・・愛知県小牧市、田縣神社。以下、http://www5a.biglobe.ne.jp/~dai_/diary/timko.htm
「天下の奇祭、ちんこ祭り」から引用する。本日03/3/15日、愛知県は小牧市にある田県神社にて豊年祭が行われまし
た。

ここ、田県神社のご神体は男性器のちんこであり、年に1度の祭りの日にはちんこ御輿が繰り出してわっしょいわっしょ
いと練り歩くという、まさに奇祭とよぶにふさわしいイベントが行われる訳であります。
1年ほど前より是非とも行ってみたいと強く思っており、ようやく今日この日がやってきたというか。

朝早く起きてみると、祭りへの期待感からか自分の愚息も期待で胸膨らませているようです(それは朝立ちです)。東京
と新潟からわざわざこのイベントの為だけに来た奇特な好奇心旺盛な友人達と合流し、まずは腹ごしらえということで
名古屋名物、鰻のひつまぶしを食べに行く事に。

鰻のひつまぶしを食し、お腹を満たすことにより、オレの珍宝も元気いっぱいになりました(精力がついたようです)。先
走る液気持ちを抑えながら、期待にちんこ胸を膨らませつつ祭りの会場に到着すると、そこはまさにちんこワールドでし
た。また此処では「天下の奇祭、まんこ祭り」もある。2005/3/13日(日)を参照。 

■11豊年祭【愛知県小牧市、田縣神社】http://www.omatsuri.com/movie/honensai.html 動画田縣神社豊年祭 3月1
5日 愛知県小牧市

■07-08おたが祭・・・・・・・長仙寺(愛知県田原町)。 
■07-08涅槃会(ねはんえ)・・・・・・・竜光寺(三重県鈴鹿市)。 

★08-09左義長祭り・・・・・・・滋賀県近江八幡市、日牟礼八幡宮で3/15日〜16日(3月中旬の土〜日曜日)。春の訪れ
を告げる火祭り。此処の左義長は中央に黒豆・小豆・昆布・スルメなどの食材を飾った山車である。15日の午後1時に
13基の左義長が八幡宮に勢揃いして、やがて「チョウヤレ」「マッセマッセ」の掛け声で旧市街を練り歩く。

翌日は自由に練り歩き、左義長同士のぶつかり合いが見られる。8時には左義長に次々点火して「奉火」と言うクライマ
ックスとなる。近江八幡・観光物産協会0748-32-7003

■06-07-08-09京都・清涼寺(嵯峨釈迦堂)お松明・・・・・・・・春を告げる京都の行事の中で最も古い行事の一つ。清凉
寺(嵯峨釈迦堂)のお松明式は毎年3月15日「涅槃会(ねはんえ)」の法要の後に行われる。大文字送り火・鞍馬の火祭と
並んで京都三大火祭として受け継がれ、嵯峨野の歴史と共に住民の心の中に生き続けてきた、郷土の伝統行事。

元来、この行事はお釈迦さまを荼毘(だび)した時の有様を表現したものだと言われています。境内に立てられた三基の
大松明(2.1丈、2丈、1.9丈)が燃える炎の勢いにより、その年の稲作の豊凶を占うというものです。同時に本堂前に並
んだ13本の高張り提灯の高低によって、江戸時代には、米相場を近世では、株価を占います。

庶民の幸せとたくさんの願いを託して当日、夜8時30分一斉に点火が行われる。

■07-08経堂祭・・・・・・・観明寺(京都府)で3/15〜16日。 
■07-08常楽会・・・・・・・興福寺(奈良市登大路町)。 

■だったん帽戴かせ・・・・・・・・奈良・東大寺。「お水取り」が終わって、其のときに使った帽子を子供たちに戴かせる行
事。
■例年-お田植祭(お田植神事)【奈良市、春日大社】奈良市観光センター0742-22-3900
■09-11八島の六斎念仏【奈良市】

■07-08会式・・・・・・・文殊院(奈良県桜井市)。 
■07常楽会・・・・・・・奈良・桜井市の長谷寺0744-47-7001で。 

履中天皇が崩御?・・・・・・記紀はこの日に17履中天皇が崩御したと記しているが今の3/15〜17かどうかは無論
不明である。

彼は先帝16仁徳の日迎えのために、先ず難波の高津の宮の命日ライン上に位置する堺市で父君を居つき祭り、次は
住吉の仲皇子の謀反の難から逃れるためと母君の菩提を弔うために奈良山の先の石上振神宮に居つき、更に桜井
市に遷宮して此処を磐余稚桜の宮として其の地で即位した。

市内の池ノ内地区に今、稚桜神社があり、主神が去来穂別命、即ち履中天皇となっているので、この近辺にも皇居が
あったと判断出来る。その後、淡路に狩に出て留守中の9/19頃、皇妃の黒媛が崩御した。大阪府美原町には彼女
の陵として黒媛山古墳があるが、其処では稚桜の宮との角度がかなり開いてしまうので無理である。

しかも其処の被葬者は出土品から女性ではなく武人と推定されているので、矢張り別かと思うが、羽曳野市に墓山古
墳があって、9/12←→3/13方位を向いている。@

またもう一つは稚桜の東にメスリ山古墳と兜塚(墳長50m)とがある。後者の築造方位が94°、つまり9/19〜25頃
を示しているので此処の可能性がある。次に、彼も3/15に崩御したので、その日の方位から二日ズレる3/17方位
の上之宮・メスリ山古墳(築造方位3/23、墳長250m)に葬られたとも推定できる。

