http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」 p138 (未定稿) 神々の歳時記 9月中旬 但し方位による ●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起 の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版http:// www.matsuri.or.jp/cgi-bin/wf/wforum.cgi(mag2 ID 0000026310) 及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-9月」より一部引用・転載させて頂きました。 ■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記 には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の 詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。 「神々の歳時記」 9月中旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ 9/10 ■大館神明神社・秋祭り・・・・・・秋田・大館市で11日まで。 ■せともの祭(9月10日〜11日)【愛知県瀬戸市】 ■06-07-08蛸島キリコ祭り(早船狂言)・・・・・・・石川県珠洲市蛸島町、高倉彦神社で9/10〜11日。 ★大聖寺・十万石まつり・・・・・・石川・加賀市で9月第2土、日曜日。 ■08広布薩会・・・・・・法然院(京都市左京区)。 ■08十講会・・・・・・四天王寺(大阪市天王寺区)。 ★08イスラエル大柴燈護摩・・・・・・イスラエル建国60周年祈念。イスラエル国・エルサレム市で午後4時から。日本時間 では午後10時、阿含(アゴン)宗の全国各道場で衛星中継。 ----筆者のコメント-----1949/5/14日にイスラエル国として独立宣言。ベングリオンが初代首相となり、5/15日に独立 宣言。5/16日に米ソがイスラエルを承認した。以来毎年イスラエルでは記念行事をするが、最近では他国でも日を変え 場所を変えてこうしたセレモニーやデモンストレーションを行っている。 しかも特に9/10日と言えば5/16日から117日も後である。其れが「世界平和祈念祭」とは言うものの、実は此の日は01 /9/11日に、NYマンハッタンの同時多発テロがあった。その記念日、つまり前夜祭の意味がある。NY同時多発テロに せよ彼らイスラエルの演出によるヤラセと今は見られている。 同時多発を理由に米国のアフガン侵攻があり、何が解決したのか?世界中にテロが拡散しただけです。とすれば彼ら の言う「平和」は欺瞞であり、其の陰謀に米国隷従の自民政府が雷同し、更に彼らのデモイベントに一部の宗派まで乗 っかるのは如何なものか。 9/11 ■06-07二百二十日・・・・・・立春から数えたもの。05〜06年など、平年は立春から数えて220日目で、この頃は稲の 収穫時期と台風シーズンとが重なるため、十日前の210日 と共に昔から農家の厄日として警戒されて来た。 ■都々古別神社の例祭・・・・・・福島・棚倉町。都々古和気神とは味耜すき高彦根命であり、出雲の大国主命の息子で ある。同名の神社が近津村にもあるが例祭日が違う(11/11を参照)。例祭日が2ヶ月も違ってしまったのは恐らく明 治政府の改暦指導であろう。 棚倉では10/11を守る為に9/11にバック・スライドし、また近津村では10/11を逆に旧暦と見て西暦の11/11にスライドし た可能性である。このため両社ともに誤伝を残したのではないか。さて此の神社の沿革は景行天皇の時代、ヤマトタケ ル東征の砌、都々古山(鉾建山)にみ鉾を立てた事による。 以後、田村麿が棚倉城に遷し、更に領主・丹羽氏が現在の丘地に遷したと言う。祭りの様子や大鳥居から随身門など 境内の仔細は不明だが2/3の節分祭、5/1の太々神楽講・春祭り、9/11の例祭と翌日の例私祭、11/24に古 式神農会・農産物奉献祭がある。@ 同様に9/11を旧暦から西暦に改暦したものと見ればこの日は本来、10/11だったと分かる。@ ▲東京・不忍池・弁天堂「巳金大祭」・・・・・・此処では毎月三日に初巳祭がある@(3/8を参照)。08年は9/14日を参 照。弁天堂の電話は3821−4638 ■06-07-08東京・芝大神宮・しょうが市(芝神明だらだら祭り)・・・・・・生姜祭り。東京都港区芝大門、芝大神宮(9/19を 参照)。21日まで。 ■07わらじ曳き(9月申の日)【三重県志摩市大王町、波切神社】 ■07八朔祭(旧暦8月1日)【京都市西京区、松尾大社】 ■07夏のひな祭り(旧暦8月1日)【徳島県海陽町宍喰地区】 ■藤崎八幡宮・例祭・・・・・・熊本市で11〜15日。 9/12 ■十和田市・秋祭り・・・・・・青森・十和田市で14日まで。 ★08花巻まつり(9月の第2土曜日の前日から3日間)【岩手県花巻市】 ■日蓮上人竜ノ口法難会(日蓮宗) ■報恩講・・・・・・西念寺(茨城県笠間市)で9/12〜18日。 ▲塙(はなわ)保己一(ほきいち)の命日・・・・・・文政4(1821)9/12。武蔵木野村萩野氏出の国学者。5才で失明し、検 校門下、次に賀茂真淵の門下となり、水戸侯の依頼により「大日本史」を校正した。1779年に「群書類従」「日本後紀」 「扶桑略記」「六国史」等を刊行した。 ■竜ノロ法難会・・・・・・竜口寺(神奈川県藤沢市)で日蓮上人の法難法会。 ■祖師音楽法要・・・・・・本圀寺(京都市山科区)。 ▲安倍晴明の命日か・・・・・・・陰陽師。外に天文博士、左京権大夫などを歴任し、85歳まで現役として生きた。命日は 寛弘2(1005)/9/26(ユリウス暦10/31)だが方位では本日9/12になるが、実は8/20でもある@ 何れにせよ京都・晴明神社では04年9/26の例祭日が1000年祭になった。 彼の出自は大彦命の後裔と言われ、出生地については、一説には大阪の阿倍王子神社と安倍晴明神社、其れに和 泉市の信太の森の稲荷を母とする伝説(葛の葉稲荷と聖神社)や茨城に晴明稲荷(猫島と吉生)、香川にも井原庄があ って謎に包まれているが、「尊卑分脈」によれば彼は右大臣、安倍の御主人(みうし)の九代目の子孫と有る。@ ■06-07-08筥崎宮・放生会・・・・・・福岡市東区筥崎宮で12〜18日まで。 ■鹿島の面浮立・・・・・・・佐賀県鹿島市。