http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p102(未定稿)


  神々の歳時記   4月後半1 但し方位による
次は
4月後半2
4月後半2
または
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●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 
http://www.omatsuri.com/link/linkvex.html
及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-4月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

4月後半1 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・  ●○◎□◇■◆△▽▲▼★


4/16                


■07栃木・鬼怒川観光船・川下り始まる。

■栃木市・大神神社の例祭・・・・・・以下、http://www.tatematsu-wahei.co.jp/nikki/htmlData/00/00_05.html 「煙り立
つ室の八嶋」より引用。栃木市惣社町にある大神神社の祭神は、日本で最古の神社とされる奈良の桜井の三輪大社
より奉斎した大三輪の神である。栃木県でも最も古い神社であろう。

縁起にはこんな意味のことが書いてある。第十代崇神天皇の皇子豊城入彦命が東国にやってくると、天変地異が相い
継ぎ、悪疫流行し民家は疲弊していたので、景勝地室の八嶋に大三輪の神を祀ったところ、天下は安穏となり、人心
は大いに安定したという。

惣社が創立されたのは、延長四一(九二六)年である。国司が国府に赴任すると、惣社に国中の名碑を奉斉して朝夕
礼拝することになつた。大神の威徳はますます高く、社殿楼宏壮をきわめたと、沿革史は伝えている。鳥居から本段ま
で参道がまっすぐに伸びている。毎年四月十六日の春季大祭では、流鏑馬の神事がおこなわれるという。

由緒のある神社を維持するためには、何かと苦労が多い。室の八嶋はこのあたりの八社の神を祀る、いわばミニチュ
アの神社巡りをするところだ。香取、雷電、浅間、筑波、二荒、熊野などの神社が小さな島につくつてあり、二、三分間
もあれば一気にお参りすることができる。

「おくの細道」では、句をあげるかわりに、この神社のもう一つの祭神の木花咲耶姫について、同行の弟子曽良の言葉
としてあげている。富士の浅間神社と同じ神体の木花咲椰姫は夫の瓊瓊杵尊より不倫をしたのではないかと疑われ、
戸のない小屋にはいって火を放ち、身を焼いて身の潔白を誓い、皇子を産んだ。

その煙から「煙立つ…」の枕言葉が生まれたのだ。引用以上。

●07大阪・石切神社・古式弓矢奉納・・・・・・・・東大阪市の当社では五穀豊穣を祈って40m先の的を狙って弓を射ち、
其の後に弓矢を奉納する。

■香椎の宮春祭り。

★科学技術週間。

イースター(キリスト教ではその年で最大の祭=復活祭)「過ぎ越しの祭」(2003年の場合、ユダヤ暦の満月に当たった)。06年は日本では日曜、月齢
19夜。














4/17    


●07-08土用。     ▼07朔・旧3/1。08旧3/12日。
土用(05〜06年の春の土用は4月17日から5月4日。各季節の終わりにやってくるのが土用ですから、この時期を
抜けた5月5日は立夏。暦の上では夏の始まりです。詳しくは事典の「土用」を参照)。

■日光・二荒山神社・弥生祭・・・・・・・・家康は此処に祭られていた。二荒山神社は四ヶ所に分かれているので話がや
やこしい。先ず本社(日光町)と本宮神社、其れに中宮祠と滝尾神社とがあり、男体山を奥宮とする湖畔の中宮祠とは
別に此処には本社と本宮があり、本社のご祭神が不明なのに対して本宮には味スキ高彦根命を祭る。

つまり彼は大国主命と其の后とのムスコであり、奈良の高鴨神社(4/15)と同じ神である。其れに対して男体山のご
祭神は二荒山神(大己貴命)であり、女峰山の女神が降臨した所が滝尾神社で有る。

滝尾のご祭神は田心姫命(大国主命の后)である(中宮その他については「8/1」の項を参照)。其処で冒頭に述べた
のは、本社のご祭神が不明であるのは家康であると言う点に関して以下に解説する。弥生祭は4/13〜17まで古式
豊かに行われて、17日当日は神輿が渡御する。

其処で方位から検証すれば、先ず本宮の神体山が太郎山(2368m)とされているので、小真名子山(2329m)と結
んで見ると確かに10/16.5←→4/17を示す。

だが、大真名子山(2375m)と此の本宮の位置・方位関係を見ると、4/20となり、弥生祭りの日とは3日のズレとな
るのでこの宮の祭りとは言えないが、同様にして大真名子山と滝尾神社との方位を見ると10/16.5←→4/17とな
るので、この本宮よりも滝尾の方が由来が古いと言う伝承にも合致する。