とすれば、記紀に彼の命日が15日とあるのに対して二日のズレとはなるが、其れは地形図の測定の誤差か暦法の誤
差の範囲と容認出来る。誤差よりも此処に皇居があり、其の近くの陵に葬られた必然性を重視したい。そうすれば記
紀と宮内庁が彼の陵として堺市の百舌鳥の陵を治定している所は誤伝と分かります。

次に傍証として、黒姫との間に市邊押羽皇子と青海・飯豊皇女などがあり、命日との逆方位に当たる当麻町など今の
葛城市に居着いた。続く次世代には2324顕宗・仁賢天皇を出している。因みに日迎え←→命日方位は泉州方面であ
る。此処には茅渟宮と黒姫・衣通媛伝説が残る。@

此の辺りは葛城氏の当麻氏、久米氏、忍海(おしみ)氏の里である。彼(反正)は先帝(即ち履中天皇)を祭るために堺
市と桜井市の中間点である松原市に柴籬(しばがき)宮を造って居ついたのです(1/23を参照)。

■07-08常楽会・・・・・・・四天王寺(大阪市天王寺区)。

■07-08花の会・・・・・・・高越寺(徳島県山川町)。 
■07-08会陽・・・・・・・最明寺(山口県菊川町)。 

■09柞原八幡宮祭・・・・・・・大分。
■07-08お涅槃祭・・・・・・・大慈禅寺(熊本市野田町)で3/15〜17日。 


★ホーリー・・・・・06年はこの日、インド北部のチャンディガル北方の町で開かれる国民的大祭が有り、シーク教徒の戦士が「チャッカー」と呼ばれる伝統的な
防具を空に上げて回転させる。




































































3/16  

●09庚申。

■例年-十六団子【東北地方各地】
■07-08沼尻の子安様・・・・・・・子安地蔵堂(青森県三戸町)。 
■07-08おしら様遊び・・・・・・・六渡寺(青森県)。 

★08近江八幡・左義長祭・・・・・・滋賀・近江八幡市。

日本武尊の命日・・・・・以下http://www.asukanet.gr.jp/tobira/yamatotakeru/yamatotakeru.htm「古代史の扉」から
引用する。ヤマトタケル--- 日本神話の英雄ヤマトタケルには「日本武尊」(日本書紀)「倭建命」(古事記)の二つの漢
字表記がある。ヤマトタケルは第12代景行天皇の子として誕生した(中略)。

ヤマトタケルは東征の途中,尾張の萱津(かやつ)神社(海部郡甚目寺町上萱津)に立ち寄っている(中略)。天叢雲
(あめのむらくも)の剣によって難を逃れたヤマトタケルはこの剣を「草薙(くさなぎ)の剣」と改名した。「草薙の剣」は三
種の神器の一つであり,名古屋市の熱田神宮に祀られている(中略)。

この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた(中略)。弟橘比売は「海神の祟(たた)り」だと言った。そし
て,その怒りを静めようと海に身を投げてしまった(中略)。内々神社(愛知県春日井市)の祭神は建稲種命(たけいな
だねのみこと)(中略)。

ヤマトタケルが傷をいやしたことから「居醒(いざめ)の清水」と呼ばれ,醒井(さめがい)という地名もこの話が元になっ
たと言われている。ヤマトタケルは終焉の地となる能褒野(能煩野:のぼの)に着く。そして,ここで力尽きた。その知ら
せは宮にいる妃たちにも届いた。そして,能褒野に陵を造った。

みなが嘆き悲しんでいると陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり,大和の方へ飛んでいった。

ヤマトタケルの陵とされる古墳の場所は諸説(「白鳥塚」鈴鹿市加佐登,「武備塚」鈴鹿市長沢「双児塚」鈴鹿市長沢,
「王塚」鈴鹿市国府,「丁子塚」亀山市田村町)あって定かではないが,明治12年に内務省が亀山市の能褒野神社西
にある丁字(ちょうじ)塚と呼ばれる前方後円墳をヤマトタケルの陵と指定した。 
 
三重県亀山市にある能褒野御墓は全長90m,後円部の直径54m,高さ9mで三重北部最大の前方後円墳である。
能褒野神社にはヤマトタケル,弟橘姫命などが祀られている。能褒野御墓・能褒野神社(三重県亀山市田村町)  
鈴鹿市加佐登町の加佐登神社はヤマトタケル,天照大御神を祭神とする。

この地は景行天皇が行在所を置いた所であり,高宮の里ともよばれている(中略)。神社の北には白鳥陵があり,ここ
にヤマトタケルが葬られたが白鳥となって飛んでいったという。古墳は東西78m,南北59m,高さ13mの三重県下最
大の円墳であり,墳丘には葺き石が一部残っている。
 
能褒野より大和へ向かって一羽の白鳥が飛び立った。この白鳥が最初に舞い降りたとする伝説地の一つが琴弾原
(奈良県御所市)で,この地に白鳥陵がある。再び白鳥は空へと舞い上がる。白鳥は旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野
市)に降り立った。白鳥は再び空天高く飛び去っていったという。古事記ではこの白鳥の大きさを八尋としている。

