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http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p084


  神々の歳時記     2月上旬  但し方位による

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●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 http://
www.omatsuri.com/link/linkvex.html

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-2月」及び奈良観光連盟ガイドブックの「知れ
ば知るほど奈良はおもしろい」06-07冬号より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。


2月上旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ 



2/ 5 

                 
■08-09-10さっぽろ雪まつり(〜11日:2月上旬前後)【北海道札幌市】

■11岩手雪まつり(〜13日:例年3日前後〜12日)【岩手県雫石町】

07初午大祭・・・・・・・・・・茨城・笠間稲荷と京都・伏見稲荷の大祭。由来は和銅4(711)年2月初午(4〜7日)、秦氏の
公が餅を的にして射ってた所、白鳥になって稲荷山に飛び去り、止まった所に稲が生えたと言う事から初午にこの祭り
を続けている。@

◆07伏見稲荷大社の初午大祭・・・・・・・京都市伏見区の伏見稲荷大社。075-641-7331では此の日の参拝を「初午詣・
福参り」とも呼ぶ。商売繁盛・家内安全の縁起物「しるしの杉」の授与(有料)。

稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)によって和銅四年(711)2月初午の日と言われている。彼は賀茂建角身
命の24世孫の賀茂県主・クジラ(久治良)の末子だった。此の24人の古墳に見合う数が当社の東の山々である。無
論、洛西の松尾大社との関係で存在する。

初午は東部に位置する山で主軸が2/4---8/5の山の祭りであり、伊呂巨の墓と思われる。@
此処はビャッコ(白狐)が有名だが、狐は神ではなくて眷属である。

■07松尾寺・はつうま・・・・・・・松尾寺厄除観音出現・記念大祭。厄除祈祷、柴燈護摩、神楽奉納。松尾寺0743-53-
5023
■07三輪の初市大祭・・・・・・・日本最古の市場・つばいち(海柘榴市)の地の桜井市・恵比須神社0744-42-6432で、2/
5〜7日に商売繁盛を祈願する祭り。

継体天皇の命日?・・・・・・・文献では2/7となっているが、2/5日としなければ方位では合わない。この日の方位
によって次の安閑天皇が金橋宮で先帝を居つき祭った。今は継体天皇の陵が高槻や茨木市とされているが、方位か
ら見れば実は奈良県新庄市に葬られた。其れが今は「伝・飯豊陵」とされている古墳である(「2/7」を参照)。

■07法隆寺・三蔵会・・・・・・・玄奘三蔵(三蔵法師)の遺徳を偲び、命日(664/2/5日)に行なう法要。法隆寺0745-75-
2555。尚、玄奘三蔵はインドへ赴き仏典を翻訳して法相宗を伝え、602〜664/2/5に亡くなって弟子の鑑真が奈良・唐
招提寺に祀った。西遊記のモデルとなった僧である。

彼の遺体は先ず長安の大慈恩寺に保管され、白鹿原に葬られた。そして西安の興教寺に移葬されたと言う。所が日
中戦争当時に旧日本軍が工事中に市内の寺跡から石棺を発掘した。其処に玄奘の頭骨を南京へ運んだとの銘文が
あった。遺骨は変転して中国の複数の寺院、及び日本、インド、台湾にも分骨された。

埼玉の慈恩寺や奈良の薬師寺である。また玄奘の生家は今も河南省陳河村にあり、子孫の「院主」が47代目、遺骨は
西安の興教寺に埋葬されていると言う(07/1/10朝日)。6/21鑑真和上を参照。


■07岡寺・初午・・・・・・・厄除・開運・護摩供・大般若法要。0744-54-2007
川上村の朝拝式・・・・・・・・奈良県川上村。@

■06-07-08修二会・・・・・・水間寺(大阪府)で2/5〜7日。
■06-07-08尾鷲ヤーヤまつり(2月1日〜5日)【三重県尾鷲市、尾鷲神社・魚市場近く】 

松山椿祭























































2/ 6 


▲09初午。
さっぽろ雪まつり(2月6日〜12日)【北海道札幌市】
★10岩手雪まつり(〜14日:2月中旬前後)【岩手県雫石町】

■10針供養(針まつり)【和歌山市、淡嶋神社】
■07-08曼荼羅祭・・・・・・乙宝寺(新潟県中条町)。

■09王子稲荷神社の初午・・・・・・東京都北区、王子稲荷神社の初午。またhttp://www.rurubu.com/event/detail.asp?
ID=11263によれば、毎年2月の午の日に開かれる凧市は、たびたび大火に見舞われた江戸庶民たちが「凧は風を切
る」として火事除けの縁起をかついだもので、今なお親しまれている。

次にhttp://www.genbu.net/data/musasi/oujiinari_title.htmによれば、----創祀年代は不詳だが、康平年中、源頼義、
奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇敬した神社。つまり、関東の稲荷神社の総元締めというお
宮。

毎年、大晦日の夜に、関東一円の稲荷神社から狐たちが集まって、参詣したという伝承が残っている。当社の狛狐
は、鍵を持っているが、これは関東の稲荷を管理していたという証だろうか。古くは、岸稲荷と称していたが、元亨二年
(1322年)領主豊島氏が紀州熊野神を勧請し、王子神社を祀ったことから、王子という地名となり、

当社も王子稲荷神社と称するようになった。
江戸名所図絵、東都歳時記、新編武蔵風土記に記載する、゛毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐夥しく、ここに集まり来
る事、恒例にして今に然り。その灯せる火影に依って土民、明年の豊凶を卜す。云々゛

という伝説は、最も有名で「装束榎」は、これらの狐が、身仕度をした処と伝えられる場所で、゛装束の榎まで待つ王子
なり゛(東鳥)という句も残っており、その跡には、装束稲荷の祠が建てられています。徳川幕府代々の将軍家の厚い保
護と共に、大老田沼意次が立身出世したのは、屋敷に稲荷が祀ってあったから

という評判によることもあって、庶民の中に稲荷信仰が大層盛んになり、中でも王子稲荷の商売繁昌と火防せ(ひぶ
せ)の御神徳は広く知れわたる処となりました。

そして、江戸中期より二月の初午には「火防守護の凧守」が授与されるようになり、これを祀ると火難を免れ、息災繁
昌するとて社頭は賑いを呈し、これに因んで、縁起の凧を商う凧市が境内で開かれるようになり現在に至り、東京名物
となっています。


大晦日に王子稲荷神社に参詣する狐たちは、まず当社の東400mにあった装束の榎と呼ばれた大きな榎の下で、装
束を調えてから参詣したという。現在、その榎の木は無いが、近くに装束稲荷神社が祀られている。榎の下に集まった
狐たちが灯す火(狐火)によって作物の豊凶を占ったといい、その光景は安藤広重の浮世絵に描かれている。

