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http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」 p158  (未定稿)


  神々の歳時記 12月末 但し方位による

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●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版http://
www.omatsuri.com/mailmag/
及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-12月」、及び奈良観光連盟ガイドブックの「知
れば知るほど奈良はおもしろい」06-07冬号より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年06-07と追加する形で示しています。ただ凡そ
歳時記には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催
日等の詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。

尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

12月・歳末 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★

    

12/25 

       クリスマス         終い天神

■大正天皇祭・・・・・・・大正15(1926)/12/25崩御のため。
■09納め天神・・・・・・東京都江東区の亀戸天神社で。

■例年-福井の天神飾り・・・・・・・・・福井と富山では、男子出生以後の「正月飾り」は天神様の掛け軸を床の間に飾
る。日本各地の「正月飾り」は普通は歳神であるが、此処では毎年12/25日から1/25日まで天神様を祭るのである。
関連ページhttp://blogs.yahoo.co.jp/b_kaiyuu/28159950.html

これは江戸末期に福井藩主・松平春嶽が領民に天神画像を飾る事を奨励し、それが、富山の売薬さんによって伝わっ
たとも言われるが、その前に、加賀藩の前田公が菅原氏の末裔であり、また元々大阪から白山など此の方角が天神
様の命日(鎮魂方位)に当たる為に伝統的にそうなったとも思われる(1/25日「梅花祭」を参照)。

■例年-終い天神(納め天神)・・・・・・・・・京都市上京区、北野天満宮で、12/25日に「終い天神」のこの日は、正月の祝
箸やお屠蘇等が授与され、また「大福梅」が名物。

参道には露店も例月以上に多く、植木・骨董・古着・衣料品などの店に加えて、「葉ボタン」・「締飾り」・「荒巻き鮭」など
の正月用品を商う店が多く出店しています(「なっとく歴史館」より一部引用)。
075-461-0005 詳細URL  http://www.kitanotenmangu.or.jp/

■例年-御身拭式12月25日【京都市東山区、智恩院】・・・・・・・古式により法然上人の木像を清め、お身ぬぐいをし
て、衆生の罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)を祈願します(「なっとく歴史館」より引用)。

詳細URL http://www.chion-in.or.jp/

■06島原角屋餅搗【京都市下京区、島原角屋】

■38代天智天皇の命日?・・・・・・・・この日は命日に近い日なので神社の一般的な「祭り」ではないが、残念ながら命
日を確定しなければ祭日が決まらない。其の点で天智天皇の場合は史実があってもこの当時は暦法が錯綜していた
事に加えて複雑怪奇な点があり、一筋縄では行かない。

彼は近江・大津の宮で崩御したとされるものの、其の終焉の地でさえ謎であり、また没年月日も新旧暦の暦日の差が
一ヶ月以上も開く上に方位と合わず、何も決定出来なかった(「1/7日、片岡神社」の項を参照)。

彼が近江の宮で崩御した日として日本書紀では671「12/乙丑3」とし、其れをユリウス暦にすれば672/1/7、グレゴリオ
暦では1/10)になる。従ってこの日、1/7日とするのは一つの仮定である。

ただ彼の陵として、山科陵(1/8日向き)が治定されているので、其の陵の正面の指す方位が一日違いでこの日と合致
するものの、円形・または方墳なので残念ながら此処は天皇陵とは言えないので別記する。とすれば彼の陵が別にあ
る事を此処で指摘する必要がある。

候補地としては既に堅田南に大津市の木ノ岡町に天皇陵古墳とも言われる陵墓参考地が二ヶ所あって一つだけ可能
性が有る。其れは本塚・丸山であり、宮との命日方位が若干ズレるが、形が12/26方位を向いている事と、全長90
mの前方後円墳なので天智陵の可能性大である(「12/25日」天智命日?を参照)。

彼は舒明天皇の皇子(長子)だった。長子なのに中の字が付くのは、父(舒明)が和名で「息長足日廣額」、即ち「沖の
中氏」であり、従って其の子の彼もナーガ(龍族)を冠した。従って次の天武も大海皇子と言った。こうした「沖、中、海」
は何れも神功皇后以来の海賊(龍神・海神族)を意味した。

彼・中大兄皇子は葛城皇子、とも言われ、皇后の外に7人の妻妾がいて、其の間に後の弘文、持統、元明を含む四男
十女をもうけた。中でも弘文の弟・施基皇子の子孫は、光仁、桓武、以下歴代天皇として続く事となる。

さて天智は母・皇極天皇と図って蘇我氏を滅ぼして日本の統一に成功し、しかも漏刻をもって時間の支配も強めた。し
かし斎明天皇の下で百済の救援に出た結果、661年に皇極(斎明)天皇が崩御し、663年には白村江で大敗する事とな
った。其処で667年に大津の宮への遷宮とした。何故近江に遷宮したのか。

斎明天皇が土佐・朝倉の宮で661年に崩れたので、飛鳥(後岡本の宮)に戻って弔ったが、白村江に於ける大敗により、
日本は唐の冊封体制下に組み込まれる事態となり、また当時の暦法も仏教の導入により既に陰陽暦、即ち月暦(元嘉
暦)に従う事を余儀なくされたろう(現代日本が西暦に隷属したのと同様)。

