http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p122 (未定稿)


   神々の歳時記    6月・下旬 但し方位による
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6月・下旬 
●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 http://
www.omatsuri.com/link/linkvex.html/mailmag@mag2.comから

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-6月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

6月・下旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ 
 


6/24 
       

■06-07-09東京芝・愛宕神社四万六千日詣り・・・・・・愛宕とは愛宕とは母神を死去させた「仇子」を意味し、一般には
火の神、つまり家具槌神、または火産霊命を祭る宮である。此処は古墳状を呈する高台であり、其の主軸方位は、略
1/16〜7/18の名残を見せている。

その後、源基経にも縁の古社とも思われるが、本年(H15)を400年祭と言うので、その起源としたのは恐らくもっと後の、
この社の創建時を焦点にした祭りなのであろう。昔ここは愛宕山・円福寺とか愛宕権現と言い、毎年1/3に「お事の使
い」と言う縁日があった。

だが今は其の逆の時期のこの6/24日に小児の虫除けのお守りとして、ホオズキが分けられたが、別名「泥棒祭」と
も言われた。此処は高台である。

そのため昔、将軍が石段の上の桜の枝を所望したが86段と言う急階段を前に尻込みする武士たちの中で、たった一
人、丸亀藩の曲垣平九郎が馬で駆け上って桜の枝を折って戻って来て将軍に献じた、と言う伝説の急な石段上にある
略東向きの石鳥居がある。@

因みに隣接の万年山・青松寺は太田道灌が江戸城内に創建した寺で、その後に此処に移り、今は曹洞宗の寺になっ
ている。

■07熱田神宮・大高斎田・御田植祭。

■例年-伊雑(いざわ)宮・御田植祭【三重県志摩郡磯部町、伊雑宮御料田】・・・・・伊勢神宮・神田・御田植祭・・・・・・磯部
では当日の昼前から始まる。

●鳥取・宇部野・松明祭・・・・・尼子十勇士の一人、山中鹿之助が籠城したと言われる甑(こしき)山城址のある山頂で
行う。

●06-07-09清正公忌・・・・・・加藤清正は慶長16(1611)年6/24日に病気で卒した。50歳だった。この日をグレゴリオ
暦にすれば同年の8/2日となる。其処で方位から確認しよう。彼は熱心な日蓮宗の信徒だったので、墓地は花園本妙
寺の浄池廟・清正廟である。其処から東に松並木の長い下り坂で参道が伸びている。

其の参道の向きは4/12日であり、熊本城の方位とは少しズレる
さて鉄筋コンクリートの近代建築の建造物が数十年も持たないのに対して、彼の築いた西の櫓は地震台風にも耐えて
400年後の今もビクともしていないから立派である。

熊本は細川公の城下町だったが地元では今尚、それ以前の殿様である清正公の人気が高い。公家風の細川氏よりも
武将として、或いは名建築家として、或いは朝鮮・蔚山(ウルサン)での彼の武名に共感するのか、もしくは豊臣に至誠
を貫いた事への評価なのか。

また彼は陶工を朝鮮から連れ帰ったが、彼らを士族の待遇で遇して陶器生産を発展させたので朝鮮人からも今尚尊
敬されている。何れにせよ清正は九州男児の琴線に触れるようだ。ただ彼の築き上げた熊本城の本丸はこの廟から
は生憎ズレて4/27方位になるのである(4月29日の姫島を参照)

また本丸北には加藤神社があってご祭神が清正公である。本丸との位置方位は命日に略合致する。其のラインの前
後には北に正善寺、南には本丸、次に西櫓門、次に櫨(ハゼ)方門、そして本励寺、琴平神社となるが、其の仔細は不
明である。とすれば彼は城内で没したのではないかも知れない。

花園の先には貢町・瑞巌寺があるので其の辺りで療養していた可能性も有る。其の瑞巌寺から命日の6/24日方位
に進めば彼の菩提寺・花園本妙寺の浄池廟・清正廟に至るからだ。@

そしてこの6/24日と言う月日は江戸初期の旧暦月日である。従ってグレゴリオ暦にすれば同年の8/2日となる。け
れども今の西暦の8/2日ではなくて、方位では何故か6/24日とピッタリ重なるのです。とすれば日蓮宗は当時から
西暦式の今の太陽暦を採用していたのだろうか。