現在、地元の方々によってこの模様を再現した「狐の行列」が、大晦日に行われている。以上引用。

■07富山・どんぶら祭り・・・・・・富山の神明神社では、700年の伝統ある此の祭りで豊作祈願をする(07/1/10NHKラジ
オ深夜便)。

■07熱田の海苔まつり・・・・・・熱田では平安時代から海苔を税として納めた。よって此の日を海苔業界で海苔の日に
した(07/1/10NHKラジオ深夜便)。

千姫の命日・・・・・・・家康の孫、秀忠の長女。寛文6/2/6日卒。69歳。号は天樹院。本多平八郎・忠刻に嫁いだが未
亡人となって落飾し、竹橋御殿(今の毎日新聞社)に戻った。だが此処が火災となり、次に飯田御殿に移っていた。
彼女は世間から好奇の目で見られて俗説が多い。

だが秀頼との間に娘があり、其の命乞いをした外、東慶寺の住持・天秀尼として何かと世話を焼いて平安な日々を送
った。水海道市の弘経寺がある。此処は彼女が帰依した寺と言われ、竹橋御殿が移築されていたが明治33年に焼け
た。此処は千姫に縁の寺(浄土宗)として今も千姫廟が有る。

此処で千姫の生誕400年の平成9/4月に墓地の修復が行われた際に、「千姫の遺骨が確認された」と言うが疑問であ
る。と言うのは、先の飯田御殿を今の飯田橋辺りとして、弘経寺とのラインを引けば1/23.5日となる。とすれば日数に
して12.5日の差が出る。

因みに先の命日2/6日を新旧換算すればグレゴリオ暦の1666/3/11日であり、差が更に開く。と言う事から逆に命日の
2/6日はグレゴリオ暦であり、それを旧暦にすれば1666/1/3日となる。此れでも方位との日数差は20日余りとなる。其
処でもう少し調べると当初、彼女の遺骨は小石川の伝通院(浄土宗)に葬られた事が分かる。@

とすれば弘経寺は何だったのかと言えば、分骨先と分かる。文献にも分骨ではなくて遺髪だったと有る。ともあれ此処
では06/4/16(日)第六回・水海道・千姫祭りが行われ、穏やかな春の日差しの中で200人を超える参加者が時代衣装
を身にまとい、優雅な歴史絵巻でパレードする。常総市役所商工観光課0297-23-2111

次項も参照。

千姫の命日・・・・・・・京都市東区の知恩院には千姫の墓がある。千姫は徳川二代将軍秀忠の娘で、家康の孫に当
たる。豊臣秀吉の遺言により、徳川と豊臣の架け橋となるべく豊臣秀頼の妻となる。しかし、その後豊臣と徳川は相争
う仲となり、大阪夏の陣で秀頼は自害し豊臣氏は滅び去る。

その際、千姫は戦火の中を助け出され、後に本多忠刻の妻となり姫路へ移った。しかし、忠刻とも死に別れ、江戸城竹
橋御殿で余生を送った。寛文六(1666)年2月6日に死去。享年70歳。

因みに知恩院では千姫の墓--権現堂--葵庵--小方丈--大方丈--御影堂--拝殿--が、命日方位に一軸上に並んで
いるように地図上では見える。また千姫の墓は、この知恩院の他に東京の伝通院と水海道市の弘教寺にもある。

■06-07-08おんだ祭り・・・・・桜井市の大神神社0744-42-6633の豊年講・春の大祭で、殿内を神田に見立てて田作男
と早乙女とが狂言のような口上で面白可笑しく舞いながら農耕の所作を行なう、春の初めの古式ゆかしい豊作祈願
祭。尚、2/17日には祈年祭。

★11おんだ祭り(2月第1日曜日)【奈良県明日香村、飛鳥坐神社】
http://www.omatsuri.com/movie/onda.html<動画>

三輪・恵比寿神社の初市・・・・・・桜井市のJR三輪駅前の恵比寿神社。2/6日の早朝から先ず御祭神の事代主神を
祭る「元えびす・大行事社」の例祭として始まる。其処は恵比寿神社の東にある平等寺の境内横に朱塗りの堂宇として
存在する。其の元宮の例祭の後で此処、恵比寿神社の初市(えびすさん)が賑やかに開かれる。

平等寺はかつてオオミワ(大神)神社の別当寺だった。其の境内に今も「大行事社」(大神神社・摂社)として祭られてい
て、其処から3/2日---9/1日の方角に真っ直ぐ参道が伸びていて、どうしても今の三輪小学校にぶつかる。此処には
昔、一体何があったのか気になる。

つまり本来は3/2日が例祭だったと思われるが、其処から少し北の所に今の恵比寿神社が出来た。此処も廃寺(神宮
寺の三輪山・福楽寺)跡である。此の辺りは古代「つば市」の場として以来、「上市」として、また平等寺の門前市として
栄えた。

旧・師走の21日26日やこの初市祭には県下の穀物商が集まり、麦・大豆、そうめん等の相場を立て、其れが近在近郷
の相場の基準となった言われる(大和高田市・文化財を考える会・08/3月の例会資料より一部引用)。

仲衷天皇の命日・・・・・・・彼は香椎の宮にて「9年2月、癸卯朔丁未の明日崩御」。時に西暦200年、後漢のこ
ろである。@

神戸や神崎と言う処は、言わば神社の領地や門戸と言う意味である。其処から西宮に進んで阪急御影駅を通り、都賀
川を渡る。都賀はトガとも読めるが、其れは「咎」にも通じる地名だ。とすれば、先妻・正妻が妃・後妻の神功皇后を「咎
め」たのかも知れない。

とすれば、「彼女の船団を止めた」、とのこの地の伝承と符号する。次に神戸市JR灘駅南に、阪神岩屋駅があり、其の
また南に脇浜がある。此処に竜泉寺とミルメ(敏馬)神社がある。

竜泉寺は聖徳太子の開基で真言宗「岩屋の薬師堂」、と言われたが、今はミルメ(敏馬)山・竜泉寺と言う臨済宗寺院
となっている。またミルメ(敏馬)は式内社としては「三水に文と売の字」で記録された。

此処は神功皇后に縁りの社であり、ご祭神は仲衷天皇ではないが、後述の、彼に所縁の2神社が競馬とは趣が違う、
「馬駆け神事」を残していた。従って「敏馬」とは関連が深いと思われる。何れの場合も、数多くの駿馬を連ねて先帝の
鎮魂の儀礼としたものと推定する。

近くの魚崎の地名にしても、「東灘歴史散歩」によれば、「五百崎」と書いたと言う。其の由来は、神功皇后がこの浜に
「五百艘」の軍船を集結したとの伝説など諸説を載せている。因みに当時、五百城入彦皇子( いおきいりびこのみこ)が居た
が彼の叔父であり、しかも遠い毛野に赴いていた。

其処で次に筆者の推量を加えれば、其れは先帝の崩御を知らされずに神功皇后と三韓征伐に行ってしまった軍船
が、やがて勝利して凱旋した際に、先ず先帝に弔意を表すために此処に列したものと思う。

所が瀬戸内海を凱旋して神戸に向かった軍船が明石沖に来た時に、「先帝の皇子の香坂王と忍熊王とが陵を造ると
言う理由で軍船を明石に集結した」との話が神功皇后に伝わり、其れを彼女は「謀反」と受け取った。

