http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p083  (未定稿)


   神々の歳時記     2月初 但し方位による
次は
2月上旬
2月上旬
または
戻る
戻る

2月・初旬  ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★

●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 
http://www.omatsuri.com/mailmag/ 

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-2月」及び奈良観光連盟ガイドブックの「知れ
ば知るほど奈良はおもしろい」06-07冬号より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

1月上旬から2月下旬 ・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ 



2 / 1 


■例年-一夜正月。   ▼09旧七草。  ▼旧暦1/7。   
■09黒石寺蘇民祭(旧暦1月7日)【岩手県奥州市、黒石寺】

■07-08-09-11王祇祭(黒川能)・・・・・・山形県鶴岡市(東田川郡櫛引町)、春日神社で2月1日〜2日。夜を徹して行わ
れる。この黒川能は500年の伝統を持つ。

■06-07永平寺・涅槃会・摂心・・・・・・・福井。7日まで。
■06-07-08鬼押し・・・・・・観音寺(三重県四日市市)。

●例年-ヤーヤ祭り(2月1日〜5日)【三重県尾鷲市、尾鷲神社・魚市場近く】・・・・・古い正月行事と言われる。ヤーヤ祭
りのヤーヤとは、武士が立合いの時に名乗る「やあやあ我こそは……」という言葉に由来すると言われています。始ま
ったのは江戸時代で、尾鷲神社の由緒ある正月祭礼ですが、現在は、2月1日から5日まで5日間行われています。

祭りの一番の見どころは、2日から4日の“練り”と“垢離掻き”です。二手に分かれた白装束の若者衆がお互いに力い
っぱい押し合う“練り”。祭りの中心となる町(3つの祷(当)務町)に17の手伝い町が次々とやって来て、「チョウサじゃ!
チョウサじゃ!」の掛け声とともに、勇ましいぶつかり合いを繰り返し、最後の“練り”では600名ほどになり、熱気であふ
れかえります。

素っ裸で海に飛び込む“垢離掻き”は、清めの儀式です。冷たい海から上がった若者衆を練るように別の若者衆が囲
むと、その熱気で冷めた身体も温まっていきます。“ヤーヤ祭り”が喧嘩の裸祭りと称されるのも納得です。また、1日目
の300人ほどが練り歩く“在回り”、最終日の“大名行列”も見応えがあります。

そして、厳かな中で執り行われる数々の神事も心を静めてくれるものです。以上、http://online.nihon-kankou.or.jp/
sightseeing/0502/011.html「観光」から引用した。

因みに尾鷲神社と隣接の金剛寺の参道は共にほぼ南北に伸びており、本殿の後背地には古墳状の山がある。其の
方位は南北、つまり冬至の略、2〜3日前に亡くなった方であると思われるが、御祭神が22座もあるので関連を特定不
能。 

ヤーヤ祭り http://www.omatsuri.com/movie/yahya.html<動画>

●徳川四天王を言えますか!関ヶ原合戦の傷が原因で没した武将は?!----永禄4年(1602)2月1日に、徳川四天
王の一人である井伊直政が、関ヶ原で受けた傷が原因で没す。享年42歳であった。直政は、井伊直親の子で、遠江国
井伊谷に生れる。幼名は虎松・万千代である。

父が殺害されたため逃亡生活をしていた天正3年(1575)、直政が15歳のときに、「汝はわがために命を落とせしものの
子なり、われ報いずんばあるべからず」と、徳川家康から2千石で召抱えられる。常に先鋒を務めた、武勇・智謀共に
優れた武将で、35万石の彦根藩井伊家の始祖である。

ちなみに、幕末の「安政の大獄」や「桜田門外の変」で知られる井伊直弼は、この直政の家系の末裔である。
・・・・・以上は、メルマガ【1日1分歴史新聞】 戦国武将・幕末志士が今日甦る!なっとく歴史館 → http://1rekisi.jp
より引用。

■06-07-08修二会・・・・・・・清水寺(京都市東山区)ほか法隆寺西円堂(奈良県斑鳩町)など。2/1〜3日、及び3日〜7
日のところもある。  

■10初午大祭・・・・・・・・伏見稲荷大社(京都市伏見区TEL075-641-7331)で2月1日に初午大祭。参拝客は福を
求めて「しるしの杉」を買い求める。此の祭は711(和銅4)年2月、稲荷大神が降臨した日に因む祭事で、「福参り」
「初午詣で」とも呼ばれる。

午前8〜9時に神事が行われるほか、本殿や摂社・末社には稲荷山の杉と椎(しい)の枝でつくった「青山(おおやま)
飾り」が飾られ、商売繁盛・家内安全の御符とされる「しるしの杉」が販売される(京都新聞10/1/29日)。