豊後の大友勢が肥前を攻めた際、龍造寺方の鍋島直茂が一族郎党に鬼の 面をかけ、赤熊(しゃぐま)をつけ、陣鉦、陣太鼓、笛を鳴らして敵に夜襲をかけ、勝利したという故事にもとづくと伝えら れています。 詳細は右記URLをクリックhttp://www.city.kashima.saga.jp/index.html (以上、メルマガ「なっとく歴史館」より転載)。 9/13 ■06白河提灯祭。 ■06-07-08玉前神社秋季例祭(上総・一の宮の裸祭り)・・・・・・【千葉県長尾郡一宮町、玉前神社】 ★08城端むぎや祭(敬老の日直前の土曜〜日曜日)【富山県城端町】 ▼08観月の夕べ(〜15日:9月中秋の名月の日)【京都市右京区、大覚寺】 ■聖武天皇・皇太子(基皇子)の命日・・・・・・・先ず概要をウェキペディアから引用する。彼は聖武天皇と光明子との間 に生まれた。光明子は718年(養老2年)阿倍内親王を出産。724年(神亀元年)夫の即位と共に後宮の位階である夫人 号を得る。727年(神亀4年)に彼・基皇子(もといのみこ)を生んだ。 聖武天皇と光明皇后との間に産まれた唯一の男児(但し、後に聖武天皇には県犬養宿祢広刀自との間に安積親王と いう男児が生まれる)。生後1ヶ月の11月2日にで皇太子に立てられたが、翌年に病気のため1歳を迎える前に夭逝(よ うせい)する。神亀5年9月丙午13日(728年10月24日)だった。 この時の天皇・皇后の悲しみは大変なものだったと言われる。この早過ぎる死が、左大臣・長屋王の呪詛(じゅそ)によ るものという噂が流れ、此の為、後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾したが、長屋王の変後、729年(天平元年) に光明子を皇后にするとの詔が発せられた。これは皇室以外からの異例の立后である。 以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。其処から「長屋王の変は光明子を皇后に冊立するために藤原氏が 仕組んだ謀略」とも言われる。尚、彼・皇子は元明陵に葬られたと言われる。@ ただ其処では命日方位とは違うので内裏を遷した後に改葬された可能性が強い。@ 其処が今治定の聖武天皇・皇太子・那冨山墓である。墳丘の四隅には獣頭人身像を線刻した石が埋められている(此 れが言わば八方を画した法界石である)。@ だから其の日の対極に当たるこの日が祭りのピークとなる訳です(3/12「お水取り」を参照)。 ▼08観月まつり・・・・・・・・大阪・河内長野市の天野山・金剛寺で、毎年9月の満月前後の土曜日に行う。野点、邦楽演 奏、時代衣装、詩吟詩舞、剣舞、天野酒コーナーなど。 ★08岸和田だんじり祭り(敬老の日直前の土曜〜日曜日)【大阪府岸和田市】 ■06-07世界の法の日。 9/14 ■08遠野まつり(〜15日:敬老の日前後)【岩手県遠野市】 ■08巳成金(ミナルカネ)大祭・・・・・・・東京上野の不忍池にある08年の「巳の日」の本日、弁天堂3821-4638で午前5時か ら午後5時まで諸願成就大般若経祈祷会と年に一度の秘仏御開帳。因みに不忍池から上野の森の清水観音堂に向 かって参道が真っ直ぐに伸びている。何のためか?更に隅田川に向かって3つの寺が点在するのだ。@ ★生麦事件(1862)・・・・・・文久2年8月21日、生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で「生麦事件」が起こりました。薩摩藩主 の父・島津久光はこの年3月1000人の武士を率いて京都に上り、公武合体のために活動を始めます。 4月23日には寺田屋事件を起こして自藩の尊皇攘夷派を文字通り切り、5月には大原重徳を勅使にたてて一緒に江戸 へ向かい幕府に種々の改革を迫ります。そしてこの日一通りの役目を終えて京都へ戻ろうとしていました。久光の護衛 の武士はこの時400人ほどいました。 一行が生麦村にかかった時、たまたま川崎大師を見物に行こうとしていたイギリス人4人が乗馬のままこの行列の前 を横切りました。彼らは大名行列の前を馬に乗ったまま横切ることが極めて無礼な行為であるということを知りません でした。 一人の武士が、こんな所を通ってはいけない、と注意したのですが、もっと気の短い一人の武士は4人に斬り掛かって いきました。そうするとそれに続いていく者も出てきて結局4人のうち1人が死亡、2人がけがをし、もう一人も帽子と髪 の一部を切られました。 命からがら逃げてきた3人から事情を聞いたイギリス人たちがその大名行列にすぐさま報復をという騒ぎになりますが イギリス代理行使のニールがみんなを抑え外交ルートでの決着を図ります。 ニールは4人が被害にあった場所はイギリス人が遊歩することを許可された地区であったとして幕府と薩摩藩に謝罪と 犯人の引き渡し及び賠償金の支払いを要求します。これに対して幕府は何とか穏便にと賠償金を支払いますが、薩摩 藩は犯人は不明であるとして要求を拒否しました。 このためイギリスは薩摩藩に報復すべく軍艦を派遣、翌年7月2日、薩摩湾でイギリス艦隊と薩摩藩船との激しい戦闘 が起きました。「薩英戦争」です。この戦争ではイギリス軍も薩摩の船を拿捕しますが薩摩軍もイギリス軍の旗艦ユリア ラス号に多大の被害を与え艦長を死亡させます。 結局大勢としてはイギリス側の勝利ではあったものの、死者の数はイギリス63名に対して薩摩はわずか17名でした。 この結果イギリスも「薩摩は良くやる」と敵を評価し、両者は急速に仲がよくなって、維新への流れが加速することにな ります(以上、http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/namamugi.htmより引用)。 さて此の横浜「生麦事件」は旧8/21であり、グレゴリオ暦にすれば9/14の日曜日である。災いを蒙ったのは、外交官の くせに、日本の決まり(風習)を無視した結果に於いての自己責任である(此れは無免許で交通事故に遭ったに等し い)。彼らの奢り高ぶりによる自業自得である。アメリカ大使の場合は下馬して、行列を脇で見送っていたのだ。 リチャードソンの死亡にしても、即死ではなくて馬で逃げた途中で事切れたものである(今は現地に祀られている)。 だが幕府は、英国大使ニールに10万ポンドの賠償金を支払った。今の金額にして6000億円に相当する。更に薩摩も薩 英戦争の結果、略同額を支払わされた(読売テレビ06/9/14の「今日は何の日」より引用)。 結局、ニールの巧みな外交力が日本を押し切り、イギリスが此れで味をしめた事になる。 ■安房・国司祭・・・・・・千葉・館山市で14〜15日まで。 ■06-07-08鶴岡八幡宮例大祭(流鏑馬神事)・・・・・・・(〜16日)【神奈川県鎌倉市、鶴岡八幡宮】 ■簿念仏会・・・・・・清浄光寺〔遊行寺〕(神奈川県藤沢市)で薄のまわりを念仏を唱えながら回る行事。 ■若狭・小浜・放生会・・・・・・福井・小浜市で14〜15日まで。 ■08采女祭(9月中秋の名月の日)【奈良市】 ■讃仏観月会・・・・・・唐招提寺(奈良市五条町)で9/14〜16日、金堂の扉を開き、月を待って堂内に点灯する。 ■野身神社・・・・・・以下、http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/daiou/28.html「大王の国から」より引用する。 当(高槻)城内にあり。延喜式内。今牛頭天王と称す。此処の生土神とす。例祭九月十四日。摂社八幡宮、八幡町にあ り。若宮永井氏の祖神なり(『摂津名所図会』より)。菅原道真をまつる上宮天満宮(じょうぐう てんまんぐう)は、大宰府に次 いで古い、全国2番目の天満宮という古い由緒を伝えています。 『摂津名所図会』には、上宮天神の祠として記載されています。----但し、現在の例祭日は5月5日。 ★06岸和田だんじり祭り(けんか祭り)(06年から9月第3月曜日直前の土日に変更)。 ■08面浮立(9月第2日曜日)【佐賀県鹿島市】 9/15 ★08敬老の日。 ■07遠野まつり(敬老の日前後)【岩手県遠野市】 ■07全国かかし祭(〜24日;9月15日前後から1週間)【山形県上山市】 ■石岡総社祭・・・・・聖武天皇の勅旨により、天平(729〜749)年間から大国主命ほか四座(注)を祭る茨城県の石 岡総社祭が14〜16日に行われる(06/9/16-18)。(注)ご祭神は大国主尊、スサノオノミコト、ニニギノ尊、大宮比売 尊、布留大神の6神とも言われる。 此処は常陸の一宮として、また旧16ヶ村の産土神として、祭りを年番制で行った。或いは明神様とも呼ばれ、或いは 天王社(八坂神社)とも呼ばれて、例年6/14に祇園祭に似た祭りを行い、引き続いて7/2には愛宕社の「麦岩祭り」 を行い、そしてこの総社の例祭を9/9にして来た。 中でも本日(9/15)は総社本宮の例大祭であるが、初日は第2土曜に神幸祭りとして仮殿に向かって供奉行列があ り、次に第3日曜には中日大祭があって染谷12神楽、浦安の舞、獅子舞、相撲が奉納され、また山車や獅子が仮殿 から駅前に掛けてパレードする。 そしてこの第3日曜(中日大祭)は楽日・還幸祭でもあり、仮殿から総社宮へ神輿にて御神体を還御する供奉行列とな る。宮では神事があり、その後も山車や獅子が市内を巡行し、夜9時頃まで祭りを盛り上げる。以上はhttp://www11. ocn.ne.jp/~sisimai/gaiyou.htmlより引用。 詳しくは石岡市観光協会0299-23-1111(内線172)まで。但し05年は9/17〜19日に行われた。 ■徳川お江与の命日・・・・・・・・1626/9/15日。身分の高い人は普通土葬だったが、彼女の場合は芝・増上寺の発掘で 火葬と分かった。証拠を隠すためにやった。つまり殺された可能性がある。彼女の父は浅井長政。秀忠17、彼女は22 歳で政略結婚した。秀忠・家光・忠長は何れも出張中で徳川実記には死因記述なし。 毒殺で砒素を盛られた場合は湿疹が出るからバレる。当時、竹千代が生まれた。斎藤ふく(春日の局)が養育係。敵 (長政と信長を殺した光秀側の家老)の娘が世話役となった。次子に国松が誕生した。国松は信長に似ていた。お江与 と国松--竹千代と春日の局と言う対立があった。竹千代が家康の意志で3代将軍になり、忠長は55万石。 家康は既に亡くなり、徳川が二分していた。忠長の正室として織田信男の娘を迎え、権大納言に就任のため上京して いた中でお江与が死んで火葬となった。春日の局は大奥を男子禁制とし、お江与の家臣を遠ざけていた。秀忠も其の2 年後に52歳で死去。続いて忠長も追い込んだ。 春日の局は光秀(7/12を参照)の家老・斎藤利三の娘だった。無位無官から従3位に出世したが1643年に64歳で死 去。晩年には家康のためとして「薬絶ち」をしていたが、其れは寧ろ毒殺を悔いての事かも知れない。光秀と同一人物 との説もある天海と初対面の時に、春日の局は「お久しゅう御座います」と挨拶したと言う。 また天海(10/2日を参照)は彼女を引き立てた。以上、07/3/3テレビ大阪の番組から引用。 ★07城端むぎや祭・・・・・・・敬老の日直前の土曜〜日曜日に富山県城端町の善徳寺で。 ■07-08安乗文楽(安乗人形芝居・デコシバヤ)(〜16日)【三重県志摩市阿児町、安乗神社】 ■関ヶ原の合戦の日・・・・・慶長5(1600)9/15日に西軍の石田三成と東軍の徳川家康が東西15万人の合戦をして東軍 が勝った。原因は小早川秀秋の寝返りであり、彼は家康から事前に「味方すれば関白にする」と裏工作されていたと言 われる。だがこの戦は淀殿と北政所(高台院)の対立と言う「女の戦い」でもあった。 西軍の秀頼の母が淀殿であり、其れに対して秀秋は北政所から養育されていたため東軍に組して当然であったかも知 れない(以上、読売テレビ「今日は何の日」より借用)。ただ彼は関白ではなくて岡山72万石を領したが28歳で亡くな り、継嗣がないため所領没収となった。 ■虫供養・・・・・・大吉寺(滋賀県浅井町)で放生会の行事の一。 ■義経祭・・・・・・鞍馬寺(京都市左京区)。 ■90亀山法皇の命日・・・・・彼の皇位継承の時に、大覚寺、持明院両統の対立が始まり、彼は大覚寺統に属した。天 皇として始めて禅宗に帰依したが、院政時代に蒙古襲来があり、この未曾有の国難に際して彼は身をもって伊勢大神 に祈って国難を避けた。 嘉元3(1305)9/15に亡くなった が、ユリウス暦にすれば10/4に当たる。山城国・亀山法華堂に葬られたほか、 南禅寺の元となった南禅院にも分骨されている。先の亀山法華堂とは現在、嵯峨・天竜寺境内の亀山陵となっている。 @つまり当時の南禅院は、寺と言うより「宮の役割り」だったと分かる。@ そうした事から彼の皇子の一人である寛尊親王も大覚寺宮として大覚寺に葬られた。こうした一連の事跡が分かれ ば、当時は暦・方位による一貫した祭り事がなされていた事実を確かめる事が出来るのです。因みに南禅寺からは後 に金地院祟傳が出て徳川家康の政治顧問となり、「黒衣の宰相」とも言われた。 ■06-07-08石清水祭・・・・・・京都府八幡市いわしみず。此処は古都・大阪と京都、そして奈良の中心に位置し、三 本の川が合流する交通・軍事の要衝にある。