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http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p128  (未定稿)


神々の歳時記   7月中3 但し方位による
次は
7月下旬
7月下旬
または
戻る
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●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版http://
www.matsuri.or.jp/cgi-bin/wforumcgi/wforum.cgiメルマガ

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-7月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

7月・中3  ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ 



       
7/19 


■09土用の丑の日
★09塩竃みなと祭(〜20日:海の日前日〜当日)【宮城県塩釜市】

■08大潮まつり・・・・・・・茨城・神栖市波崎の手子后(てごさき)神社と漁港周辺で7/19-7/20日まで。 神栖市商工観光
課0299-90-1111

源頼朝の祭りだったか?・・・・・・鶴岡八幡宮から真っ直ぐに若宮大路が由比ヶ浜に向けて伸びています。あれは
何の意味があるのかと言えば、鎌倉市が観光用の都市計画道路として造ったのではなかった。単なる都市計画道路
ではなくて、頼朝の命日の逆方位、つまり例祭日を示した黙示録だった。

では誰が何のために造ったかと言えば、政子が亡き夫のために鎮魂と祭の壮大なセレモニーのために造ったのです。
当時、京の都の天皇と並ぶ、関東の盟主としての源氏の総本山の大祭礼として、命日(1/18日を参照)と此の日の7/19
日には大勢の御家人・武士団が全国から集まって行き来したものと推定する。

其の壮麗な舞台装置としてあの若宮大路が造られ、一の鳥居が立てられた。但し道の真ん中(正中線)は神の道とし
て空ける必要があった。荷物の流通ではなくて、大祭礼のためにあれだけ広い神道・人道が作られたのです。以下に
其の意味を解説します。

05年にNHK大河ドラマで「義経」が放映されたので鎌倉の鶴岡八幡宮にも観光客が押し寄せた事だろう。

だが此処について正しく理解している人は少ない。例えば八幡宮とは八幡大菩薩か応神天皇を祭った所である。その
点、鶴岡八幡宮は先の御二方ではなくて、実は頼朝を祭ったご廟と神宮寺でした。彼は正治元(1199~1200)年正月13
乙巳に鎌倉で年53歳の時に薨去した。

但し、どう言う訳か鎌倉正史である「東鑑」が全52巻も有るのに、この月の記載が抜け落ちている。武門の棟梁である
頼朝が落馬が原因で落命した事を不名誉としたからだろうか?彼については最早不明な点が多い。一般に知られた神
護寺の肖像にしても今は疑問視されているのである。

何れにせよ、鎌倉は京都の暦法がややズレて伝わったので干支の確認も出来ないが、一般に言う「乙巳」の日付を元
に新旧暦換算すればユリウス/グレゴリオ暦1199/U2/9、G2/16となる。ただ此れでは現実の地理方角に合わないの
で、当時の暦法は和暦7/19日であったと仮定するしかない。

ともあれ彼の菩提寺として今の鶴岡八幡宮に廟所が造られた。

と言えば読者は疑問視するだろう。世間一般の常識として、「八幡様は応神天皇を祭る神社であって墓所ではない」と
の反論があって当然だからだ。だが、其れは表向きの事に過ぎない。全国津々浦々に散在する無数の八幡様は決し
て一様の祭神ではなく事実は多様であり、それが参道の向きを各々異なる形で特異の個性を示しているのです。

八幡様のご祭神は実は各々別々であって、決して応神天皇お一人とは限らず、従って境内の接点に固有の墓地が有
っても不思議ではない事を此処でも黙示している。しかも此処、鶴岡八幡宮は、元から神社ではなくて先に墓地があ
り、其のご廟を守る大きな寺でした。此処には国宝が多いが全て仏像か寺物であってご神体はない(推測だが)。

しかも此処は「頼朝が建てた八幡宮」と今では理解されているが、其れは誤伝である。そう判断出来るのは若宮大路も
此の鶴岡も、彼の命日方位に合わせて死後に造られた事がハッキリ分かるからだ。

誤伝と共に、誤解の原因となったのは、鎌倉には元の宮が別の所にあるからで、其れこそが頼朝の高祖父・頼義が石
清水から勧請して建てた鎌倉宮である。そうした事が今まで混同されて来たのだ。判官びいきの日本人は当時の義経
の戦法を見て英雄視するが、其れはドラマの世界であって真実とは別かも知れない。

武士の力で平家を滅ぼし、天下を制したのは頼朝の力や義経の働きであるけれども、実はそれ以上にヒジリの力があ
ったと此処では見たい。頼朝にこの武略・兵法を教えたのは、恐らく政子の内助であり、政子側(父が北条時政)には
当代随一のヒジリ(軍師)・大江の廣元(明法博士)が付いていた。

彼は公文所と政所の別当であり、此れが後の執権である。因みに彼が鎌倉に加担した後に、子孫の時親が南朝の軍
師となり、其の子孫が毛利氏となって明治維新を成し遂げた。此れも因縁であろうか。何れにせよ元・鎌倉宮とは別
に、この鶴岡八幡宮が頼朝の死後八年に建てられたものである。

陸奥の国を治めた頼家は石清水八幡宮を鎌倉・由比ヶ浜郷に勧請し社殿を創建したのが今の「元八幡」。其の100年
後、源頼朝は源氏の棟梁として鎌倉(鎌倉幕府)に拠点を置き、鎌倉の鎮護神として「鶴ヶ岡八幡宮」を大々的に祀っ
たのか?由比ヶ浜の対極に政子は寺を建てた。其の往路を「若宮大路」と呼んだ。