とすれば、所謂、大黒様の御子神が「太郎」であり、滝尾とこの本宮とは大黒様の孫としての大真名子を祭った所と判
明する。しかし他社が其処までハッキリしてくれば逆にこの二荒山神社本社の由来が不明になり、宙に浮くのだ。だか
ら命日と祭日が合致するご祭神は矢張り「家康」しかなくなるのです。

何れにせよこの弥生祭りの暦日と命日、其れに地理・方位が一致するので祭りの原点が此処にあるとは言える。因み
にこのラインの前後には燕巣山←山王峠←大真名子山→滝尾神社→律院→寅巳山(446m)が有る。其れに対して
男体山(標高2484m)と此処とを方位から見れば、生憎3/26となり、例祭日と位置関係とが合致しない。

だが、此処とは別に同名の神社(ご祭神は豊城入彦命)が宇都宮市内にあり、其処では例祭を10/21に行っている
ので、其処とならば暦・方位が4日のズレで合致する(「10/21」を参照)ものの、ご祭神が別だから話にはならない。
さて本宮から中宮・奥宮にわたるこの社は全国に比類ない広大な社域が広がる。

かつては日光の殆どが言わば二荒山の社地であった。其処に天海が来て徳川の聖地を造った。彼(10/2を参照)は
叡山の僧であり、山王一実神道の開祖であるから山王権現を祭った筈であり、それならば4/15が例祭日であり、こ
の日は先の高鴨神社の例祭日とも合致する。そして其の日なら家康の命日とは2日違いになります。

とすれば暦日も方位も紛らわしくなり、如何に怪僧とは言え、4/15と4/17の別の祭りを3日間で行うのは物理的に
も無理だったろう。日光には前述の日光三所(本宮・新宮・滝尾)権現と東照三所権現とがあるので少なくとも数本の霊
ラインが一山内に交差しているから中々一筋縄で括る事が出来ない。

錯綜している上に昔の建物も変化し、文献があっても錯誤し易く、関係者の記憶も消えている上に、明治の神仏分離に
よって一山が一宮(東照宮)一社(二荒山神社)一寺(輪王寺)に分割され、更に改暦によって例祭日が変えられたので
今では益々分からなくなってしまった。

従って今では何のための祭りか分からない事も多い筈であるから其の複雑怪奇な祭事行事の史実を辿り、方位から
読み解いて捌くのが今のヒジリとしての筆者の役割である。家光の場合は比較的分かり易いが家康や秀忠はハッキリ
明示されていながら此処では実体がないので宙に浮いて不明になっているからです。

さて山王祭りは前項で記している通り、4/14〜16である。其れに対してこの二荒山神社本社の参道も4/13〜17
に向いて銅鳥居から本宮、そして神橋へと伸びている。山王祭とは2日ズレルが、家康の命日と重なっている訳です。

しかし本殿の建物は、この弥生祭りを「知らぬ」素振りで略南の神門に向いているし、参道から見通した10/17ライン
の先の本殿の陰には「お化け灯篭」とか枝垂桜があるのも不思議だと言うのです。だから此処は家康を祭った社と判
断するしか有りません。明治までの日光は門跡親王の元、寺も神社も含めて一山一体だった。

其れが明治に寺社分離されて寺が弾圧され、神国大日本となった手前、神社は優遇されて神職だけが公務員となった
時代である。従って二荒山神社の「弥生祭り」と言う例祭日として、4/17と言う家康の命日が辛くも守られたと推測す
る(次項の「家康」も参照)。ご祭神を隠すために中心となる建物を壊せば分からなくなる。

神仏分離の際にはそうするしかなかった。ご祭神を表面から隠して実(祭日)を採ったのでしょう。因みに此処を含む日
光全体が1999/12に世界文化遺産に登録された。

■日光・徳川家康の正忌(命日は元和2年、1616/4/17)・・・・・・・・日光街道は何故、あんなに長く、江戸で
はなくて水戸に向いて伸びているのか、其の意味を誰が答えられるだろうか。あれは日光への参道であり、ご本尊の
命日を印したものでした。さて「日光・東照宮は家康を祀った所」と言われて来た。だが実は此処には祀られていない。

とすれば東照宮は一体何だったのか、と言えば「豪華な見世物小屋」に過ぎない。因みに日本では2000年前からの
歴代天皇陵が残っているのに対して、世界に君臨したモンゴル帝国の皇帝・チンギス・ハーン(1162?〜1227)の墓
地さえ未だ不明である。この様に、武家支配と呪術時代の当時は、カモフラージュが必要だったのです。

