http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p138 (未定稿)


神々の歳時記  9月中2旬 但し方位による

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●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版http://
www.matsuri.or.jp/cgi-bin/wf/wforum.cgi(mag2 ID 0000026310)

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-9月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

「神々の歳時記」 9月中2旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★



中旬 

狸祭・・・・・・茂林寺(群馬県館林市)。 
彼岸法会・・・・・・秋分前後7日間(各宗)。 


































9/16  日  


■08-09全国かかし祭(〜24日:9月15日前後から1週間)【山形県上山市】

白河提灯まつり 平成17年9月16・17・18日開催・・・・・・・ 〈いわれ〉日本三大提灯まつり(白河・弥彦・一色)の一つ
に数えられている白河提灯まつりは、白河地方の総鎮守として、古くから人々の尊崇を集めてきた鹿嶋神社の例祭と
して、四世紀に渡り隆盛を極め、白河の人々の精神文化の歴史、いわば心のよりどころとして、伝えられてきました。

(以上は、鹿嶋神社ホームページより)。 また、祭礼の起源(鹿嶋神社大祭要項より)は古くから白河地方の壮鎮守とし
て代々の城主の庇護もあって隆盛であったという。しかし豊臣時代には世情不安のため野党盗賊が横行し、衰微し
た。徳川幕府時代になり世情も安定すると、再び藩主の保護もあり壮麗な祭礼に復活した。

昔の祭礼は本社より南三丁の所に祓川という川があって、その岸に遷座した。永世の頃(1504年〜1520年)は城主
より渡馬を出し郡内からは、随兵になぞらえた人夫を出し、壮麗な祭礼であった。天正年間(1575年〜1591年)にな
ると祭礼も衰微してゆき、祓川も閉塞して水の流れも通じなくなり、したがって神輿は神池のあたりまできて止まってし
まった。

現在行われている神輿の町内渡御、または送迎のための提灯行列、屋台、山車の引き廻し等の祭りの形態は徳川家
綱時代、藩主本多能登守忠義が神輿を寄進し、それにともなって、祭礼の型も幕府の許可を得て別名「儀式祭り」とい
われる程、武家社会の格式を導入した独特な祭りを作ったのが始まりである。 
 
次に福島県祭礼物語によれば、今の神輿渡御を行うようになったのは徳川四代将軍家綱の時代で、城主本多能登守
忠義による。本多公は公議の許しを受け一町内を諸公になぞらい「儀式祭り」と呼ばれる独特な祭りの体形を作った。

例祭中は、武士と言えども干渉は許されず、氏子総代、以下大世話役、中世話役、若世話役、壮長、壮者、と階級が
厳しくわかれ、旦那衆と使用人の地位が逆転するというようなことも珍しくなかった。これは町人階級の息抜きを考えた
当時としては相当民主的なやり方で、今では余程くずれてはいるが、階級や各種儀式は相当やかましい。

以上、 http://homepage2.nifty.com/yokobue-asahi/saireikigen.htmより抜粋。

石岡総社祭・・・・・聖武天皇の勅旨により、天平(729〜749)年間から大国主命ほか四座(注)を祭る茨城県の石
岡総社祭が市内中心部で行われる。(注)ご祭神は大国主尊、スサノオノミコト、ニニギノ尊、大宮比売尊、布留大神の
6神とも言われる。

例祭は元々9/15日(別項を参照)だったが、05/9/17〜19日、06年は9/16〜18に行われる。詳しくはhttp://www11.
ocn.ne.jp/~sisimai/gaiyou.html、または石岡市観光協会0299-23-11111(内線172)まで。

■06-07-09鶴岡八幡宮・流鏑馬。
■八幡宮・例祭・・・・・・全国各地の八幡宮例祭(但し、昔は8/16だったのを数字だけ1月ズラせたもの)。
■06城端むぎや祭(〜17日)【富山県城端町】

わらじ曳き【三重県大王町、波切神社】。

★07岸和田だんじり祭り(けんか祭り)・・・・・・・06/9/16-17(06年から9月第3月曜日直前の土日に変更)。大阪府岸和
田市。元禄16(1703)に藩主が伏見稲荷を城内に祭り、五穀豊穣を祈った事が此の祭りの起源とも言われ、大阪南部
で約300年続く伝統の祭りとしてダンジリが例年は9/14〜15日に繰り出し、「五穀豊穣」を祈る。