一尋は両手を広げた長さで,その8倍ということは12m以上の鳥と考えてよいが,そのような鳥は実在しない(以上、
「古代史の扉」より引用)。

もう1つhttp://www.h7.dion.ne.jp/~grape.st/rekishi2.html「駒ヶ谷周辺歴史の旅」から引用する。---この3ヶ所にはそれ
ぞれ墓が造られ、合わせて白鳥三陵という[日本書紀より]。本市の軽里は、以前は軽墓という地名だった。ヤマトタケ
ルの仮の墓がなまってカルハカになったという伝説が残っている。

また、古市の白鳥神社の縁起には、「さらに白鳥は舞い上がり、埴生の丘を羽を曳くがごとく飛び立った」と記されてい
る。ここから「羽曳野」の地名がつけられたといわれている。次もhttp://inu.imagines.jp/yamato/text14.html「古事記景
行天皇条全訳」から引用する。

---此の倭建命、伊玖米天皇[いくめのすめらみこと]の女、布多遲伊理毘賣命[ふたぢのいりびめ]を娶して、生みませ
る御子、帶中津日子命[たらしなかつひこのみこと](一柱)。又其の海に入りたまひし弟橘比賣命を娶して、生みませる
御子、若建王[わかたけのみこ](一柱)。

又近淡海[ちかつあわみ]の安[やす]國造の祖、意富多牟和氣[おほたむわけ]の女、布多遲比賣を娶して、生みませる
御子、稲依別王[いなよりわけのみこ](一柱)。又吉備臣建日子の妹、大吉備津比賣を娶して、生みませる御子、建貝
兒王[たけかひこのみこ](一柱)。

又山代の玖玖麻毛理比賣[くくまもりひめ]を娶して、生みませる御子、足鏡別王[あしかがみわけのみこ](一柱)。又一
妻[あるみめ]の子、息長田別王[おきながたわけのみこ]。凡そ是の倭建命の御子等、并せて六柱なり。故、帶中津日
子命は、天の下治しめしき。次に稲依別王は、(犬上君[いぬかみのきみ]・建部君[たけるべのきみ]等の祖)。

次に建貝兒王は、(讃岐の綾君・伊勢の別・登袁の別・麻佐の首[おびと]・宮首の別等の祖)。足鏡別王は、(鎌倉の
別・小津、石代の別・漁田の別の祖なり)。次に息長田別王[おきながたわけのみこ]の子、杙俣長日子王[くひまたなが
つひこのみこ]。此の王の子、飯野眞黒比賣命[いひののまぐろひめ]。

次に息長眞若中比賣[おきながまわかなかつひめ]。次に弟比賣(三柱)。故、上に云へる若建王、飯野眞黒比賣命を
娶して、生める子、須賣伊呂大中日子王[すめいろおほなかつひこのみこ]。此の王、淡海の柴野入杵[しばのいりきね]
の女、柴野比賣を娶して、生める子、迦具漏比賣命[かぐろひめのみこと]。

故、大帶日子天皇、此の迦具漏比賣命を娶して、生みませる子、大江王[おほえのみこ](一柱)。此の王、庶妹[ままい
も]銀王[しろがねのみこ]を娶して、生める子、大名方王[おほなかたのみこ]。次に大中比賣命[おほなかひめのみこと]
(二柱)。此の大中比賣命は、香坂王[かごさかのみこ]、忍熊王[おしくまのみこ]の御祖なり。

此の大帶日子天皇の御年[みとし]、壹佰參拾漆歳[ももあまりみそじまりななとせ]。御陵は山遍[やまのべ]の道の上に
在り(引用以上)。このように幾多の御子・御孫を残している。

◆さて、日本武尊について記紀には詳しく語られているし各地の伝承も多い。しかし史家や考古学者は伝説上の人
物、つまり「実在しない」架空の人物として胸を張ってしまってマトモニ取り上げない。だが記紀にもあるし、其れを裏付
ける遺跡や白鳥神社が全国にあり、或は熱田神宮に草薙の剣が三種の神器の一つとして残されている。

彼の存在を否定すれば、凡そ2000年間守って来た日本の伝統や事実まで否定する事になり、弟橘媛の伝承や各地の
地名、其れに白鳥陵と言う古墳も否定する事になる。古墳は天から降って来たものではなくて実在した人々によって各
地に築かれた。彼を否定すれば、全て「架空の人物の為に築いた」と言う事で切り捨て御免にする事になります。

其の後も各地で彼を毎年祭って来た。大勢の人が行なって来たそうした祭りも嘘に基づいて繰り返された事にするの
だろうか。こうして既成事実を悉く否定すれば、其の後に続いた歴代の天皇の歴史も、実在しない人物からスタートした
事になります。そうなると、「天から降って来たから天孫族だ」とでも言うのでしょうか。こうなると話になりません。

事実を否定するならば、其れ相当の理由を並べて一々否定し一々実証するのが学問の基本であろう。其れが無理な
ら論理的とも学問的とも科学的とも客観的とも言えず単に「白を黒とする」傲慢不遜な観念論であり、もしくは無茶苦茶
な暴論となろうし、事実を否定するのは学問とは言えず、単に未熟な学徒に過ぎない。