■09-10-11湯立神事(〜3日)【京都府八幡市、石清水八幡宮】
■06-07伝香寺・新春祈願法会・・・・・・・春日稲荷明神に諸願を祈願。参拝者にぜんざいの接待あり。伝香寺0742-22
-1120

■06-07金剛山寺(矢田寺)修二会・・・・・・・大和郡山市。金剛山寺0743-52-3871
■07霊山寺・修二会・・・・・・・奈良市。霊山寺 0742-45-0081で2/1〜3日(木〜土)。

■07-08法隆寺・西円堂・修二会・・・・・・・奈良斑鳩町・法隆寺0742-45-0081で2/1〜3日(木〜土)、薬師ケカ(悔過)の
法会。

★09おんだ祭り(2月第一日曜日)【奈良県明日香村、飛鳥坐神社】
■07星祭り祈願会・・・・・・・・奈良県高取町の壷阪寺0744-52-2016で2/1〜4日(木〜日)。

聖徳太子の命日・・・・・・太子は多くの寺を建てた。先ず最初の官寺として四天王寺(別名、難波寺)を建てたが、
此処は国家鎮護と「敬田・悲田・施薬・療病」の役割りもあった。次に物部氏を滅ぼした八尾の大聖勝軍寺、次が藤井
寺市の尼寺・土師寺であり、此処は菅原道真の号・道明を採ってやがて道明寺と言われた。

そして羽曳野市には欽明天皇の勅願で蘇我稲目が建てたとも言われる西琳寺が有る。同市には野中寺があり、此処
は太子が蘇我馬子に命じて建てたとも船氏の寺とも言われる。そして下記の叡福寺は太子が建てたのではなくて、彼
の亡き後に太子一族の鎮魂の寺となった所です。

此処は太子と太子の母・穴穂部間人皇女、そして妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が眠る太子廟が有ります。そして
吉野には父・用明天皇の勅願で建てた世尊寺が有りますが、其の東塔が美しいので秀吉が京都へ移築し、其れが今
は三井寺に現存する。また、橘寺が明日香村に有ります。

此処・橘寺が太子の生誕地であり、仏教の経典を講義した所と言われている(ただ地元では橘寺ではなくて島の庄であ
ると伝えている)。其の西南には定林寺があり、別名・立部寺とも言うものの、今は民家風の建物です。飛鳥には蘇我
氏の氏寺の飛鳥寺があり、日本最初の大仏が造られ、法興寺、安居院とも言われた。

奥飛鳥の坂田には金剛寺があり、また豊浦には向原寺(豊浦寺)も有って此処がやがて推古天皇の豊浦宮になった。
外にも太子に纏わる寺院・伝記は十ヶ寺ほど有ります(以上、大和高田市の「文化財を考える会」会誌から大部分を引
用した)。さて、太子は斑鳩の宮で推古天皇29年2月5日薨去。但し日本書紀には2月1日とある。年49歳だった。

よって斑鳩の法隆寺に祀られ、河内の磯長陵に葬られた。此処には今太子廟を守るように叡福寺が建っている。彼は
仏教興隆の祖として、また聖者として、また四天王寺を建てて以来、大工の神としても、民間に於いて広く深く信仰され
て来た(事典の「曲かね尺」を参照)。

また彼は特に佛教興隆の祖として活躍したので、外にも後の京都に広隆寺、そして近江の坂本には西教寺を建ててい
る。仏教を興した彼だが皮肉にも仏式で祭られたのではなく、伝統的な和式葬法で葬られた事が此れから判明して来
るのです。

だが其れよりも問題は、今では学者たちが彼の存在を否定ないし疑問視し、架空の人物と断定する人が多い事です
(「4/9用明」を参照)。其処で以下にこのラインを発表する事で前者(非アカデミック)に軍配を上げたい。

彼は先ず誕生地とも父・用明天皇所縁の地とも言われる明日香村に父・用明天皇のために橘寺を建て、また用明二
(587)年には四天王寺を建て、用明亡き後の14年後の601年に法隆寺(斑鳩寺)を建てた。太子が橘寺に居ついた理
由については誰も謎解きしていないが、其れは彼が用明天皇の皇子として父の霊を弔うためだった。@

所で法隆寺の建物は太子の時のままなのか再建されたのか、と言う再建論争があった。其れに関して04/12には法隆
寺から壁画の破片が多数出土したので大きなニュースになった。

此れが百年間も決着が付かない再建論争にピリオドを打つだろうと思われた。法隆寺は用明天皇の発願によって建立
されたが、斑鳩寺が太子の時代、そして中宮寺は太子没後に建てられたものと言う。其のうち若草伽藍が670年に焼
失した。こうした事が分かっても、歴史や考古学に方位の視点がなければ百年たっても謎を謎として残す。