つまり頼朝の死後に、尼将軍となった政子が此処を寺(八幡宮寺)として建てたものだ。其れに伴い「若宮大路」が造ら
れて、頼朝の若様、つまり頼家と実朝を意味して名付けた。所が06/3/15の読売TV「今日は何の日」では若宮大路が
寿永元年3/15に頼朝によって建設が始まった日であると解説していた(・・・が、以上から見て年月が違っている)。

吾妻鏡には頼朝死後の承元2(1208)年12/12日に神宮寺を造畢している。翌年初に頼朝の没後10年にして11回忌
を迎えるために政子が熊野参詣から戻り開眼供養した。本尊は薬師、導師は日光山別当だった。因みに1/13乙巳の
命日方位は日光ではなくて筑波山である(筑波にも中禅寺が有った)。

承元2(1208)年の12月12日(ユリウス暦の1209/1/19)、この八幡宮寺(鶴岡八幡宮)の本尊として薬師如来(頼
朝)を安置して16日に実朝が拝礼し、17日には開眼供養を行い、そして明くる承元3(1209)年の正月12日(同暦の
1209/2/17)、初めて修正会(鬼走り)を行っている。政子(尼将軍)はこの神宮寺の尼だった。

後鳥羽上皇の追討令に対して政子は63歳で尼将軍として立ち、御家人以下19万の軍を纏めて勝利に導き、以後70
0年間を武士の世とした。彼女は将軍の妻から寺の尼になって深謀遠慮を働かせて寺としたのだろう。従って若宮大
路は頼朝ではなくて、頼朝の若宮である頼家か実朝が造ったと見るのが妥当。

此処が宮ではなくて寺である事は、「一の鳥居」が今の八幡様の直前にではなく、ずっと後方の海側に立っている謎か
らも分るだろう。本殿前にあるのは三の鳥居であり、次が二の鳥居、其処から遠くに一の鳥居がある。普通は逆に、神
殿に近い所から数えて、一の鳥居、二の鳥居と言う呼称なのである。

つまり一般の常識に照らせば此処は逆なのだ。その謎も此の八幡宮を寺だったとすれば自動的に氷解する。つまり丘
の上の宮は寺であって、本当の鶴岡八幡宮は、丘とは反対側の由比ヶ浜にこそ想定されており、祭りは此の浜で行わ
れた筈である。

よって命日には由比ヶ浜から「一の鳥居」を潜って、若宮大路を真っ直ぐ進む。そうすれば寺、即ち八幡宮に鎮まる頼
朝公に正対する。鎮魂の祭主は若宮、つまり頼家か実朝だった。彼らが源氏の棟梁として華々しく登壇する大義名分
を形で示す装置が此の方式でした。そうした意味から此処が武士、特に源氏の総本山となったのである。

何れにせよ、この宮は元々彼・頼朝の廟(墓地)であるから、本来ならば此の日は特に祭りではなくて弔いのお経を上げ
るべきである。

だが、今は其れがすっかり変えられ本末転倒して宮とされているため、お経を上げる訳にも行かない。多数の参詣人
が神社に参拝したつもりで拍手を打つ訳ですから、「右に倣え」と二拍手を叩くほうが無難なのです。ですが、こうした形
式ではあの世の頼朝の弔いにはならず、またこの世に彼の御魂が甦り・再臨する事も出来ない。

もっと驚くべき事は、此の日の方位を更に進めば、横浜の岡村天満宮から鶴見の総持寺、など幾つもの寺を超えて遂
には隅田川の畔に出て浅草観音前の駒形堂に至る。其の手前の総持寺にしても後に幕府の祈願所となり、今や末寺
13400ヶ寺を擁する大寺院に成り上がったが、これまたもともと普通の寺ではなかったのである。

その先には方位からズレるが雷門があり、其の奥には金龍山・浅草観音が有る訳です。
さてこの駒形堂は何のために誰が建てたのか、と言えば、此処にはかつて浅草寺の総門があり、馬頭観音が有った。
此処は平公雅(キンモチ)が建てたもの(今は駒形堂がある)でした。

彼は平良文の曾孫だったが、何故、源氏でなくて平家が建てた所に行き着くのか不思議である。浅草寺は推古天皇3
6年創建の都内最古の寺とされるが、その後、従五位上・安房守・平公雅朝臣が天慶五(942)年に駒形堂や山門(仁
王門、宝蔵門)、総門(風雷神門)を建立していた。

とすれば、既に頼朝以前に馬頭観音や此の堂があり、そして鎌倉以後に総門が今の所に移設していたので、代わりに
駒形堂が残った訳だ。彼は此処を頼朝の為に建てたのでは決してない。時代が違うから其れが明白であるものの、頼
朝の後に、総門を移してお堂とし、また鶴岡八幡宮の経蔵にあった四天王の内、二天を此処に誰かが奉安した。

其れが今の二天門と言う(寺伝)。この寺にはそうした複雑な故事来歴があるが、此処を頼朝亡き後に平氏の北条家
が使ったとすればまた別の話となる。観音様なら観音経を上げるべきだがそうではなかった。此処では殊更「陀羅尼」
を唱えた。

寺である以上、其れも不思議ではないものの、その日が頼朝の命日(陀羅尼会は現在1/12〜18日にある)にしてい
た事は、鶴岡と直結した行事だったと見ても異論はなかろう。頼朝廟の奥付きにこうした門や寺堂を建てたのは何か頼
朝夫人・政子の恣意があったのではと感じる。