因みに本妙寺の3代目住職の日遥上人(ヨン・デナム)は少年の彼を見込んで清正が朝鮮から連れ帰って育てた人物
である。清正はまた朝鮮から車一族など多くの陶工も連れ帰った。其の一部が伊万里や今の薩摩焼の伝統を残した。
そして現在、対馬アリラン祭りがあるが、此れは清正以後の400年前の朝鮮通信使を再現する祭りである。

通信使の当初の目的は、日本に連れて来られた朝鮮人たちの帰還を求めたものだった。所が朝鮮人たちは日本で厚
遇されたので、帰還する者は漸減して行ったと云う。

◆例年-林檎忌(美空ひばり忌)。

◎UFOの日・・・・・・・・・鎌倉期の古典「扶桑略記」には、推古天皇四年、飛鳥寺が出来た頃に未確認飛行物体を見
たと思われる記述がある。近年は世界各地でUFO発見のニュースが続く。福島県飯野町は「UFOの里」として「UFO
ふれあい館」が建てられている(04/6/24、読売テレビ「今日は何の日」より)。

太陽の祭り・・・・・・・インカ帝国の首都(ペルーのクスコ)で毎年6/24に行われるインティライミの祭りは太陽の祭り
です。しかし太陽の祭りは昔の日本では何処でも行われた「玉串の祭り」の事でした。でも日本人はもうとっくに其の事
も忘れてしまって外国にしかないものだと思っている。

クスコでもスペインに征服されてから此の祭りは禁止されていた。20世紀に復活したのである。南半球では冬至に近い
此の6/24日に行う。太鼓や法螺貝の音が響く中、皇帝に扮した男性が金の輿で兵士役や女性を従えて練り歩く。先住
民の言語で進められ、街に先住民を表す虹色の旗が溢れる。

此の日は太陽を崇めて収穫を感謝した往時のインカ帝国の姿が再現する。クライマックスは巨石の砦跡での儀式。入
場券は約1万円と高額だが、世界中から観光客が集まり、寒風の中、儀式を見守る(07/7/12朝日より引用)。






























































 6/25 
                     ○◎□◇■◆△▽▲▼☆★


■09毛越寺・あやめ祭・・・・・・・・・・6月中旬から7月上旬。

■91後宇多上皇の命日・・・・・彼は亀山天皇の次に皇位継承してやがて上皇として大覚寺に出家し、正中1(1324)6/
25己卯、ユリウス7/16に58歳で崩御した。現在治定されている陵(朝原山嵯峨・上嵯峨蓮華峰寺陵)は大覚寺から逆
方位の1/31方位となる。

此処が真実に彼の陵とすれば、今の大覚寺ではなくて、大沢池の東に院が有ったものと推定する。其処からならば命
日の7/16の逆方位である1/17に位置するからです。但し既に天皇ではなくて上皇となっていた為、内裏からの方位で
はなく大覚寺の東院からの方位で祀られた事になる。

在位中に蒙古襲来(弘安の役)があり、先帝と共に未曾有の国難に際して神仏の加護によって此れを避けた。大覚寺
には今も五大明王が祭られている。彼は法皇として此処で暮らして大覚寺の伽藍を新たに造営して中興の祖と敬われ
て来た。五大堂には本尊・五大明王像が安置されている。不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の尊像である。

台座の裏の墨書によれば仏師・明円が1176/11月に後白河上皇の御所で造り始め、翌年3月には完成していた模様。
当時の呪術はこうした五大力尊によって怨敵調伏を祈願した事になります。近代戦と言われる今の集団戦が野蛮な大
量殺戮である事に比べれば、こうした呪術による国難回避法がずっと優れていたと言えよう。

其の労苦のためか先帝が57歳の嘉元3(1305)9/15、ユリウス暦にして10/4に崩御したので天竜寺境内の北
(亀山法華堂)亀山陵に葬った。先に述べた通り後宇多が大覚寺の東に院を設けて和式で祭った理由が此処に有った
と推定する。また先帝の時に大覚寺、持明院両統の対立が始まり、彼は大覚寺統となった。

両派の対立は単なる権力や欲得のものとか骨肉の争いではなくて暦法の違い、つまり宮と寺の祭式の問題が原因か
と思われ、其れが次の南北朝の並立と2つの暦法となるものと思われる。

■08-09北野天満宮夏越の祓い・・・・・・・京都市上京区の北野天満宮075-461-0005で大茅の輪潜り。一般の神社で
は六月の晦日に「夏越の祓い」をするが、菅公をご祭神とする天満宮では25日が縁日であり、特に此の日は菅公の誕
生日ともされている日(但し今は6/30日も行っている)。

