http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」 p109  (未定稿)


  神々の歳時記  5月後1 但し方位による
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●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 http://
www.omatsuri.com/link/linkvex.htmlから
及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-5月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

5月後1 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★



5/17  


■函館五稜郭祭(〜18日)。

■「山寺山王祭」(山形市)・・・・貞観2(860)年開山の日枝神社の大祭。釈迦三尊を配した三基の本神輿が威勢良く
ぶつかり合いながら商店街を走り抜ける。 
    
★08仙台青葉まつり(〜18日:5月第3土曜〜日曜日)【宮城県仙台市、定禅寺通ほか)。

■例年(2011年は中止)-日光東照宮・春季例大祭・千人行列・・・・・・・17〜18日、栃木・日光市。行列に昔は50人の
僧が加わったが今は別になった(但し4/17も参照)。 
■07-08延年舞・・・・・・輪王寺(栃木県日光市)。4/17を参照。

■09浅草・三社祭。
■成田山薪能(千葉・成田市・成田山新勝寺)。     
■06-08伊豆下田・黒船祭。

■本栖公家行列(山梨・上九一色村)・・・・・奴の槍の妙技が見もの。

道鏡の命日ライン・・・・・・・彼は物部系・弓削氏の出だが天智天皇の曾孫(志紀親王)の第六子とも伝えられ、高僧
となり、やがて46孝謙天皇に重用されて法王となったが、和気清麻呂の忠言によって挫かれた。

また神護景雲4(宝亀元)/8/癸巳4、即ち770/8/28、グレゴリオ暦では9/1日に孝謙天皇が崩御により、次の光仁天皇
の時代になったので彼は下野・薬師寺の別当として左遷され、配所にて没し、「庶人の礼」をもって葬られた、と言われ
る。下野薬師寺は東大寺と観音寺と並んで三戒壇院の一つでした。

彼の左遷が宝亀1(770)8月、死去が宝亀3(772)4/7(U5/13、G5/17)とすれば、つまり女帝の崩御の直後に彼は
下野へ下って其の2年後に没した事となる。所で、茨城県には「御前山」と言う名勝地があり、女帝と道鏡とのロマンが
語り継がれて来た。

山と言っても標高146mの高さしかないが、山上には緩やかな平地があり、其の山麓では皇都川と那珂川の清流が合
流し、砂州が広がる景勝地である事から、「関東の嵐山」としての名声が高かった。さて前述の通り、彼女の亡き後、道
鏡は下野の薬師寺に下野したが、其れを左遷と言うのは「下衆の勘ぐり」となる。@

また御前山には「お二人が烏山から船で那珂川を下り、伊勢畑に伝説を残して更に下って那珂川のほとり、山水の景
色の優れている御前山に宮殿を置いて、暫く滞在された」との伝説まで残っている。更に、その地と、先の薬師寺跡と
の方位は、道鏡の命日ラインに当たるのです。

何れにせよ、御ふた方の晩年の痕跡は、文献にも、また、奈良や大津の地にも少ないが、この下野・常陸の地には色
濃く残されていた訳です。この伝説はしかし、お二人の晩年ではなく、中年頃の話であろうか。彼女がいったん天皇位
を譲位し、出家した後は仏徒として比較的自由の身となったからだろう。

また各地の国分寺・尼寺を監督する立場にあり、取り分けこの薬師寺は僧の養成のための戒壇院として、大宰府と東
大寺と並ぶ位置付けにあり、また当時、金を産出した東北に睨みを利かせる要地としても大宰府に優る重要性があっ
た。また霞ヶ浦の北の美野里町竹原にも孝謙天皇宮との伝説が残っている。

従って史実には無くとも、お二人が揃って関東の地に旅した可能性はあった。其れをスキャンダルとして失脚の理由に
したのは多分、対抗勢力の妬みであろう。彼はスキャンダラスに語られて来たが実は禅師・聖として立派に、潔く最後
を飾っているのである。

先の御前山と言う固有名詞では「静御前」など、女人としての先入観を先ず強く与えるネーミングである。でも此処は神
を迎える「見崎」であり、ミサキを漢字では「御前」と書いた訳である。つまり亡き孝謙天皇の御霊を神霊として迎える場
であって、密会の隠れ家を建てた痕跡はないのである。

しかし皇室の祭事を彼のような雲上人が代行したとしても、庶民にとっては理解の外であるから、菅原道真公と比べて
人気がない。と言うより寧ろ死して尚、石を投げられているのだ。