普通の祭りは神の乗り物としての神輿が主役であるが、此処では楠氏や忠臣蔵などを見事に彫刻したデコレーション
を飾り付けた「だんじり」と言う大きな地車が人気の的である。つまり神の祭りと言うよりも、村方と浜方(漁師町)などの
庶民の祭りである宵宮から翌日の「宮入」りまでダンジリが繰り出す。此処の特徴はダンジリが主役となる。

見せ場となるのは、凡そ四トンもの重さの地車がスピードを上げたまま狭い街中の辻を直角に曲がる時の「やりまわ
し」であり、此れは「前梃子」「後テコ」の息が合えば綺麗に曲がる。また其の屋根の上に乗って踊るいなせな大工方
だ。この勇壮な祭りを一目見ようとする人々が凡そ50万人訪れる。

この祭りは岸和田城でスサノヲノミコトを主神とする岸城神社の秋の例大祭であり、昔は14台、今は其の二倍以上の
ダンジリが繰り出して城の周りの街中を廻る。威勢の良い若者たちが血気盛んに荒っぽい動きで走り回り、他のダンジ
リと揉み合って毎年のように死傷者を出すので、喧嘩祭りとか「血祭り」の異名がある。

さて方位で見ても分からないので暦からのみ言及すれば、此処も本来は8/15だった祭りを改暦で9/15に変更した
ものである。此処は城の中にあり、天台宗・日光寺があった。元々この辺りは平安時代に高野山の荘園として和田の
庄と言われた所だが、楠氏が河内の守護となった結果として此処に代官として一族が住み着いた。

以来、岸の和田氏と称した事から岸和田の地名となった(「5/25の楠氏」を参照)。

室町時代は細川氏・畠山氏・根来衆、中村氏などが交代して来たが、江戸時代の城主は小出氏三万石、次は岡部氏
六万石となった。つまり城の鎮守として実は八坂神(スサノヲ)と八幡神(応神)を祭った事に由来する城下町の祭りだっ
た。従って誉田の地との方位はズレるが例祭日だけは八幡宮に倣ったものである。

但し「9月第3月曜日直前の土日」ならば、09年は9/20日になる。所がそれでは「彼岸の入り」の祭りとなって問題であ
り、翌9/21日は「敬老の日」に当たる。其処でまた変更して平日にしようとすれば、「仕事を休んで参加するのは無理
だ」と言う意見も多くて内輪もめの為、分裂開催となる可能性もある(09/6/13朝日記事)。

丹生姫都神社・例祭玉津島神社に「渡御の儀」だったか・・・・・・・・9/16日の方位の意味(但し、天野大社との位置・
方位関係は3/7日---9/6日)。丹生都姫命はナキ゜・ナミの神子であり、天照の姉として、或いは和歌、稚ヒルメ、和歌
の浦、和歌山、伊都、・・・・の語源にリンクする神である。

古来、この日は毎年、和歌山県かつらぎ町の天野大社(丹生都姫神社)から和歌山市(和歌の浦)の玉津島神社に
「渡御の儀」が行われて来た。

此れは神輿が大社から下って和歌の浦の「輿の窟」に一泊し、翌日に日前(ひのさき)宮の草宮に「浜下り」する祭りで
した。だがこの大社も、本の宮は此処ではなくて弘法大師が高野山を真言宗の本拠地とするまでは高野山上にあり、
今も高野山の壇上には鎮守(丹生高野四社明神)として祭られており、本来は高野山に居ます神でした。

従って、此処から玉津島の宮との方位を見れば9/17.5日となり、略合致するし、更に進めば奈良の天河弁天に至る
が、もう一つのラインが有る。其れは、高野山の奥の弁天岳(985m)にも丹生神社がある事です。@

ともあれこの和歌の浦の由来について記紀以前の古典である「ホツマツタヘ」によれば、御祭神となる稚姫(稚日女尊)
が、夫となる八意思兼命への恋歌を回り歌で贈った神代のロマンスに因んで付けられた地名である(10/16日を参
照)。

丹生社にはまた弘法大師を高野山に案内した神として丹生高野狩場明神も祭っているが、広大な山野を明け渡して現
在地に遷った。従って天野社と弁天岳との暦・方位は11/8←→5/9日になってしまっている。だが地元では高野山に対
する信仰よりもこの丹生明神に対する信仰が断然篤く、各地に丹生社ばかりが祭られている。