因みに、この祓いの本来の期日は本来の元旦、つまり冬至の対極(183日目)が夏至であり、今年(2004)の夏至は6/
22日であるから其の前日6/21日に此れを行うのが順当とすれば、月末よりも6/25日に行う方が本来の意味に近いか
も知れない。

■08-09大神神社の御田植祭・・・・・・・奈良県桜井市の大神神社の大美和の杜・神饌田で午前10時から早乙女たちが
菅笠姿に赤襷で早苗を植える。

★s25/6/25朝鮮戦争始まる。翌年マッカーサー罷免。































































6/26 



■方位・・・・・・6/26日の逆方位は12/26日。
■近江神宮・献菓・献煎茶祭。
■07-08-09会式・・・・・・摩尼寺(鳥取市覚寺)で6/26〜28日。 

★09国連憲章・調印記念日。
































































6/27 
 
      

■09諏訪・「鹿島流し」・・・・・・・・・・秋田、大曲。

■09東京・浅草「お富士さんの植木市」・・・・・・・28日まで。因みに浅草寺の参道は、本堂から雷門が6/27日を向いて
いる。またその逆に、参道から雷門、そして本堂に向う暦・方位は12/26日方位を黙止しているが、此れは源義朝の命
日、即ち承暦元(1077)年1/4日に近い。とすれば彼が関係した寺だったのだろう?

■07-08-09開山大法会・・・・・・金剛証寺(三重県伊勢市)で6/27〜29日。  
■09近江神宮・鎮火祭。

















































































6/28 
 
      

■07-09琴瀬山神社祭・・・・・・・・愛知。
■09大高斎田御田植祭・・・・・・・愛知・熱田神宮。

■天智・天武の遷宮・・・・・天智天皇が近江の宮で1/7に崩御した。この命日を日本書紀では671/12/乙丑3と
し、其れをユリウス暦にすれば672/1/7になる。従って陵は今、治定されている京都山科陵ではなく、堅田近くの天
皇陵古墳か、もしくは元の倭京の方位に造られたと見るべきであり、後者では飛鳥の「石舞台古墳」がある。

此の両処が天智天皇陵である事は、次の天武天皇が此のラインの飛鳥に宮を遷した事からも合点できよう。無論、天
武もまた当時の月暦・つまり陰陽暦による暦日から方位を決して飛鳥を選び其処に大宮を設けた訳であり、其れにより
彼はやがて「浄御原天皇」とも呼ばれた。

但し、大津と飛鳥とは新暦方位では12/28←・→6/28.5、即ち略南北に位置する訳であって、そうすると命日ライ
ンとは暦方位が多少ズレてしまうが、其れがズレかどうかについて、何れ月暦に対比して詳しく検証する予定。

■09近江神宮・献菓献煎祭・水難者慰霊祭・・・・・・・・大津市。


■09貿易記念日。














































































6/29 
 


■09靖国神社の創立記念祭・・・・・・東京。

■06両国花火・・・・・・東京・隅田川。2万発を上げるので100万人が訪れて観る。吉宗の時に始まり、玉屋・鍵屋と囃さ
れて江戸っ子の花となった。玉屋の流れは現在、茨城県で操業している。両国花火は幕末と戦後に中断したが6/8に
復活し、06年は6/29(木)日に開催(06/6/8読売テレビの「今日は何の日」より引用)。

●三浦道寸まつり「笠懸」・・・・・・三浦道寸まつり笠懸が、5月29日(日)に、静岡県三浦市にて開催されます。相模の武士、三浦一族の鎮魂祭で
供養と笠懸(かさがけ)を、武田流弓馬道の方々が、披露されるんですよ!戦国最強の騎馬軍団の実力を目の当たりに(嬉)  

詳しくは三浦市役所 http://www.city.miura.kanagawa.jp/(以上、メルマガ【なっとく歴史館】http://1rekisi.jpより転載)。

●允恭天皇の陵・・・・・・・羽曳野市・土師の里にある伝・允恭天皇の陵は、この日が命日であると示しているので生
憎、允恭天皇の陵ではない事を明かしている。

また前方部の先には北条町に黒田神社、そして大和川を越えた所の柏原市には八剣神社があり、後者のご祭神は天
穂日命であり、下記の道明寺天満宮と一緒である。更に其の先は高槻市に向かう。また逆方位の12/28日が日迎
えの祭りである事を黙示している。

其の日の方角には道明寺天満宮が位置しており、此処は昔は土師神社の氏寺として土師寺と呼ばれていた。@















































 