従って先帝を仏教方式で祭る事になり、月の暦で日取りと方位を決する時代となった。@
だが此処でこの668年、腹心の鎌足に先立たれた。其処で671年10月に東宮(弟の大海人皇子=天武)に後事を託そうと
したが大海は出家して吉野へ発ってしまった。東宮にして見れば、天智の紀(みまき)のために沙門となった訳である。

何れにせよ、天智は実子の大友皇子(弘文)を太政大臣にして、この年の年末に崩御した。山科には天智陵と治定され
た墳墓がある。だが此処は多くが疑問視している所です。でも其れでは正式な鎮魂日も祭日も決められないので、此
れは重大問題ですが、この謎を解くには別の方法によるしかない。

幸い、三井寺には、彼と天武・持統天皇の「産湯の井戸」の伝承が残されている。この伝説は眉唾ものとしても、謎の
多い天智天皇の存在が、実は子の弘文天皇の筋から縁しの糸が繋がって来る。其れに加えて昭和になって錦織地区
から宮跡が発掘された事も次のヒントになる。@

何故バラバラの場と時期に祭りをしたのか、と言えば、この当時は渡来した仏教暦と、我が国古来の和式暦があり、其
の違いは方位の筋目を別にする訳ですから、何れを採るかで誰もが悩み、迷いが有ったからでしょう。だから記録は残
るが一点に結び付く事はなかった。

其れらの謎が弘文天皇の筋目と方位から解け出して来るのです。当時の世界にはまだグレゴリオ暦は存在しなかった
が、我が国ではいわゆる「旧暦」ではなく、既に現行暦と同様の暦日を使っていた事実が分かって来る。実に驚くべき
事です。

例えば「日迎え」の祭りの場は、先の祟福寺(此処で行われた事は文献にある)跡と、今の近江神宮の地に有った南滋
賀廃寺、或いは錦織宮の正殿・南大門との間、そして三井寺でも行われた。また三井寺の先には関大明神があるの
で、何人もの后や皇子が何箇所かに分かれて行った(「7/24日」または「8/24日」の弘文天皇を参照)。

謎めいていた天智天皇について、奇しくも弘文天皇の筋から謎が解け出し、幾つかの事実から確証へと繋がって来ま
した。三井寺は円珍が再興した寺として知られるが、もっと以前に、天智亡き後の天武15(686)年、つまり弘文死後
としてはかなり遅れて大友与多王が建立した寺だ。

与多王は弘文天皇の后・大友氏女を母とする王として存在したのである。つまり、此処にも当時、公式な宮が出来た事
になります。所で、比叡山と三井寺は何れも最澄以前から存在したが、最澄が天台宗を開宗して以来、何れも大伽藍
になった。

其れ以後、山門派と寺門派の二大勢力として対峙して、長く権勢を奮い合い、ある時は争いながら今もお互い栄えてい
るから何れも不思議な寺である。@

とすれば彼の日迎えの祭りは何時、何処でなされたかを追わなければならない。其れは、今の暦にして12/10日であ
り、従って、其の逆は6/10日となるので、此れは奇しくも近江神宮の現在の例祭日(漏刻祭)と一致し、其処から奇遇に
もこの日が「時の記念日」になっている。

因みに、近江神宮は由緒ある古社ではなくて、戦時中の昭和15年に天智天皇を主祭神として六万坪の敷地に新設さ
れた歴史の浅い神社である。或いは川上社は京都の貴船神を天武天皇が勧請したと伝わる所であり、普通は「雨乞
いの神」として信奉されて来た。

だが実は、弘文を追い落として天智の後を継いだ天武が、此処から天智を弔い、また逆の時期に日迎えした所と判断
できる。この神社は今でこそ元の宮地が不明となっているものの、実は天皇家しか行えない御奠祭が伝わっている。こ
れこそ天智天皇の日迎えの祭りだったと判断できる。@

さて、先の興福寺について注記すれば、此処は天智の隠し子(藤原氏系図)とされ、後に内大臣となる藤原不比等が当
初、此処に居ついて母の建てた山階寺を移建して興福寺とした所である。また帯解寺は不比等の数代先の藤原良房
の娘・明子が55文徳天皇皇后として此処で祈願し、56清和天皇を安産した事で「帯解地蔵」として知られる。

定慧と不比等、何れも表向きは鎌足の子であり、藤原氏であるが、実は天智の隠し子だった。@
こうして、天智の事を兄と思う弟(大海・天武)と、父を思う子(大友皇子)との両者が、亡き天智天皇をめぐって対立し
聖地争奪戦を展開した事が分かる。

対立したが多勢に無勢で天武が勝ってしまったのか、其れとも渡来の仏教の力ではなく、方位・暦法に忠実に従って聖
ラインを導き出した天武側が結果として其の祭り事の正当性を守ったのかも知れない。

■121代孝明天皇の命日・・・・・・・・幕末の天皇、「孝明天皇暗殺説」がある。其の犯人は伊藤博文(キリスト教徒)と
言われている。孝明天皇は、外国嫌いの攘夷論者、公武合体論者でもあったが、其れが薩長のような武力倒幕派にと
っては既に邪魔になっていた。外国勢にとっても目障りだった。

http://kikitai.teacup.com/kotaeru.php3?q=2132680「ちょっとききタイ!」から引用すれば、「天皇は天然痘に罹患しな
がらも、膿も出おわり、熱も下がり、快方に向かっていた様に見えたのに、病状急変により、崩御するというところにや
や不審な点があります。そのような状況から、当時既に岩倉あたりを疑う暗殺説が、巷にささやかれていたようです」。