■06熊野速玉「御船祭り」・・・・・・・・元は10/15の祭り(10/15を参照)。10/15日は御馬祭。10/16日は第一殿(結の宮)
の祭日で「御船祭り」とも言った。神輿が御幸町を経て熊野川の岸から神幸船に奉遷し、諸手船が此れを曳いた。早舟
9隻が先行して競って熊野川を遡り、逢友河岸で神輿に御神霊を奉遷し、御旅所へ神幸して還幸となる。

時宗開山忌・・・・・・真光寺(神戸市兵庫区)。 





























































9/17 日 


★07敬老の日。老人週間(15〜21日)。08年は15日。

■08わらじ曳き(9月申の日)【三重県志摩市大王町、波切神社】

春日「若宮おん祭り」だったか・・・・・・奈良・春日大社では年間1000の祭りが行われるが、中でも「おん祭り」が最大
の祭りで、12/15〜19まで繰り広げられる。所が方位から見れば、若宮から11/28方位に春日大社の本殿があり、
その先は東大寺の手向山八幡宮に至る。と言う点から見れば、この祭りは旧暦で伝えられた祭日と推定出来る。

因みに2003年の場合、旧暦では11/28は西暦の12/21になるので先に推定した事は外れた。では何故この祭りが始ま
ったのか、の理由を原点から探って見れば、先ず此処の若宮の由来は、天児屋根命の神子の天押雲根命の事であ
り、この神を生駒の西、大阪の枚岡から勧請した所です。

枚岡神社はかつて河内一ノ宮として上の二神の外、四座を祭る古社であり、神武即位前の三年に創建した所から現在
地に孝徳天皇の白雉元(650)年9/16に遷座したとされる。よって春日若宮は、其の枚岡を向いて西面して建っている
訳だ。

其れに対して春日大社は枚岡より後の、神護景雲二(768)年に造営され、この若宮の場合は更に保延2=長承四
(1135)年に創建して其の翌年から祭りを始めた。以来「おん祭り」は大和第一の祭りとして賑わって来た。

祭りの後にはお旅所へのお渡り、そして武芸や芸能の奉納があり、興福寺の僧兵の主催で大和一国・民衆の祭礼とし
て例年、9/17に行われて来た。此の為に「一の鳥居」や御旅所が若宮から9/17日方位に設置された。何故、「一の
鳥居」が春日大社からも若宮神社からも遠くの、今の興福寺側にあるのか。

御旅所も此処に有って祭りでは最後の「御渡り式」の終点となる。いや昔は興福寺の子院・菩提院大御堂(740年まで
玄ムが住持、石子寺)で此の祭式をしたに違いない。其の先に今の春日若宮が位置している。更に此のラインに平行
して西金堂跡と春日本殿が並んでいる。此れは偶然なのだろうか。

此の一帯は今も古墳状の台地の名残を残しているが、明治の神仏分離で寺社が別々に切り離された為に、其れより
東に「一の鳥居」と御旅所とを新設したものと思う。

「一の鳥居」とは本来、神社に一番近い所に置いた筈である。古墳状の台地も道路で分断されて元の形が不明になっ
た。其の為に元からの経緯が不明になったのか、本祭日を時代により10月に変え、或いは11月に変え、そして明治
の改暦と神仏分離によって終に12/17に固定してしまった。

しかし此の「おん祭り」を12/17日に行なっては、折角守って来た祭り方位と今の「一の鳥居」や御旅所が12/17日の方
位とは無関係な処になってしまう。とすれば、此処には祭り事や宗教上の進歩もなく、無論、暦法の進歩もなかった事
になる。有ったのは「経営」努力ではなかったか。

今も全国各地に春日の地名が多数残る事、及び春日系神社が全国に数千社も残る通り、藤原氏の興隆に伴って興福
寺が各地に荘園領地や寺社を広げた。だが仏事や荘園拡大と経営に熱心の余り、神事を二の次にしたのか、もしくは
明治以後の政府や神社側のご都合主義による伝統文化軽視があったのではないか。

この点について、筆者は無関係では有るが、神を同じくする藤氏の嫡流の一人として祭日のズレを見過ごせないので
敢えて一言した。

次に此の日9/17日の先には山口県長門市、そして更に対馬に向かう。対馬には例えば能理刀神社があり、其の由緒
記には「御祭神、宇麻志麻治命、天児屋根命、雷大臣命」とある。真ん中の天児屋根命が此処の主神と推定できる。
彼は天の岩戸の前で祝詞を奏上した神である。