チンギス・ハーンも霊廟跡は見つかっている。家康も日光と言う場所は確かであるものの、其処が東照宮であるとは断
言出来ないのです。結論から言えば、家康は二荒山神社のラインに神(権現)として、そして東照宮の奥の宝塔には何
と秀忠が埋葬されている。そして三代目の家光は別のご廟に実は死者ではなく神(権現)として祭られていた。

東照宮の一連の建物は南北軸に並んでいるが、ただの空箱である。と言うのが言い過ぎなら、神殿ではなくて「冥土の
一里塚」を荘厳した建物である。此れが当時、天海が天台宗ではなく呪術的に仕掛けたカラクリだった。箱物だけでは
ない。日光街道も其の一部であり、これは凡そ100kmに及ぶ。

其れは例えば大阪吹田から東名で彦根へ102km、中国道で美作まで103kmに相当する長距離の並木道だった。
其れ程のエネルギーを祭り事に賭ける必要があったのかどうかを現代人は疑うだろう。けれどもその結果として以後、
徳川300年の安泰を果たしたとすれば実に優れた呪術と言えないだろうか。

さて、家康はこの日、胃癌のため75歳で駿府城内で薨去し、遺骸はその夜に久能山に運ばれ、遺言に従って翌年の
4/16に日光に遷され、家康の墓標(宝塔)を奥社として此処に日光東照宮(東照宮大権現の諡号は1645年の宣
下)が成立した。@

今は海岸部の久能山東照宮だけが知られているが、実は家康は静岡市西部の山間部の久能尾に葬られ、其の対角
線に久能山東照宮が造られたものだろう。と言うのは、両地の位置・方位関係が駿府城の北部を交点として家康の日
迎え日と命日の暦・方位が重なるからです。

とすれば家康は駿府城の北部(今、臨済寺がある辺り)で亡くなった事になり、従って秀忠は其の西の地で父を祀るた
めに余生を送った事が分かると同時に、其処で1/24に薨去したので其の日の方位の日光に葬られた事まで繋がっ
て来るのです。

此処まで行ったのが天海や家光であるから実に立派であり、徳川300年は此れによって守られた事が分かる。しかし
実はご本尊(家康)を摩り替えていた。此れも当時としては大切な呪術であったろう。因みに命日ラインの前後を見て見
よう。

駿府から見て命日方位には伊豆・河津町があり、此処は曽我兄弟の里として、また頼朝以来、鎌倉源氏の崇敬した熱
海の「来の宮」と同じ神社で樹齢1000年の大楠で有名な古社であり、10/14〜15が例祭日である。代々北条氏の
領地だったが、以後は徳川幕府の直轄地でや忠臣・大久保氏(後に失脚)を配した。

或いは日光街道に杉並木を植えた松平正綱が相模・甘絵城に封じられて2.6万石を食んでいる。そして其の逆方位
には越前町・野島崎に至るラインです。駿河小島には後に松平滝脇家1万石を新設した。

美濃2万石には遠藤常友、越前・丸岡には本田重映4万石、松岡5万石には松平晶勝、吉江2万石に松平昌親、福井
45万石には松平光通など何れも親藩を配していたのであるから驚くべき布陣が出来ていた。以上により命日が確定し
たが、念のために数字で検証しておく。@

以上のように何種類もの命日があるのは問題であり、従って「祭り事の前提である命日が果たして何時なのか」、と言
う事が本来は大変重要な課題なのです。其処で彼が祀られているとされる日光東照宮の参道、即ち日光街道(日光東
照宮は1999年世界遺産)の方位から検証して見よう。

其れには狭い尺度の伽藍配置よりも、長いスケールのポイントを押さえた方が正確を期し易い。其の点、日光街道は
やや曲がりくねりながら8kmを超える長さなのでポイントが定まらないが、下今市の二宮神社と如来寺が玄関口と推
定すればハッキリする。そうすると東照宮と其処との方位関係は何と新暦の4/16になっている。

日光街道は家康の命日を太陽暦の4/17丁巳の一日違いの方位で明示していたのだ。とすれば、此れは偶然か?
江戸初期の事なのに旧暦ではなくて、新暦と同じだったのは意外です

しかも、以外なのはもう一つ有って、「東照宮」とは家康の遺骸を弔う寺ではなくて、命日の対極の10/16に彼の御魂
を神君「東照大権現」として迎える神宮だったと分かるからです。神君家康(源家康朝臣)を主神として祭るために日光
山が創建されたと信じられているが、秀忠の時代は今の東照宮は未だ出来ていなかったのだ。