そう見られたくなければ少なくともヤマトタケルの子の仲哀や孫の応神天皇が他の誰から生まれたのかを明確にすべ
きである。彼を否定するだけでは無責任であり其処に歴史学があるとは言えないのだ。其れでも専門家としてやって来
たとすれば、日本は有り難い国である。

そう仕向けたのはGHQであり、「大化の改新」以前の歴史を一切否定して「神話」と断定するように、と彼らから命じら
れ、其の手先として日本文化の破壊をリードする役目に忠実である為であろうが、イデオロギー(異教性)に洗脳された
り他国の命令や意見に屈服して自らの国の歴史を学問の名に於いて否定し抹殺してはならないだろう。

謎があれば努力して解明するのが日本人であり特に学徒やプロの専門的研究調査員の務め・使命である。何れにせ
よ此のままでは仮に学問が進歩したと言っても命日さえ分からないままでは困る。ただ彼が景行天皇の皇子であり、成
務天皇の兄であった事から大体の年代推定が可能であり、また陵を特定出来れば命日を確定できる。

其の裏づけを取るため、以下、簡単に文献から拾い出して方位を取って見よう。景行天皇は景行60(西暦130)年11月
7日に亡くなり、次の成務天皇は成務60(190)年3/1に亡くなっている。ヤマトタケルは景行43(西暦113)年の春に亡くな
っているが月日が分からない。

因みに成務はヤマトタケルの御子(つまり成務にとっては甥に当る)足仲彦尊(仲哀天皇)を皇太子に立て、成務60年
(190年)6月に崩御しているが、当時はヤマトタケルの命日を数字で記録せず、干支で酉の日とした事から恐らく白鳥
伝説が生まれたり、また今の11月の「酉の市」の由来となったのであろう。

ただ此れにしても一の酉から三の酉まであって、要するに命日が分からない。よって次は彼の御子から逆探知出来な
いだろうか。例えば建部稲依別王が父の神霊を祭った所が近江の国の一ノ宮・建部大社である。

この宮の例祭日は4/15日(別項参照)であるが、下記の理由から実は3/16日、其れが日本武尊の命日だったと先ずは
推定する。彼は伊勢のノボノで薨去したので其処に陵が造られ、やがて白鳥となって飛び立ち、河内の国の志畿に留
まったので其処にも陵を造った。其の陵からも再び白鳥となって天へ飛び立った、と伝えられて来た。

その軌跡を追えば命日方位と仮定する事も出来るが、もっと確実な方法は神社を追跡する事である。其れに、この建
部大社の参道が東西に伸びていて西に鳥居、其の先には4/15当日、神輿が渡御する瀬田川の中島に至る。其処から
この軸線の方位を見れば、矢張り東西に軸線が浮かぶ。

但し昔は3/15にして来た例祭を明治の改暦で1ヶ月ズラせて4/15に変更した可能性も有ります。とすれば彼の命日を
今の暦にして3/15日だったとも推定出来る。

但し、この大社も、元は武部の千草岳に彼の妃の両道入姫と皇子の稲依別王が祭って以来、その後三度も変転した
経緯がある外、参道の奥津城に本社殿があるのではなく、其処には寺が有ったのか(今は何もなく)、本殿を参道の北
側に設えている有様なので、彼の命日、及び陵については、次の事例も見た上で更に検証する必要があります。@

◆さて纏めとしたいが、其の前に伊勢のノボノとの関係を弁明したい。ノボノで亡くなったのに、どうして3/16日の命日ラ
インを採って岡山に向かわずに急角度で琴引原へ向かってしまったのか、と言う点が今の所、方位では説明不能なの
です。ですから此の点では白鳥伝説に従う外は有りません。

ただ御所市の琴引原は先の墓山のラインの延長線上に当る。此処は景行天皇(命日11/7)が垂仁天皇(7/3を参照)
の若宮として居着いた霊的ポイントである。だから此処から景行の命日(11/7)方位に向かって藤井寺市の津堂城山
古墳(景行墓)に葬られた。従って、其の皇子であるヤマトタケルは11/7方位の前方部に若宮として居着いた。

居着く立場だったが父(景行)より先に伊勢で亡くなった。よって此の場に3/16日を示す墳墓が造られて墓山古墳となっ
たのです。従って、彼の皇子たちはタケルの命日である3/16日のラインに散在した。其の皇子の一人がやがて亡くなっ
て葬られたのが古市駅・白鳥神社(4/24.5方位の古墳)である。10/3-8の特に10/3日を参照。@

■06-07-08-09広田神社の例祭・・・・・・西宮市。但し、昔はこの日ではなかった。
■08柳川市の雛祭り・・・・・・佐賀県。稚児たちが柳川の川船に乗って、市内を巡航する(3/20日を参照)。

■所得税確定申告期限。
国立公園指定記念日。



































































3/17  


■07-08-09彼岸入り・・・・・・・全国諸寺院。 

■09静岡・大井八幡宮・田遊び祭。
■10-11藤守の田遊び【静岡県焼津市】
■08-09藤守の田遊び【静岡県大井川町】

■07-08踊念仏・・・・・・・西方寺(長野県佐久市)では板塔婆をめぐらした中で踊る。   
■08-09-10-11奉射祭【長野県安曇野市(穂高町)、穂高神社】