6/30 
       

夏越祓(西暦)動画http://www.omatsuri.com/movie/nagosi.html 

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。


全国各地の神社で「夏越しの祓い」の神事・・・・・・全国各地の神社で「夏越しの祓い」の神事。但し、改暦の行政力
の産物として、此れを七月末に行う所も有る。

だが此の神事が古来、「水無月の晦日の祓い」と言って来た神事であり、皇居では南に位置する浜離宮の海中に祓物
を流すのである。つまり方位で見れば明確である。夏越しは「和し」によるとも言われる。其の後に半夏生(04/7/1)
となる。つまり本来は六月末ではなくて、新暦なら夏至の宵宮に行うべき神事だったろう。

とすれば七月末に行っては季節感が一ヵ月以上もズレるし、晦日(ツゴモリ)とあるのを新月とは限らない7/31にした
のでは日付も違う(「夏越の祓い」を参照)。しかも7/31では旧暦の七夕祭りや旧盆が其の後に前後してやって来る。
と言う風に、此処でも改暦が混乱と弊害を見せている。

■例年-夏越の祓 ・茅の輪くぐり【埼玉県さいたま市大宮区、氷川神社】

■07-08-09大念仏会・・・・・・善光寺(長野市元善町)。
▲犬山・大県・千座の祓い・・・・・・・愛知。茅の輪神事。宮司が六回潜り、信徒は三回潜る。

■09金沢・氷室開き・・・・・・・湯涌温泉の氷室開き。観光協会主催。以下、http://www.yuwaku.gr.jp/page1.html「*氷
室開き」より引用。------日時/ 平成20年6月30日(月)、午前10時よりお昼頃まで。
会場/ 湯涌温泉薬師寺境内氷室小屋、金沢湯涌夢二館前広場。
 
内容/大寒に詰められた氷室の雪をとりだす伝統行事で、氷室の仕込み・氷室開きは季節の風物詩となっています。
昔加賀藩が将軍家へ氷室雪を献上した古事に因む。また、この日は氷室まんじゅうを食し一年の無病息災を願いま
す。氷室味の集いも開催(当番旅館で昼食・温泉入浴)します。

主催/ 湯涌温泉観光協会☆お問い合せは、湯涌温泉観光協会(TEL235-1040)

■09東尋坊・供養祭・・・・・・福井。平安時代の平泉寺の僧、東尋坊の由来についてはhttp://www.net24.ne.jp/~
oominato/01/r/04.htmlを参照。

■09近江神宮・饗宴祭(日供神饌講・講社大祭)・大祓式。
■08-09夏越祓【京都市内、各地神社】

■06-07-08-09茅の輪くぐり・・・・・・京都市上京区の北野天満宮では午後4時から水無月の祓いの神事の後に「茅の
輪くぐり」を行う。ヒトガタによる祓いは事前に申し込む。この日、茅の輪は蘇民将来に纏わる独特の詞を唱えながら左
右左と潜る。また茅の輪のミニチュアは350円で社務所にある。

また京都の人たちは昔から邪気祓いのために七夕には素麺、夏越しには小豆を食べて来た。生菓子の場合は小豆菓
子を鱗にして三角に切る。何れも魔よけの意味とか(08/6/30日、昼のNHK総合テレビ)。

■06-07-09-11夏越祓【京都市北区、上賀茂神社・他各地神社】

■09石上(いそのかみ)でんでん祭り・・・・・・奈良・天理市に鎮まる物部氏の石上神宮0743-62-0900 で続く神剣渡御祭(で
んでん祭)。国宝の拝殿は鎌倉時代の創建。多くの御神宝が収蔵され、布都御魂剣(ふつのみたまつるぎ)という神剣は明
治7年禁足地から発掘され、現在では本殿に祀られている。

毎年6月30日に行われる神剣渡御祭(でんでん祭)は、五穀豊穣や悪霊退散を祈るお祭りで、神剣が末社の神田神社
へ渡御、早苗を奉じた作男や早乙女らが従い、神田神社では御田植祭が行われます。

■例年-愛染祭(ゆかた祭)・・・・・・6/30日から7/2日の3日間。「縁結び」のご利益で知られる。大阪市天王寺区の四天
王寺別院・勝鬘まん院・愛染堂で愛染祭(ゆかた祭り)が6月30〜7月2日まで。天神祭・住吉祭に先立って大阪の夏祭り
のトップを切ると言われる。愛染明王は愛嬌の神として花柳界、芸人・劇界からも信仰されて来た。