こう見れば鶴岡よりも寧ろ、この浅草寺を軸に鶴岡廟を造ったのではないかとさえ思える。と言うのは、先ず浅草寺の
伝説にある檜前氏が治承四年に頼朝の下で大工として鶴岡の元宮工事に従事している。だから浅草寺から政子が頼
朝側の霊力を無能にする呪詛も出来た点である。

其の効果があったのか、頼朝は落馬※が元で53歳で亡くなり、しかも死後20年にして鎌倉源氏は三代で滅び、その
後を北条と言う平家の世に戻してしまった(「8/17頼家」を参照)のであるが、其の為か鎌倉はその後、大地震(1241)、
大火(1251と1254)があり、特に建長三(1251)年には、此処浅草寺では多数の僧が変異に遭った。

※頼朝は21日間、鎌倉弁才天で奥州の藤原秀衡(鎮守府将軍)打倒のための祈祷を行った結果、秀衡が10/29日に
急死している。武士の落馬は日常の事であり、武将である頼朝が落馬で死ぬなどは到底有り得ない事だ。つまり当時
はカジリ、つまり呪詛が横行した時代であり、死因は其れと見るのが妥当。

僧50人が食堂で集会中、怪異を見て24人が病気となり、また他の7人が座したまま即死しているのだ(「東鑑」)。
また鎌倉は地震が打ち続いた。1213/6/18(建保1/5/21)と1227/4/1(安貞1/3/7)、そして1230/3/15(寛喜2/閏1/22)
には大慈寺の後山が崩れ、また1240/3/24(仁治1/2/22)には鶴岡神宮寺が風なくして倒れ、北山が崩れた。

続く1241/5/22(仁治2/4/3)には鎌倉にM7の地震で津波が押し寄せ、由比ヶ浜大鳥居内拝殿を流失、岸に有った船
10艘が破損した。そして1257/10/9(正嘉1/8/23)にはM7〜7.5の地震で鎌倉の社寺完きものなくなり、更に1293/5
/27(永仁1/4/13)にもM7の地震で建長寺殆ど炎上し、諸寺に被害、死数千、或いは2万3千余となった(地震歴は
「理科年表」より引用)。

▲さて此処・鶴岡には大きな神宮寺(八幡宮寺・神護寺など25坊)があり、本尊(御正体)は秘仏だった。其の前で70
0年間も「日夜不断の勤行」を続けた多数の供僧と12院も、時が移って明治になるや廃して八幡宮と言う「神社」に生
まれ変わった。

しかし神仏習合の総本家として睨まれたのか、県庁から度々催促されて、僅か十数日で薬師堂も破壊し尽くされた。こ
うして武家政治700年の伝統を作った元凶としての頼朝公を否定する「文明開化」の下、一般神社と同じレベルに零落
させた。よって多数の寺僧をリストラ(還俗)しなければならなかった。元々社僧(神主)はたった1人だった。

神主の上に多くの供僧が立って支配していたのである。しかも当時、「八幡様なら祭りは8/15日が当たり前であり、其
れは旧暦だから9/15日に改めよ」、とのお上のきつい「お達し」があったのだろう。従って本来は命日の18日が法要、
そして逆の7/19日には浜宮での祭礼があった筈だが、全ては消された。

全ては「ご維新」による愚策である神仏分離と改暦政策の弊害により抹殺された結果、今があるのである。
今、此処の公式行事は八幡例大祭を月遅れの9/15日とし、頼朝の命日に近い1/15日を佐義長神事・成人祭とし、また
4/13日を頼朝公の墓前祭としているので、もし此れだけとすれば暦・方位では「神事」になっていない。

だから、其れ故に、此の日に彼に縁の者が鶴岡八幡宮から若宮大路を通って「一の鳥居」を潜って弓ヶ浜へ向かって、
頼朝の御魂を出迎えて祭りをすれば、きっと彼の征夷大将軍としての武略と知恵とを授かるであろう。

■08-09お葛節句・・・・・・洞慶院(静岡県清水市)。
■09土用の丑の日・きゅうり封じ(きゅうり加持) 祈梼できゅうりの中に諸病を封じ込めるという行事。
■08豊浜鯛まつり(〜20日:7月中旬の土曜〜日曜日)【愛知県南知多町】

■09京都・松尾大社・御田祭。

▲安倍晴明の命日・・・・・・京都。@陰陽師。外に天文博士、左京権大夫などを歴任し、85歳(?)まで現役として生き
た安倍晴明のために、一条天皇の勅旨により創建されたと言う京都・上京区晴明神社。075-441-6460

ご祭神は無論、安倍晴明である。彼の命日が寛弘2(1005)/9/26(ユリウス暦10/31)であり、其の2年後と言
う。

(a9/26説)・・・・・・よって此処晴明神社では例年、秋分の日9/23には例祭を行い、また晴明神社から其の方位の
嵯峨天竜寺東(角倉町)の墓所で墓前祭が行われる。04年9/26は丁度1000年祭に当たった。
(b9/12説)・・・・・だが晴明神社と嵯峨の嵯峨天竜寺東の墓所との方角を見る限り、彼の命日は9/26ではなく、9
/12の位置関係になるのだ。

(c9/24説)・・・・・・ただ、亀岡市・畑野溝端(後述)には彼の墓所とする伝承地があるので仮に、畑野中心部←→嵯
峨天竜寺東を見れば9/24←→3/24となるなので、9/26を命日とするなら2日のズレで略合致する。