とある(以上引用)。さて彼は兄弟10人近くが何れも幼少で殺されている。彼も慶応2=1866/12/25に36歳で崩御により
京都に葬られた。G1868/1/19に当る。其の6日後が明治である。因みに次の明治天皇は1912/7/30に61歳で崩御。大
正天皇も孝明天皇と同じ日付(暦法は違うが)で12/25、48歳で亡くなった。

序ながら昭和天皇が1989/1/7に87歳で崩御。まだ松の内であった。此のように天皇の命脈は取り巻きがコントロール
するのだろうか。ともあれ彼・孝明天皇は泉涌寺内の後月輪東山陵(円墳)に葬られた。余りにお座なりと見た国民か
らの要望により昭和15/10/19になって平安神宮に祭られたが、生憎此処では平安宮からの方位に適っていない。

ソモソモ平安神宮は孝明天皇のための宮ではなくて桓武天皇のために明治22年に新設された所である。此処の例祭
も4/15、平安神宮の「京都時代祭り」にしても10/22ですから平安遷都の記念日に過ぎない。と言う訳で孝明天皇が天
皇としての葬法で扱われてはいないし彼の為の祭りにもなっていない。従って以後の天皇の扱いも同様である。

此処から日本の祭り事の原点は古式から外れた。と言う事になると孝明天皇以後の天皇の接点・継承性が疑われて
当然である。彼の第二子が明治天皇とされているのも疑わしい。歴史上暗殺は多かったが幕末動乱の此の混乱した
時代に其の権力の中枢となれば闇の部分が多い。

因みに明治天皇は嘉永5年9/28(西暦11/3)のお生まれと言われるが次までの経過も謎である。慶応3/1/9に16歳で
センソし翌年8/27に即位している。謎を知る京都から逃げるように東京遷都とした可能性がある。此の遷都は天皇の
遷宮にも該当しない。其れを遷都と言うのは言葉の濫用であり誤魔化しである。

徳川の築いた江戸城を外圧利用の「勝てば官軍」の力で空っぽにさせた上で乗っ取ったに過ぎない。其の目くらましは
やがて大きなミソギを迫られる。此の時に無理矢理に蒔いた種が結果として国を滅ぼすのである。

トモアレ孝明天皇の祭りのための遷宮であるなら1/19方位の小浜か逆方位なら那智勝浦方面に向かうべきだった。少
なくとも紫宸殿から宝ヶ池南の林山に陵を造営すべきだった。所が東山の泉涌寺境内と言う無関係な所に葬った。平
安神宮は其処から真北に当る位置に過ぎない。

どうしても泉涌寺を軸にしたいなら其処から1/19方位の花山天文台か、其の先の大津市山中町に向かうラインに陵を
造営すべきでした。所が3/10方位の東京に出た。その結果がやがて3/10の東京大空襲となり、また逆方位の広島へ
の人類初の原爆投下となったと言えばこじ付けと言われるだろうか。

乗っ取りの大親分(グラバー)がいた長崎も序に原爆を落とされ壊滅した。薩長土肥の幕府である大日本帝国は1868-
1945=77年間の寿命だった。其の後、ソ連も1917-1991=74年で崩壊したが、当初にロシア(2月)革命で多くの血を流
しただけで自然消滅的に崩壊した時点では犠牲が少なくロシアとして再生した。

其れに対して天皇家を巻き込んで薩長土肥が拵えた大日本帝国は大多数の国民に多大な犠牲を払わせて解体した
のみならず、副産物として新日本を今のような変態的キリスト教国に変貌させてしまったのである。とすれば薩長とロシ
アとドチラが賢かったのか。或いは此れを進化論ではどう説明するのだろう。

其れよりも先の因果律で見たほうが分かり易いだろう。

■例年-注連掛神事(初穂祭)【大阪府東大阪市、枚岡神社】

大阪城の素性・・・・・・・大阪城は昔から城があった訳ではなくて石山と言った。石山と言えば石ころの山と思うだろう
が、実は「祝い山」と言う意味であり、魂を結びつける場が「石蔵」でした。つまり此処は古墳だったと推定出来る。

外堀も含めれば長径1kmを越える大きさの大阪城がもし古墳であったならば、其れを見過ごして他の古墳を語るのは
問題(「城の素性」を参照)なので、其の歴史を探って見た所、応神天皇の皇子の陵と推定出来る。

今となっては元の形がハッキリ分からないが、地図で見る限り略子午線を貫く形のように見えます。高津とは此処を境
に東成と西成に分けた当時の分水嶺と子午線でもあった。其の基点を後述のようにやがて移動したのだから色んな混
乱を作った。

ただ南西部に遷された今の高津の宮には長い参道が方位で示されているので其の軸線を伸ばして見よう。そうすると
南から北へ6/30←→12/29.5日方位に夕陽丘の清水寺←→大江神社←→参道←→高津宮←→吹田市・観音寺←→
同市・名次神社←→同市・吉志部神社東となる。

他方、大阪城を軸として先ずは南から、6/26←→12/25日・方位の北に進めば、大阪城←→赤川・仏現寺←→菅原天
満宮←→正福寺←→吉志部神社東となり、此処で両ラインがクロスするのです。此の近くに4c当時の紫金山古墳があ
る。