ともあれ方位から見れば、彼は当時、唐から苦労して来日した高僧・鑑真和上が関わった律宗、東大寺や西大寺の法
相宗など佛教式の暦法ではなくて、日本古来の聖道、つまり方位に基づく和式(太陽)暦で彼女を祭った事になるから意
外です。いや実に彼は潔く立派な禅師・ヒジリとして最後を締め括っている。

だが恐らく彼を妬む輩たちが此れをスキャンダラスに騒ぎ立て、彼を追い落として二度と戻れないように「事件」としてデ
ッチ上げて実権を乗っ取ったものかも知れない。その結果、世に「道鏡事件」として彼は以後も「三文ドラマ」で面白く語
られる事となった。

其れ以前から彼は丹波国に梅本院(廃寺)に伝説を残し、また若狭一ノ宮と神宮寺の建立に関わり、更に当代随一の
行基の上に立って日本の神仏習合をスタートさせたとも言われる。聖武天皇の遺志を継いで孝謙天皇が東大寺・大仏
を開眼し、その後に全国に国分寺と尼寺を造り、また東大寺に対する西大寺を建立して神仏習合の形を完成した。

其れを中心になって成し遂げたのは外でもない、道鏡であったろう。だが、弓削氏の祖神を祭る処として彼の出身地の
八尾市内、或いは弓削氏の分散地に弓削神社があるのを別とすれば、彼を祭る寺社が瀬戸内海の小島の愛媛県越
智郡弓削町に法王社として残る以外は何もないから哀れである。

彼は聖武天皇と孝謙天皇を河内・柏原に行幸させてやがて西ノ京とした。東大寺の大仏の原型は聖武・孝謙父娘が柏
原の知識寺に行幸してルシャナ仏を拝観して大いに感動し其の仏像をモデルにしたものであり、また大仏殿の原型は
行基に命じて奈良市の菅原寺に10/1の縮尺で建てるなど、道鏡が全て最初から中心的な働きをしていた。

彼は元正天皇(4/21を参照)の為に聖武天皇の下で大仏を建立した。其れは死者の霊を高めて仏となし、やがて浄土
で神となって此の世に再臨すると言う日本古来の方式の体系化の一環だった。日本の神の力に仏陀の教えを重ねて、
神仏混交の理想の国とすべく具現化に働いた。

また大仏の傍らに聖武天皇(5/2を参照)を葬り、其処に戒壇院を建てて、東大寺を軸とした国分寺を全国に建てた。
此れが神仏習合の原理であり、本地垂迹の祭り事の根本思想でした。其の殆どが良弁か道鏡の事跡である。とすれ
ば一人の人物の活躍としては正に驚異的である。

天平神護1765)年9月に称徳天皇が弓削・由義宮に行幸し、同3年10月には其処を西京とした。だが其れが頂点だっ
た。間もなく女帝が崩御し、直後には其の弔いの地として西大寺と熊本(※2)を置き、更に彼女の御霊の日迎えの場と
して下野に下野(ゲヤ)し、其処から更に御前山に至り、其処に籠って最後の祭りをした(と推定)。

(※2)熊本市から白川沿いに東8`の地点に弓削法王神社があり、道鏡と藤姫のロマンスが伝わっているが、大宰府
には彼の弟が赴任していたので此れも多少の誤解があるのではないか(孝謙天皇については「8/24」を参照)。此れは
私事ではなく、皇室のなすべき公務を代わって行った立派な行為である。

所が後に菅原道真が大宰府に左遷されて藤原時平に祟ったのとは対照的に、道鏡は祭られる事がなかった。菅公が
私怨で果てたのに後に天満天神として全国各地に祭られたのとは逆に、道鏡に世話になった所は全国に及ぶ筈だ
が、弓削氏の祖神を祭る処として彼の出身地の八尾市内、或いは弓削氏の分散地に弓削神社がある程度。

其れらを別とすれば、彼を祭る寺社が瀬戸内海の小島の愛媛県越智郡弓削町に法王社として残る以外は何も無い。
哀れであると言うより寧ろ、逆にスキャンダラスな怪僧・悪僧のレッテルを貼り付け、今だに俗世間の此の程度のレベ
ルの話で笑い者にしている様は、偏見とは言え何とも嘆かわしい。

だが其の汚名と引き換えに彼は結果として、一地方の無名の田舎神社だった宇佐八幡宮の神威を世に広め、しかも
当代随一の神格にまで高めたのである。しかし彼を妬む反対勢力が逆に怪僧・悪僧のレッテルを貼り付け、有ろう事
か巨物伝説で有名にした。こうした妬みや冷笑が以後の日本の堕落と腐敗の原因である。