天海によって「本社・本地堂」が建てられたに過ぎない。その後、家光が改葬して今の東照宮になったのですから、「本
社」は今の「本殿」の事ではなく、二荒山神社「本社と本地堂」の関係かも知れず、喩え家康が主神となっていても何処
に祭ったのかさえ怪しいのです。しかもこの境内は、三代家光の代には、秀忠を弔う寺として造り替えたのである。

彼・秀忠は確かに日光に来て今の輪王寺本坊(中庭)に座して家康を弔った事も有った。此処を基点にすれば家康を
祭った所が実は輪王寺本坊の中庭だったと推定出来る。しかしやがて秀忠が薨去し、死後に此処から彼の命日ライ
ン、即ち東照宮の陽明門と正本宮を見通す奥社・宝塔に埋葬された可能性が強いのです。@

何れにせよ日光の東照宮は、家康ではなくて次の将軍・秀忠(12/16を参照)を祀る寺だった事がハッキリして来た。


だから一般人や後世代の私たちが正しく知る訳がない以上、誤解して当然である。そして更なる誤解が生まれる点とし
て例えば、日光には日光三所(本宮・新宮・滝尾)権現と東照三所権現や代々の法親王のラインも有ると思われるの
で、少なくとも数本の霊ラインが一山内に交差している点だけ見ても一筋縄で括る事が出来ない訳です。

そして先のように、神仏習合の特徴である鎮魂と神幸と言う二方式の祭事の頭と尾との意味を今では知る人もなく、混
乱している上に昔の建物も変化し、更に明治の神仏分離と改暦で文献があっても錯誤し易く、関係者の記憶も確かで
はないので、今では何のための祭りか分からないまま形式的に続けている事も多いだろう。

よって其れを辿り、方位から縺れた糸を捌くのが今ヒジリとしての筆者の役割りである。明治までの日光は門跡法親王
の元、寺も神社も含めて「一山一体」だった。其れが明治に寺社分離されて寺が弾圧され、神国大日本となった手前、
神社は優遇されて神職だけが公務員となった。従ってご祭神を隠すために中心となる建物を壊せば分からなくなる。

神仏分離の際にはそうするしかなかった。家康を祭る二荒山神社(前項)の境内には何かがあったろうが、恐らくは其
れを壊してただ一つ、「弥生祭り」と言う例祭日として4/17と言う家康の命日だけを辛くも守ったものと推測出来るの
です。

何れにせよ、家康の命日には水戸へ向かい、其の逆の10/16日には諸大名が宇都宮方面から日光街道を通って
陽明門を潜り、東照宮に参拝する事が歴代の慣わしとなっていた筈である。後者(10/16)は弔いではなくて祭りであ
り「権現様」の御霊を神として迎える仕掛けが出来ていた。

陽明門とか東照宮と言う此処だけの特殊な名称の理由も其のためでした。さて東照宮から更に10/16方位に進め
ば、新潟・大潟町南部から日本海に出るが、途中の浦川原村に日光寺がある事を知る人は少ないだろう。其れにして
も本当の寺は何処になるのか、と言えば、水戸に至る。

だから当時、水戸の殿様だった佐竹氏を秋田に左遷(領地替え)して徳川の養子・武田信吉の後に11番目の嫡子(頼
房)を封じて御三家としたのである。此れを行ったのは家康、秀忠、家光の三代に仕えた天海大僧正であろう。とすれ
ば彼は「怪僧」と言われたが実は天下一のヒジリだった事になる(「10/2」天海を参照)。

だが天海僧正は天台宗の僧都である上、山王一実神道の開祖であるから当然ながら山王権現も祭っていただろう。
山王祭りは前項で記している通り、4/14〜16である。だから二荒山の参道も4/13〜17に向いて銅鳥居から神橋
へと伸びているのです。とすれば家康の命日と同じ日になってしまう。

其れも方や命日、方や祭りと言う相反する行事を日光と言う同じ場所で展開する事になった。この大技を天海はどう処
理したのだろうか。例えば日光に入るには「神橋」を通るが、二荒山神社・本宮からの参道も、家康の命日ラインである
日光の杉並木も此処でクロスするのだ。

ともあれ家康の命日には東照宮大祭として毎年「百物揃え千人行列」が行われるが、今は4/17ではなくて一ヵ月遅
らせた5/17に行っている。巨木の杉並木は日光から今市までの数キロ続くがその先は途切れ途切れになるが、そ
の間には宿坊の名残りのある家屋や一里塚などが点在し、次は大沢から欅並木が宇都宮まで続く。

そして高根沢から茨城県に入れば、常北町(石塚)から水戸まではかつて松並木が続いていた。大洗や阿字ヶ浦は海
浜地帯だから松林であるが、道中の並木は松平氏の寄進とされている。此れは凡そ100kmも伸びる街道だった。