★07近江八幡・左義長祭・・・・・・・・3/17〜18日滋賀県近江八幡市の日牟礼八幡。
近江神宮・祈年祭・・・・・・大津市。

桓武天皇の命日・・・・・・・・・・彼の命日と陵、及び祭りの意味については解説が些か複雑になる。桓武天皇は長岡
京にいる時に山背の葛野宇太村に新都を決定して造営を命じ、延暦13(794)年10/22日に遷宮して平安京と名付け
た。その後について日本後記には、延暦25(大同1)3/17辛巳に70歳で崩御のため柏原陵に葬るとある。

柏原と言うのは陵の地名ではなくて彼(山部親王)が柏原天皇と呼ばれたからである。つまり平安宮を柏原の地に造っ
たと見る事も出来る。以下、引用すれば崩御直後の19日に葛野郡宇太野の地を山陵と定めたが、此の日に西山と北
山で火事となり、更に23日にも京の四周で山火事が起こり、京中が昼間でも昏のようになった。

此れは「山陵を賀茂神の地に定めた為に其の災い」と判断した。よって4/7に紀伊郡柏原山陵に葬った。所が大同元
(806)年10月7日になって柏原陵に改葬し、更に翌年8/14日に柏原陵などの兆域を定めた。また其の後に秀吉が伏見
城築城の際に近江阪本に移送し、或いは明治13年に治定の時に伏見に造営した。

だから複雑なのですが何れにせよ決定的な証拠を欠いており、桓武天皇柏原陵の位置は不明(「天皇陵」総覧・新人
物往来社より大半引用)。さて暦・方位で見れば、先ず「山陵を賀茂神の地に定めた」云々については、彼が先帝の光
仁、及び母(高野新笠)の陵をユリウス暦で決定して上賀茂に造った事、其れが平安遷都の理由なのだ。

其の流れから見れば彼の命日の場合も和暦の3/17日ではなくユリウス暦に当て嵌めて見る必要がある。この3/17日
の命日が干支の辛巳なのでユリウス暦では806/4/9となる。従って上の「4/7と10/7」に意味がある。此れはユリウス暦
に換算した場合の彼の命日の2日前であり、更に逆の時期・方位、つまり対極関係の日付に行っている。

ただ其のように暦の意味が分かって来れば今治定の伏見桃山・柏原陵では命日方位から外れる。@@@
では一通り4/9日ラインに進んで見よう。旧・内裏からその方角に進めば東山区粟田へ進む。
また旧・内裏からの逆方位、つまり日迎えラインは右京区宇多野に向かう。

そうすると10/9日方位には例えば宇多天皇(大内山)陵がある。逆方位ではあるものの、日本後紀の19日の件に「宇
太野、為、山陵」と記している事と、桓武の軸線に合致する以上は、宇多ではなくて桓武陵の可能性が高い。ただ此処
は方形であるから天皇の墳墓とするには無理がある。

其処までの途中に音戸山があるので、桓武陵は其処にあった可能性が高い(ただ怪異のため其の翌月に紀伊郡柏原
山陵に遷す)。要するにこの時は二つの暦を使った。よって怪異が出たのであろう。伊勢にも次の斎内親王が向かっ
た。だが斎宮でさえ方位では4/23日になり、桓武の鎮魂方位から外れる。

大法要の上、摂津の住吉大神も従一位に格上げするなど諸臣混乱してオロオロしている中、淳和親王の一喝で収まり
7/7日の法要を済ませて次の5月に平城天皇の即位となる。しかし平城天皇(7/7日を参照)は此の平安京ではなく、何
と元の平城宮で即位したのである。

そう言う次第から、其の先にある宇多天皇(大内山)陵とは、実は嵯峨天皇が桓武を日迎えする宮(御在所)で有ったと
推定出来る。

次に彼を祭った平安神宮も述べておく。明治に神宮が新設される以前から此処には何かがあったと見るべきですが、
そもそも、この神宮と祭りのきっかけは59歳で薨去した岩倉具視が生前に行った建議の上申だったと言われる。

やがて明治28年、平安遷都1100年に平安神宮として創建され、110/22日に御鎮座祭としたのを機に、先の遷都の日
(10/22日)を記念して毎年「時代祭り」をする事となり、今では平安神宮から御所に向う総勢2000人の行列が約二キロ
に及ぶ。

其処から今は京都三大祭の一つとして賑わっているが、明治になって出来た平安神宮のご祭神に桓武天皇が祭られ
た。従ってこの祭りも遷都の記念日の名の下に実は彼の命日の逆方位に、彼の御霊を御所へ迎えに出る意味が仕組
まれていたと見るべきである(詳しくは「10/22日」を参照)。

所で、京都市内に桓武陵が見つからない儘、行き詰っていた所、06/10/23に山崎の某氏から「当地にあるのが桓武陵
かも知れない」との意外なご連絡を頂いた。其処で4/9ではなくて史書にある通りの9/16--3/17方位で見た所、かなり
遠隔地になるが山崎南部なら其の可能性があると分かった。@

此の地には葦原醜男や天日槍の伝説の外、字原、五十波(いかば)、金谷、殿様藪、中古墳など5c-6cの横穴式円墳
と石棺が幾つも見つかっているし、長柄豊崎宮(孝徳)天皇の時に山部比治が里長に任じられたと風土記にもある。よ
って高野里や比治里と言われ、高野新笠(桓武の母)の出身地の可能性も出てきた。