と同時に、優れた物を埋没させた。今も全国に古墳が20万基、国分寺と尼寺が100ヶ所ある事実、そして凡そ1100有余
年の間、日本は神仏習合の中で曲がりなりにも平和を維持出来て来た。こうした事実が有るにも関わらず、彼を抹殺し
た為に優れた根本思想まで抹殺して歴史の謎を深めている。

宗教否定の西洋イデオロギーによる史学や考古学では此れから再び幾千人が譬え何年掛かっても謎を解けないだろ
うから、本書が今やっと彼の事績と彼の敷いた本地垂迹の東大寺の原理を方位で解き明かしたのである。

■07-08友禅祭・・・・・・竜国寺(石川県)。 

■御岳神社のライン・・・・・・御嶽山は数千年前の噴火で出来た溶岩の山である。木曽と信州に跨る独立峰なので見晴
らしが良く、名山とされる。山裾が広いので仮に琵琶湖に入れても入らないほど大きい。また冬は氷点下30℃以下で
風速60mと言う極寒の地であり、僅かに100羽の雷鳥がこの冬山を守る。

山麓は針葉樹の森で、優れた木曽ヒノキを産出して来た。其れを秀吉が大阪城築城のために伐り倒し、以後も2万本
が伐られたので木が尽きて「尽山」と言われる裸山になったと言われる。木曽ヒノキの場合、一尺の太さになるまで50
0年掛かる。其の後、尾張藩が山守りを置いて管理に務めて現在の状態に回復したと言う。

さて御嶽山は役の小角によって開山された霊山で地蔵菩薩(王御嶽座王権現)を本尊とし、または国常立尊を主神とし
て他に二座を祭る神仏習合寺院だったが、今は御岳教と言う宗教団体になっているので今の筆者には例祭が不明で
ある。

だが、御嶽山の麓に里宮と里社と言う所が王滝村と三岳村の一ヶ所づつあるので、矢張り国常立尊を祭る里宮の方位
から判断すれば、昔の例祭が11/15.5−5/17だったと推定出来る。

先ず能登の七塚町−−古川町−−高山市−−御嶽山(3063m)・剣ヶ峰山頂−−里宮(王滝村)−−風越山・権現
山(1535m)−−白山社・奥宮(飯田市)−−摺古木山(2169m)−−高山地区−−静岡市内−−となる。

次にもう1つのケースは10/10.5−4/11であり、先ず福井の東尋望から−−山中町の大日山(1369m)−−御
嶽山(3063m)剣ヶ峰山頂−−里社(三岳村)−−若宮遺跡−−鳥居(木曽福島町)−−木曽駒ケ岳(2956m)−
−−−となります。

■09御上神社祭・・・・・・・・・・・滋賀。
■近江神宮・崇福寺・鎮魂供養祭。

■07岩間山・正法寺のホウロク灸・・・・・・大津市の南。西国33観音の第12番札所(5/8を参照)。開祖は元正天皇の勅
命により泰澄大師。奈良時代までは熊野・吉野と共に修験道の日本三霊場として栄えた。ご本尊は元正天皇の念持佛
とされる金銅製の観音だが俗に「汗かき観音」と呼ばれる。4/17と9/17日に薬湯が立つ。

また5/17と其の対極の11/17日にはホウロク灸がある。此処は元々雷除けの霊験があったが、ホウロク灸は健康と煩
悩を取ってボケ封じになるとのご利益が知られる。通称・岩間寺。因みに今の住職は田居氏。

■09車折神社「三船祭」・・・・・・・・・・京都市。
■09京都・松尾大社「還幸祭」。

44元正天皇の命日・・・・・・・誤記があったので削除。
★08えび祭り(加太春日神社例大祭渡御)お祭り情報誌「わっしょい!」への投稿者:加太春日神社http://www.hir.ne.
jp/e3/omiya/

和歌山市加太(南海加太線終点)の加太春日神社では毎年5月第3土曜日に例大祭の渡御祭として通称「えび祭り」
が斎行されます。大神輿の担ぎ手不足から4年ほど渡御祭が休止されていましたが、今年は行列も復活し、盛大に催
される予定です。各丁から出る獅子舞や珍しい高場での獅子舞も見ものです。是非、お越し下さい。