其れが都賀川の由来であり、もしくは其処から悲劇が始まったのではないか。本来なら二人の皇子こそ正当であり、神
功皇后は立場上は別働隊に過ぎなかった。
ただ「勝てば官軍」であり、正史に其の事は記されなかったが、其の悲劇を後に知った応神天皇が二人の兄を弔った
のが近くの若宮八幡宮ではなかったか。此処で言う「若宮」とは、応神天皇の事である。

また近くに御旅所として、沢の鶴酒造資料館・住吉神社が有り、5/5が例大祭である(「5/5・中山観音」の縁日にリ
ンクする?)。そして脇浜にはかつて頭を東北東に向けた120mの脇浜天王塚と言う前方後円墳があった。

とすれば仲衷天皇の陵の可能性が強いが、生憎古記録にあるだけで墳墓は現存せず、詳しい位置関係も不明であ
る。そしてこの辺りは元々津守泊とまり、及び津守郷と言った。因みに津守氏は古来、住吉大社の神主一族である。

そしてこの東には東灘区JR住吉駅の南北に「住吉町」がある。日本書紀や「住吉神代記」に、住吉神の鎮座地を「大
津ぬなくらのながを」とあり、其れが当地か、とされて古来、諸説あったが此処には神社がなかった。其れも其の筈、実
は「元住吉」と言うのは先の中山観音だったのです。@

どうして此処に向かうのか、と言えば、このラインにこそ仲衷天皇と大仲姫との淡路の宮があったからである。だから二
人の皇子が墳墓を造ろうとして準備した。彼らこそ正当性があった。にも拘わらず神功皇后・竹ノ内宿禰に咎められ、
騙し討ちにあって亡んで中山に祭られた訳である(「5/5・中山観音」を参照)。

所が、後妻である神功皇后は仲衷天皇の崩御を伏せて三韓征伐に向かった。その間、武内宿禰に付けて「穴門に遷
りて豊浦宮に殯もがりし、新羅の役によりて天皇を葬しまつる事を得ず」(書記)。

よって三韓征伐の後に神功皇后はその方位に当たる穴門の宮に弔い祭り、またその後、難波津に至る間、紀州の志
野の小竹宮(現・貴志川町)に滞在した。

付近には現在、那賀郡貴志川八幡宮(旧・岸の宮)があり、貴志の荘一帯の産土の総社となっているが、品陀和気命
(応神天皇)と息長足姫命(神功皇后)、そして玉依姫と言う八幡三座を祭っている。

また神山としての鳩羽山山頂は岩倉のような岩山で、かつては海の内浦の岸辺の「岸」であり、波止場であったと思わ
れる。此処は今も見晴らしの良い丘であり、一宮の遺跡と言われる。

社伝によれば、「神功皇后が筑紫からご凱旋の砌、皇子(後の応神天皇)と共に、御船にて柏原の里に着かせ給い、
其れより御上陸ありて小竹宮(旧・志野村)に遷らせ給う」とあるので、矢張りこの小竹宮から命日方位に対して仲衷天
皇を弔い祭ったと思われる。書記には続いて「斎宮を小山田村に造らしめ給ふ。

皇后斎宮に入り、親ら神主となり給う」と有り、この岸の宮の西には矢張りこの方位を向いた小山があり、今は住宅地
に開発されてしまったようだが恐らく彼の墳墓かと推定できる。

またこの貴志川から命日方角に向えば、和泉葛城山を越えて現・河内長野市に至り、中でも上原・小山田・野作に跨る
地区には先ず小山田に住吉(旧・清崎)神社があり、此処は明治まで宮寺が有った。此処に隣接して明治までは野作
に「仲衷天皇陵」とされて来た丘陵地が有り、近年、つまり昭和15年、関電の鉄塔を立てる際に一部が掘り返された。

この時には何も発掘されなかったそうであるが、此の一帯は明治末までは西の山神社(上原八幡宮)があって現在も付
近一帯がこの地区の共有林として保存されている。また此処は元は住吉の神宮寺で有って住吉神社とは言わなかっ
た。宝暦10年9月5日の石灯籠が本殿前に現存している他、鐘楼も現存している。

ただ実は清崎神社と言うのが村外れの廣野地区の鋏池の湖畔にあった。其れを明治に現在地に遷宮したのである。
その頃の石鳥居が現在の住吉神社の南方の高天原地区に立っている。「明治5年3月吉日、字廣野、小山田願中」と
記銘している。

或いは其の逆方位の小山田町には実はもう一つ、標高163mの丘があり、池を含めると長さも同規模となり、形は崩
れているが方位も略合致しそうであるので此れこそ彼の墳墓、即ち「長野陵」と推定する事も可能です。

所で、史実とは違う事なので荒唐無稽な話と取られるかも知れないがこのラインから逆に見れば、彼仲衷天皇は香椎
の宮ではなく、本当は屋久島で亡くなったと推測できる。だから彼女は其処から命日方位に当たる岸の宮に向ったので
あり、此処には更に紀ノ川を挟んで対岸にヤマトタケルを祭る大宮が今も有る。

ヤマトタケルは彼の父であるからこのラインにそうした宮が有るのは奇異かと言えばそうではなく、ヤマトタケルの皇子
としての仲衷天皇よりも、勇名をはせた父(ヤマトタケル)の名だけが今に伝わったものと見る事も出来るのだ。

此処でまた横道に逸れるが、仲衷天皇は熊襲征伐に際して、神功皇后が「熊襲を討つには先ず三韓を討つべし」と託
宣したのを聞き入れなかった。ために急折した。よって彼は「足仲彦」と言われた。

其れは、熊襲を討とうとして果たせず、志半ばで倒れてしまったから「敵を垂らし損なった方」、即ち「タラシナカツ彦」と
言われた訳だ。所で、足仲彦、大仲姫、息長足姫命の三人ともナカ・ナガの付く名前である。

何れも海人(わだつみ)族であったが、前二者が近江と日本海系であったのに対して、息長足姫命は朝鮮・日本海系で
あり、其の上に九州を支配する住之江族、即ち豊玉彦(山幸彦)系の海人(わだつみ)族を味方につけた事になる。だ
から勢力図としては多数を占めた。

よって「勝てば官軍」となった。だが正当性に欠けていた。しかも彼女が妊娠したと言う子(誉田別尊)は、先帝の子とし
ては臨月期間が長すぎた。だから実子として疑問視され、従って王権を継ぐには至らなかった。

其処で其の子は、仲衷天皇の後継者としてではなく、もっと前の、成務天皇の婿養子として誉田別尊と名乗り、応神天
皇として即位する事となったのである。神功皇后が息長足姫命と言われたのは息ナガ氏の娘を意味するが、彼女が居
た、先の博多湾には那珂川が流れ込み、次は長門へ向かった。