その男山の祭りは応神天皇の祭りであり、平安京以来、三大勅祭の一 つとなったが、神社の祭りと言うよりも仏教祭祀による「放生会」が行われ、「物の怪の祭り」とも言われた。 さて、此の「男山」は、八幡宮としての総本家と言われる宇佐八幡宮から貞観元(859)年に勧請した宮※であり、別当寺 として神応寺が建てられた。僧「行教」以来この寺は今も曹洞宗寺院として残っているが、応神天皇の字を逆に並べた ような神応寺とした寺号は覚え易い。 八幡神は、南無八幡大菩薩とも唱えられる神であり、神宮寺(大乗院)で祭られて来た。※石清水の元宮と言うのが2ヶ 所現存する。1つは対岸に、もう1つは奈良市大安寺南の八幡神社である。何れにせよ、八幡神は8/15前夜に御鳳 輦※に乗ってこの「放生会」を朝まで続ける祭りだった。 此れは源氏物語の時代から千年変わらぬ 衣装でこの日に続けられて来たものである。※鳳輦レンとは天皇が儀式や 行幸の際に乗る乗り物。因みに、応神天皇の命日は2/15であり、 従ってこの日迎えの祭りは8/15〜16でした。 所が八幡宮の場合も行政指導のためか旧暦の月日を一ヶ月伸ばして今の9/15にしてしまった為に、各地に散在す る八幡宮の例祭が二つ に分かれた。一つの神の祭りであるにも拘わらず、8/15を守っている所と、9/15にしてし まった所とになったのです(8/15 宇佐神宮を参照)。序でながら、男山と宇佐との方角は8/29に当たる。 以下、余談になるが石清水は聖武天皇の母・宮子に縁りの地(7/17を参照)である。よって当時国分寺が置かれた(が 今は忘れられている)。平安京に遷宮した50桓武天皇の母・橡姫(49光仁天皇皇后)も紀氏であり、よって鞍馬-上賀茂 神社-内裏-石清水の軸上に平安京を設定したと思われる。以来此処は今に至るも紀氏系の宮である。 ■嶽神社秋祭り・・・・・奈良・榛原町の嶽神社では1400年前からの秋祭りである。山麓には同じ神を祭る伊豆神社が あって此処でも祭りがある。何れも主神は雨乞いの神、タカオカミである。 ■06-07敬老祭・・・・・・奈良・桜井市の大神(おおみわ)神社の祭り。 ■日本武尊の祭りか・・・・・日本武尊の御子・建部稲依別王が父の神霊を祭った所が近江の国の一ノ宮・建部大社で ある。この宮の例祭日は4/15であるが、後記の理由から実は3/16だったと仮定する。其れが日本武尊の命日だ ったと此処では推定し、従って祭りが本日9/15とした(詳しくは「3/16」を参照)。@ まだ詳しく調べていないものの、此れくらいで命日が確定できる筈である。彼については記紀に語られているが、史家 の多くは頭から否定的に見て「架空の人物」と誤解の上で断定して来た。けれどもこのように神社の位置で命日がハッ キリした事と、其れに沿って建部氏の故地や関連があると思われる箇所が並ぶ以上、其の存在を認めるべきだろう。 ■誉田八幡宮・例祭・・・・・・ 9/14日、秋季大祭宵宮祭。15日、秋季大会。午後9時みこし渡御(応神天皇陵へ)、 神楽奉納 献茶奉納 。17日、地車曳行。18日、地車曳行。 八幡宮の主神は殆どが応神天皇である。彼は誉田別命と言った。彼は仲衷天皇の第四皇子だったが、そのまま天皇 となった方ではなくて、いったん誉田真若王(5/8を参照)の娘(仲津姫)の婿となる事で誉田の分家となったために誉田 別天皇と称したのである。其処が古市(今の羽曳野市)であった。 其処に今は伝・応神天皇陵と言う古墳も存在し、その南側にこの誉田八幡宮が存在する。@ 例えば大隈半島の大隈は彼が宮とした大隈宮(大阪)と関係するから付けた地名であろうし、実際、大隅の国には一ノ 宮として鹿児島神宮があり、此処は大隅正八幡と言って昔から8/15を例祭として来た。 彼は2/15日が命日ですから8/15日には日迎えの祭りとなった。所が殆どの八幡宮は明治の改暦により9/15日に例祭 日を変えられた訳である。さて此処・誉田八幡宮は、元は本尊として阿弥陀如来を祀る真言宗・護国寺と言う寺であっ た。 昔は和泉の海辺から上陸し、還御する古例に倣って来たが、明治10年の明治天皇の道明寺ご駐輦の叡覧以後この古 例が途絶えた。各地の八幡宮では8/15日に放生会があったが、誉田八幡宮の例祭も無論9/15日に変わっている。 そして偶然にも其の9/15日方位には百舌鳥八幡宮があった。其の西は浜寺、つまり浜辺であり、本来は別の行事であ ったのが此処で一緒くたになったものと思われる(前項の「岸和田だんじり祭り」、及び次の「百舌鳥八幡」も参照)。 ■百舌鳥八幡・例祭(旧暦8/15)・・・・今は八幡宮となっているが、この宮の西側に御廟山古墳があり、此処が9/15方位に築造されてい る。 そしてこれ等の主軸の先には誉田の地(羽曳野市)があるので、本来は応神天皇の皇子の陵と彼(皇子)を祭る宮だったと思われる。 ★07岸和田だんじり祭り(けんか祭り)・・・・・・大阪府岸和田市で〜16日まで(敬老の日直前の土曜〜日曜日)。 なお、岸和田だんじりの公式サイト(岸和田市)はこちら。http://www.city.kishiwada.osaka.jp/danjiri/ 岸和田だんじりを見るコツ http://allabout.co.jp/gs/eventkansai/closeup/CU20070812A/ ■06勝浦八幡神社・例祭・・・・・・・和歌山県那智勝浦町。 ■06三輪崎の鯨踊・・・・・・・和歌山県新宮市。 ■六条八幡宮(神戸市北区)の例祭・・・・・・神功皇后の行宮跡と言わるこの地に、六条判官・源為義が再興した寺 院だが今は八幡宮として の例祭。本殿は南向きで正面に馬場のような広場があり、其の先に鳥居がある。 境内には本殿に隣接して仏堂や桧皮葺の秀麗な三重塔が 建つなど、神仏習合の面影を色濃く残す古社として今では 貴重である。ただ再興した時点で既に旧暦時代であったためか、本殿を南向きに建てた上、9/15方位に仏堂・阿弥 陀堂を建て、また逆の3/15方位に 三重塔を建てたものと思われる。 従ってこの塔は、下記の花折山から30°ズレた地点に当たる。つまり春には三重塔に向って応神天皇への鎮魂の祈 りをし、また秋にはこの日に寺で「放生会」を行って、彼が阿弥陀如来として再臨される事を祈る場だったろう(本地垂迹 説を参照)。 また其れとは別にやや離れた山間部に「無動寺」がある。@ この寺の本尊は大日(阿弥陀・釈迦)如来三尊立像だが、他に十一面観音立像(何れも平安中期、国重文)、その他が 有るので、本来は六条八 幡宮の神宮寺であったろう。 とすれば、やはり元の例祭日は8/15であり、仏教渡来後の中世に旧暦に従って行い、其れを明治以後に9/1 5に 変更したものと推定する。