※加太といえば針供養や3月3日の雛流しが有名ですが、えび祭りは初めて知りました。情報ありがとうございます。

★08川渡り神幸祭(〜18日:5月第三土曜〜日曜日)【福岡県田川市、風治八幡神社】

★09世界電気通信記念日。






















































5/18  


■07-08三社祭(第三日曜日の2日前〜日曜日)【東京都台東区、浅草神社】。

★08京都・「三船祭」・・・・・左京区嵯峨の車折神社。嵐山や渡月橋上流で、平安装束を纏った人々が20隻以上の船に
乗り、平安貴族の舟遊びを再現する。正午には神霊を牛車(ギッシャ)に移す「おでましの式」。13時には雅楽を奏でなが
ら歩く伶人や稚児らによる「神幸行列」が同神社を出発。

三条通、渡月橋を経由し、中の島公園へ至る。14時ころ、同公園から出舟、舞楽や献茶、扇流しなどを行う(08/5/13
日の朝日記事から引用)。09年は17日。

■藤原鎌足の祭りか・・・・・・・・談山神社の例祭が11/17に行われる。だが其の日は鎌足の命日である。談山神社
は元々妙楽寺と言う寺だったのでこの日に相当する旧暦で命日法要をして来ただろう。だが此処も神仏分離によって
明治二年から談山神社と言う神社風一色に変わったので、命日が其のまま神社の例祭となってしまった。

だが此れは元々鎮魂の法要であって、一般的な神社の祭りとは違う性質のものだ。しかも命日(例祭日)が11/17と
すれば、神社で行うべき本来の日迎えの祭りは、秋とは逆の時期の本日5/18に行うべきである。けれども此処は4
/29と11/3の蹴鞠祭が有名となり、今は隔年で四月第二日曜日に神幸祭をしている。

そして四年に一度は一の鳥居まで神輿が渡御する。此れらが本来の神社としての祭りであるが、時期が四月では一ヶ
月早いので祭りとは言えず、祭りの形式だけを残した行事になってしまったのではないか(「11/17〜18」を参照)。

例えば十月には「嘉吉祭」が行われ、この祭りでは「百味の御おん食じき」とか「御奠てん菜」とも呼ばれる神饌を神前
に奉る特殊な祭典が続けられて来たが、此れは仏教寺院や神社の祭典とは異質の、皇室の古式遷宮に関わる祭典
である。と言う事は、鎌足の偉業から天皇と同格と評価されての祭りだったのか。

もしくはこの寺が大極殿と並ぶ権威がある事を公式に示すための示威行為であったのか。と言うよりは定慧の出自と
権威からであったろう。此処は元々孝徳天皇の隠し子だった定慧が、表向きは鎌足の長男として阿武山から其の命日
ラインに沿って養父の御霊を迎える祭りの場として開基した寺だった。

と同時に実父である孝徳天皇の御霊を難波の宮に向けて弔い、また其の逆の時期には神霊として此処に迎えるため
の場としていた。つまり阿武山と難波からの両方のラインの結び目として暦・方位と地理的条件からギリギリの選択で
選んだ場であり、定慧が高僧となって鎌足を天皇と同格の儀礼を行う場とした。

のみならず、実は公式には出せないご祭神として孝徳天皇を祭っていた事になる。

■08神戸まつり(5月第三日曜日を中心とする前後数日間)【兵庫県神戸市】

★07-08-09国際親善デー。












































































5/19 


■09東京・小野照崎神社祭・・・・・・・・・
■07伊豆下田・黒船祭り。

■09-10-11三国・護国神社祭・・・・・・・・・福井県坂井市。21日まで。

■例年-団扇撒会式(うちわまき)【奈良市、唐招提寺】詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 
■07-08-09梵網会(団扇撒き)・・・・・・唐招提寺(奈良市・五条町)の中興関山覚盛の忌日の行事。梵網経を講読、法
要の後、鼓楼から除災与楽の団扇を撒く。 

■09備後・護国神社祭・・・・・・・・・
■07川渡り神幸祭(5月第3日曜日の前日〜日曜日)【福岡県田川市、風治八幡神社】

■09宮本武蔵の命日・・・・・・熊本市で古武道を習っている子供会が、此の日は武蔵を偲んで「二天一流」などの演武
を披露する。


▼09ワイサックの祭り・・・・・・・・此のころのインドネシアは乾季。満月の此の日、釈迦を讃える水と火の伝統の祭り。1.
2万人の仏教徒たちが、ムングッド寺院からジャングルに消えた3キロの参道をボロブドゥール遺跡に向けて練り歩い
た。

ボロブドゥールはインドネシアのジャワ島中部に8世紀(平安時代)に造られたスツーパに釈迦と二体の菩薩像を祀る曼
荼羅式の、仏教としては珍しい石造のピラミッド遺跡である(09/9/13MBSTV放映分より引用)。








































