そして紀州の那賀郡と河内長野(長野村)に来たのであるが、漢字では字が違うものの川名、地名が何れも音では「ナ
ガ」で通じる。此れは偶然だろうか。

因みに「ナガ」とは蛇であり、蛇を再生のシンボルとして信仰したナガ族は龍蛇族とも呼ばれた古代氏族であり稲作民
族であるが其の中で、息ナガとは沖の長氏、つまり海人(ワタリ)・海人(わだつみ)族を意味した。

尚、先のシヌ(小竹)の宮では日食が起こり、其の原因がアズナヒの罪であるとした天野祝が登場するが、河内長野の
元・清崎神社は天野地区に有ったので、「天野」と言う点でも共通項である外、貴志川八幡宮と住吉(旧・清崎)神社で
は共に今も例祭には「馬駆け」神事と言う豪壮なアトラクションをメーンにしている事です。

但し、貴志川八幡宮は日迎えの立場であるためか例祭を4/3と10/3に神賑神事を行なっているのに対して、後者
(住吉神社)は弔い側に位置するため、神仏習合寺院であり、本来の例祭日は2/5 にしていた筈であるが、今は10
/12頃に行われる。仲衷天皇陵については1/9も参照。

◆仲衷・補足・・・・・・・大阪・富田林市の竜泉寺、河内長野市の河合寺、和泉市の槇尾山・施福寺が2/6と8/8のラ
インで一直線に繋がっており、此れは先の仲衷天皇の命日・方位であり、また次項の継体天皇の命日にも近い。

■例年-新宮の「お燈まつり」・・・・・・・和歌山・新宮市。熊野の速玉大社(新宮)には1205点の国宝があり、有名な
祭りとして先ず2/6に女人禁制の火祭り「お灯まつり」があるが、此れは摂社の神倉神社の1400年続く伝統ある火祭
である。神倉神社はゴトビキ岩と言う巨岩をご神体とする。

眼下に海を見下ろすこの岩に神武天皇の頃、神が降り立ったと言われる。「お燈まつり」は深夜、その神の火を松明に
戴いて、大きな石段を飛び降りるように駆け下りて、我先に我が家に持ち帰る神事であり、各家で神を招くと言う意味
が有る。

因みに、新宮の例大祭は本宮とは逆の時期の10/15〜16日で対照的である。そして那智大社には那智の滝があり、
7/14には「那智の火祭」が行われる。@

次は07/1/21日にNHK総合TVでs63年分の再放送した中から引用する。
此の祭りでは、タイマツの列が一体の「下り龍」のように見える。其の先頭になるのが男の生き甲斐であり名誉である。

2/6日の当日、寒さの中、互いに海に入って身を清めてから白衣に着替えて山に登る。熊野3600峰の中で、最初に神
が下ったのが神倉山のゴトブキ岩であり、ご祭神(高倉下命)の祭りが此の「お燈まつり」であlり、1000年前の祭りとし
て熊野年代記は伝える。町民は其れまで待ち遠しくて仕事が手に付かなくなる。先ず長さ30mのシメ縄が石段を登る。

此の石段は頼朝の寄進であり、次は「火の神」として護摩焚きが行なわれる。作家の中上健二は、「祭りで火を貰うと、
別な力を貰うので毎回此の祭りに参加する」と書いている。此の祭りには2000人が参加する。其の火を担いで、先を争
って駆け下りるので喧嘩祭りでもある。其れを取り締まるのが介釈である。

介釈は、「神の使い」として「切り捨て御免」の権限を持っていた。また徹底した女人禁制の名残が有る。女たちは、男
衆の衣類に手を触れる事さえしない。家族であっても触れば怪我をした。男児は5歳で初登りする。登ってから初めて
男の子となる。体には荒縄を3-5-7の奇数で巻き付けて登る。

先ず火起しの神事があって、其の聖火を介釈が子供たちに火を与える。男衆が各々罵声を発してタイマツに移し、大タ
イマツに移す。やがて介釈が門を開けると、一斉に男たちが飛び出す。そして約45度の急角度の538段の石段を駆け
下りる。暗闇の中を、タイマツの火だけを頼りにただ走る素朴で豪快な祭りである(以上引用)。

■07-08顕密寺(岡山県英田町)・・・・・・五大力餅会陽。餅米五斗をついて二斗餅をつくり、三宝に二重に重ね、力自
慢の者がこの三宝の持ち運びを争う。



























































2/ 7            08(戊つちのえ子)年・旧正月・元日


▼08朔・旧正月・元日・木曜。 旧暦ではこの日から正月に入る。従って西暦の1月=睦月は、実は旧暦の師走でした。西暦の正月では、七草と言っても野山
に七草はなく、初春と言っても小寒、大寒、節分と益々寒さが厳しくなる。其れに対して、08年の旧暦の此の元日(新月)は立春を過ぎて、三日目の初春です。
また09年は旧正月の13日。18日から「雨水」ですから、ホンモノの春になる。 

★子の意味・・・・・・・08年戊子の「子」の字は、子供とかネズミではなくて方位を意味します。子の方位は12/22の冬至の日だけです。子とはつまり真北で
す。古来、暦と方位と12支とは合致しました。因みに本日、08/2/7日は「子」ではなくて丑の方位になる。方角でも北東を丑寅(鬼門)と言います。

ただ08年を戊(つちのえ)子の年とするのは、方位ではなくてユリウス日のように、60干支による循環暦によるためです。

■11さっぽろ雪まつり(〜13日:2月上旬前後)【北海道札幌市】
■09弘前城雪燈籠まつり(〜11日:例年10日前後)【青森県弘前市】

■蒲生氏郷の命日・・・・・・毒殺?!文武両道で恐れられた戦国武将とは!!文禄4年(1595)2月7日に、会津若松
92万石の大名である、蒲生氏郷が京都の伏見で病没する。享年40歳であった。毒殺説とも言われる。氏郷は、「才
覚」と「武勇」を備えた武将であったため、恐れられたのか。
    
以上はメルマガ【1日1分歴史新聞】 戦国武将・幕末志士が今日甦る!なっとく歴史館 →  http://1rekisi.jpより引
用。

▲09国府宮はだか祭(旧暦1月13日)・・・・・・・・愛知県稲沢市、国府宮神社。1200年前から続く厄除けの裸祭り。詳しく
はhttp://www.konomiya.or.jp/----09/1月27日午前10時より儺負人(神男)選定式を斎行致し、本年の神男が決定
し、平成21年の儺追神事「はだか祭」は09/2月7日(土)に斎行。

■07尾鷲(おわせ)・山ノ神まつり・・・・・・・三重県。海の神に敗れた山ノ神を慰める為に、オコゼと言う魚を捧げて大笑いする神事で豊作祈願でもある(07/2/7
のNHK総合TVより引用)。08年は2/1-5日。

■07初えびす・・・・・・奈良県宇陀市の恵比寿神社で07年の2/7日に菟田野地区、2/8日に大宇陀区、2/10日には榛原
区で。
★10おんだ祭り(2月第一日曜日)【奈良県明日香村、飛鳥坐神社】
おんだ祭り 2月第1日曜日 奈良県明日香村   
http://www.omatsuri.com/movie/onda.html<動画>