従って長い道中を歩く参拝者や行列にとって、夏は日よけと雨宿り、冬は防風林にもなったろうし、第一、並木道は旅
人にとって遠方からも目印となり、また並木道に入れば道に迷う事がなかったし、松や欅や杉に変わる並木であれば
里程の目安ともなって旅人を助けた事だろう(日本の道「百選」を参照)。

さて命日のこの日には、日光に参拝したのではなくて、実は日光街道を下って水戸、但し正確には阿字ヶ浦方面へ向
かった。其の途上にある桂村の阿波山神社(東照宮)や大山寺(真・豊)、石塚の薬師寺(天台宗)、其れに那珂西神社
(東照宮)と宝憧院(真・豊)へ立ち寄った事だろう。

石塚から水戸市渡里までは昭和40年代まで大きな松並木が両側にあった。凡そ五間(9m)の道路が日光から水戸ま
での100kmほどにわたってこの日のために延々と通されたのである。とすれば、当時のこの土木事業だけを見ても、
家康の年忌供養に対する徳川幕府の熱意が理解出来よう。

其れに比べると明治以後の日本政府は、こうした徳川の遺産を「濡れ手で泡」同然に奪い取り、看板だけ国道19号と
か123号線と言う風に付け替えてそっくり利用し、もしくは食い潰しているに過ぎない。

其れを承知なのか無視なのか今の学者は、「水戸藩は奥州列藩への睨みを利かす役割だった」、と言うだろうが、其
れが定説であっても「下司の勘ぐり」の愚論と分かって来るでしょう。次は大行列の顛末についての余談である。

幕府が此れを下請けさせとすれば水戸殿は御三家と言っても35万石、其のうち江戸詰めで8万石を費やせば実質22
〜28万石の薄碌であり、宇都宮藩の本多正純殿でも家康の陪臣で15.5万石にはなったものの、彼にしても家康亡
き後は「宇都宮吊り天井事件」で左遷され、それらの理由から大行列は以後取り止めとなった可能性がある。

大行列のこの経験が次の参勤交代制へとすり替えられて行ったのではないか。序にもう一つ言えば、徳川三百年の封
建体制を破った功労者は薩長土肥の雄藩と見るのが定説であるが、順序から見れば彼等は便乗組に過ぎない。其れ
は前述したような地政学的見地から見れば認識できよう。

即ちやや逆説的になるが、確かに将軍家は権力の座に有ったものの、時の宗家としての隠然とした立場は寧ろ水戸
家が持っていたのでははないか。

江戸将軍家は後述の秀忠の後を継ぐ「若宮」としての立場で江戸に居ついたけれども、水戸家の立場は家康の末孫が
家康と家光の菩提を弔う為に水戸と言う宗家、もしくは寺に出家し、院政や隠居のような役割りだったと分かる。

家康の11男が頼房、そのまた三男が松平頼元であり、時の四代将軍・家綱から命ぜられて水戸の内から額田を分地
された。其処には光圀(義公)が建てた引接寺(浄土宗・光圀山・摂取院)が有る。其の近くに瑞龍山がある。此処は頼
房(威公)以下、13代藩主・圀順までの水戸徳川家の墓所である(「1/14光圀」を参照)。

其の水戸家は家康の孫の光圀以来、朱子学に傾いて自己(幕府)を否定するかのような「皇国史観」に染まったが、此
れは自己矛盾であり、更に幕末には「尊皇攘夷」と言う造反に出た結果において、徳川の天下を自ら潰したと言える。
と言ってしまえば誤解を招くので言い方を変えよう。

当時の国難を一番先に騒ぎ出したのは水戸家であり、このため家中は二分し内乱状態となった。だからその後の水戸
は大量の犠牲者を出したけれども、最後の将軍・慶喜は自らの身を切るように家中の犠牲で終わらせた事は、日本が
内戦状態になる愚を避け、日本を救った名将軍であったと言える。

結果論として言えば水戸家が徳川の先祖祭りの立場を自ら放棄したから日本が内戦をやめて結束して欧米からの侵
略を撥ね付けたとも言える。無論、山岡や勝海舟も江戸を救った功労者であるが、水戸家家臣たちと同様、維新の功
労者にはならず潔く身を引いた。此れは薩長土肥が明治以後の権力構造となった事とは対照的である。

さて、先の問題「水戸の寺は何処か」の回答が未だだった。水戸藩は、光圀時代の整理統合に加えて、幕末の廃仏毀
釈の嵐で寺院が悉く打ち壊されたので残る所は生憎少ない。那珂湊から水戸周辺にはには神社が残っていても寺は
減ったため彼(神君家康)の寺とて今はない訳だが、水戸東照宮はある。