5/20  
        
           
●06-07-08-09酒田まつり・・・・・・・・日枝神社・山王祭。

★06-11三社祭(5月第3金曜〜日曜日)【東京都台東区、浅草神社】(2011年は中止)動画http://www.omatsuri.com/
movie/sanja.html

東京都台東区、浅草神社で第3金曜日から3日間、激しく神輿を担ぐ様子が人気で、毎年百数十万人の見物客となる。
最終日にクライマックスを迎え、3つの本社神輿を境内から担ぎ出す宮出し、地元町内を練り歩く渡御(とぎょ)、神社に
戻る「宮入」がある。祭りを盛り上げる演出も必要であろうがケジメも必要である。

例えば主催者側は神輿の屋根に人が乗るのを禁止しているが、07年にも制止を聞かずに乗る者がいた。神輿担ぎ同
好会が30余あって、会員約12000人の内、約7割が暴力団組員と分かり、「10万円を払って神輿に乗った」と言う者もい
て問題になった。

★11黒船祭(5月第3土曜と前後)【静岡県下田市】(2011年は中止)
■前田利長の命日・・・・・・加賀藩二代藩主、前田利長公の命日は天正19(1591)年5/20甲申、グレゴリオ暦では
7/10となる。@(「7/23」を参照)。

●06-07-08-09福井・三国祭。
★11興福寺御薪能(〜21日:5月第3金曜〜土曜日)【奈良市、興福寺】

蘇我馬子の命日・・・・・・・推古天皇34/5/20。彼は稲目の子である。敏達天皇の大臣となり、百済の仏像二体を
求めて宅の東に仏殿を建て、3人の尼により斎会をした。其の後彼は病気になり、疫病が流行った。このため物部守
屋が批難して天皇の許を得て仏殿を焼き払い、難波の堀江に仏像を捨てた。

其れが信濃の善光寺縁起(2/1聖徳太子を参照)に繋がる訳だが、難波や堀江と言えば、今は大阪市の難波の西に
有る西区の堀江の事と誰もが思っている。だが当時の難波とは明日香村であり、此処の堀江に仏像を投げ捨てたの
である。今も此処には向原寺(豊浦寺)と難波池があるのだ。

しかも其処に「欽明天皇13年、仏教伝来により、物部尾興が仏像を投げ込んだ堀江」との説明板を掲げている。とも
あれ彼はその後も病気が回復せず、物部氏との反目が続く中、飛鳥に法興寺を建てた。やがて祟峻天皇も彼の横暴
を憎んだので彼は用明皇后(後の推古天皇)を立てようとして其の祟峻天皇を殺し、政敵の守屋も殺してしまった。

聖徳太子が摂政だったが彼・馬子は島大臣と呼ばれて実力を握り、権勢を振るっていたのである。だが病気のためこ
の日に薨去した。邸宅は飛鳥川の傍の島の庄であり、桃原墓に葬られた、とされている。近くに特別史跡・石舞台(方
墳)があり、積み重ねられた石の総重量は推定2300トンと言う圧巻を見せる。

なので、此処が現在は「馬子の墓」とされている。其処で例年、11月の日曜日には祭りをしていると言う。暴かれた他
人の墓を見世物とするため財団法人化して拝観料を取っているので、せめてもの罪滅ぼしのつもりであろう。

馬子の命日の逆の時期に当たるとすれば当を得た祭りである。だがこの石舞台の築造方位は生憎、北の岡寺・奥の
院を指しているのだ(1/21を参照)。つまり開口部が「命日は冬である」と示しているので、別人と分かる。しかも彼の
邸宅があったとされる「島の庄」との軸線ではない。@

甘樫の丘に蘇我入鹿が居を構えたのは何故かと言えば、馬子の孫として、祖父の命日の逆方位に居ついて祭りを主
宰する立場だったと分かる。それにしても彼は仏を崇拝したと言うものの、上記の遺跡を辿れば暦法では子孫が和暦
を踏襲していた事も判った事はやや意外である。

■吉備津彦命の命日か・・・・・・「4/19」吉備津神社を参照。参道の向きが11/19←→5/20である。其れに東の
吉備津彦神社との間に古墳状の小山があり、其の向きが矢張り11/19←→5/20である。とすれば、御忌日祭と1
0/19の秋季大祭の暦日は旧暦の日付ではないか。

つまり新暦に換算すれば、一ヶ月ズレて11/19←→5/20になると思われる。@

●09大阪・護国神社祭。

★06川渡り神幸祭・・・・・・(5月第3日曜日の前日〜日曜日)【福岡県田川市、風治八幡神社】


★09ローマ字の日。
























































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