また愛染娘12人のホエ(宝恵)駕籠行列が人気。夕方から「夏越しの祓えの大法要」がある。因みに勝鬘院は593年、
聖徳太子によって建立された四天王寺四個院の1つ。太子は僧侶に無病息災を祈念させた事が、「夏越しの祓え」と
「愛染祭」のルーツと言われ、1000年以上続く「日本最古の夏祭り」とも言われる。

院内に様々な薬草が植えられ、「施薬院」としての機能を果たしていた。また愛染明王は平安時代に奉安され、この期
間中だけ御開帳される。今は商売繁盛と良縁成就の祭りとして有名(07/6/6朝日記事より一部引用)。
「動画」http://www.omatsuri.com/movie/aizen.html 

■住吉大社の六月大祓式・・・・・・・・・大阪。半年間の国の大祓いと崇敬者各自の大祓いが15:00から本宮で行われ
る。
住吉大社の旧例祭・・・・・・・・住吉大社の例祭は元々六月末日だった。其れが今は7/31日にしている事と、この旧例
祭(「住吉南祭」)の由来が実は古墳の祭りだったと思われるので、その辺りから吟味する。と言うのは先ず、各地に住
吉神社があり、ご祭神が略同じであるのに例祭日がバラバラであるのはどうしてなのか。

例えば同由来で同じ神を祭る下関市の古社・住吉神社の御忌祭が12/8〜15日である。住吉三神は住之江の神、即ち
日本紀で言う少童、即ち海神の三神、即ち安曇氏の神を田裳見宿禰が武庫郡莵原郷、即ち神戸辺りの茨住吉に祭っ
たのが始まりとされていて、其の子孫が津守氏である。

その後、仁徳天皇のときに住之江の津に移し、雄略天皇の時に神功皇后を合祀したと言われる。ただ先の神戸の話と
して東灘の魚住地区や兵庫区の本住吉神社など諸説がある。ただ往時の事を神戸の地で確認するのは不能なので
其れは除外して話を進める。

当・住吉大社は摂津の長狭の地に隣接して所在し、また「住吉神代記」(重文)を保有する大社であるが、此処は仁徳の
時に波多毘若郎女が夢で神託を得たと言う縁起がある。但し、記紀では似た名前が仁徳の妹と皇女と言う別人の形で
登場するので紛らわしい。

先ず、「記」では仁徳の妹には波多(幡)毘(日之)若郎女があり、次に「紀」では皇女として幡梭皇女がある。その間には
恐らく数十年の隔たりがある訳だが、後者が黒姫亡き後の履中6(405)年に、履中天皇の後妻の形で皇后になっている
ので、此れは彼女の話と見て差し支えなかろう。

さて、神託の夢とは、「吾は住吉の大神の御魂ぞ」、「為婆天利神、亦は猪加志利之神とまをす」、と託かみがかり給ひき。
よって津守宿禰を斎き祀らしむとある。此処が当社の起源に関わる時期であり、微妙な所です。この部分の記述が正
しいとすれば、「為婆天」は恐らく「茨」または「果て」、つまり境・堺に通じ、また「猪加志利は「生かし」と見るべきか。

それとも「為、加持利」と採れば一つの意味に繋がろう。しかもこの時、同時に西成郡に神戸(神領)を与え、また津守連
をハフリ(祝)に奉仕(仕え奉らしめ)ているからです。

この「連」の実態については従来から余り解説された事はなかったので一言すれば、彼らは一つの同族組織であるの
みならず、ある目的で一定の方位に一族として点在して並び、長期間に亙って特定の先祖祭りの主務を司る一団だっ
たと推定出来る。

ある目的とは加持、つまり「呪り」である。何れにせよ、住吉大社には第一殿から第四殿まで西向に整列しており、各々
天照太神、宇佐明神、底筒・表筒・中筒、そして神功皇后とを祭って来たとは言え、その御祭神には謎がある。

何処にも建て前と本音があり、此処のような古社ともなれば尚更の事ではあるが、関係者が本音を漏らす事はタブー
であり、クビである(いづち会2003/11/8日、藤平一先生談)。だが此処では本音以上の真実を明かしてしまおう。

此処は摂津国一宮・正一位住之江(住吉)明神と言った。とは言え、明治以前の神仏習合時代は寺の権力の方が強か
ったものです。例えば此処は孝謙天皇建営の寺として、東西に両塔が並び建つ大伽藍の神宮寺(東叡山末・新羅寺)
があり、文禄には2060、幕末には360石を領していた。