無論、東照宮は当時、各地に建てられたが、例えば今の大阪市天満にも川崎東照宮が建てられ、大坂近郊では「浪花
随一の紋日」、つまり最大の祭礼日と謳われた。また9/17には「権現まつり」が有ったが、言わばお仕着せ的な官
祭・国祭として、祭に特有の民衆の活気ではなく、行儀の良い賑わいだったろう。

また京都で家康関係の寺としては知恩院がある(11/8を参照)。但し、知恩院が11月、そして日光東照宮の例祭日
が6/1になっているように、明治の改暦で元和二年4/17=グレゴリオ暦の1616/6/1であると押し付けられた
可能性、つまり官主導で例祭日が変更させられたものだろう(10/28輪王寺宮を参照)。

例祭日が暦・方位とミスマッチでは如何に盛大に弔いの祭りをしても形式的儀礼となり、また如何に金ぴかの荘厳な伽
藍を守っていようとも、また更に国宝の陽明門・神楽殿や拝殿・門・垣などの外、薬師如来など幾多の佛像が有ろうと
も、全て「仏造って魂入れず」であると断定しようと思ったが、幸い10/17には神輿の渡御を続けていた。

つまり神社としては何とか辻褄が合う。序でながら、歴史家や風水師などが日光東照宮を論じる場合、家康が「死後も
江戸城の北の守りとして日光へ移せ」と遺言したのを天海僧正が設定したとして、風水説を言うので、其れを検証すれ
ば、江戸城(皇居)との方位は、生憎「真北」ではない。

6.5日もズレて12/15.5←→6/16日、つまり磁北に近い方位と分かる。従って遺言が有ったとか風水説が有っ
たとして、其の何れも正しいとしても、この説では江戸を守る力とはならない(4/20家光も参照)。其れは江戸城を徳
川が明治に明け渡した事実、そして関東大震災や敗戦で東京が焼け野原になった事実からもハッキリした事である。

また家康は存命中に頼房に水戸を与えたと記録にある。そうすると日光とのラインが家康の命日に合致するのは偶然
である事になる。当初下妻の地10万石、次に中山信吉が補佐して水戸25万石を食み、次に元服している。従って存命
中に水戸に命日を設定する事は有り得ない。

とすれば通常何処でもそうであるように家康薨去の後に秀忠と天海が幼い頼房に弔いを託して、江戸と水戸からの方
位の交点に有る日光を選び、久能山から移葬した事になる。

■弥勒寺・徳川家康のライン・・・・・・・群馬・沼田市の迦葉山・竜華院・弥勒寺は天台宗・円仁の開基した寺だが曹洞
宗の寺となっていた当時、家康が帰依して以来、徳川将軍家祈願所となって10万石の格式の寺だった。今も5/1〜
10には大祭をしているがそれだけではない。@

■07-08大般若会・・・・・・・平林寺(埼玉県新座市)。 
■静岡・久能山東照宮祭。
■07-08踊念仏・・・・・・・西光寺(長野市北石室町)。

■07-08ゴンゴン祭・・・・・・・上日寺観音堂(富山県氷見市)で4/17〜18日に、参詣人が肩にかついだ松の木で鐘の、
つきくらべをする。享和年間(1801〜03)の旱魃の際、雨乞いに鐘を乱打したことに因む行事。 
■07-08まるまげ祭・・・・・・・千手寺(富山・氷見市)で観音大祭の行事。 

■滋賀・根本山・宝満堂・春の大祭。
■07-08雷除法要・・・・・・・岩間寺(滋賀・大津市)。 

■敢国神社の獅子神楽・・・・・・・・三重・伊賀市。敢国(あえくに)神社は鬼門鎮護の守護神で、獅子神楽は悪魔払い獅
子、厄除け御獅子として御祭に奉奏される。敢国神社は0595−23−3061 因みに敢国神社を鬼門とするのは伊
賀上野城ではなくて、寧ろ天満宮−薬師寺−愛宕神社−福徳神社−−−−の方面。 

放生会・・・・・・・興福寺(奈良市登大路町)で猿沢池へ放魚する。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900

■南宗寺・徳川家康の墓・・・・・・・堺市には江戸時代の名刹・南宗寺が有る。1556年の当初、南宗庵と言い、臨済宗
の寺院となった。千利休が此処で佛弟子となってやがて茶の湯を大成した。また大阪夏の陣(1615)では家康の陣地
を真田幸村が攻めたが直前で元和元(1615)5/7に幸村が敗死した。