継体天皇の命日・・・・・・・仁徳の皇統が武烈を最後に血筋が絶えた結果、次が応神天皇5世孫の26継体天皇とな
った。彼は高島郡三尾の出身。其の高島市に今も三重生神社(式内)が残り、また父・彦主人(ひこうし)王の陵(田中
王塚古墳)などがある。

また此処では越前から嫁いだ振姫が拝殿で三つ子を産み、末子が継体天皇になったと言う伝承も残っている。更に南
東には継体の長子・安閑天皇を祭神とする安閑神社もあって神代文字の碑文も有る。更に近くに高さ2m直径10mの
円墳・胞衣(えな)塚が有る。此れは継体天皇を出産のあと、臍の緒を埋めた所。

また近くに鴨川が有り、南側に6c頃の鴨稲荷山古墳(60mの前方後方墳)が有る。
さて近江生まれで越前育ちの彼が重臣たちに迎えられて26継体天皇として迎えられた。07年2月には継体天皇の樟葉
宮即位1500年を迎える(06/11/1朝日・フロンティアエイジより引用)。

彼は当初、樟葉宮に来て后(手白香姫)を娶り、五年留まった。次に筒城宮(山城)や弟国宮(同)、そして磐余玉穂宮へと
遷宮を重ねた。其処まで20年間を要した点について今は謎としているので、先ずその点を此処で吟味する。彼が樟葉
宮にいたのは亡き応神天皇のためでした(「2/15」、「5/6〜8」を参照)。

そして次は何れも武烈天皇の命日ラインに重なる場所に宮を設けて歩んだもので、つまり彼は鎮魂と日迎えの宮事を
経て玉穂宮に入った事になる。其れが即位のための掟(第一の関門であり手続き)でした。彼は応神天皇の5世孫とさ
れる。

しかしそんなに離れたのでは皇統との繋がりが不明(素性不明)だとして、「越の国の地方豪族に過ぎなかっただろう」
と言うのが大方の学者の見解である。だが越の国は仲哀・神功の頃から応神にも縁が深く、従って仲哀の皇子(誉屋
別)とか、応神の29人に及ぶ数多の皇子(女)の内の一人が其処で居つき祭りしていたとしても不思議ではない。

当時は今とは逆であり、太平洋ベルト地帯が裏日本で、表日本は寧ろ越の国の側だったとも言える。実際、彼は仁徳
の弟の稚渟毛二派皇子の子孫でした。であるとしても皇統を日嗣するには応神の命日ラインに皇宮を造り、其処に居
ついて応神の御魂の弔いと日迎えをした上でなければ、即位出来なかったのである。

とすれば、彼が大和入りするまで各地を転々とした意味についての、従来の「対立とか戦乱」と言う構図の諸説は全て
見当違いの憶測だった事が分かる。本書のように斎宮を中心点として見た場合は、真実以外が削ぎ落ちるのです。

大伴金村からの要請で彼が即位したとしても、応神の五世代後ともなれば、既に元の古い宮には各代の天皇の末裔
が宮家の本家として残り、斎き祭りを続けていたに違いない。よって先帝の命日方位の軸線に沿った宮を次々巡って
進んだ事になります。

古来、天皇となる要件の第一は血筋であり、次は武力や金力ではなくて「三種の神器」であるが、其れを正しく使って暦
と方位を定める能力が具備していなければ日本では大王とはなれず、しかも皇統の命日方位に「位」して日嗣の祭りを
しなければ「即位」の要件を欠くとしたのが祭政一致の掟、つまり筋目の手続きであり、関門でした。

そうした彼も最後について紀には「25年春2月丁未、磐余玉穂宮で崩れ、冬12月に藍野陵に葬る」とある。此のため其
れに相応しい所として茨木市に治定されたのが太田山古墳である。

近くには確かに摂津の藍野の地区があるものの、考古学的にも疑問視され、また陵や宮を方位に照らし出しても合わ
ない。但し、「諸本」には、天皇の御歳、四十三歳(よそじまりみとせ)。〔丁未の年の四月九日に崩りましき。〕 御陵は
三島の藍の御陵なり、とある。

そうすると4/20日の方角を向いた高槻市の今城塚古墳が11日のズレで適合する可能性もある。此の古墳の規模は
190m。考古学では6c前半の古墳として、宮内庁が別に茨木市に治定した太田茶臼山古墳よりも、この古墳のほうが
継体天皇陵の可能性が強いとして、第一の候補としている。

そうすると4/20日の方角にある京都府精華町の祝園に向かう事になる。確かに彼は511年10月、筒城宮(つつきのみ
や)に遷している。此処は現在、京田辺市多々羅都谷の同志社大学グラウンドに碑がある。だが、今城塚古墳を2004/
2/11日に発掘中に「横穴式石室」の可能性があると発表した。そうすると矢張り矛盾がある。

では磐余や玉穂を桜井市周辺と見てはどうか。此処にはメスリ山古墳があるが方位が三月だから駄目だが、次の安
閑天皇が皇居とした曲川の宮から逆算すれば分る@磐余玉穂宮の所在地は、その桜井市池之内付近とされていま
す。
所で、以下http://okhome.fc2web.com/inves/keitai/keitai003.html「歴史探訪」から引用すれば、磐余は、神功皇后、
履中天皇が都を置いた磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)が置かれた所でもあり、息長氏を出自とする継体天皇にとっ
て、神功皇后ゆかりのこの地こそヤマトでの宮に相応しい場所であったのかも知れません。

此処には磐余池という大池があったとされ、池の畔りに磐余稚桜宮、磐余玉穂宮の他に清寧天皇の磐余甕栗(みかぐり)
宮、用明天皇の池辺雙槻(なみつき)宮なども営まれたと伝えられ ています。ただ何れの宮跡も特定はされていません
が、伝承は残っています。

磐余稚桜宮は稚桜神社に、磐余玉穂宮は其処から西南に300m離れた地点に、地元の人達が「おやしき」と呼ぶ小高
い丘があり、これが継体天皇の宮跡とされている訳です。勿論、伝承の域を出ず、考古学的に根拠づけられている訳
ではありません。

 ▼池内附近(左後方磐余玉穂伝承地)    
 地図 http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=34/29/44.803&lon=135/50/5.127&layer=1&sc=3&ac=29206&mode=map&pointer
=on&size=s

もう少し、回り道をする。先帝であった武列天皇から検証したい。

宮跡については先ず桜井市の出雲に十二柱神社があり、其の中の末社として武烈天皇社があって彼が祭られている
ので、此処が泊瀬列城宮であると言われてきた。次に彼の傍丘磐杯丘北陵については、かつては大和高田市の築山
古墳とされ、今は香芝市大泉の丘陵地が治定されている。

だが、即位までの経緯からすれば、方位で見るまでもなく上記の二つの候補地は何れも全くの見当外れと分かる。当
時の逸話に出て来るツバイチ(海杜榴市)などの場所から見ても、宮は先の十二柱神社ではなくて桜井市の巻向、つま
り「箸中辺り」と推定した方が無理がない。