更に北進すれば、南林寺←→光源寺←→往生寺←→須久々神社・・・・・亀岡市・・・・・若狭・和田に至る。逆に大阪城
から6/26方位の南に行けば、堺市百舌鳥を通過するが、此処も仁徳時代の大型古墳が散在する地域です。更に南
進すれば和歌山・かつらぎ町から虎ヶ峰(790m)に至る。結論を言おう。

此のラインは応神天皇の長子・額田大中彦皇子の命日であり、大阪城はこの皇子の陵でした。だから其の前後の茨
木と百舌鳥にも彼の子孫が葬られていると推定出来る。皇子の消息については文献にはないので方位で追求するし
か方法がない。

彼が何故大阪城に葬られたのかと言えば、応神天皇の大隈の宮が、東淀川にあったから、皇子がその後ろに居つい
ていた。淀川の川岸の泥濘みであったろうから額田の宮としたのでしょう。やがて其処で皇子が亡くなられたので命日
の逆方位に陵が造られ葬られた。額田の皇子には弟に稚良子や仁徳がいた。

前者は宇治に、後者は百舌鳥に葬られて陵がある。何れも父・応神の命日方位に沿って散在して居ついた地点から
各々の命日方位の宇治と堺市に陵が造られたのです(5/8と、1/16日を参照)。彼らに対して長子の額田皇子の陵が
石山と呼ばれた。其処にはやがて磐船社が建てられたからだ。

そして石山にはやがて神武28/9月創設にして応神天皇の勅願により創建と言う大阪生国魂神社も都島から遷って来
た。長い歴史の中で大川(淀川)が氾濫を重ねる中、宮の位置も変転したのです。この宮は大己貴(大国魂)命の妃・
活玉依媛、或いは天活玉命の子孫の新田部直が祭る宮だった。

生玉(生国・生島)、足玉(足国・足島)の神を祭り、更に天皇即位の翌年には生国足国魂神(配・大物主神)を祭る大
阪八十島祭りを執り行い、また6/28(今は7/9)日を例祭として9/9日にも薬師如来を祭った。それに対して先の高津宮
は磐船社(今の石切神社の起源)とも言われ、摂社に若宮を祭り、末社に先の菟道稚良子も祭っていた。

此処は広大な森だったので、孝徳天皇が長柄に遷宮した際には神威を恐れぬ天皇がこの宮の森の社樹を伐って都を
造ったと社伝は伝える。

高津宮と生国魂神社の外にも宮寺として僧坊10院余りがあったが、其処へ明応4年に本願寺の蓮如上人が来て御堂
を創建し、やがて石山本願寺とし、そして天正11〜12年に信長との間で石山合戦となり、寺社悉くが焼かれた。その
後に秀吉が築城し、二度の合戦で豊臣が滅びて家康が築城し治した。

其の都度石山は加工され、石垣が積まれてすっかり変貌し、原型を留めなくなった。だが何とか前方後円墳の原形を
方位の軸線で推定したのが先の月日である。秀吉の大阪城築城に際して先の2つの神社も寺も南方の現在地に遷座
し、ご祭神も例祭日も変化したのです。

●伝・允恭天皇陵の人物の縁日・・・・・・・羽曳野市・土師の里にある伝・允恭天皇の陵は、この日が命日であると示し
ているので生憎、允恭天皇の命日とは違う為に彼とは別人の陵である事を明かしている。前方部の略正面の北条町に
黒田神社があるが、此処は生憎、ご祭神も例祭日も歴史も異なる。

そして大和川を越えた所の柏原市には御剣神社があり、ご祭神はスサノヲの尊と天穂日命であり、天穂日命は国譲り
神話に登場する神で、土師氏の祖である。それならば先の古墳を挟んで同軸上で反対側の南に位置する道明寺天満
宮とご祭神が一緒である。

道明寺天満宮は昔は土師神社の氏寺として土師寺と呼ばれていた。先の柏原市の御剣神社の夏祭りは、以前は7/20
日であり、今は7/3土日頃にダンジリ祭りをしている。其の本殿に向かって参道が真っすぐ略この古墳の前方部から伸
びているが、同軸上を更に北に向かえば、其の先は高槻市に向かう。

其処(高槻市安満御所の町)が最近発掘されて、安満(あま)宮山古墳と呼ばれ、20mほどの小さな古墳だが、築造時
期は古墳時代前期初頭と編年された。出土したのは魏の年号「青龍三年(235年)の銘鏡など、三角縁神獣鏡を含む
青銅鏡5面だった。 

 つまり一連の遺跡は、允恭天皇陵の前方部からに向かい、また御剣神社でも此の日に彼の御霊を神霊として、北の
方位にある高槻から本日の12/25日に日迎えする祭りをしていた事を黙示していた訳です。因みに逆方位の鎮魂方位
は南であり、高野山(紀州・伊都国・丹生里)の中心部に向かう。

06-07-09蕪村忌。

例年・クリスマス・・・・・・・所謂「聖書」にはクリスマスについて何も記載がない。だから聖書に忠実なクリスチャンはク
リスマスを祝わない。此の日はキリスト教以前から有った冬至の祭りであり、ツリーとは天神に対する聖なる木の事で
有り、つまりは御柱を立てて太陽を観測した名残りとも言われている。