次に雷命神社があり、http://www.genbu.net/data/tusima/ikaduti_title.htmによれば、祭神は雷大臣命。彼は神功皇
后の審神者(サニワ)を勤めた、中臣烏賊使主のこと。『新撰姓氏録』に天児屋根命十四世孫とある。当地が、亀卜発
祥の地。

更にhttp://www.geocities.jp/engisiki/yamato/html/030112-01.htmlによれば、奈良・天理市には森神社がある。【祭
神】天児屋根命。亀津姫命『寛文五年棟札』、太祝詞命神『新抄格勅符抄』とあり、【例祭】2月17日 祈年祭 10月13日 
【関係氏族】卜部氏。

本來は、対馬卜部氏によって対馬に祀られていた神が天平神護元年のころには大和添上郡に鎮祭され、平安遷都に
よつてこの神も京中左京二條に遷したが、本社として大和と対馬両国に残されていた、と考えられる。

しかし、京中の太詔戸神は貞観元年(859)正月甲申に正五位下(続日本紀)、天慶3年(940)7月5日には正三位(日
本紀略)に叙せられているが、本社の方は見捨てられた感がする。森神社の背面(北北東)に姫大神社(もと祓戸社とい
う)があり、丁度、菩提仙川が南へ曲がる淵に面している。

ここが、『江家次第』に伊勢齋王が帰京に際し、名張横川禊、大和都介頓宮に就き、翌日、和爾川禊とある場所にあた
るとする。社名は「フトノト」「ノリト」「モリト」「モリ」と変化したという。道路東に社叢が目立つ。本殿の下に磐座がある
(以上、引用)。

ただ、英彦山にも藤原氏の関係先があり、此処では藤原桓雄伝説となっている。古朝鮮の檀君神話の父に桓雄があ
り、熊女との間に檀君が生まれた。この英彦山から対極の3/18方位に向かえば熊野の那智勝浦に達するのである。
此れが今の北緯とは違う、太陽黄径による当時の東西線であったのかも知れない。


★06岸和田だんじり祭り・・・・・・大阪南部で約300年続く伝統の祭りとしてダンジリが9/16〜17日に繰り出す。此処
の特徴は、ダンジリが主役で「五穀豊穣」を祈る祭りであり、この日は弥栄神社、岸城神社、岸和田天満宮で順次「宮
入」となり、午後7時から灯入れ曳行がある。









































































9/18     


★10遠野まつり(〜19日:敬老の日前後)【岩手県遠野市】
■10全国かかし祭(〜26日:9月15日前後から1週間)【山形県上山市】

■例年-久伊豆神社の秋祭り「 ささら獅子舞」・・・・・・「クイズ神社??」ではなくて「ひさいず」と読む。埼玉県行田市桜
町、久伊豆神社で9月18-19日にある秋祭りでは桜町周辺に屋台が4台?繰り出す外、18-19日に「 ささら獅子舞」が奉
納される。 

久伊豆神社は此の地域には多く、以下の久伊豆神社は何れも主祭神:大己貴神(大国主命)としている。
例えば@岩槻市宮町 、A加須市割目、B加須市北辻、C久喜市除堀、D北埼玉郡騎西町鴻茎、E北埼玉郡騎西町
外田ケ谷F南埼玉郡菖蒲町新堀等があり、

またG北埼玉郡騎西町の玉敷神社(たましきじんじゃ)が、かつて「久伊豆明神」と称し、久伊豆神社の総本社とされていた
模様。

玉敷神社の参道が巳の方角に延びて、其の先にも久伊豆神社があります。本殿と参道が未に向かい、逆方位に騎西
城跡がある。此処からも久伊豆神社と丹党(火明命子孫)との関わりが深いと見られている。

外にも例えばH越谷市越ヶ谷1700の久伊豆神社があって、其の横に埼玉神社が隣接し、長い参道が御殿町自治会館
に向かっていて、その先には金毘羅神社の観世音堂がある。こうして黙示する方位は1/1--7/3日。但し今の例祭は9/
28日。また越谷市内には他にも小さな久伊豆神社が10ヶ所ほどある模様。

因みに先の@久伊豆神社(さいたま市岩槻区宮町2丁目6−55)の由来は、約1300年前に建立されたと言う。特に初日
の出の参拝が有名で例年の人出が10万人とか。因みに参道の方位は6/18--12/18日頃を向いている。

またトップの久伊豆神社(行田市桜町2丁目20-35)の本殿は東向きで参道は3月方位に伸びるので、此の点では方位
と祭日とがほぼ合致。因みに此処は南に長久寺が隣接している。