所で彼の出自は大彦命の後裔と言われ、「尊卑分脈」によれば右大臣、安倍の御主人(みうし)の九代目の子孫と有
る。出生地については、一説には大阪の阿倍王子神社と言われるし、其れに和泉市には、「信太の森の女狐」を母と
する伝説(葛の葉稲荷と聖神社)や茨城にも晴明稲荷(猫島と吉生)、香川にも井原庄があって謎に包まれている。また
堺市内の大小路と東六間筋との交点を「晴明辻」(占辻)と言う。

其処で先の京都・晴明神社から大阪の阿倍王子神社、其れに堺市から和泉市・葛の葉稲荷をラインで結んで見れば
どうなるか。其れを辿ると意外な事になる。
(d7/19説)・・・・・京都・晴明神社←→長岡天満宮(向日市)←→阿倍王子神社←→堺市・「晴明辻」←→和泉市・葛
の葉稲荷を直線で結べば、暦・方位が1/17←→7/19になるのです。

(e7/13.5説)・・・・・・因みに大阪府・河内長野市にも晴明辻があるので、京都・晴明神社から河内長野市・原町の
清明辻との位置関係を見れば1/6.5←→7/8である。序でに福井・名田庄村は晴明の子孫・土御門家が領地とし
て治めて江戸末期まで続いた所なので、この名田庄村納田終と葛の葉稲荷とを結べば12/30←→6/30となる。

また京都府亀岡・畑野・東畑にも彼の墓とする伝承地が有り、其処から6/15方位に向かえば堺市に向かうが、この
畑野の墓地は彼ではなくて実は安倍泰成の墓地とも言われる。ただ名田庄村納田終と亀岡・畑野中心部とは1/13
←→7/14である。

所で先の上京区・晴明神社は「応仁の乱」で略消滅し、それを明治11年、地元有志が晴明神社として復興した所であ
り、其の時点で今まで伝えられた命日を旧暦と見て9/26に変更した可能性はないだろうか。

と言うのは仮に彼の命日を1005/u8/20g8/26/k7/13己未としてこの旧暦7/13をそのまま円暦の同日と
して設定すれば、先の嵯峨の天竜寺東←1/12→←7/13.5→和泉市・葛の葉稲荷に達するからだ。

そうすると、彼の命日は9/26ではなくてグレゴリオ暦の8/26、つまり旧暦7/13だったのか。だが京都・晴明神社
から7/19方位に進めば上記したように和泉市・葛の葉稲荷に至るのですから、真の命日は一体どちらなのか。

命日がu8/20g8/26/k7/13己未、つまり、 (e7/13.5説)・・・・・・嵯峨の天竜寺東←→和泉市・葛の葉稲
荷ラインか。 (d7/19説)・・・・・つまりu8/26g9/1旧暦7/19乙丑になる、京都・晴明神社←→「晴明辻」←→
和泉市・葛の葉稲荷ラインか。

其れとも(b9/12説)・・・・・つまり晴明神社と嵯峨の嵯峨天竜寺東の墓所のラインか。
   (c9/24説)・・・・・・つまり、畑野中心部←→嵯峨天竜寺東ラインか。
   (a9/26説)・・・・・・u9/26g9/26k8/14庚寅だったのか。

所でもう一つ面倒な事が有る。「晴明」と「土御門」に所縁の所が数箇所あるからだ。ざっと見ただけでも市内には晴明
神社のある晴明町の外にもう一箇所、市役所の乾の所に同名の町がある。この晴明町と、先の嵯峨角倉墓地とは見
事にピッタリ、真東と真西に位置している。流石に晴明の遺跡である。

でも晴明神社の例祭日九月の秋分の日・9/23頃には合致するが、彼の命日(c9/24説)に近い。また土御門町の
外に、元土御門町、東土御門町があるのです。其のうち、嵯峨角倉墓地と晴明神社、そして元土御門町と土御門町と
が一直線に並んでいる。

と言う事は、先の命日9/11.5←→3/12を印しているのです。そうすると先の(b9/12説)が補強された事になり
ます。ただそうすると東土御門町が最左翼に位置するので問題です。「此れは時代が新しいのでは」と判断すれば恐ら
く間違いである。元々土御門」と言う官職は、東の角に位置づけられた職制だった。

だから恐らく、此処が最も彼に所縁がある位置と判断して良い筈です。しかし此処が元の位置とすれば葛の葉との方
位がズレて仕舞います。其処で次に再度ラインを引きなおせば、1/19.5←京都・東土御門町→「晴明辻」←→和泉
市・葛の葉稲←→7/22(f7/22説)となります。

結論がこのようにa〜fまで6つにもなっては不味いので、改めて神社とご祭神と地名などもチェックして置きたい。先ず
京都・晴明神社は彼が主神であり、次に大阪の阿倍王子神社はご祭神には入っていないものの安名の地名がある。
其れは彼の別名(保名)を意味するし、清明誕生地とか旧宅の伝承地として晴明祠がある外、東西に伸びる「晴明通」
と言う道がある。

社伝によれば彼は「加茂の社司・藤原保憲の娘を母とし、天慶七年三月辰日辰刻にこの地に生まれた。保憲に学んで
名を保名と改め、寛弘二年九月、62歳をもって没せり」とある。其の西南に阿倍野神社もあるが主神が北畠顕家なの
で別だ。