★教派によるクリスマスの日程・・・・・・・クリスマスの日程には、教派や地域により数種類があります。私たちが一般に
使うカレンダーで言うと、「12/25、1/6、1/7、1/19」 の四種類となります。

キリスト教の殆どの教派では、上記の歴史的経緯により、12月25日に降誕祭を行っています(地域的な例外を除き、正
教会では、原則としてユリウス暦の12/25で祝うため、現暦では1/7になります)。

但し、アルメニア正教では、東方教会の古い慣行を維持し、1/6にイエスの降誕を記念します。(アルメニア正教はユリ
ウス暦を用いるエルサレムでは1/19、エルサレム以外では、現暦の1/6に祝います)。以上は「ヤフー知恵袋」の回答
から引用。





















































12/26 
       

■安房神社・神狩祭・・・・・・・千葉・館山市大神宮で。
































































12/27 

                 
お別事・・・・・・・・真光寺(神戸市兵庫区)。 

桜井・茶臼山古墳の由来(大彦命?)・・・・・・・・09/6/13日のニュースでは、桜井市の茶臼山古墳(総長207m)の上に、
方形の柱列の跡が見つかった。

報道によれば、平安時代の法律注釈書「令集解(りょうのしゅうげ)」には『倭の五王の一人、雄略天皇が亡くなった際、魂
が暴れ出したため儀式を行って鎮(しず)めた』との記載があることを指摘する和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古
代史)は「柱列には、死者の魂が暴れ出さないよう鎮める役割があったかもしれない」と指摘する。

調査担当の岡林孝作総括学芸員も「柱をすき間なく立てたのは、被葬者の魂を内部に封じ込めようとした証し。当時の
人たちが、亡き首長の霊力に対し、いかに恐れおののいていたかが見えてくる」と話す。それほど強大な力を誇った被
葬者はいったい誰だったのか。

奈良盆地東南部には、桜井茶臼山古墳をはじめ邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説が根強い箸墓古墳(同市、全長
280m)や崇神天皇陵(同県天理市、同242m)など、200mを超す巨大古墳が6基あり、何れも大王クラスの墓ともいわれ
る。

そのなかで、桜井茶臼山古墳は箸墓古墳などから南に約4キロ離れ、大王説に否定的な見解も。塚口義信・堺女子短
大名誉学長(日本古代史)は、崇神天皇が全国に派遣した「四道将軍」のうち北陸を担当した大彦命(おおびこのみこと)
挙げ、「天皇伝承がない桜井茶臼山古墳は、大王に近い有力者の墓と考えるべきだ」と話した(以上、引用)。

当時は弔いのモガリの為に柱を並べて天文地理の観測をして方位暦盤としたからです。このため円形の後円部の上
に150本もの柱を打ち込んで祭壇を造っていた事になります。

古墳上に神社/祠が建っているような古墳は、其処が例祭の場でもあったからです。何故、古墳の上に神社/祠が建っ
ていて、例祭をしていたのか、と云えば、墳墓は単なる死者の埋葬場ではなくて、死者がやがて蘇ってくる時の場(祭り
の庭)として設計されていたからです。

神社/祠だけではなく、江戸時代までは寺もありました。寺に各々山号があるのは、墳墓を背にして菩提を弔う役割が
あったからです。次に神社/祠のケースでは例えば御所市の高鴨神社など、奈良に多い。だいたい石段を登るような神
社の何割かは古墳の上にあります。でも神社側としては其れを他人から指摘されるのを好まない。

「神社とは聖域であり、清浄な所であり、従って墓地のようなものがあってはならない」とする今風の固定観念(誤解)が
あるからです。大阪にも松原市には弁天神社なども有りますが、羽曳野市には津堂城山古墳(11/7日を参照)がある。

当時は今のような数字的なカレンダーではなくて、天文と地理とを結び付けた方位暦でした。なので殆どの古墳の主軸
がその命日ラインに重ねてあります。

尚、上記の和田教授と岡林氏の説は当時の祭祀の有様を的確に説いているものの、コト雄略天皇に関する限りにお
いて、彼の崩御日は8/7日なので、此処では別と分かります。では茶臼山古墳の被葬者は誰なのか?と言えば、此処は
金橋から東にあり、また此の古墳の築造方位の主軸も、また被葬者の枕の位置も北向きでした。

此の古墳の主軸が12/27日の方位に築造されているので、次の可能性としては武列天皇です。彼のいた列城宮は茶
臼山古墳から東に少しばかり離れた所にあった。彼の命日は12/8日です。なので埋葬方向も北枕になりますが、此の
古墳も北枕でした。

ただ、此処から石釧や車輪石や内行花文鏡が出土しているので、時代的にはもっと昔の墳墓です。埴輪も出土してい
るが、此れは後に供物を納めたものと推定する。そして大彦命の生没年月日が不明である点が致命的ですが、孝元7
(Bc208)年-崇神11(87)年とすれば121歳となる。此れも説得力に欠ける点です。

ただ崇神天皇の磯城(しき)瑞籬(みずがき)宮が、此の近くの大神(三輪)神社の境内に有ったとされているので、其の略真
南に造られた此の墳墓が、崇神天皇に仕えた四道将軍の一人としての位置づけを示していると思われます。 

尚、26代・継体天皇の玉穂宮がイワレの地に有ったので、此の近くであるけれども、崩御日が2/7日なので違います。
寧ろ此の近くの勾金橋を宮とした次の27代・安閑天皇の可能性が高い。彼の崩御日は3/13日と12/17日の2説があ
る。