だが史実とは別に、家康が実はこの寺で事切れて葬られた。「伊賀越え」で逃れたのは家康ではなくて影武者だったと
も言われるが南宗寺には墓地もある(5/7を参照)。しかも唐門(国重文)は東照宮に通じると言う。

その後此処は全焼したが、沢庵和尚が再建し、直後に秀忠、家光が参拝したと言う(05/12/9の読売TV、「今日は何の
日」より引用)。

但し異論もある。河内長野市の烏帽子山の寺に徳川三代の位牌が明治まで密かに祀られて来た。此の寺は甲斐庄
氏と言う土豪の氏寺だった。無論、文献にはない。だが甲斐庄氏は以後三代、長崎奉行などを務めて旗本として幕末
まで続いたので「伊賀越え」の傍証となろう(郷土史家・竹鼻氏説)。

以下は筆者の憶測であるが、利休は言わば秀吉に殺された。よって南宗寺は西軍に逆らって俄かに形だけ家康を弔
ったに違いない。続いて高野街道を行く僧都の行列に紛れ込ませて家康を逃がす事も容易かった。大阪南部は楠氏
以来、山伏の活躍した地域であり、特に甲斐庄氏は楠流の本家筋だった。

このため伊賀地方とは大峰修験の山上講ネットワークで古今繋がっているが、伊賀までの道中の特に河内と大和が甲
斐庄氏のチカラがなければ如何ともし難かったろう。家康の傍には藤堂高虎がいた。彼の出は甲賀者だが秀吉に仕え
て伊予7万石から伊勢・伊賀22万石の大名になっていた。だが今は東軍に与していた。

彼は家康の窮地を救うためにこの時、南宗寺と甲斐庄正房を動かして切り抜け、更に彼の領地の中を家康に同道して
安濃津に出た。翌年彼は加増されて32万石を領した(同家は幕末まで続いた)。片や柳生家はお庭番として幕末まで
1.2万石の小名として活躍し、甲斐庄氏は旗本として3000石程度。

序にもう一つ。07/9/21「テレビ大阪」放映の家康は武田信玄と父子の間柄だったと云う。信濃の善光寺、峰の薬師像
と家康との関係も深い。信玄が建てた寺に家康の生母(信玄の側室)が祈願して家康が生まれた。彼女の念持佛が此
の薬師だった。だから此処には信玄と家康の位牌が並んでいるというのだ。

ただ「史疑」によれば家康は源氏の血を引く僧侶の子であるとも言う。確かに信玄も源氏でありやがて僧になった。また
久能山は家康の死後、其の日の内に埋葬された所であるが、此処は元々信玄が城を造って久能城とした所だ。各地
に造られた東照宮の中でも、日光と久能山が重視された。

其の中心地として群馬県太田市には世良田東照宮がある。此処は彼の始祖・新田氏以来の土地柄であり、徳川氏発
祥の地とも言われる。元々長楽寺と言う禅宗寺院が有ったのを天海が天台宗にした寺である。此処ではS56(1981)年
から4/17日に近い第1日曜日に例大祭(葵祭り)が行われている。

しかし此処の東照宮は日光と駿府(静岡市)とのライン上にあるから家康ではなくて、生憎、秀忠(12/16を参照)の命日
ラインである。ともあれ、徳川は葵(三つ葉葵)、武田は花菱を定紋とした。この為、日光東照宮の本殿の軒には花菱
紋が散りばめられている。明智の家紋(キキョウ)もある。此れも天海が光秀と同一人物とされる点である。

ともあれ1603年に家康は天下を統一した。家康の五男に信吉があり、彼は滅びた武田の後を信吉に継がせて武田信
吉とした。そして水戸家を与えたのだ。また観相によれば、信玄と家康の筆跡も良く似ていると云う。


■源 頼信の命日・・・・・・・・彼は、頼朝の先祖として壺井八幡宮の祭神の一座になっている。永承三年のこの日はユ
リウス暦で1048/6/1であるが、この八幡宮と通法寺跡・古墳との方位は6/3に位置しているので二日のズレは
あるものの略合致する。

■紀州・徳川家康の命日(命日は元和2年、1616/4/17)・・・・・・・・東照宮は和歌山にもある。此処は御三家の一
つ、紀州徳川家55万5000石があったからだ。また高野山にも徳川廟(徳川家霊台)があって、方形造りの霊屋二棟
の正面から見て右と左に家康と秀忠が祀られている。

所で其処から南に向かった清水町の山中深くに日光神社と言う寂れた神社がある。昔は兎も角、今は誰もこんな山奥
を訪れる人はない。@
とすれば秀忠は寛永9(1632)年の薨去なので、矢張りこの東照宮は家康を祀った所となります。