そして先の八幡宮の三重塔は、春の縁日に花折山を指し示す標柱として、或いは其の山麓 に建ったこの寺を遥拝する望楼として建てられたものと推定する。 ■元・敬老の日・・・・・・現在,9月の第3月曜日は『敬老の日』ですが,元々は9月15日でした。この日の由来には2つ の説があるんです。1つは、聖徳太子説。聖徳太子が大阪の四天王寺に今でいう老人ホームにあたる悲田院を建てた のが9月15日だったからというもの。もう1つは養老の滝説。 『養老の滝』と言えば親孝行の息子が父親にお酒を飲ませてあげたいと思っていた矢先、お酒の流れる滝を見つける というものですが、それを聞いた元正天皇が,元号を養老と定めました。この話にもとづき、全国的に9月中旬頃に地 域のお年寄りを招待して敬老会を開くということが慣わしになったというもの。 どちらの説が正しいかは定かではないのですが1947年、兵庫県のある村が農閑期で気候も良い9月15日を『としよ りの日』と定め、この 運動がどんどん広がっていきました。そして『としよりの日』という呼び方があまりいい印象がない ということで1966年には『敬老の日』として国民の祝日に加えられたのです。 何れの説も,お年寄りを大切にする心は、今も昔も変わっていないことを教えてくれます。目まぐるしい現代においては 敬老の日は立ち止まって思いやりの心を取り戻す日であるかもしれませんね(以上は「メルマガいばらき」50号より抜 粋)。 ■幣立(へいたて)神宮・風鎮祭・・・・・・以下、http://blog.goo.ne.jp/noyamany/e/60c8eb94e90e8792b4f13e8bf228ec5b 「九州神社紀行ブログ---幣立神宮」から引用。<通称>高天原日の宮・幣立神宮(たかまがはらひのみへいたてじんぐう)【鎮座 地】〒861-3905 熊本県上益城郡山都町大野712 旧肥後国 阿蘇郡。 【御祭神】神漏岐命- 神漏美命 -大宇宙大大和神 -天御中主大神 -天照大神 (配祀)神代七世の大神 天神七代の大 神- 地神五代の大神- 五色神。【例祭】4月4日 風鎮祭 9月15日 例大祭 11月23日 新嘗祭。【旧社格等】郷社。 【御由緒】----大日本史に見える知保(ちほ)の高千穂嶺が当宮の所在地である。 筑紫の屋根の伝承のように神殿に落ちる雨は東西の海に注いで地球を包むので高天原日の宮の伝承を持つ国始め の尊宮である。古来天神地祇を祭った神籬(ひもろぎ)は、日本一の巨桧として厳存する。神武天皇のご発輦(はつれん) の原点で、皇孫健磐龍命(たけいわたつのみこと)は勅命によって、天神地祇を祭られた歴史がある。 なお、祭神は神漏岐命(かむろぎのみこと)・神漏美命(かむらみのみこと)及び大宇宙大和神(おおとのちおおかみ)・天御中主大神・ 天照大御神など最高の神をお祭りしてある。(境内由緒掲示板より)神代に民族の宗廟として創建せられた云われる。 延喜元年阿蘇友成は本社を造替して健磐龍命を配祀奉り、天養元年には阿蘇友隆が本社を造営して阿蘇両宮を配 祀した。その後文安二年、天文十四年、天正十年阿蘇氏の造営があり、今日の社殿は享保十四年細川宣紀の改修し たものである。明治六年十一月三日郷社に列した。(熊本縣神社誌より) 九州のほぼ真中に位置し、九州の「へそ」と言われる山都町(旧蘇陽町)にあります。以上、引用。 次に方位から見る。播磨の国の風土記には伊和大神の神子に石龍比古命ト妹神石龍比売命ノ二神を記している。ま た今も祝田神社(龍野市揖西町)に2神を祭っている。 健磐龍命と石龍比古命とは響きが似ており、また父の伊和大神を今の通説は大国主命としているが、実は天照大神 の孫のニニギである。両神には龍の字を当ててタツと読み、よって「辰」と誤解して、此の祭りの頃に来る台風鎮めの為 の風の神、或いは冶金の為の踏鞴(タタラ)の神としたのであろう。其の為に、風鎮祭となった(推定)。 さて方位ではまだ精査していないが、此の幣立神宮と龍野市が略8/17---2/15のラインとなっている。其の風鎮祭が明 治の西暦への改暦によって、今の9/15にスライドした可能性がある。 ★06-07老人の日(「敬老の日」は9/18日)。 中旬 ■狸祭・・・・・・茂林寺(群馬県館林市)。 ■彼岸法会・・・・・・秋分前後7日間(各宗)。 9/16 ■08全国かかし祭(〜24日:9月15日前後から1週間)【山形県上山市】 ★白河提灯まつり 平成17年9月16・17・18日開催・・・・・・・ 〈いわれ〉日本三大提灯まつり(白河・弥彦・一色)の一つ に数えられている白河提灯まつりは、白河地方の総鎮守として、古くから人々の尊崇を集めてきた鹿嶋神社の例祭と して、四世紀に渡り隆盛を極め、白河の人々の精神文化の歴史、いわば心のよりどころとして、伝えられてきました。 (以上は、鹿嶋神社ホームページより)。 また、祭礼の起源(鹿嶋神社大祭要項より)は古くから白河地方の壮鎮守とし て代々の城主の庇護もあって隆盛であったという。しかし豊臣時代には世情不安のため野党盗賊が横行し、衰微し た。徳川幕府時代になり世情も安定すると、再び藩主の保護もあり壮麗な祭礼に復活した。 昔の祭礼は本社より南三丁の所に祓川という川があって、その岸に遷座した。永世の頃(1504年〜1520年)は城主 より渡馬を出し郡内からは、随兵になぞらえた人夫を出し、壮麗な祭礼であった。天正年間(1575年〜1591年)にな ると祭礼も衰微してゆき、祓川も閉塞して水の流れも通じなくなり、したがって神輿は神池のあたりまできて止まってし まった。 現在行われている神輿の町内渡御、または送迎のための提灯行列、屋台、山車の引き廻し等の祭りの形態は徳川家 綱時代、藩主本多能登守忠義が神輿を寄進し、それにともなって、祭礼の型も幕府の許可を得て別名「儀式祭り」とい われる程、武家社会の格式を導入した独特な祭りを作ったのが始まりである。 次に福島県祭礼物語によれば、今の神輿渡御を行うようになったのは徳川四代将軍家綱の時代で、城主本多能登守 忠義による。本多公は公議の許しを受け一町内を諸公になぞらい「儀式祭り」と呼ばれる独特な祭りの体形を作った。 例祭中は、武士と言えども干渉は許されず、氏子総代、以下大世話役、中世話役、若世話役、壮長、壮者、と階級が 厳しくわかれ、旦那衆と使用人の地位が逆転するというようなことも珍しくなかった。これは町人階級の息抜きを考えた 当時としては相当民主的なやり方で、今では余程くずれてはいるが、階級や各種儀式は相当やかましい。 