茶臼山古墳は、金橋から東にあり、3/13日方位に略合致し、また此の古墳の築造方位の主軸も、また被葬者の枕の
位置も北向きになっていた。詳しくは古墳の主軸が12/27日の方位に築造されています。また次の可能性としては武列
天皇です。彼のいた列城宮は茶臼山古墳から東に少しばかり離れた所にあった。

彼の命日は12/8日です。なので埋葬方向は北枕になります。ただ其れでは命日の12/8日と12/27日方位の古墳の向
きが19日もズレる。従って可能性としては@安閑天皇、A武列天皇もありますが、Bの大彦命の可能性が高いと言え
ます。

ただ残念ながら、このような解釈は今の考古学や歴史家の賛同は得られないのが玉にキズであります。因みに当時の
暦法については下記http://6535.teacup.com/hijiriou/bbsに図版があります。以上は09/6/14日に「ヤフー知恵袋」へ
の回答文。

次にCとして神八井耳命(彦八井耳命)と推定する。彼は神武天皇の第2皇子であった。母は媛タタラ五十鈴媛命(事代
主命の娘)。即ち第2代スイゼイ天皇(神ぬな川耳尊)の兄でした。彼が神武の命日3/11日・方位の東の下居に居着いた
のに対して、弟のスイゼイが西の葛城・高丘宮で第2代天皇に即位した。

ともあれ、彼・神八井耳命はやがて此の下居(おりい)で亡くなった。よって此処は現在まで下居神社として彼を祭神とし
て祭っている。無論、彼は母の里である大三輪の地に向かって葬られた。其れが此の桜井・茶臼山古墳であり、測量
図をまだ精査していないが、命日方位が略12/21日から27日となる。

また、下居神社---桜井・茶臼山古墳---つば市の観音堂に至る。つまり観音堂が神八井耳命の鎮魂方位である。そ
して、茶臼山古墳の前方部の先には神八井耳命を祭る下居神社が現存している。

下居神社は式内社で奈良県桜井市大字下163番、ご祭神が彦八井耳命、但し「和州五郡神社神名帳大略注解」では
神八井耳命。現在の例祭は4月25日としている。これは此処に大日寺があった事と、神武天皇の命日(3/11日参照)を
旧暦と誤認して西暦変換した為と思われる。

またhttp://www.geocities.jp/engishiki01/yamato/html/031416-02.htmlによれば、---第32代・崇峻天皇の皇子の蜂子
皇子は山形県の出羽三山神社(月山・湯殿山・羽黒山)を御開山、庄内平野を干拓され偉大な足跡を残された。

蜂子皇子は桜井市の倉橋・下・浅古の三ヶ大字の郷宮・下居神社を奉持され山形県東田川郡羽黒町手向の地に下居
社を御鎮座、遠い大和の産土の地を偲ばれました(以上引用)。としている。





































































12/28       


納めの荒神 例年・納めの不動(各地不動尊)・・・・・・・・不動明王を祀る寺院ではその年で最後の不動の縁日。 

■富岡八幡宮の月次祭(縁日)12月28日(火)・・・・・・・・東京都江東区・富岡八幡宮の縁日は毎月1日・15日・28日で、午
前9時より日々の神恩感謝と氏子崇敬者の益々の繁栄を祈る祭典「月次祭」が厳かに執り行われます。

月次祭にはどなたでもご参列できますので、参列希望の方は午前8時55分までに、ご本殿まで行ってください(以上、
「なっとく歴史館」より転載)。詳細はURL  http://www.tomiokahachimangu.or.jp/

例年・成田山納め不動(御焚上げ)・・・・・・・・千葉県成田市、成田山新勝寺で「納め札・御焚上げ」

■高野新笠の命日・・・・・・彼女は光仁天皇の后として桓武天皇、早良親王などを生んだが、延暦8/12/28崩御。送り
名して天高知日之子姫尊と申し、皇太后、次いで太皇太后と追尊された。但し1/17を参照。

■06橿原神宮の煤払い神事・・・・・・・橿原市・橿原神宮0744-22-3271。

允恭天皇の陵・・・・・・・羽曳野市・土師の里にある伝・允恭天皇の陵は、6/29日が命日であると示しているので
生憎、允恭天皇の陵ではない事を明かしている。また逆方位に当たる本日12/28日が日迎えの祭りである事を黙示
している。

其の日の方角には道明寺天満宮が位置しており、此処は昔は土師神社の氏寺として土師寺と呼ばれていた。土師神
社の氏寺として、また、土師氏は野見宿弥を祖とし、この土師(秋篠)の里に代々居住した。

野見宿弥は土師宿弥の子であるが、垂仁天皇の時に殉死の悲劇を避けるために土偶を提案してヒバス媛の陵に封じ
て以来、埴輪や墳墓を造る土師職・土部連の姓を賜って栄えて来た。因みに高槻市には彼の墳墓や野見神社があ
る。土師氏は平安時代には菅原姓を賜り、右大臣・菅原道真公を出した。