以来此処は、江戸時代は広大な境内に天曜寺など六坊があったと言われ、西浜御殿の別邸跡だけを見ても、此処が
今は広大な養翠園になっているので、其のスケールが想像出来よう。ただ、今の東照宮の一点だけから見れば、この
東照宮と先の日光神社との関係が10/12←→4/13となり、3日ほどズレる。

ズレを別とすれば、日光神社が実は鎮魂の寺であり、其れに対して東照宮が神社としての位置付けだったと判明しま
す。其れから最後に高野山に戻って見よう。@

神功皇后の命日・・・・・・・彼女は仲哀天皇の妃・未亡人として三韓征伐を果たして後に応神天皇を産んだ。其処から
安産の神としても親しまれている。陵は記紀に狭城盾列山陵と記載されており、今は其処が奈良市の北に治定されて
いるものの疑問視されている。命日が4/17であるのに対して、この陵が南北軸を向いているので方位も違う。

「中右記」には秋篠山陵ともある。其れに該当する所としては、実は西大寺の西に田んぼや池の形として残っている
が、今は住宅地になっているので誰も陵だったとは思いもよらないが、其の地区一帯の形が命日方位の陵形に合致す
るが、生憎、命日の逆方位となるので別のもう一つを挙げて置く。此処は正方位である。

其れは天理市の伝・10祟神天皇(山辺道勾岡上陵)陵・別名を柳本行燈山古墳(242m)と言う。ただ祟神陵と決まっ
た所を今更覆すには無理があるが、築造角度が4/18〜21←→10/18〜21なので、祟神(12/5)よりも神功の
命日(4/17)に近いのです(祟神は12/5、伝・垂仁天皇陵を参照)。@

広田神社の例祭は現在3/16日である(改暦のために変わった?)が、彼女に最も縁の深い神社である。因みに命
日方位には観音霊場の原点となった長谷寺が位置する。しかも命日の逆10/18方位に向えば斑鳩町の吉田寺(八
幡神社)、←→次は大阪城・難波宮跡←→堂島←→大阪市・東淀川区に至る。

此のため応神天皇が皇居として、母・神功皇后を祭った事が分かる。其の前に彼は宝塚の中山に葬られた父・仲哀天
皇や義母・大仲姫を、そして特に其の皇子(忍熊・香坂王)を義理の兄として5/5に祭るために中山を聖地として祀っ
た(5/5中山寺を参照)。交点が東大阪の永和(若江岩田)である。此処なら同時に祭る位置付けともなった。

だが彼は古市(羽曳野市)で婚姻して東淀川に大隈の宮を造った。母・神功皇后を祭るために其の大隈の宮南を通過
して、更に10/18方位に向えば尼崎←→西ノ宮(恵比寿・広田神社)←→小野市の住吉←→社町に至る。その間に
は神戸市北区の岩嶺山・石峰寺(シャクブジ)が有る。

此処は後の656年に法道仙人が寺を開基して、孝徳・嵯峨天皇の勅願寺となり、行基が薬師堂を建てた。そして其の
先には落葉山(523m)、六甲の観音山・ゴロゴロ岳・石宝殿、大阪の御幣島などがある。何れにせよ尼崎と言い、西ノ
宮と言い、住吉と言う地名も、彼女と無関係の地名とは思えない。@

こうして見れば応神天皇は各地に墳墓を築いたヒジリであった事が分かる。其れに対して二代目以後は駄目になる。
皇子たちは権謀術数で争って大成せず、仁徳にしても兄弟げんかで忙しく、民を窮乏させて免税をせざるを得なかっ
た。

■06正御影供・・・・・・・真言宗の開祖、弘法大師の法要として普通は新暦の3/21にミエクとして行うが、仏教寺院で
あるから高野山その他では、旧暦のこの3/20日(御逮夜)から翌日21日まで行う。

■07-08無縁塚大会式・・・・・・・中山寺(兵庫・宝塚市)で菩薩来迎・稚児行列があり賑わう。

★ビルマの正月・・・・・・ビルマ暦(太陰暦)を採っているミャンマーではこの日が2003年のお正月であり、この頃にはパダウパンと呼ばれる山吹色の花
が咲く。そしてこの日の三日前から「ティンジャン」と呼ばれる年越しの「水掛け祭り」が盛大に行われ、新年を迎えます。この国の神は、月、即ち水神だから、
その神の水を掛けられても怒る訳にもいかず、お互いが大騒ぎして喜ぶ。07年は4/15日。













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