其れに阿倍野には近くに安倍晴明神社があったとは思うが、残念ながら地図にも手元の文献にもないので主神や例
祭日を今の所は確認できない。また和泉市の聖神社はご祭神に彼が入っていないし、例祭日も8/15であるが彼(保
名)が承平9(940)年に37日間参籠した事と、狐の伝承も記録がある。此処は高台で広大な境内である。

そして次の葛の葉稲荷とは1.2km東西に離れているが両社は接近している。其処でまた東土御門町からこの聖神社
まで直線で繋いで見れば1/17.5→←7/19.5となる。葛の葉稲荷は例祭が10/5であり、彼が祭神になってい
ないものの、「信太の狐」の俗説と若宮塚の伝承が有る。

と言う次第で彼は旧暦のこの日・旧暦7/19に亡くなった可能性が大きい。其れはしかし太陽暦(円暦)の7/19とし
て阿倍野から聖神社や葛の葉の筋で印されていた。所が彼の子孫(土御門家)が改暦の都度に戸惑い、ユリウス暦で
u8/26となるのを数字主義でグレゴリオ暦のg8/26としても印したのではないか。其のために各地に色んな痕跡を
残した。

其の跡が今も各所で見られる遺跡かと思うのは曲解になるだろうか。ともあれ彼はこの頃奥州で栄えていた安倍氏の
一族だったろう。だが彼の死後50年、源頼義と義家父子によって前九年と後三年の役で1057年に安倍頼時が殺さ
れた。続いて1062年には安倍貞任と宗任とが相次いで滅ぼされた。

そのような時代背景の中、京都では安倍晴明の子孫が土御門家として生き残った事になる。今、御所の周りに何箇所
もの土御門町と言う町名が残っている。土御門家は暦法家であり、以来、暦法が変わる度に祖先の命日方位を新暦で
書き換えたに違いない。

其れが7/13→7/19→8/14→8/26→9/26と数字だけ動いて行った可能性があると思うので、今後も追跡を
続けたい。

■娘道成寺・文武天皇・皇后の命日・・・・・・奈良。42文武天皇(かる皇子・倭根子豊祖父天皇・後藤原宮御宇天皇)の
皇后・藤原宮子(藤原不比等の娘)。夫が文武天皇として藤原宮で即位した。系譜は天武-草壁(元明)-文武である
が、在位10年で先立ってしまった。

其処でこの後を文武の母が引き継いで43代・元明天皇(阿閇皇女・日本根子天津御代豊国成姫天皇)として即位し
た。元明は母として、また国事行為の国祭として、文武のために命日(6/15)方位とは逆の平城に向かい、今は旗塚
古墳と言われる前方後円墳(主軸は12/17〜19←→6/17〜19)を造った。

ただ「此処が文武の陵である」と筆者が述べても常識を覆すのは無理である。今は伝承や記紀や延喜式の文献を基に
文武天皇陵を明日香村に治定しているからです。其の常識とは違うけれども暦・方位ではキチンと旗塚古墳が12/1
7と合致する。しかも其の文武の日迎えのために母が新宮を平城宮として遷した意味も方位からは判明する。

同時に皇后・藤原宮子が命日(6/15)方位の明日香村の岡寺・奥の院に籠って鎮魂の為に居着いた。此の岡寺は、
文武天皇の父(草壁皇子・岡宮天皇)の宮跡と伝えられる寺(4/13を参照)であるが、実は宮子が居着いた寺であ
り、しかも下記の通り宮子を日迎えする宮であった事も判明する。

彼女は749年には行基について受戒し、法名を徳太とした。やがて天平勝宝6(754)/7/19に崩御し千尋葛高知天
宮姫尊と贈り名され、其の方位に当たる高取町の上小島に葬られた事が下記の一致で判明する。一つは彼女の命日
方位とこの上小島の小岡との地理方位の一致。次は岡寺が文武の命日方位に鎮魂の寺として位置付けられた。@

平城宮には後に聖武天皇が即位した。彼の母が宮子だった。つまり此処から聖武天皇が父・文武を居着き祭るために
其の方位に当たる平城宮で即位した(6/15を参照)事が分かる。因みに宮子の妹・光明子は聖武天皇皇后となって
孝謙天皇を生んだ。また奇異な話だが「奈良の大仏の生みの親は紀州の道成寺である」と言う。

彼女が結婚したのが697年なので其のとき16歳とすれば推定681(天武10)年の生まれである。道成寺は紀道成の寺と
して宮子姫が大宝元(701)年に建てたので紀州最古の寺となっている。宮子が聖武天皇を生んだ年に建てたものであ
る。宮子の生誕地は奈良ではなくてこの川辺町であり、貴族ではなく漁師の娘として生まれたが、髪の毛がなかった。

女の子に髪の毛がなくては心配です。其の頃、両親が海中から一寸八分の観音様を拾い上げたので祈った所、髪の
毛が生えて、やがて髪長姫と言われるようになり、其れが都に聞こえて不比等の養女となり、やがて軽皇子と結ばれた
と言う。そして子が生まれたので父(紀道成)の寺を建てたのだろう。

やがて此の寺は安珍・清姫伝説から娘道成寺として名をはせた。天台宗であるが、ご本尊は今も千手観音である。@

■06-07柴垣神社・夏祭り・・・・・大阪府松原市上田町で第18代・反正天皇(はんぜいてんのう) 即ち多遅比瑞歯別命(たじひ
のみずはわけ)を祭る神社の宵宮。明日は夏祭り。此処は第24代仁賢天皇(反正の兄の履中天皇の孫)の命により反正
天皇の丹比柴籬(たじひのしばがき)宮として創建されたと言われる。