しかし菅原道真公が大宰府で不遇の中、薨じたため、此処、土師の里では昔から彼を悼み、鶏を飼わなかった。

また叔母の覚寿尼が彼の「道明」の号をとって道明尼寺とした由来と、また強烈な彼の怨霊を恐れた天満信仰が全国
に広がるに及び、天神と言えば今では毎月25日を縁日とした菅原道真公の方が有名となったが、此処では元の神が
天穂日命であり、或いは土師宿弥(縁日は8/1日)を意味する。@

■玉造稲荷神社・伊勢迄歩講・・・・・・・大阪・玉造。

例年・官庁の「御用納め」・・・・・江戸時代、徳川家斉公の頃は旧暦12/25が「御用納め」だった。そして28日には
将軍から大名たちに「御歳暮」が配られた。歳末は庶民にとっては大忙し。盆と正月の前には付け買いの精算があり、
取立てがある。このため集金と返済・借金引き伸ばしで走り回る人々が夜更けまで行き交った。

金細工師は仕事納めの頃には作業場の片付けとして金屑をそばモチで吸い取る作業をした。年を越せない金欠庶民
にとって、「金を集めるとは縁起が良い」と言うので、以後ソバが「歳越ソバ」として食べられるようになった。明治5年、
改暦により政府は明治6年12/28を「御用納め」として制度化し、伊藤博文が忘年会を主催した。

以来、戦後もこの日を半ドンにして大掃除を行い、その後に酒を飲む習慣が出来た。証券取引所では大納会をするが
今は12/30である。昔は2000人の大納会だったが今は200人くらいで「手締め」をする。様変わりしてインターネッ
ト取引である。

電子取引は夜中まで24時間、特に此れから正月三ヶ日まで多忙となる(04/12/28、日本テレビ「今日は何の日」
より)。
































































12/29  

       
無量光寺お滅灯すり火・・・・・・・・無量光寺(神奈川県)。 
 
■06お身拭い・・・・・・・薬師寺0742-33-6001。奈良市観光センター0742-22-3900

■住吉古墳の命日12/29日・・・・・・・大阪の住吉大社には江戸時代まで古墳(6月末を参照)があって、旧暦の11月丑日
より17日潔斎して新嘗祭。摂津の国司が当社に神馬を献じて詣し、奉幣し饗を設け神事を修する事厳重なり」と社伝に
あり。

古墳の南の神宮寺である新羅寺(天台宗東叡山末)では翌年8日に加持香水、翌9日には結鎮弓習礼を行った。此れ
は神功皇后の三韓征伐の故事に始まると言われて来たが、此処に事代主命を祭るからであり、第2としては被葬者の
為の命日供養の可能性も示唆している。

新羅寺の本尊は高麗薬師如来(秘佛として開扉なし)、高麗佛なれど被葬者は無論日本の仁徳天皇の皇子・住之江仲
津皇子の御子と推測出来る(6月末を参照)。ただ古墳と新羅寺は幕末の廃仏毀釈で削平され、寺もなくなった。























































12/30 
                                
 
■磐梯神社・歳越大祓・・・・・・・福島・会津若松市。
■薬師寺の「お身ぬぐい」・・・・・・・奈良市。新年を迎えるに当たって金堂の国宝・薬師三尊像の埃を払う。































































12/31  

       
大晦日(06年末は旧暦では師走ではなく、霜月の12日)。      除夜会。     
年越し、除夜の鐘(108の煩悩の数に合わせて鐘を突くと言われていますが、実は1年12ヶ月と24節季、其れに72候を合計した数が108つ。強弱54づ
つで108回、突くのだと言われます)。  

全国の寺社で除夜・大祓い。因みに旧暦では毎月29日か晦日で終わるので年末も「大晦日」と言う日はなかった
(「夏越の祓い」を参照)。

■10なまはげ【秋田県男鹿市、男鹿半島一帯】動画なまはげ 12月31日 秋田県男鹿市
http://www.omatsuri.com/movie/namahage.html

■07-08-09-10百八発花火大会【青森県十和田市、奥入瀬川河川敷】
■07-08-09-10裸参り【青森県五所川原市、大字飯詰】

例年・なまはげ・・・・・・・秋田・男鹿市と男鹿半島一帯。国の重要無形民俗文化財。秋田を代表する伝統行事として
全国的に知られる。12月31日(金)一年に一度訪れて集落各家々をめぐり、悪事に訓戒(くんかい)を与え、災禍(さいか)
を祓(はら)い、祝福を与えて去るというなまはげ行事です(以上、メルマガ「なっとく歴史館」より)。

詳細は http://www.namahage.ne.jp/

例年・出羽三山・松例祭(歳夜祭)(12月31日〜1月1日)【山形県羽黒町、出羽三山神社】・・・・・松例祭は、慶雲年間
に、乱鬼という三面六臂の悪鬼が、鳥海山、岩鷲山の山上から邪気を放って奥羽ニヵ国に悪疫を流行させ、数百の
人々が死亡し田畑も荒廃の極に達する。

この時、羽黒権現が山本郡の郡司である乙部希吉の7歳の娘に憑依して、神前に12人の験者を置き、悪鬼の形に擬
した大松明を焼くように託宣した。その通りにしたところ悪鬼は退散し、悪疫は治った。以後この故事に従って毎年松
例祭を行なうようになったというものである(メルマガ「なっとく歴史館」より転載)。

詳細URL http://www.town.haguro.yamagata.jp/
▼09羽山ごもり・・・・・・・・福島県福島市の黒沼神社では旧暦11/16-18日(0912/31-1/2日)に行う。
■養蚕国神社・歳越大祓・・・・・・・会津若松市。