其処で仮に「箸中辺り」が宮だったとすれば、其処から命日の12/8日の方位には柳本大塚古墳(12/13向き)94mとか、
伝・神功皇后陵(12/8向き)、それに大安寺墓山古墳、同杉山古墳などがあるが、中でも伝・神功皇后陵は彼の命日(12
/8向き)に全く合致するのです。

とすれば、次の26継体天皇が何故、筒城宮(山城)や弟国宮(同)、そして磐余玉穂宮へと遷宮を重ねたかの謎が判明
する。何れも武烈天皇の命日ラインに重なるからである。よって彼(継体2/7日を参照)は、先帝(武烈)の鎮魂と日迎え
の宮を経てイワレの玉穂宮に入った訳であり、其れが即位のための掟(手続き)だった事が分かります。 

・神功皇后陵は、奈良市の北の山陵町にある。其処から12/8とは逆方位の、6/9日の方位に向かえば、桜井市の戒
重を通じて吉備を通り、安倍寺跡から明日香に入り、威徳院に至る。また6/17日側には明日香村大字野口の小泊瀬
稚雀(おはつせわかさざき)神社に至る。其処のご祭神は、武烈天皇である。

更に6/9日の方位に進めば、吉野町の背山から船岡山(454.9m)を通じて水分神社、そして高城山(690m)に至る。ただ
武列天皇を祭る継体天皇の宮居としては、先の桜井市の「箸中辺り」よりももっと北の天理市檜山に設営した事が分
る。

其れが武列天皇の12/8日のラインと下記の継体天皇陵との交点になるからであり、其処を磐余玉穂宮としたものと推
定する。継体天皇は、其処で2/7日に崩御して、逆方位の8/6日方位に当たる葛城市(元・新庄町)北花内の伝・飯豊天
皇陵に葬られた。其の古墳の主軸は2/5日方位を示しているので、2日のズレで略合致する。

此れにより、次に即位する安閑天皇は、此の日の方位に当たる橿原市金橋に新宮を造った。以下、3/13日、または12
/17日を参照。


◆二上山の中腹部から富田林の竜泉寺、河内長野市の河合寺、和泉市の槇尾山・施福寺が2/7(「2/6」も参照)と
8/8のラインで一直線に繋がるから不思議である。その意味については何れ解答したい。

■08出雲大社・福神祭。
■08和布刈(めかり)神事(旧暦元旦)【福岡県北九州市門司区】

■修正鬼会  ☆05/2月7日(月)   (大分県国東町)・・・・・・・・・国東半島の六郷満山に伝わる伝統行事の修正鬼会は、かつては六郷満山の各寺
院で行われていました。現在は豊後高田市の天念寺と国東町の成仏寺・岩戸寺(両寺で隔年開催)に残っているだけです。

六郷満山の鬼会は、節分の鬼とは違って菩薩の化身として登場し、「鬼を追い払う」のではなく、「鬼に姿を変えた祖先を出迎える」という考え方で行われてい
ます(☆はメルマガ【なっとく歴史館】 公式サイト: http://1rekisi.jpより転載)。修正鬼会の詳細URL  http://www.town.kunisaki.oita.jp/index.jsp

■06-07-08-09北方領土の日。




























































2/ 8 日  


●例年-事始め(農事)、針供養・・・・「ヒジリ」の別項を参照、または12/8「コト八日」を参照。
●例年-針供養 2月8日 http://www.omatsuri.com/movie/harikuyo.html<動画>
■08あばしりオホーツク流氷まつり(〜11日:2月第二金曜日〜)【北海道網走市】

桜山神社の畳針供養・・・・・・・盛岡市。畳職人たちが畳針を豆腐に指して感謝する。
■08なまはげ柴灯まつり(〜10日:2月第二金曜日〜)【秋田県男鹿市】

■07白鳥(しらとり)八幡宮・古式祭礼「白鳥(しらとり)の日の出祭り」〔小山市〕・・・・・栃木。小山市白鳥地区に約450
年前から伝わる「日の出祭り」が2月8日(木)、白鳥八幡宮で行われます。

この祭りは小山市の指定民俗文化財で、白鳥地区内の6組が年交代で毎年旧暦の1月11日に行われ、県内でも数
少ない頭屋制の名残をとどめる貴重な祭りです。
 
開催日 2007年2月8日(木) 。以上、 http://event.donet.tv/news.shtml?5「日光-那須-栃木の観光イベント」より引用。

桜川の草鞋祭り・・・・・・・茨城・桜川市の五味田地区で、1mと50cmの大きなワラジを奉納する。
●例年-針供養【東京都台東区浅草、淡島堂など】

■04千葉ふいご祭り・・・・・・・http://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/mailmagagine/magazine-back48.htm「千葉県立
関宿城博物館メール情報」より引用。---(5)せきはく豆事典〜「関宿久世氏とお稲荷さん」〜ドンドン、ドコドン・・・。先
日04/2月8日そして翌9日の夕方、関宿城博物館の周囲の町内では子供達の太鼓の音が響きました。

今年、9日は2月初の午の日。お稲荷さんをお祭りする、いわゆる「初午」です。屋敷にお稲荷さんを祀っている家々で
は、おのおの地口行灯(じぐちあんどん/川柳・洒落言葉などに風刺画を添え描いた行灯)を掲げ、子供達は前の晩
の「宵宮」と当日、神社にお籠もりし、また町内を太鼓を叩きながら回ります。

お稲荷さんのある家を回るとちょっとしたおひねりや赤飯、またスミツカレと呼ぶ独特の料理を分けてもらえます。この
ような子供を中心とした初午行事は東日本を中心に広く見られるものですが、この周辺では、もと関宿城の城下町であ
った地域に限られています。

その隣の旧二川村の集落では初午は行われず、またお稲荷さん自体もあまり祀っていません。文化9年(1812)〜文政
12年(1829)に十方庵敬順が記した江戸周辺の見聞録、『遊歴雑記』三編巻之上をみると「総州葛飾郡関宿の城主久世
大和守家には、稲荷の神を殊に信仰して例年の初午祭は勿論、ふいご祭には霜月七日より翌八日の深夜に至るま
で、太鼓笛の鳴物いろいろの囃子ありて殊に賑はしく、夜は萬灯を照して昼のごとし」とあります。

江戸後期、関宿藩の江戸屋敷でも稲荷で初午とふいご祭りを盛大に行っていたようです。その理由については、「伝え
いふ、久世の初祖は三条小鍛冶宗近にして、宗近が勧請したる宇賀の神なれば、斯ふいご祭をすることなりと諸人み
な巷談す」とあります。

宇賀の神とは穀物・稲の神すなわち稲荷神と同一視される神で、鍛冶職人の間でも火の神として信仰されていました。
更に、十方庵は、久世家中屋敷に住む岡部嘉六という詮索好きな人物にその由来を尋ねています。