以上、 http://homepage2.nifty.com/yokobue-asahi/saireikigen.htmより抜粋。 ★石岡総社祭・・・・・聖武天皇の勅旨により、天平(729〜749)年間から大国主命ほか四座(注)を祭る茨城県の石 岡総社祭が市内中心部で行われる。(注)ご祭神は大国主尊、スサノオノミコト、ニニギノ尊、大宮比売尊、布留大神の 6神とも言われる。 例祭は元々9/15日(別項を参照)だったが、05/9/17〜19日、06年は9/16〜18に行われる。詳しくはhttp://www11. ocn.ne.jp/~sisimai/gaiyou.html、または石岡市観光協会0299-23-11111(内線172)まで。 ■06-07鶴岡八幡宮・流鏑馬。 ■八幡宮・例祭・・・・・・全国各地の八幡宮例祭(但し、昔は8/16だったのを数字だけ1月ズラせたもの)。 ■06城端むぎや祭(〜17日)【富山県城端町】 ■わらじ曳き【三重県大王町、波切神社】。 ★07岸和田だんじり祭り(けんか祭り)・・・・・・・06/9/16-17(06年から9月第3月曜日直前の土日に変更)。大阪府 岸和田市。元禄16(1703)に藩主が伏見稲荷を城内に祭り、五穀豊穣を祈った事が此の祭りの起源とも言われ、大阪 南部で約300年続く伝統の祭りとしてダンジリが例年は9/14〜15日に繰り出し、「五穀豊穣」を祈る。 普通の祭りは神の乗り物としての神輿が主役であるが、此処では楠氏や忠臣蔵などを見事に彫刻したデコレーション を飾り付けた「だんじり」と言う大きな地車が人気の的である。つまり神の祭りと言うよりも、村方と浜方(漁師町)などの 庶民の祭りである宵宮から翌日の「宮入」りまでダンジリが繰り出す。此処の特徴はダンジリが主役となる。 見せ場となるのは、凡そ四トンもの重さの地車がスピードを上げたまま狭い街中の辻を直角に曲がる時の「やりまわ し」であり、此れは「前梃子」「後テコ」の息が合えば綺麗に曲がる。また其の屋根の上に乗って踊るいなせな大工方 だ。この勇壮な祭りを一目見ようとする人々が凡そ50万人訪れる。 この祭りは岸和田城でスサノヲノミコトを主神とする岸城神社の秋の例大祭であり、昔は14台、今は其の二倍以上の ダンジリが繰り出して城の周りの街中を廻る。威勢の良い若者たちが血気盛んに荒っぽい動きで走り回り、他のダンジ リと揉み合って毎年のように死傷者を出すので、喧嘩祭りとか「血祭り」の異名がある。 さて方位で見ても分からないので暦からのみ言及すれば、此処も本来は8/15だった祭りを改暦で9/15に変更した ものである。此処は城の中にあり、天台宗・日光寺があった。元々この辺りは平安時代に高野山の荘園として和田の 庄と言われた所だが、楠氏が河内の守護となった結果として此処に代官として一族が住み着いた。 以来、岸の和田氏と称した事から岸和田の地名となった(「5/25の楠氏」を参照)。 室町時代は細川氏・畠山氏・根来衆、中村氏などが交代して来たが、江戸時代の城主は小出氏三万石、次は岡部氏 六万石となった。つまり城の鎮守として実は八坂神(スサノヲ)と八幡神(応神)を祭った事に由来する城下町の祭りだっ た。従って誉田の地との方位はズレるが例祭日だけは八幡宮に倣ったものである。 ■丹生姫都神社・例祭玉津島神社に「渡御の儀」だったか・・・・・・・・丹生都姫命はナキ゜ナミの神子であり、天照の姉 として、或いは和歌、稚ヒルメ、和歌の浦、和歌山、伊都、・・・・の語源となった神である。古来、この日は毎年、和歌山 県かつらぎ町の天野大社(丹生都姫神社)から和歌山市(和歌の浦)の玉津島神社に「渡御の儀」が行われて来た。 此れは神輿が大社から下って和歌の浦の「輿の窟」に一泊し、翌日に日前宮の草宮に「浜下り」する祭りでした。だが この大社も、本の宮は此処ではなくて弘法大師が高野山を真言宗の本拠地とするまでは高野山にあり、今も高野山の 壇上には鎮守(丹生高野四社明神)として祭られており、本来は高野山の神でした。 従って、此処から玉津島の宮との方位を見れば9/17.5日となり、略合致するし、更に進めば奈良の天河弁天に至 るが、もう一つのラインが有る。其れは、高野山の奥の弁天岳(985m)にも丹生神社がある事です。@ ともあれこの和歌の浦の由来について記紀以前の古典である「ホツマツタヘ」によれば、御祭神となる稚姫(稚日女尊) が、夫となる八意思兼命への恋歌を回り歌で贈った神代のロマンスに因んで付けられた地名である(10/16を参 照)。 丹生社にはまた弘法大師を高野山に案内した神として丹生高野明神も祭っているが、広大な山野を明け渡して現在地 に遷った。従って天野社と弁天岳との暦・方位は11/8←→5/9になってしまっている。だが地元では高野山に対す る信仰よりもこの丹生明神に対する信仰が篤く、各地に丹生社ばかりが祭られている。 ■06熊野速玉「御船祭り」・・・・・・・・元は10/15の祭り(10/15を参照)。10/15日は御馬祭。10/16日は第一殿(結の宮) の祭日で「御船祭り」とも言った。神輿が御幸町を経て熊野川の岸から神幸船に奉遷し、諸手船が此れを曳いた。早舟 9隻が先行して競って熊野川を遡り、逢友河岸で神輿に御神霊を奉遷し、御旅所へ神幸して還幸となる。 ■時宗開山忌・・・・・・真光寺(神戸市兵庫区)。 9/17 ★07敬老の日。老人週間(15〜21日)。08年は15日。 ■08わらじ曳き(9月申の日)【三重県志摩市大王町、波切神社】 ■春日「若宮おん祭り」だったか・・・・・・奈良・春日大社では年間1000の祭りが行われるが、中でも「おん祭り」が最大 の祭りで、12/15〜19まで繰り広げられる。所が方位から見れば、若宮から11/28方位に春日大社の本殿があり、 その先は東大寺の手向山八幡宮に至る。と言う点から見れば、この祭りは旧暦で伝えられた祭日と推定出来る。 因みに2003年の場合、旧暦では11/28は西暦の12/21になるので先に推定した事は外れた。では何故この祭りが始ま ったのか、の理由を原点から探って見れば、先ず此処の若宮の由来は、天児屋根命の神子の天押雲根命の事であ り、この神を生駒の西、大阪の枚岡から勧請した所です。 枚岡神社はかつて河内一ノ宮として上の二神の外、四座を祭る古社であり、神武即位前の三年に創建した所から現在 地に孝徳天皇の白雉元(650)年9/16に遷座したとされる。よって春日若宮は、其の枚岡を向いて西面して建っている 訳だ。 其れに対して春日大社は枚岡より後の、神護景雲二(768)年に造営され、この若宮の場合は更に保延2=長承四 (1135)年に創建して其の翌年から祭りを始めた。以来「おん祭り」は大和第一の祭りとして賑わって来た。 