新羅から三韓征伐時に伝来した本尊(薬師如来)は無論秘仏だった。次に
@先ずこの近辺に散在する「潮満つ玉と潮干玉」の伝説に関するものとして、此処は若狭の若狭彦神社からの方位が
1/6.5日←→7/7.5日に当たり、此れは豊玉彦・姫命のラインを意味する。

更に其の前は頭が北、足が南に伸びた古墳があり、その被葬者は住吉仲皇子(記紀で違うが「記」では墨之江中王と
ある)と伝えられる(関係者の秘話)。古墳の方位は暦日にして12/29.5日←→6/28.5日を向いていたが今はない(削平
された)。

この様に此処には謎が多いものの、壮大な伽藍は見せかけの物であるから社殿にも惑わされてはいけない。本当の
事は定点と方位で事足りるので分かる所から解説すれば、この大社は五つの霊ラインが交差する所です。

@「潮満つ玉と潮干玉」の伝説に関しては、彼らが玉を埋めた所として大海神社と後述の「玉手、宿院、向井」の説があ
るが、この日に関しては7/7日の語呂合わせか、其れとも神輿が「七度の濱」や「七堂が濱・御祓道」を神幸したので其
れに因む名なのか、或いは其処に七堂伽藍があったとの伝説によるものなのか「七道」と言う地区もある。

そして正月七日には辰之刻と巳之刻に神事が行われた。また其の逆は無論旧暦では七夕になり、7/8には本地供、14
には百ヶ日結願をして翌7/15の盂蘭盆会へ続いた。そして9/13には下記の北祭となった。

A次は暦の神としての位置付けである。此処から3/8日←→9/8日のラインが春日大社と住吉大社の方位となり、此れ
とは別に春日大社と宿院とは、3/2日←→9/2日となる。前者は末社の楯御前・鉾御前両社に祭られた国土開発と暦の
神としての鹿島香取の祭りだったろう。

因みに香取とはカ・トリであり、即ち「日取り」を意味する布津、即ち「祝い主」の神となる。何れにせよ毎年旧暦二月に
は住吉にて国の大事としての祭りが有り、3/3日には本堂本地供、大乗会と闘鶏、其れに汐干祭とが行われた。汐干
祭では老若が沖へ出て蛤を拾う習わしだった。

その外、毎年3/9日には社前の石舞台にて法華会が行われ、舞楽が奏された。そして次は、

B国土防衛に関しての祭りである。神宮寺の本尊として薬師如来など土中の秘仏があり、また方位では、住吉大社境
内の三月会着座所から更に東に進めば神宮寺山(高安山)を経て竜田大社を通過し、伊勢の高向神社に至る。その先
は尾張・名古屋に向かうので有る。@

さて大海神社は本殿から位置が北にズレるものの、其処は津守氏の氏神であり、其の祭りは前記の通り玉手嶋へ神
輿を渡し、相撲会と競馬を行って来た外、晦日には玉手嶋の御祓いに続いて辰之刻・巳之刻の神事があった。これは
神官祓いと舞楽、神宝を捧げて門を出入りすると言う奇妙な神事だったと言う。

住吉社の代々の神職は津守氏であり、その出自は、火明命の末の尾張氏の守る熱田社、つまりヤマトタケル以来の
名族の同族として知られている外、本殿の配置は八陣の法と鶴翼の陣であるとも言われ、またこの住吉の神は一神三
神、三神九神、九神一神とも言われる不思議な存在である。

更に前述した武神と神器、其れに新羅寺や秘仏がある事等が一体何を意味するのか、と言いたい所であるが、余り深
入りするのは国の防衛をさらけ出す危険性もある。

よってこの辺りで止めるが、何れにしても住吉仲皇子をクーデターで倒した結果、日本は新羅から離反され、任那を失
い、白村江の戦いで大敗して百済が滅びる結果を見たとするなら、この住吉の重要性を無視して国土の安全を武力に
のみ頼る形で論ずるのは無謀と言えるだろう。

さて次にCとして北祭があり、此れは神宝「満珠」の由来のある大海神社の玉手嶋の由来や「北祭」に関する事である
が、此処では省略してDに進めば、本日の南祭の由来が判明する。

この大社の主な例祭として北祭と南祭が行われて来たが、後者の場合は、Dこの大社の最も根源的な事として、先ず
神宮寺と第一本宮を貫く位置にあった古墳、そして昔に出土したと言われる白銅鏡から真澄、即ち住之江から住吉の
名に変化したとも言われる事、そして仏式では高貴徳王菩薩と言う存在に関する祭りである。