それによると、久世家は宗近の枝流ではなく、藩内でも稲荷祭りは明暦から始まったと伝えられていたと言い、「明暦の
頃土井能登守より久世家嫁入られし奥方ありて、此人殊に稲荷の神を信仰して衆に増りて崇敬せしが」その始まりで
はないか、しかし「いまだ実事を突留ず」としています。やはりはっきりしないようです。

ただ、久世家についてこのような言い伝えが巷口にのぼるほど、この頃の関宿藩では稲荷信仰が強かったようです。
そういえば、博物館の住所でもある三軒家地区では文字どおり三軒の家で関宿城の「鬼門除け稲荷」を合同で祀って
います。これも、関宿藩の稲荷信仰を根強さを示すものでしょう。

今日も天守閣から見下ろすと、ちゃんと赤い鳥居のお稲荷さんがお城を災厄から守るように鎮座しており、何やらほっ
と安心いたします(榎)---以上、引用。

■09甲府市の天神祭・・・・・・・山梨県甲府市では厳寒のこの時期に天神祭。


本巣市・白山神社の祭り・・・・・・・岐阜。800年前から伝わる祭り。男二人が根尾川に入って矢を放ち、大根を撃っ
て占う。

■08針供養【京都市西京区嵐山、虚空蔵法輪寺】
■07-08開山忌・・・・・・安楽寺(京都市左京区)。
■07-08追儺会「修二会」・・・・・・長谷寺(奈良県桜井市0744-47-7001)で2/8〜14日。

孝霊天皇の命日・・・・・・・・先の06孝安天皇が室秋津島宮で孝安102/1/9日に崩御のため、記紀に言う玉手岡上
に葬った。だが其れは、今宮内庁が玉手地区に治定の所ではない。其処とすれば命日の1/9の軸から外れるから
だ。

彼の宮は御所市の室地区の室大墓(竹之内宿禰の墓地と言う)の東部分に室八幡神社が有って、此処が秋津島宮跡
とされており、確かにその東方には玉手岡も見えるし、玉手岡上陵と治定された前記の所も在る。また其処から南方
の、富田地区には天満神社があり、其処に孝安天皇社がある。

だからこの伝承は全て正しいように見えるけれども、秋津島宮跡から命日の1/9方位に向かえば玉手ではなくて、御
所市街の円照寺に向かい、其の先は橿原市・曲川地区の八幡神社に至るので、命日と宮を採るなら「陵は間違い」と
見て、切り捨てる外はないのです。

まぁ念のため先の天満神社・孝安天皇社から命日方位を見るとしても、正蓮寺←玉手陵→天満神社・孝安天皇社とな
る外は目ぼしい所がない。其れに対して室秋津島宮からの命日軸の前後を見た場合は、曲川地区の八幡神社←善教
寺←愛宕神社←円照寺←室秋津島宮→船宿寺←出屋敷に至る。

そして曲川地区の八幡神社まで行けば、其の辺りは9/8の項目で述べる通り、04イトク天皇の皇居(軽曲峡宮)が有
った辺りとなる。昔は淡水湖だったこの辺りもそれ以来は新たな干拓地が広がっていたのであろう。其の事も有って次
に彼・孝霊天皇/大日本根子彦太に尊は黒田廬戸宮に遷宮した。@

其処で先帝の陵について略見当が付く。無論、前記の所(玉手)ではなくて、其処から室秋津島宮跡からの軸線にライ
ンを平行移動して引き直すのです。そうすると船路地区の船宿寺に向かう山間部には夥おびただしい数の古墳が有
る。数が有り過ぎるので今後更に精査しなければどれかを特定出来ないので話を先に進める。

だから彼・孝霊天皇は先帝の命日ラインの軸を踏むように黒田廬戸宮に遷宮したのである。彼の皇居が根拠もなく突
然に黒田に遷ったのではないのです。@

因みに春日宮とは天智天皇の第二皇子で施基皇子と言われ、彼の子が光仁天皇となったので春日宮天皇と追号され
た方だ。天智の皇子であれば此処に陵があっても不思議ではないのです(12/25「天智」を参照)。

従って生憎、孝霊天皇の陵ではないが、先のラインの中に有る筈です。序でながら其の近くに有る「箸墓古墳」につい
て話しておく。其処は倭トトビ百ソ姫の墳墓と伝えられている。彼女は神がかり的な女性であったようで三輪の神とのエ
ピソードも伝えられているので「卑弥呼」とも混同されているが無論、時代が違う。

因みに彼女の兄弟は、08孝元天皇と四道将軍の一人・吉備津彦命(彦五十狭斧彦命)である。さて「箸墓古墳」を見れ
ば、其の陵の角度から彼女が2/28に亡くなった事が分かる。では何故此処(纏向)に彼女の墳墓が在るのか、と言
えば、@

とすれば三輪山の近くではなくて、生前は10km近く離れていた事が分かります(2/28を参照)。

■07針供養・・・・・・大阪天満宮の吉備社では1926年に針塚を建立以来、例年此の日に和裁業者たちが古い縫い針を
コンニャクに刺して供養する。  

◆葛城一言主命のライン・・・・・・・@
此の神は雄略天皇の時に一言主神と言われたが、もっと昔から事代主神と言われた神である。

其の山の神がやがて葛城山から里に出て、難波と摂津では今宮と西宮の神となった。漁師たちに祭られてから海の
神・夷神に変化したのです。つまり此の日が本当の「えべっさん」の可能性が大きい。と言っても信用しないだろうから
具体的に述べる。先の一言主神社から逆方位の8/8.5日の方位に進めば金剛山頂(葛木神社)の「一の鳥居」に至る。

葛木神社からかなり離れた所に突然「一の鳥居」があるのが不思議です。ただ先の一言主神社から橋本市の柱本・葛
城神社(末社に一言主命)・隣地に日光山・極楽寺を見通す中間点に位置するので、此の鳥居は、最重要地点の祭り
の広場の名残として設定された所であろう。因みに06/11/1に浅井氏が東条山中で石積みの経塚跡?を発見した。

当初は、今日の2/8---8/8.5日ラインの中軸に設定した御堂跡かと推定したが、其の後の07/2/8日に現地(720m)を
訪れて見た結果、多少方位がズレるが石積みの篝火台の可能性と訂正します。@

此のラインには更に、橋本市・山田の一言主神社に至り、次は丹生神社や蟻通神社(思兼命・事代主命)に通じるが、
此れは偶然に新設された訳ではなくて意識的に古人が並べた配列である。

因みに、かつらぎ町には金毘羅宮があって8/10が縁日であり、古墳状の丘にある宮では鳴り釜神事が行われる。
次に其の先の有田市には浄教寺(たどの寺)、次に海を越えて室戸岬には虚空蔵菩薩を本尊とする最御崎寺(明星
院)がある・・・・等と、此のラインには幾重にも一言主命を祭る神社が野超え山超え連なっている。

無論、上記の中には此の神との関係性がまだ不明な寺社もあるものの、もっと精査すれば、更に此のラインの意味が
強まると期待出来るラインである。


●例年-針供養(針まつり)【和歌山市、淡嶋神社】
和歌山市の西端・加太(かだ)で少彦名命・大己貴命などを祭る淡嶋神社の例祭は4/3日、春秋の大祭は4/3-4と対極
の10/3であるが、初午祭と7/31の夏祭りがある。此処はこの日2/8の針供養と3/3の雛祭で古来有名である。