祭りの後にはお旅所へのお渡り、そして武芸や芸能の奉納があり、興福寺の僧兵の主催で大和一国・民衆の祭礼とし て例年、9/17に行われて来た。此の為に「一の鳥居」や御旅所が若宮から9/17日方位に設置された。何故、「一の 鳥居」が春日大社からも若宮神社からも遠くの、今の興福寺側にあるのか。 御旅所も此処に有って祭りでは最後の「御渡り式」の終点となる。いや昔は興福寺の子院・菩提院大御堂(740年まで 玄ムが住持、石子寺)で此の祭式をしたに違いない。其の先に今の春日若宮が位置している。更に此のラインに平行 して西金堂跡と春日本殿が並んでいる。此れは偶然なのだろうか。@ 此の一帯は今も古墳状の台地の名残を残しているが、明治の神仏分離で寺社が別々に切り離された為に、其れより 東に「一の鳥居」と御旅所とを新設したものと思う。 「一の鳥居」とは本来、神社に一番近い所に置いた筈である。古墳状の台地も道路で分断されて元の形が不明になっ た。其の為に元からの経緯が不明になったのか、本祭日を時代により10月に変え、或いは11月に変え、そして明治 の改暦と神仏分離によって終に12/17に固定してしまった。 しかし此の「おん祭り」を12/17日に行なっては、折角守って来た祭り方位と今の「一の鳥居」や御旅所が12/17日の方 位とは無関係な処になってしまう。とすれば、此処には祭り事や宗教上の進歩もなく、無論、暦法の進歩もなかった事 になる。有ったのは「経営」努力ではなかったか。 今も全国各地に春日の地名が多数残る事、及び春日系神社が全国に数千社も残る通り、藤原氏の興隆に伴って興福 寺が各地に荘園領地や寺社を広げた。だが仏事や荘園拡大と経営に熱心の余り、神事を二の次にしたのか、もしくは 明治以後の政府や神社側のご都合主義による伝統文化軽視があったのではないか。 この点について、筆者は無関係では有るが、神を同じくする藤氏の嫡流の一人として祭日のズレを見過ごせないので 敢えて一言した。@ 次に此の日9/17日の先には山口県長門市、そして更に対馬に向かう。対馬には例えば能理刀神社があり、其の由緒 記には「御祭神、宇麻志麻治命、天児屋根命、雷大臣命」とある。真ん中の天児屋根命が此処の主神と推定できる。 彼は天の岩戸の前で祝詞を奏上した神である。 次に雷命神社があり、http://www.genbu.net/data/tusima/ikaduti_title.htmによれば、祭神は雷大臣命。彼は神功皇 后の審神者(サニワ)を勤めた、中臣烏賊使主のこと。『新撰姓氏録』に天児屋根命十四世孫とある。当地が、亀卜発 祥の地。 更にhttp://www.geocities.jp/engisiki/yamato/html/030112-01.htmlによれば、奈良・天理市には森神社がある。【祭 神】天児屋根命。亀津姫命『寛文五年棟札』、太祝詞命神『新抄格勅符抄』とあり、【例祭】2月17日 祈年祭 10月13日 【関係氏族】卜部氏。 本來は、対馬卜部氏によって対馬に祀られていた神が天平神護元年のころには大和添上郡に鎮祭され、平安遷都に よつてこの神も京中左京二條に遷したが、本社として大和と対馬両国に残されていた、と考えられる。 しかし、京中の太詔戸神は貞観元年(859)正月甲申に正五位下(続日本紀)、天慶3年(940)7月5日には正三位(日 本紀略)に叙せられているが、本社の方は見捨てられた感がする。森神社の背面(北北東)に姫大神社(もと祓戸社とい う)があり、丁度、菩提仙川が南へ曲がる淵に面している。 ここが、『江家次第』に伊勢齋王が帰京に際し、名張横川禊、大和都介頓宮に就き、翌日、和爾川禊とある場所にあた るとする。社名は「フトノト」「ノリト」「モリト」「モリ」と変化したという。道路東に社叢が目立つ。本殿の下に磐座がある (以上、引用)。 ただ、英彦山にも藤原氏の関係先があり、此処では藤原桓雄伝説となっている。古朝鮮の檀君神話の父に桓雄があ り、熊女との間に檀君が生まれた。この英彦山から対極の3/18方位に向かえば熊野の那智勝浦に達するのである。 此れが今の北緯とは違う、太陽黄径による当時の東西線であったのかも知れない。 ★06岸和田だんじり祭り・・・・・・大阪南部で約300年続く伝統の祭りとしてダンジリが9/16〜17日に繰り出す。此処 の特徴は、ダンジリが主役で「五穀豊穣」を祈る祭りであり、この日は弥栄神社、岸城神社、岸和田天満宮で順次「宮 入」となり、午後7時から灯入れ曳行がある。 9/18 ■06-07-08面掛行列【神奈川県鎌倉市、御霊神社】9月18日 ■釈迦念仏会・・・・・・唐招提寺(奈良市五条町)。 ■藤原仲末呂(恵美押勝)の命日・・・・・・慶雲3年(706年)生まれ、天平宝字8年(764年)9月18(G10/21)日に慙死。父 は藤原南家・武智麻呂。二男・仲麻呂はやがて恵美大臣とも言われ大師(太政大臣)、正一位となった人物だが、専横 のため孝謙上皇の時に近江・高島の三尾崎で官軍に追われて敗死(恵美押勝の乱)。 彼の邸宅跡(推定地)・田村第(奈良市四条大路1丁目)の発掘(07/10/5朝日)で東西15b以上の2棟の建物が確認さ れた。一族は殆ど滅ぼされたが11男の徳一だけが許された模様。以下、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4% B8%80『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、東大寺で法相教学を学び、20歳頃に東国へ下った。 やがて、陸奥国会津慧日寺や同国会津勝常寺、常陸国筑波山中禅寺(大御堂)、西光院など陸奥南部から常陸にか けて多くの寺院を建立した。同時に民衆布教を行い「徳一菩薩」と称されたという。現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐 梯町)には徳一の墓と伝えられる五輪塔が残されている。 ■太閤秀吉の命日・・・・・・・人は歳をとるか、他人のものを盗るかくらいだが彼は天下を取った。だが伏見城で慶 長三戊戌(1598)年8/18に薨去した。其処で直後には京都市東山区の阿弥陀ヶ峰をご廟として30万坪の豊国大明 神が造営となったが、以後は社が方広寺、妙法院へと変転し、やっと明治になって此処が豊国神社となった。 また大阪城内にも豊国神社が建てられて、何れも例祭を8/18としている点では同じであるものの昔の名残はない。 伏見城もその後、関ヶ原合戦の前に炎上したので今は桃山古城山として、傍らには明治天皇の桃山御陵が出来るな ど変貌した。 ■【豊国神社】東山区大和大路通正面茶屋町---ホウコクさんとも呼び、豊臣秀吉を祭神とする。豊臣秀吉は東山の阿 弥陀が峰に葬られ、翌年、豊国(とよくに)大明神の神号を賜った。江戸時代は荒廃していたが、再興。明治になって。 唐門(からもん)は、伏見城の遺構と伝えられ国宝。http://kyotokentei.blogzine.jp/kotaro/2006/01/post_ad45.html ■慶長三年(1598)八月十八日に死去した豊臣秀吉を祀る神社で、通称「ほうこくさん。死後、その遺言によって、当 社の東方にある阿弥陀ヶ峰山頂に密かに埋葬され、麓に豊国社が創建された。だが、慶長二十年、豊臣家滅亡後、 徳川家康によって、豊国社は破却された。社殿は、釘付けのまま放置され、朽ちるに任せた状態となった。 慶応四年、維新政府によって当社の再建が決定。明治八年、方広寺境内を割いて、社地とし、明治十三年再建され た。大正十四年の秀吉夫人従一位北政所を境内社・貞照社に祀った。神紋は、本来は太閤桐のはずだが、境内や御 朱印には五七桐が付いていた(http://www.genbu.net/data/yamasiro/toyokuni_title.htmより引用)。 墓地については下記を参照。 ■阿弥陀が峰の頂上には「我が屍を京の都を見おろせる高い所に葬れ〜」との豊臣秀吉の遺言により、秀吉の墓が ありますが、 あまりに急な登り坂(石段575段)のため、お参りする人は少なく、 多くの人はその下の豊国神社に詣でて いるそうです。 (夫が高い山の上を望んだので、妻のねねは高台寺の地下深く埋めて下さいとの願いでした)。此の項目はhttp://www. k5.dion.ne.jp/~moeko/kyoto-kiyomizudera.htmlより引用。 ■「豊国廟(ほうこくびょう)豊臣秀吉の廟所である。慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は、齢63歳をもって伏見城に て薨じた。遺体は、遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰中腹に葬られ、墳上には、祠廟、山麓には社殿が建立された。 翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から、正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後、毎年盛大な祭礼 (豊国祭)が執り行われた。しかし、元和元年(1615年)豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく、 空しく風雨にさらされていた。 明治30年(1897年)、秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪塔が建てられた。なお、社殿 は、明治13年(1880年)、旧方広寺大仏殿の地に、豊国神社として再建されている。京都市 」(京都市東山区今熊野 北日吉町旧豊国神社境内・墓所にある駒札より)。 現在の廟域は面積約7万坪、山頂に至る石段は560段あるといいます。もと社殿があったこの広場は、なまえだけ太 閤坦(たいこうだいら)といわれているのです。隠れた桜の名所でもあります。4月18日、豊国廟拝殿の屋根の下で、 献茶式が執り行われました。隔年ごとに裏千家と表千家の家元が献茶をご奉仕。 秀吉公の遺徳をしのぶ追善茶会を主催されます(http://www.janjan.jp/column/0604/0604192653/1.phpより引用)。 ■現在の豊国廟は明治23年に結成された豊国会の手により同31年に竣工したものです。明治30年に起工したのです が工事中偶然にも秀吉公の墓を発見しました。墓の上には150年忌の時に妙法院が供養した経瓦が銅線でくくって置 いてありました。 妙法院の記録ではこの150年忌法要の記述が見られないので、やはり幕府に遠慮して密かに法要を行ったようです。 発見に伴い豊国会役員並びに関係各所に連絡が行き、発見された墓の周りには24時間体制で警察官が警備に当た りました。当時このことは極秘にされ新聞でも廟で重大な事件が発生したとしか報道されませんでした。 遺骸は備前の大甕の中に西を向き手を組んで座ってられたそうですが、副葬品の類は見当たらず盗掘に遭っていた ようです。当時は考古学的な知識がなかったのでしょう遺骸を損傷してしまい、遺骨一つ一つを絹で包み銅で作った棺 に墓の上にあった経瓦と豊国会が作成した墓誌とともに現在の五輪塔に納められています(2008/2/20 ヤフー知恵袋)。 次に06/10/1のNHKTV大河ドラマでは瀕死の秀吉の耳元へ茶々が「信長の血を引くお市の娘・茶々の子・秀頼の天 下とする。ハヨ死ね」と囁く演出があり、また生前の秀吉が「死去を伏せろ」と遺言したとして、死は隠された。賑やかな 事の好きだった秀吉だが、阿弥陀が峰にひっそりと密葬された。 今は山頂に秀吉廟があるが、下記の高台院と子午線のラインとすれば、山の頂上ではなく中腹に埋葬された筈であ る。ただ其れでは天下人(関白)としての葬法ではなくて、俗人の扱いとなる。@ 所でネネが湖月尼となり、家康の助力を得て秀吉の追福のために建てた京都市東山・高台院(臨済宗寺院)が、先の 古城山の真北(135°47′01.7")に当たる。此処から彼女が「北の政所」と言われた。其れに対して彼の故郷であった、 名古屋市中村区には今も中村公園と豊国神社(明治18年創建)が残っている。 ただ京都と中村区との位置・暦方位は9/10---3/10である。中村ではその外、参道が真っ直ぐ南方の「大鳥居」(昭和5 年に建てた物)に伸びているが、此れは彼の命日を示したラインではない。 其れよりもこの豊国神社の東側には常泉寺(秀吉を祀る為に加藤清正が創建した)、またその逆の西方には観音禅寺 があり、豊国神社を軸にした両寺のラインは9/18方位をハッキリ示している。所で先の命日の8/18をグレゴリオ 暦に換算すると、此れも9/18となるので此処で円暦方位とも一致する。 従って此の日が彼の薨去日である事が明らかとなる訳です。尚、常泉寺の真南には妙行寺があり、地元でも余り知ら れていないが、此の寺の境内には日吉丸の産湯の井戸が現存すると言われる(白蘭先生談)。 ■糸満大綱引【沖縄県糸満市】 ★満州事変・・・・・s6/9/18勃発。以後s26/9/8のサンフランシスコ講和条約まで20年。 ★06「敬老の日」。 または パテント・著作権は本会に属します。 「鬼の会」 |