方位は12/29.5日←→6/28.5日(旧暦では晦日に当たる)であり、このラインに石舞台とそれに続いて大社の南約300m
には正印殿址があり、後村上天皇の行在所ともなった。従ってこのラインは、先ず年末に住吉仲皇子(墨之江中王)で
はなく、其の御子の鎮魂の祭りが有ったろう。

だが此れも年末の晦日の煤払い神事と「大祓い」の時期と重なって忘れられ、或いは旧暦の師走の晦日は今の節分
の頃である。従って此れが晦日の「本堂護摩供」であり、翌日から東塔・西塔に於ける「修正会」、つまり正月行事に向
かって行った。またその逆の時期には、予め6/14日には毎年「お田植え神事」と「潮湯」があった。

これは諸人群参して御祓いの「神輿洗い」をした(此れを旧暦とすればカトリックの西暦では7/14日、即ちお盆の頃とな
るが、今は7月の第3土曜日)。そして月末の祓いに続く。祓いの行事は天武天皇時代に6月晦日の祓いと決められ、百
官一同で行われた。

旧暦時代は月末が29日か30日で終わったため、住吉では夏には「名越の祓い」とし、或いは「火替え」とも呼ばれる祭
りとなった。だがこれは元々彼(高貴徳王菩薩)の日迎えの祭りだった。だから神輿を連ねて大行列をする住吉「南祭」
となったのです。所が、此れが何時しか大祓いをして、翌日は七月朔の辰之刻の神事へと変わって行ったと思われる。

此れにしても元の方位を狂わす祭りとはせずに、古式を守って恐らくは昔から神領だった遠里小野(極楽寺があった)を
通って楯井原向井神社へと向かっただろう。楯と言い、向井と言い、住吉仲皇子の立場を暗示しているように思える
し、元の住吉明神が「茨住吉」と言われた事との関連性も伺える。

さて向井神社は皇后が凱旋した所とされており、住吉社より古くからあったと思われるが、仁徳・履中・反正の三天皇も
祭られているので、愈々その可能性が高いと言える。ただ、今は方違神社に合祀されてしまった。向井と言う村名と言
い、行基が作った向泉寺とか神社など、実に古い由緒を残す所だったから惜しまれる。

或いは、もう一つの原因として、6/30日を旧暦として見た場合は、西暦にして七月末に当たる事から、今ではこの祭り
を7月末の「名越の祓い」に続く8/1日の「南祭」にしてしまった可能性である。それにしても個別の意味でなされるべき
祭りが期日を違えれば不明となって虻蜂取らずになるから心配である。

しかも何時の頃かは不明だがこの「向井」の地ではなくて、もっと西に寄った開ぐち神社と宿院に神輿が渡る事となっ
た。因みに此処まではかつて和泉国ではなくて摂津国住吉郡でした。所で仏教にとっては、7/15日が丁度、盂蘭盆会と
なるために、相撲十番勝負を奉納していた。

それに対して宿院(堺市)は住吉大社の御旅所となってはいるが、其の名は宮と言うよりも仏寺の「院」を言ったもので
ある。

「住吉祭礼図屏風」http://www.sengoku-expo.net/ir/J/PK09-877-A.htmlを参照。----17世紀前半の作品で、左が住
吉、右を堺として描いている。

この宿院は住吉大社との方角では7/16日〜117日の方位にある。また、その逆の1/16日は仁徳天皇の命日でもあっ
たから、近くに仁徳陵のあるこの地区では7/17日、つまり前述の「潮湯」とお盆の時期・方位と重なる。

このために違和感もなく惰性で続いたものか。或いは、もう一つの原因として、6/30日を旧暦として見た場合は、西暦
にして七月末に当たる事から、今ではこの祭りを7月末の「名越の祓い」に続く8/1日の「南祭」にしてしまった可能性で
ある。@

其れに関して大社の古墳跡(前方部)に第一本殿があり、其の南に若宮八幡宮が西向きにある。八幡神は応神天皇と
決まっているが、此処で言う本来の若宮とは、反正天皇か大草香皇子の若宮、即ち「我孫子(あびこ)」を意味した筈
だ。住吉大社のご祭神について石清水八幡の古文書は、このご祭神の本地を前記の「高貴徳王菩薩」としている。