■伊香保姫参り・・・・・・群馬・伊香保町。年越しに合わせて伊香保神社に参拝し、コケシを奉納する。 

■例年-二年詣り(12月31日〜1月1日)【長野県上田市、北向観音】
■09幣帛納め・・・・・・・長野県茅野市の葛井神社で。

■例年-美浜野間神社・裸詣り【愛知県美浜町、野間神社】

■07-08-09-10おけら(白朮)詣り・・・・・・・京都市東山区、八坂神社075-561-6155では、大晦日の晩に燈籠に灯され
た神(をけら)火を吉兆縄に移して回しながら持ち帰って正月の雑煮をたくと1年間の無病息災が叶うと言う風習があ
る。おけらとは、山野に生えるキク科の多年草で、その根は古くから漢方の健胃薬として知られていた。

これを火の中にくべると強い匂いを発し湿気を除くといわれており、昔から魔除け、疫病除けの霊草とされています。灯
ろうの火にくべられる「おけら木」には、願い事が書かれ、参拝者は種火が消えないように縄をくるくると回し、赤い円を
描きながら家路につきます(この項目はメルマガ「なっとく歴史館」より転載)。

詳細はURL http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/sp
■08観音万燈会・・・・・・・奈良・桜井市の長谷寺0744-47-7001で大晦日から元日まで。

大松明押・・・・・・和歌山県かつらぎ町。
■例年-鎮火祭【広島県廿日市市宮島町、厳島神社】

■例年-大麻比古神社・越年詣で・・・・・・・・徳島県鳴門市の大麻比古神社で12/31〜1月1日。
■09植野神楽・・・・・・・・大分県中津市の若旗神社で。

■09トシドン・・・・・・・鹿児島・下甑(こしき)村。怖い姿のトシドシが、奇声を発しながら幼児のいる家を訪問して震え上が
らせる。良い子は褒め、悪い所は叱り、一年間の約束をして持ちを与える。国の重要無形民俗文化財。

■例年-摩文仁・火と鐘の祭り(12月31日〜1月1日)【沖縄県糸満市、沖縄平和祈念堂】・・・・・・平和の象徴である"まつ
り"を通して戦争の悲惨さ平和の尊さを訴え、あの大戦を体験したお年寄りから戦争を知らない若い世代が一体とな
り、戦争の犠牲となられた人びとに思いをいたし、一人一人平和への決意を込めて年を送り新年を迎える行事。

琉球舞踊・乙女椿のまつり太鼓奉納」や全員が参加しての餅つき大会などが催されます(メルマガ「なっとく歴史館」より
引用)。 詳細はURL http://www.city.itoman.okinawa.jp/index_jg.htm




















































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■さて皆様、冬至も祝わず、クリスマスだけして新年を迎えるとすれば、何を迎えますか。05年の元日は土曜日ですか
ら太陽からスタートする日とは言えません。次の06年の元日は日曜ですから、この日に限って初日と言う特別な太陽
が出るとでも言うのだろうか。

この様に「正月」と言っても月の初め(新月)からスタートする訳でもなくて、太陽暦と言っても実は恒星暦ですから、日
曜日に太陽が出て月曜日に月が出る訳でもないのに、今のカレンダーは一週間単位で機械的に七曜で切って繰り返
す数字式カレンダーになっています。

しかも西暦と言っても其の素性はグレゴリオ13世と言うカトリックの法王が決めたキリスト紀元暦であり、聖母マリアの
祝日である1/1からスタートするのですが、歴史的な裏付けもなく只の信仰なので、此れを世界の基準とするには無
理があります。

であるなら日本の年始は太陽神か神武天皇の縁日、或いは聖徳太子、もしくはお大師さんの縁日からスタートすれば
良いと思うのですが、どうでしょうか。





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■「神々の歳時記」の各項目のご理解には「366円暦」が必要です。円暦は別紙の「日読み1」http://toki.mikosi.com/
page044.htmlで公開していますが、其の実物を希望される方は末尾に従ってご請求下さい。

■尚、各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年06-07と追加する形で示していますので、
*開催日等の詳細には主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。

■「神々の歳時記」に記した例は仮説ではなくて、太陽暦に重ねて古式祭による祭政一致を行っていた古からの日本
文化の原理です。其の具体例を今回、公開したものですが、海外への情報流失防止のため、特に「本文」については0
4/11月から「非公開」としました。

■@マークの付いた以下の部分が「非公開」部分です・・・・・・・@マーク以下には「地理・方位の具体例と其の意味や
暦との関係式」などの詳細を隠しています。この隠れた部分の資料をご希望の方は、「メールフォーム」または「掲示
板」からコンタクト下されば実費で郵送します。

■文中に誤記や間違いがありましたら、恐れ入りますが前項の方法で下記まで御一報賜れば幸いです。尚、参考文献
は巻末に記しました。  
 
■♪ ただいま募集中 ♪-----●各地のお祭り情報-----あなたの自慢の祭り、知っているお近くの祭りなどの情報
をお寄せ下さい。http://6535.teacup.com/hijiriou/bbs ひじり(日知り)掲示板、
またはメールアドレス tjkny@ybb.ne.jptjkny328@ybb.ne.jp (鬼の会)へ、どうぞ。



次は「纏め」・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
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