■例年-面掛行列・・・・・・・・神奈川県鎌倉市、御霊神社で9月18日。
http://www.omatsuri.com/movie/menkake.html 動画面掛行列  9月18日 神奈川県鎌倉市 

★10城端むぎや祭(〜19日:敬老の日直前の土曜〜日曜日)【富山県南砺市城端】

釈迦念仏会・・・・・・唐招提寺(奈良市五条町)。 

■藤原仲末呂(恵美押勝)の命日・・・・・・慶雲3年(706年)生まれ、天平宝字8年(764年)9月18(G10/21)日に慙死。父
は藤原南家・武智麻呂。二男・仲麻呂はやがて恵美大臣とも言われ大師(太政大臣)、正一位となった人物だが、専横
のため孝謙上皇の時に近江・高島の三尾崎で官軍に追われて敗死(恵美押勝の乱)。

彼の邸宅跡(推定地)・田村第(奈良市四条大路1丁目)の発掘(07/10/5朝日)で東西15b以上の2棟の建物が確認さ
れた。一族は殆ど滅ぼされたが11男の徳一だけが許された模様。以下、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%
B8%80『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、東大寺で法相教学を学び、20歳頃に東国へ下った。

やがて、陸奥国会津慧日寺や同国会津勝常寺、常陸国筑波山中禅寺(大御堂)、西光院など陸奥南部から常陸にか
けて多くの寺院を建立した。同時に民衆布教を行い「徳一菩薩」と称されたという。現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐
梯町)には徳一の墓と伝えられる五輪塔が残されている。

太閤秀吉の命日・・・・・・・人は歳をとるか、他人のものを盗るかくらいだが彼は天下を取った。だが伏見城で慶
長三戊戌(1598)年8/18に薨去した。其処で直後には京都市東山区の阿弥陀ヶ峰をご廟として30万坪の豊国大明
神が造営となったが、以後は社が方広寺、妙法院へと変転し、やっと明治になって此処が豊国神社となった。

また大阪城内にも豊国神社が建てられて、何れも例祭を8/18としている点では同じであるものの昔の名残はない。
伏見城もその後、関ヶ原合戦の前に炎上したので今は桃山古城山として、傍らには明治天皇の桃山御陵が出来るな
ど変貌した。

【豊国神社】東山区大和大路通正面茶屋町---ホウコクさんとも呼び、豊臣秀吉を祭神とする。豊臣秀吉は東山の阿
弥陀が峰に葬られ、翌年、豊国(とよくに)大明神の神号を賜った。江戸時代は荒廃していたが、再興。明治になって。
唐門(からもん)は、伏見城の遺構と伝えられ国宝。http://kyotokentei.blogzine.jp/kotaro/2006/01/post_ad45.html

慶長三年(1598)八月十八日に死去した豊臣秀吉を祀る神社で、通称「ほうこくさん。死後、その遺言によって、当
社の東方にある阿弥陀ヶ峰山頂に密かに埋葬され、麓に豊国社が創建された。だが、慶長二十年、豊臣家滅亡後、
徳川家康によって、豊国社は破却された。社殿は、釘付けのまま放置され、朽ちるに任せた状態となった。 

慶応四年、維新政府によって当社の再建が決定。明治八年、方広寺境内を割いて、社地とし、明治十三年再建され
た。大正十四年の秀吉夫人従一位北政所を境内社・貞照社に祀った。神紋は、本来は太閤桐のはずだが、境内や御
朱印には五七桐が付いていた(http://www.genbu.net/data/yamasiro/toyokuni_title.htmより引用)。

墓地については下記を参照。

阿弥陀が峰の頂上には「我が屍を京の都を見おろせる高い所に葬れ〜」との豊臣秀吉の遺言により、秀吉の墓が
ありますが、 あまりに急な登り坂(石段575段)のため、お参りする人は少なく、 多くの人はその下の豊国神社に詣でて
いるそうです。

(夫が高い山の上を望んだので、妻のねねは高台寺の地下深く埋めて下さいとの願いでした)。此の項目はhttp://www.
k5.dion.ne.jp/~moeko/kyoto-kiyomizudera.htmlより引用。

「豊国廟(ほうこくびょう)豊臣秀吉の廟所である。慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は、齢63歳をもって伏見城に
て薨じた。遺体は、遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰中腹に葬られ、墳上には、祠廟、山麓には社殿が建立された。

翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から、正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後、毎年盛大な祭礼
(豊国祭)が執り行われた。しかし、元和元年(1615年)豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく、
空しく風雨にさらされていた。

明治30年(1897年)、秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪塔が建てられた。なお、社殿
は、明治13年(1880年)、旧方広寺大仏殿の地に、豊国神社として再建されている。京都市 」(京都市東山区今熊野
北日吉町旧豊国神社境内・墓所にある駒札より)。

現在の廟域は面積約7万坪、山頂に至る石段は560段あるといいます。もと社殿があったこの広場は、なまえだけ太
閤坦(たいこうだいら)といわれているのです。隠れた桜の名所でもあります。4月18日、豊国廟拝殿の屋根の下で、
献茶式が執り行われました。隔年ごとに裏千家と表千家の家元が献茶をご奉仕。

秀吉公の遺徳をしのぶ追善茶会を主催されます(http://www.janjan.jp/column/0604/0604192653/1.phpより引用)。

現在の豊国廟は明治23年に結成された豊国会の手により同31年に竣工したものです。明治30年に起工したのです
が工事中偶然にも秀吉公の墓を発見しました。墓の上には150年忌の時に妙法院が供養した経瓦が銅線でくくって置
いてありました。

妙法院の記録ではこの150年忌法要の記述が見られないので、やはり幕府に遠慮して密かに法要を行ったようです。
発見に伴い豊国会役員並びに関係各所に連絡が行き、発見された墓の周りには24時間体制で警察官が警備に当た
りました。当時このことは極秘にされ新聞でも廟で重大な事件が発生したとしか報道されませんでした。

遺骸は備前の大甕の中に西を向き手を組んで座ってられたそうですが、副葬品の類は見当たらず盗掘に遭っていた
ようです。当時は考古学的な知識がなかったのでしょう遺骸を損傷してしまい、遺骨一つ一つを絹で包み銅で作った棺
に墓の上にあった経瓦と豊国会が作成した墓誌とともに現在の五輪塔に納められています(2008/2/20 ヤフー知恵袋)。

次に06/10/1のNHKTV大河ドラマでは瀕死の秀吉の耳元へ茶々が「信長の血を引くお市の娘・茶々の子・秀頼の天
下とする。ハヨ死ね」と囁く演出があり、また生前の秀吉が「死去を伏せろ」と遺言したとして、死は隠された。賑やかな
事の好きだった秀吉だが、阿弥陀が峰にひっそりと密葬された。

今は山頂に秀吉廟があるが、下記の高台院と子午線のラインとすれば、山の頂上ではなく中腹に埋葬された筈であ
る。ただ其れでは天下人(関白)としての葬法ではなくて、俗人の扱いとなる。@

所でネネが湖月尼となり、家康の助力を得て秀吉の追福のために建てた京都市東山・高台院(臨済宗寺院)が、先の
古城山の真北(135°47′01.7")に当たる。此処から彼女が「北の政所」と言われた。其れに対して彼の故郷であった、
名古屋市中村区には今も中村公園と豊国神社(明治18年創建)が残っている。

ただ京都と中村区との位置・暦方位は9/10---3/10である。中村ではその外、参道が真っ直ぐ南方の「大鳥居」(昭和5
年に建てた物)に伸びているが、此れは彼の命日を示したラインではない。

其れよりもこの豊国神社の東側には常泉寺(秀吉を祀る為に加藤清正が創建した)、またその逆の西方には観音禅寺
があり、豊国神社を軸にした両寺のラインは9/18方位をハッキリ示している。所で先の命日の8/18をグレゴリオ
暦に換算すると、此れも9/18となるので此処で円暦方位とも一致する。

従って此の日が彼の薨去日である事が明らかとなる訳です。尚、常泉寺の真南には妙行寺があり、地元でも余り知ら
れていないが、此の寺の境内には日吉丸の産湯の井戸が現存すると言われる(白蘭先生談)。

★10岸和田だんじり祭(〜19日:敬老の日直前の土曜〜日曜日)【大阪府岸和田市】
http://www.omatsuri.com/movie/kisiwada.html
動画岸和田だんじり祭り  9月敬老の日直前の土〜日曜日 大阪府岸和田市 

■糸満大綱引【沖縄県糸満市】

★満州事変・・・・・s6/9/18勃発。以後s26/9/8のサンフランシスコ講和条約まで20年。
★06「敬老の日」。
















































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