此れなら応神天皇よりも、次の「仁徳」時代を思わせる尊号である。だが彼の亡くなった399年から既に1000年を過ぎた
1400年頃には、此処は特定の祖先や太陽の祭りではなく、月を神とする仏式暦により祖霊祭りをする仏寺として、一般
的な「盂蘭盆会」と言う仏式行事に取って代わられてしまった。

何れにせよ、伝・反正天皇陵に繋がる仁徳陵と住吉大社の位置関係が曲りなりにも軸上に連なる事から見れば、この
日の祭りは最早子孫と切り離された「我孫子」若宮のための最重要な秘祭であったろう。

特に昔の「南祭」は大社から西南の宿院へ向かう事ではなくて、大社から南の百舌鳥耳原北陵(伝・反正陵)と向泉寺、
其れに向井神社、即ち現在の方違神社近くへ向かって行っていた祭りと判明する。

住吉・「追記」・・・ ・・・ ・・・ 以上の結論として、重ねて述べれば、住吉大社は先ず五つの霊ラインが交叉する場であ
り、主な祭りが四つ行われた。其処にはかつて古墳があった事と、向井神社が合祀された事である。

古墳の主は住吉大社の若宮・「我孫子(あびこ)」であり、向井神社には伝承の通り反正天皇、もしくは全く別の大草香
皇子が葬られていた可能性が強い。そのため近くに仁徳天皇から見れば孫となる我孫子(アビコ)の姓と地名を残し
た。其の子孫から後に我孫子宿禰が出た。

彼らは摂津・三輪氏族として大己貴命孫・天八現津彦命之後と称し、河内と和泉に一部を残して下総、美濃、越前など
へ移って行った模様である。以来此処(住之江)では津守氏が栄えた。津守連は、火明命の末裔としての尾張氏と同族
であり、また先の反正天皇の子孫である丹治比氏と同族だった。

だから当初から田裳見宿禰が神職となって住吉明神を祭ったが、その後は仲皇子を1/6日と7/7日に祭り、その後は
我孫子(御子)を12月末と6月末(南祭)に忌み名または高貴王菩薩として祭っただろう。その為に神主として津守の吾
田、次は「的」と言う人が系図に連なり、やがて代々住吉の神主七氏族を率いる大族となって行く。

それに対して、此処から遠ざかって行った氏族がまだある。例えばかつて「摂津国、兎原郡住吉」と書かれた地名の
「茨」氏族があった。余談になるが向井氏は後の時代に春日祀官として登場し、今も河内に姓として散在するが、史上
に目立つ事はなかった。

次に住之江、または住吉氏族は毛野氏族と同族として後に朝臣を出したものの目立った働きは留めていない。そして
摂津で住道郷の地名を残したスムジ(住道)氏は河内國丹北郡住道村に住み、楯原里に住道曾禰神を祀った。彼らは
天津彦根命の末裔としていたが、河内から常陸の茨城國造となって去り、後に井原の姓に変化したかとも思われる。

そして住道首や住跡物部として、或いは中臣住道として他流に同化した。また玉手氏は葛城氏族であり、即ち仁徳皇
后が生まれた家の支族であるから住吉仲皇子や反正天皇にとっては母の実家である。だから当然、彼の子孫は葛城
氏によって守られたろうが、表には立てず、よって後を丹治比に託して去ったとも思われる。

此処は今の松原市で「柴垣宮」として残り、或いは反正天皇の後裔が丹比郷として居つき、今は美原町(堺市に合併)
である。ともあれ玉手氏は後に漸く天武朝になってから朝臣の一人として他家に並ぶ者が出た。そして住道首や住跡
物部として、或いは中臣住道として他流に同化した。

次に楯氏は、豊後の古族に名を残す以外は不詳である(「8/1日の南祭」を参照)。因みに住吉大社は211年に創建とさ
れているので、3年後の2011年にはご鎮座1800年を迎える。国宝の本殿は今、真新しく葺き替えられた。



















6月旧暦
▼11潮かけ祭(旧暦6月1日)【三重県志摩市志摩町】----2011/7/1
▼11管弦祭(旧暦6月17日)【広島県廿日市市宮島町】-----2011/7/17
▼11住吉祭(旧暦6月29日)【広島県大崎上島町】-----2011/7/29























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■尚、各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年06-07と追加する形で示していますので、
*開催日等の詳細には主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。

■「神々の歳時記」に記した例は仮説ではなくて、太陽暦に重ねて古式祭による祭政一致を行っていた古からの日本
文化の原理です。其の具体例を今回、公開したものですが、海外への情報流失防止のため、特に「本文」については0
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