ただ反正天皇の時代はこの一帯は低湿地であり、大きな都は無理だったと思うので、寧ろ東大阪市の石切方面で都を
造り、其処で崩御した可能性もある。彼の命日が1/23日だから、其の逆が7/24日となるので、其の方位に当たる松
原市に日迎えの宮を創建した可能性が強い。

そうすると此処は反正天皇ではなくて仁賢天皇が反正天皇を祭る為の行宮だったと推定したほうがいいだろう。ともあ
れ、此の夏祭りは命日との暦には略合致と言える。ただ本殿の向きと参道と鳥居の位置が略南を指しているので、そ
うすると昔から此の祭りの時期は夏至頃だったのかと思われる。

当宮は大津道【長尾街道】と日本最古の官道とされる丹比道(竹内街道)のほぼ中央に位置している為に、南向きにし
たのだろうか。仁徳天皇の高津宮が今の大阪城と推定すれば、其処から真南に位置するのが此の柴垣神社であるか
ら都合が良いのですが、事実かどうかは無論分からない。

或いは此処は広場山観念寺と言う寺だったが明治初期に廃寺となった。従って旧暦で6/20日だったのを西暦採用の
お上の行政指導により1ヶ月スライドして7/20日に設定変更したのかも知れない。

■09岩屋神社・おしゃたか舟神事・海上渡御祭・・・・・・・以下、http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/032/minzoku/
case/0_2harima/0715_001.htmlから引用する。岩屋神社・明石漁港。明石市材木町8-10で、開催曜日は7月第3日曜
日、開始時刻は10:00頃。所要時間は3時間程度。祭の種類は船渡御・茅の輪くぐり・餅撒き。

元々は旧暦6月15日に行われていた。延喜式神名帳の伊和都比売神社に比定され、東播磨では稲爪神社と並ぶ古大
社として、人々の厚い崇拝を受けました。祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霊尊(天照皇大神)、蛭子尊、素盛鳴
尊、月讀尊の6神。家内安全、商売繁盛、昌招福の神、災厄消除、縁結びの神とされ、明石城主の氏神さまでした。

■09神戸まつり・市内パレード。

■08管弦祭(旧暦6月17日)【広島県廿日市市宮島町】・・・・・・西暦6/17のページを参照。
★09忠海祇園祭(7月15日に近い日曜日)【広島県竹原市】<BR>

■06-07-08-09仙崎祇園祭り(〜26日)【山口県長門市、八坂神社】































































7/20 
 


■06-07-08-09-11地蔵講(恐山大祭)・・・・・・恐山菩提寺・円通寺(青森県むつ市)で7/19〜24日、恐山大祭(7月20日
〜24日)イタコ(盲目の巫女)が参詣人の依頼で口寄せをする地蔵講。
★08-09塩竃みなと祭(〜21日:海の日前日〜翌日)【宮城県塩釜市】
 
■06-07-08-09-11熊谷・八坂うちわ祭・・・・・・(7月20日〜22日)【埼玉県熊谷市、八坂神社】天保年間に始まり関東一
の祇園祭と言われた。http://www.omatsuri.com/movie/kumagaya.html 動画

■秩父・河瀬祭・・・・・・秩父神社から荒川の武の鼻へ神幸する。

■東京・府中・スモモ祭り・・・・・・大国魂神社の祭り。李と栗飯を供える。烏団扇を参詣人に渡す。因みに大国魂神社
の参道は300m以上伸びているが、更に3.5kmほど離れた国分寺市の本多八幡神社に向っている。両社の位置は
12/24.5←→6/25の暦・方位になっていて5/5には「暗闇の祭り」が有名。

詳しくは「府中くらやみ祭り」http://www.geocities.jp/hondabayashi/
つまりこの李祭りはクリスマスの時期と6/25日とを示しているが、其の参道の向きを明治の改暦で西暦に変えた時
に5日のズレとなったのではないか。

■07-08-09白浜海女まつり(〜21日)【千葉県南房総市】
■09浜降祭(海の日)【神奈川県茅ヶ崎市、鶴嶺八幡宮・高座郡寒川町、寒川神社】

◆07豊川・進雄祭・・・・・3日間。
◆07豊橋・祇園祭(手筒花火)・・・・・・(7月第三金曜日〜日曜日)【愛知県豊橋市、吉田神社】

◆城南宮祭・・・・・京都・伏見。

■与喜天神山(天照大神)ライン・・・・・・・@桜井市の長谷寺の北にある天神山(455m)の形(主軸)は7/20←→1
/19の暦・方位を向いている。山麓にある与喜天満宮は実は天満大自在天神を最も恐れた藤原氏が、多武峰・談山
(妙楽寺)と長谷寺のラインに天満天神を封じた偽天神である。

彼らは「この天神こそ長谷観音の化身である」との信仰を流布したのである。其の傍らに皇大神社(例祭10/20)が
あり、この山は天照大神が亡くなられた所との伝承がある。その軸の北に向かえば小夫地区に地蔵寺の奥にまた天
照皇大神社があり、同神が祭られている。