当地はかつて柏原里、高野里、波加村があり、彼女は渡来系と見られているが実は出雲人であり、人質として桓武の
父(光仁)に召されたとも地元では見ている。暦・方位としてはやや屈折した結果となるかも知れないが、只今調査中の
模様なので今後に期待したい(9/28を参照)。

さて桓武の皇子・皇女は32人を超える。当時、最澄と空海が叡山と高野山を開いた。よって次に即位した平城天皇の
国事・国祭とは別に、仏式で桓武を祀る為に3/17方位に居着いた親王(内親王)も何人かは有ったに違いない。従って
暦法も仏暦か和暦によったと仮定できる。

では先ず旧内裏から3/17方位は東であり、旧・内裏---仙洞(大宮)御所---伝・陽成天皇神楽岡陵---法然院---浄土
寺真如町-----浄土寺(大文字)山---ワコール・グランドの南丘---比叡平---近江大津・錦織遺跡---琵琶湖へと向
かう。

仙洞御所とは天皇が退位して上皇となって終の棲家とした所で「院御所」とも呼び、平安時代以来の歴史が有るもの
の、数回の焼失を繰り返し、安政元(1854)年を最後に再建される事なく今は苑池を残すのみ。現在の御苑内に残る仙
洞御所は寛永4(1627)年、小堀遠州(1579〜1647)を作事奉行として後水尾天皇の譲位に備えて造営されたもの。

次に法然院は浄土宗を開いた法然の寺だが、地名が鹿ヶ谷御所ノ段町と言う(御所の名がある点が気になる)。次に
57陽成天皇は命日が9/29なので位置方位では近いが、12日もズレるので寧ろ桓武天皇の遺跡と見るべきである。次
に錦織遺跡は天智天皇の大津宮跡です。@

さて次は命日とは逆方位の日迎え方位です。其れは西になる。皇子・皇女たちは命日方位とは逆の西(9/16日方位)
に進んで各々直線上に散在した。通常はそうであるが、例えば嵯峨の天竜寺に至る。嵯峨と言えば桓武の次子である
神野親王が桓武の日迎えの宮として嵯峨に居着いた所からやがて嵯峨天皇として即位した所です。

だから此処で命日の逆方位が合致する。ただ神野親王が嵯峨天皇となったので、他の皇子たちは其のラインから去っ
て散在したと思われる。因みに地図の上では近くに「三天皇火葬塚」があるが、此れは時代が分からない(もっと後の
南北朝時代のものかも知れない)。

其の先は先の山崎の調査の結論が出るだろうが、其の前に此方としてはユリウス暦の4/9--10/8のラインを再確認し
て置く。其のラインに進めば、粟田神社---日向神社(逆方位の園部町にもある)---御陵山---四之宮地区へと進む。
そして粟田神社では逆の時期の10/8から10/15まで例祭を行っている。但し今は桓武天皇の祭りとしてはいない。

次に命日の逆方位の10/8方位を確認すれば、旧内裏---妙心寺---後宇多天皇陵---大文字焼きの曼荼羅山の「鳥
居形」方面に進む。近くに清和天皇陵がある。だが彼は12/4がご命日なので其の陵は内裏の南北に位置するべきで
あって、此処で有ってはならず、寧ろ先の伏見桃山陵かと思われる。

つまり時代を経て桓武と入れ代った可能性がある。清和天皇は確かに別名・水尾天皇とも呼ばれた。此の山は水尾川
の上流の嵯峨水尾と言う山である。だから清和天皇陵と治定したのだろうが、水尾と言うには山の中腹ですから似合
わない。天皇の代にして桓武50、清和が56代。桓武の6代孫(耳孫)に当るので、伝承が後世に行き違ったものか。

此処ならば角度にして1日のズレがあるが、其れも誤差の範囲と見れば、清和天皇陵ではなくて桓武天皇陵だったと仮
定できる。更に進めば亀岡市の千歳車塚古墳に至る。此の墳墓は周濠の名残りを示す田圃の中にあって、全面が草
で覆われているので元の形が保たれている。

ただ主軸が南北なので、此処に居着いた方が夏か冬に亡くなられた事になる。しかも考古学では出土したハニワなど
から「古墳時代中期5c末葉の全長79mの前方後円墳で、瀬戸内側丹波全域を掌握した最高首長の墓」と推定してい
るので除外する。@

次にまた引用する。---大原野 24 陶野 6 石作丘 1 延暦2年 1 延暦16年 15 水生野 15 柏原野 4 栗倉野 1 延暦6
年 1 延暦17年 11 栗前野 14 葛野 3 岡屋野 1 延暦10年 1 延暦18年 8 北野  14 瑞野 3 北岡 1 延暦11年 14 延暦
19年 5 日野 10 来栖野 3 康楽野 1 延暦12年 13 延暦20年 7 交野 9 紫野 2 山階野 1 延暦13年 13 延暦21年 4 

登勒野 8 芹川野 2 柏野 1 延暦14年 10 延暦22年 6 的野 6 葛葉野 1 西野 1 延暦15年 13 延暦23年 6 (計) 
128 (計) ---- (以上、引用)。此れは彼が狩に出た回数である。天皇としては異常に多い。