少彦名命は農事と医薬の神(11/22神農を参照)として、また温泉と酒つくりの神としても信仰されている。此処はまた
航海安全の神ともされて延喜式内社であるが、元は淡島(友ヶ嶋の神島)に有った。其れを仁徳天皇の5/3/3に遷座し
て祖母の神功皇后(息長足姫命)を祭った所である。

また少彦名命と神功皇后の神像が男雛・女雛の始まりと此処では伝わる。しかも3/3の雛祭りの伝統は仁徳天皇の神
島からのご遷座の日に因む事と、スクナヒコナが訛ってヒナ祭りになったと言われる。

そうした経緯から今も季節の変わり目には身代わり雛流しの風習により境内には雛人形が溢れていたり針仕事(裁
縫)と子授け(安産)、婦人病の神としても女子に篤く信仰されている。

所で実は対岸の徳島・阿南市にも淡島があり、しかも淡島神社があるのだ。更に驚く事に両社の方位は8/3--2/2にな
る。更に神島と阿南市の太龍寺山(618m)太龍寺の位置関係は8/8--2/8に当たるのだ。

また加太淡島神社から更に2/8方位に進めば堺の南宗寺(利休寺)---堺東の方違神社西----大阪の住吉大社※---
-栗東市の金胎寺に達する。

そして更に進めば琵琶湖の安土に至る。此処に少彦名命を祭る沙々貴神社がある。と言う事は、神話の少彦名命は
命日まで明確な実話と判明する。また京都市・五条天神も少彦名命を祭る。

大阪の住吉大社には江戸時代まで古墳とその南には神宮寺である新羅寺(天台宗東叡山末)があって、旧正月の8
日に加持香水、翌9日には結鎮弓習礼を行っていた。此れは神功皇后の三韓征伐の故事に始まると言われて来た
が、此処に事代主命を祭るからである。

神事としては7日に神馬を回らせる狩衣に弓矢の神官・総官・権官による辰の刻神事、8日には津守寺にて修正会と共
に万歳楽・延喜楽を奏し、唄、散華、講経などがあった。ただ古墳と神宮寺は幕末の廃仏毀釈で削平され、寺もなくな
った。

■花山院の命日・・・・・3/17を参照。

秋葉ライン・・・・・・・秋葉と愛宕の神は古来「火伏せ」の神として信仰されて来た。まだ精査していないものの、日本
列島は紀州から奥州まで此のラインが伸びている。8/9日から2/8方位に向かって関係先が並んでいるのです。

例えば室戸岬から本日2/8方位に進めば紀州・有田市の須佐神社に金刀比羅神、また湯浅町の顕国神社や国津神
社には金山彦や秋葉神が祭られ、其処から金屋町を経て和泉葛城の七大竜王、そして金剛山(1124m)の葛木神社
を経て奈良・新庄町に笛吹神社がある。

其処に火雷神が祭られている。其の東に進めば帯解寺、そして大物主を祭る三輪山を経て信楽を越え、鈴鹿・竜ヶ岳
(1100m)を越えれば大垣・平田町に至る。

其処で秋葉神社の例祭2/11に左義長で祭られて富加町から正眼寺に至る道がこのラインに重なり、やがて金山町
に至るが、其処に南宮神社と秋葉神社がある。更に進めば木曾の御嶽山(3063m)があり、此処は国常立尊として
祭られている。@

更に長野・鉢盛山、白根・万座山、新潟・巻機山や日向倉山、荒沢岳(1969m)を越えれば会津高田町の愛宕神社か
ら川崎町の金山温泉を経て仙台市に至るが、此処にも愛宕神社がある(尚、2/11「左義長」も参照)。

■08旧正月・・・・・・神戸市元町通りの南京町周辺では7日から11日まで旧正月を祝う祭りとなる。 事市で20回目。7日
はパレード。8日は夜光龍の舞。9日から11日は中国雑技団の演技。詳しくは実行委事務局078-332-2896

■07-08追儺式・・・・・・随願寺(兵庫・姫路市)。
ミツバチ供養・・・・・高松市。

09台湾の燈籠祭り・・・・・・・09旧・小正月(満月)を前に、台湾では毎年、恒例行事として夜空に大きな雪洞(ぼんぼり)
のような燈籠を飛ばす。




















































2/ 9    


▼09望・満月2349。▼09旧・小正月。
■07あばしりオホーツク流氷まつり(2月9日〜12日)【北海道網走市】
■07弘前城雪燈籠まつり(2月9日〜12日)【青森県弘前市】

▼11黒石寺蘇民祭(〜10日:旧暦1月7〜8日)【岩手県奥州市、黒石寺】
蘇民祭  http://www.omatsuri.com/movie/sominsai.html<動画>

▼11黒石寺蘇民祭 旧暦1月7日 岩手県奥州市水沢区
■07なまはげ柴灯まつり(2月9日〜11日)【秋田県男鹿市、真山神社】

■08上杉雪灯籠まつり(〜10日:2月第二土曜〜日曜日)【山形県米沢市】
■08南魚沼市雪まつり(旧・六日町雪まつり)(〜10日:2月第二土曜〜日曜日)【新潟県南魚沼市】

■07-08大餅会式・・・・・・・観菩提寺正月堂(三重県島ヶ原村)で2/9〜10日。
■07-08涅槃会・・・・・・法然院(京都市左京区)。

春節祭・・・・・・05年、2月9日(水)から20日まで、神戸市の南京町で中国の正月を祝う行事として店の軒先には大タコや赤提灯が飾られ、広場には関帝
(関羽)を祀る祭壇が設けられ、歴史的なヒーローなどに扮した人物が練り歩くなど春節祭が開幕して、期間中、定番の龍舞や獅子舞の外、ピェンリェン(伝統
芸能の1つ)が披露される(ヒジリ「正月」を参照)。06年は1/29、07年は2/18日。08年は2/7日から。

■07-08勝軍会・・・・・・斑鳩寺(兵庫県太子町)。

■米川の水かぶり  2月9日(水)  (大分県九重町)・・・・・・・・水かぶりは、宮城県東和町米川で800年以上も続く、火伏せの行事です。12世紀後
半、藤原秀衡の奥州三十三観音建立の際、米川地区の諏訪山大慈寺が14番目の札所にされたときに、雲水の行として始まったと伝えられています。

厄年を迎えた地区内の男性ら約30人がわら装束を身に着け、顔に墨を塗ってふん装します。男性らは「ホーッ、ホーッ」と甲高い奇声を発しながら、通りの
家々に置かれたバケツの水を屋根に掛け、町内約1キロを南から北に走り抜けます(☆はメルマガ【なっとく歴史館】 公式サイト: http://1rekisi.jpより転載)。

「米川の水かぶり」の詳細は下記URLをクリック http://www.town.towa.iwate.jp/











































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