其の先は都祁村に来迎寺があり、其の先は山添村の神野寺と、最近、岩倉伝説で脚光を浴びた神野山(619m)に行
き着く。更に進めば島ヶ原村や上野市であり、西高倉地区には果号寺と高倉神社がある。更に進めば滋賀・愛東町の
百済寺に至る。

所で、高倉神社は高倉下命を祭り、例祭を10/15日としているが、春季祭礼が2/21なので1/19とは3日の差で
略一致する。所で此処は京都・上下賀茂、鴨神社で行われる5/15の葵祭りのライン(11/13.5丹後の籠神社←
→大宮町の滝原宮5/14.5)にクロスするポイントである。

さて、先の天神山から主軸に沿って7/20方位に南下すれば桜井市・音羽観音があり、其の先は大淀町の世尊寺、
其の先は和歌山・龍神村の年中岳(906m)を越えて田辺市から白浜に至る。田辺には闘鶏神社と大潟神社、其の他
の宮で天照大御神が主神または配祀神となっている。

例祭は7/24〜25なので、数日の差で暦・方位・例祭日が略合致する。無論天照大神と言う御祭神も合致した事にな
ります。更に此処でもう一つのラインがクロスする。つまり隠れた古式結界が浮かび上がって来るから驚く。

とは言っても、日本の霊的秘密について筆者が暴露してしまうのは余り感心しないが、誰も気付かなければ既に「ない」
のと同じであるから敢えて公表する訳だ。クロスするのは天神崎と神島が5/14のライン、即ち葵祭り・山王祭りが伏
してあったのです。現に日吉山王神社や山祇神社も其のラインにあった(「5/14」を参照)。

■高鴨神社・例祭・・・・・・御所市でアジスキ高彦根命と下照姫を祭る神社の例祭で、夕方から献灯祭と神楽奉納があ
る。
■08-09きゅうり祭・・・・・・本山寺(香川県豊中町)。

■島根・物部・水口祭・・・・・・太田市。物部神社の御田植際と水口祭。巫女舞があり、鞍置き馬による三斗代通と言う
神事が有る。

★08-09忠海祇園祭(7月15日に近い日曜日)【広島県竹原市】

■06-07-08-09-11津和野祇園祭・鷺舞神事・・・・・・島根県鹿足郡津和野町、弥栄神社】弥栄神社祇園祭、7月20日・
27日、島根・津和野町。7月20・24・27日、約400年の歴史を持つ祇園祭神事。

http://www.omatsuri.com/movie/sagimai.html 動画

■06-07-08-09-11山口祇園祭り(鷺舞・浦安舞)(7月20・24・27日)【山口市、八坂神社】

★07小倉祇園太鼓(7月第3金曜日〜日曜日)【福岡県北九州市小倉北区、八坂神社】
■06-07-08-09-11黒崎祇園山笠(〜23日)【福岡県北九州市八幡西区、黒崎周辺】

■おおむた「大蛇山」まつり・・・・・・福岡・大牟田市で大蛇の山車六台が街を練り歩く。
中津祇園・・・・・・7/21を参照。

★06海の記念日。
★09海の日。

































































7/21 
 


★06江戸崎・祇園祭・・・・・・茨城・稲敷市。例年7/25日頃だが06年は7/21(金)〜23(日)。「天王様祭礼」として天正年
間に始まり約400年続く伝統行事。1基の神輿と7〜8台の山車が町内を巡行する。浜町、大宿、根宿、西町、荒宿、本
宿、田宿、戸張など宿の付く山車が多い事と、此の山車の上部が回転する珍しいもの。

鹿島神社と八坂神社とが略この日の方位に並び、此の祇園祭りを両社で祝うと言うのも珍しい。

★08浜降祭(海の日)【神奈川県茅ヶ崎市、鶴嶺八幡宮・高座郡寒川町、寒川神社】
■「虫送り」・・・・・・松任市横山町の宇佐八幡神社で。

■08神光院「きゅうり封じ」・・・・・・京都市北区の神光院075-491-4375で21日と24日に行われる。キュウリによる諸病
封じの祈祷。病名を記した紙にキュウリを包んで家に持ち帰り、体の悪い所を撫でて土に埋めるとキュウリが土に帰る
と共に病が癒えると言う。祈祷料1500円。

▼11御手洗祭(〜24日:土用の丑の日前後)【京都市左京区、下鴨神社】・・・・・・京都市の鴨川べりにある下鴨神社で
毎年「土用の丑の日」から5日間、御手洗池に入った人がローソクの火を捧げる「足付け神事」として行われ、「無病息
災」を祈る。

■「ホウロク祭り」・・・・・・京都市の壬生寺で、焙烙に百草を焚いて頭に載せて健康長寿を祈る。

■07難波神社の氷室(ひむろ)祭・・・・・・・・大阪市中央区。7/21-22日。
■07みなと祭(7月第3土曜〜日曜日)【鳥取県境港市】

■08うわじま牛鬼まつり(〜24日)【愛媛県宇和島市、和霊神社】
★07小倉祇園太鼓。

★06中津祇園・・・・・・大分・中津市。中津祇園は、10万石の城下町中津を代表する祭で、 闇無浜神社(くらなしはまじ
んじゃ)を中心とする「下祇園(しもぎおん)」と 中津神社を中心として行われる「上祇園(かみぎおん)」とからなります。
その歴史は古く、570年以上の伝統があります。

京都の八坂神社より御分霊を勧請し、下正路浦の村祭として、ささやかな祭が続いていましたが、 本格的に賑やかに
なったのは、城下町中津の形成とほぼ軌を一にしています。上祇園の起源は、中津市萱津に鎮座する大江八幡神社
摂社の八坂神社の祭礼です。