◆此れを見ればゲーム好きの道楽息子と変わらない。彼が山部親王の時代には弟に早良親王(10/26を参照)がい
た。兄弟揃って狩をゲームとして興じて遊んでいた。とすれば日本人としては好ましからざる人物であり、ヒジリとか天
皇と言うには低劣であり失格である。

其れ故に皇族が次々変死し、陸奥では反乱が起こり、義人・アテルイを騙まし討ちした。よって災禍が打ち続き、無数
の怨霊を自ら招き悩まされて当然であった。しかも桓武と言う漢風諡号が気に入らない。

此れは例えば晋の祖・桓叔bc780・斉の桓子・桓公bc374、燕の桓侯bc697・桓公bc617・桓公bc372・周の桓公bc
711・秦の桓公bc603・そして漢の桓帝・志ac146(渤海祖)・後秦の文桓帝・興ac393・前涼の世祖・桓公ac346、北魏の
桓帝ac295(何れも即位年)・・・などに肖った称号と推定出来るからだ。

彼の肖像画も2〜3伝わるが、下記のように和風でも京風でもなくて朝鮮風もしくは漢風・唐風の衣装である。

 http://www.city.muko.kyoto.jp/gaiyo/naga-kanmu.htmlより引用。

ただ幸いにして取り巻きの一部に当時はまだヒジリが残っていた為、皇祖祭りの大儀・遷宮と言う祭り事を通じて罪障
消滅を図った。例えば彼の皇子には3兄弟が有り、各々平城(7/7参照)・嵯峨(7/15参照)・淳和(5/8参照)と天皇位を
継承し、平城は少し脱線したが少しは和風に戻した。

だから平安京が曲がりなりにも1075年間、都として継続できたと思う。因みに奈良時代までの天皇家の遷宮の原理
は、各地を転々とする方式でした。一代一宮制によって、まるで旋宮のように各地を巡るように場所を遷した。所が桓
武以降、都を京都に固定して、その代わりに其の都度、院を配置した。

なので此処では旋宮ではなくて臨時の点院(御座所)を張り出した形となった。内裏を軸としての点と線の放射状の関
係式となった。だからローコストと言うか実に経済的な祭り事で洗練された1000年の栄華を築いたのかも知れない。

花山院の命日・・・・・・・彼(師貞)は冷泉天皇の次の65花山天皇として即位後二年で妃の崩御にあい、悲嘆の時に
藤原兼家に騙されて今の山科・花山寺(元慶寺)に出家し、退位後は叡山その他で修行し、熊野にも屡赴いた。和歌に
優れ、更に西国33ヶ所観音霊場を再興する結果となった。

やがて花山法皇として寛弘5(1008)年2/8に41歳で崩御したとされている。この日が己亥とすればU3/17であ
り、しかも西暦の3/17に相当する。其れには、姫路市の北の書写山・円教寺(27番/33霊場)から其の方位に進
んで、有馬富士の北側に位置する静かな里山の三田市の尼寺・花山院を確認すれば足りる。

此処が彼の崩御の地として菩提寺となり、また今は観音霊場の番外札所になっている。そして更に進めば山科・花山
寺(天台宗・元慶寺)に至る。此処は清和天皇皇后(高子)が創建した寺であり、彼(師貞)が出家した寺だった。@

それに対して彼の御陵として今、金閣寺の東、北区衣笠に治定されている御陵(円墳)があるが生憎ラインから外れ
る。此処から叡山・根本中堂へは3/3、三田の花山院からは何と3/9方位に当たるのだ。従って此処では何の意味
もなく、別人の墓地と分かる。

彼の御陵は先のラインの中の何処かにある筈であり、また皇家としては、67三条天皇の即位に際して花山天皇の日迎
えの祭りが命日の対極、ユリウス暦9/16日になされた筈である。

■88後嵯峨天皇の命日・・・・・・・彼は文永9(1272)2/17乙巳に崩御した。ユリウス3/17、グレゴリオ3/24の事
である。従って次の天皇が平安宮の御所から其の日の方位に当たる嵯峨に御殿を営み、親政ないし院政を執った事
になる。其の後、この亀山殿が荒廃したので、足利尊氏が貞和1(1345)年に其処に天竜寺を建立した。

最近04/11/5に其処が発掘されて「後嵯峨天皇の亀山殿の遺構を確認した」との発表があった。其の根拠として
「百錬抄」に、建長7(1255)年に「後嵯峨天皇が亀山殿を造営」とある記事と現地の状況、其れに天竜寺の絵図とが
合致したためとした。

因みに尊氏が後醍醐天皇の霊を慰めるために天竜寺を建てた事には異論はないが、「亀山殿」については異論を述
べる。此処は、後嵯峨天皇の御殿ではなくて、無論、次の89後深草天皇、或いは次の90亀山天皇が建てた事が先の
暦・方位からは判明するからです。