1880年(明治13年)に中津城址の下段に中津神社が創建された際に、大江八幡神社の八坂神社の御分霊とともに、
祇園車も中津神社へと遷りました。最盛期には、8台の祇園車が巡幸していました。ここでは、古魚町、古博多町、京
町、諸町、新博多町、殿町、片端町、新魚町を紹介します。

下祇園は中津祇園の起源であり、闇無浜神社摂社の八坂神社の祭礼として行われています。最盛期には、10台の祇
園車が列を連ねて御神幸していました。下祇園の慣わしで、古い祇園車ほど行列の後ろということが決められていまし
た。現在では、舟車の下正路町を先頭に、各踊車は輪番制度となっています。

ここでは、龍王町、船場町、米町、船町、堀川町、姫路町、塩町、桜町、豊後町、下正路町、角木町を紹介します。

現在では、毎年7月20日過ぎの金曜日から日曜日の3日間、 下祇園上祇園合わせて12台の「祇園車」と呼ばれる漆塗
りの華麗な山車が、中津の城下町(南部校区・北部校区)を練り歩き、高〆が張られた辻々では、祇園車の舞台で民
舞等が奉納されます。

その賑やかさから、昭和初期までは九州三大祇園祭(博多祇園山笠・小倉祇園太鼓)と称され、今日でも豊前三大祭
り(宇佐八幡宮夏越し祭・小倉祇園祭)・ 豊前三大祇園(小倉祇園太鼓・今井祇園)・ 大分三大祇園(日田祇園・臼杵
祇園)と称されています。

見所は、朝車(中日)・戻車(最終日)の晩に行われる「練り込み」で、 双方の広い境内で高さ約5メートルの祇園車を勇
壮に走らせます。 このことから、祇園車は走る文化財とも呼ばれます。下祇園は猛スピードが魅力の「棒練り」で、直
線的に走ります。一方、上祇園はダイナミックな舵きりが魅力の「廻し練り」で、弧を描くように走ります。

スピードという意味では、平成9年度より始まった『走り抜け』も見逃せません。この行事は、合計12台の祇園車が、福
沢通りをその名のとおり、颯爽と走り抜けていくもので、朝車(中日)の夜に行われます。

また、初日の花火大会終了後、下祇園の祇園車が猛スピードで闇無浜神社へ入っていく「御宮入り」も 迫力満点です
(以上、http://www.ogionsan.net/より転載)。

▲自然公園の日。
■07勤労青少年の日。























































 

7/22 
    
   
▼09/6月朔。

■会津田島の祇園祭・・・・・・800余年の歴史を持ち、日本三大祇園祭の一つ、24日まで。福島県。
■相馬「野馬追い」・・・・・・福島・原町市ほか、25日まで。
■08-09黒岩虚空蔵詣・・・・・・満願寺(福島市黒岩町)で7/22〜23日。

★11山あげ祭(〜24日:7月第4金曜日〜日曜日)【栃木県烏山市】
山あげ祭り  7月第四木〜日曜日 栃木県那須烏山http://www.omatsuri.com/movie/yamaage.html 動画

■06-07-09熊谷うちわ祭り。

■愛知・犬山舟祭・・・・・・三光稲荷の夏祭り。川祭りでは花火が上がる。
★06尾張津島天王祭り・・・・・・愛知県津島市、津島神社で7月第4土曜日〜日曜日(但し6/15を参照)。

■06-07-09福井・気比の総参祭・・・・・・常宮祭とも言う。敦賀市の気比神宮から摂社の常宮神宮(ご祭神は八百万比
盗_)に船渡御する。下記の坐摩神社の神功皇后の出発に由来する祭り。

---とは言え、7/22日の方位は尼崎であり、大阪市北区石町は7/18日の方角になるので、当時の淀川の流域も石町
の範囲も、今とは違ったものと思われる。

▼09潮かけ祭(旧暦6月1日)【三重県志摩市志摩町】
★06お木曳き行事(川曳)・・・・・・平成18/7/22〜7/30までの各土日、神宮に御料材を運搬する。伊勢市観光政策課
0596-21-5565。一日神領民参加は052-589-2689

■06きゅうり封じ・・・・・・・京都市右京区の蓮華寺075-462-5300では弘法大師が伝えたと言われるキュウリによる疫病
除けの祈祷を7/22〜23と8/4に行う。

■07大阪・能勢(のせ)妙見山・虫払会・祈祷祭・・・・・・・大阪府・能勢町で7/22-24日。

■大阪・坐摩神社・夏祭・・・・・・坐摩神社はイカスリ神社と呼ぶ。神功皇后が凱旋したとき天照大神を祭られたと言う
石町のお旅所に神輿と御供物が渡御する。西横堀では人形流し、だんじりと練物が出る。

■06-07-09-11うわじま牛鬼まつり(〜24日)【愛媛県宇和島市、和霊神社】
http://www.omatsuri.com/movie/usioni.html 動画

■08-09熊本・本妙寺・頓写会・・・・・・日蓮宗による加藤清正の法会。本妙寺(熊本市花園町)で7/22〜24日、小石に
法華経の一字を記し、加藤清正の冥福を祈る。
★06長崎ペーロン(7月第四土曜日〜日曜日)【長崎市】。

■09日食------トカラ列島など皆既日食。その他の日本各地は部分日食。










































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