亀山天皇が建て、或いは居ついたから「亀山殿」と呼ばれたと見るのが普通であって、其の二代前の、後嵯峨天皇を
引っ張り出すのは故事付けに近くなる。

■07彼岸会・・・・・・・奈良・桜井市の長谷寺0744-47-7001本堂で3/17〜23日。 






















































3/18  
         

■例年-観音祭(示現会)・・・・・・・浅草寺(東京都台東区)で本尊(聖観音)の出現を記念して行う法要。推古天皇36
(628)年、江戸浦(隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の投の中に一体の小さな仏像を発見した。其れを土
師中知が聖観世音菩薩と知ってエンジュの木の株に安置し、自分の屋敷を寺に改めて自ら出家して深く帰依した。

この三人が後に浅草三社権現のご祭神として祭られた。この日は聖観世音菩薩が示現され、浅草寺創始の日として
祝い、「金龍の舞」奉演が三回行われる。

■07-08池上本門寺開帳・・・・・・・本門寺(東京都大田区)。  
■07-08春の被岸会・・・・・・・平間寺〔川崎大師〕(神奈川県川崎市)で3/18〜24日。 
■07-08彼岸縁日・・・・・・・鴨江寺〔鴨江観音〕(静岡県浜松市)で3/18〜24日。 

■例年-平国祭(おいでまつり)・・・・・・石川県羽咋市、気多大社で3月18日〜23日。
■09天竜川・川開き・・・・・・・・・・飯田市。安全祈願祭。

楊枝薬師祭・・・・・・・三重・熊野市で頭痛の神様として知られる楊枝薬師を祀る頭痛山・平癒寺の祭り。06/3/18(土)
問合せは熊野市観光スポーツ交流課0597-89-4111

■07-08元政忌・・・・・・・瑞光寺(京都市伏見区)。 
■07-08彼岸会・・・・・・・四天王寺(大阪市天王寺区)で3/18〜24日。 

紀三井寺・春季彼岸会・・・・・・・和歌山市。西国33観音・第2番、紀三井山・金剛宝寺護国院の春季彼岸会(先祖・水
子供養)が3月18日より1週間行われる。此処には約700本のソメイヨシノと約100本の彼岸桜があり、古来、「関西一の
早咲き」として櫻の名所である。

例年は3月下旬から満開となり、桜祭り(観光)としては3月20日〜4月20日に行われる。 
■09宇佐神宮の例大祭(春祭)。

★ボリビアのカーニバル・・・・・・・07/3/18日頃、ボリビアではカーニバルで仮装行列などがある。






















































3/19 日 


▼09下弦0247。
■08竹駒神社・初午祭・・・・・・・宮城・岩沼。

■07-08酬徳会・・・・・・・東本願寺(京都市下京区)で3/19〜21日、法主を導師とし、聖上の恩と真宗大谷派に功労の
厚かった人々の恩に感謝して種々の行事がある。  
■聖武天皇ライン・・・・・・・彼は平城から恭仁、そして信楽、難波と宮を替えた。そして崩御した@
































































3/20 


●09甲子。

●08-09春分の日(彼岸の中日)2044・・・・・・春分の日は黄道と赤道との交点を太陽が通過する日ですから、真東から
日が昇って真西に沈む。

なので地平線や水平線上に日の出があった所に印を付ければ、自動的に正しい東西南北を決定できますし、また1年
の暦を円と見た古来の暦法からすれば、正しく四季に分ける暦基準点と出来る大切な日でした。

なので例え如何なる暦法で有っても此の基準点は同一ですから例え閏年に当たったからとしても日にちを移動したり数
字で弄って誤魔化してはならない。ただ西暦では例年3/21日に固定してきた。しかし08年は黄径ゼロが3/20日の14時
48分であると決めてしまった。

一定不変の太陽の軌道点を恒星的天文科学の見地で逆算して曲げたとすれば少し困る行為です。         

■09会津彼岸獅子(春分の日)【福島県会津盆地一円】
■07-08粟野延命地蔵尊開帳・・・・・・・粟野地蔵尊(福島梁川町)。 

■07-08上野動物園・開園記念日。
■09春季皇霊祭・遥拝。神殿祭・御園祭。
■07-08彼岸大祭・・・・・・・油山寺(静岡県袋井市)。 
 
■07-08筆祭り・・・・・・・奈良市・菅原天満宮0742-45-3576。日本三大書家とされる菅原道真に因み、書の上達を願っ
て「一文字書き」の奉納と、毛筆に使った獣の霊を慰める祭り。此の日は使用済みの筆と新しい筆とを無料で交換でき
る。使用済みの筆は筆塚で供養される。奈良市観光センター0742-22-3900

■07-08桜祭・・・・・・・妃三井寺(和歌山市紀三井寺町)で3/20〜4月20日。 
■08-09嫁いらず観音大祭(春分の日)【岡山県井原市、樋の尻山観音】

■07-08花供養・・・・・・・3/20〜21日 西国寺(広島県尾道市)。
■08-09彼岸市(春分の日〜春分の日の翌日)【島根県大田市】

■05柳川の雛祭り・・・・・・・福岡・柳川市。05/3/20日のam.11:00前、玄界灘西方沖(深さは浅い)を震源とする地震があり、震度6弱(M7.
0) が衝撃が、前原市−福岡市中央区−同市・東区−須恵町−へと走った。大阪・奈良でも震度2が観測された。つまり春分の日に東西に走ったのである。

このようにエネルギーは毎日、円暦に従って流れている訳です。柳川市では丁度、この祭りの最中だったが、大きな被害を出さなかった。

■動物愛護デー。



















































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