◆聖徳太子の建てたと言われる寺は多いが、法隆寺からこの2/1方位を進めば奈良市を超えて滋賀県蒲生町にあ
る石塔寺に向かい、更に進めば近くに八日市市内の瓦屋寺があった。更に進めば愛東町・百済寺に至る。何れも太子
建立と伝わる寺であるが、この方位に並んでいるのは偶然なのか、と言えば、そうではない。

太子死後に一族が太子の菩提を弔うために弔いの方角に向かって縁結びの寺を建てたと見るべきだろう。今、奈良の
斑鳩・法隆寺の夢殿には太子を模して造られたとされる救世グセ観音が祀られています。そしてその先には中宮寺、更
に先には法起寺がある。

先ず中宮寺には今も「天寿国繍帳」(国宝)と言う日本最古の刺繍が残されているが、此れは聖徳太子亡き後、その妃
(橘大郎女)が太子の冥福を祈って、往生している筈の天寿国(極楽)の様子を描いたものと言われる。643/11/1日、
入鹿により此処で山背大兄王子一族が自殺し王家として亡びたのである。

また他方、法隆寺から逆の8/1方位に進めば斑鳩町・吉田寺→八幡神社→増福寺→船戸神社→王寺町・常楽寺→
香芝市の尼にん寺地区を通るが、此処には飛鳥時代の尼寺廃寺の遺跡群が散在している。

其のうち東部の南と北の廃寺を発掘の結果、法隆寺と同時代の大塔の礎石が確認され、心礎から金環も出土したの
で、此処は今、太子の娘(片岡女王)の「葛城の片岡僧寺・尼寺」の一部と推定されている。また此処の西を通る古道
を地元では「太子葬送の道」とも伝えていて、今も石碑と案内板が連なっている。@

・・・・・さて此処から少し回り道をする。@極楽寺がある。@

だが法隆寺などでは太子の命日を2/1でも2/5でもなく2/22とした。其れは文献や古暦に忠実なためであり、或
いは仏事であるため仏教式の旧暦に従って法事を執り行って当然である。だが其れを明治の改暦によって一ヶ月ズラ
シ、西暦の3/22日に固定してしまった。此れでは残念ながら世界遺産となっても太子の御霊が浮かばれないだろう。 

以上から太子の命日は2/1であり、其の御霊の日迎えの祭りは8/1と判断できる。だが、本書でこのように、此処・
河内長野市には太子の宮があり、更に此処は蘇我氏の拠点だった、と言っても「荒唐無稽の話」と一笑されるだけだろ
う。日本史にも当地は登場せず、更に南北朝以前の歴史にも殆ど登場しないからです。

だが、先の施福寺の手前には欽明天皇の本願によって行満上人が建立した光滝寺があり、また先の極楽寺の東に
は、皇極天皇の命で其の二(643)年に蘇我入鹿が建てた河合寺がある。また其の北には竜泉寺があるが、此処は推
古天皇の命により、其の二(594)年に馬子が建てた寺でした。

其れは祟峻天皇元(588)年に馬子が飛鳥寺を建てた後の事であるが、用明天皇の陵を河内に改葬し、太子が四天王
寺を建てた翌年であり、601年に斑鳩宮を建てる7年前の事だった。そして後に皇極天皇となる宝皇女が630年に舒明
天皇皇后となるまでは、この地で高向玄理と新婚生活を過ごされたのだ。

そもそも蘇我氏は、石川宿禰から始まる(石川宿禰→満智→馬子→石川倉山田麻呂・・・)が、石川とは南河内に流れ
る川であり、明日香にはないのである。つまり蘇我氏は南河内で栄えていたが明日香に出た結果、滅ぼされた訳だ。

竹之内宿禰以後に河内に出て来たか、或いは飛鳥にいた大臣の蘇我稲目が三月に亡くなった故に当地に墳墓を築い
たとも推定出来る。@

因みにこの河合寺は谷を越えた所の大師山古墳(50mの前方後円墳)に正対している。と言う点から見れば、此処は
蘇我稲目の墓(別紙の 「古墳の方位資料」を参照)と分かる。と言う点を方位から見ると古墳の被葬者ではないが、其
処に居ついた方で、@1/18日と7/19日のラインの日に亡くなった方をこの寺で仏式で祭った事になるのです。@

蘇我氏は仏教を広めようとしたために、神道を重んじた物部と争った話が良く知られているが、蘇我氏が勝ち、物部氏
を滅ぼしても弾圧はしなかった。其れは此処では同族だったからだ。其の後、聖徳太子が仏教を広めた。やがて役の
小角がこの地から山岳仏教を興し、また後には行基が出て弘法大師に引き継いだ。

とすればこの地は言わば仏教のメッカでもあり、蘇我氏は其の第一の功労者とも言える。ですから大化の改新や行基
が出る以前の日本の歴史や仏教は、この地を外して論じて見ても分からない筈である。聖徳太子についても同じであ
る。

■もう一つは信州信濃の善光寺である。此処は太子の命日方位に位置する寺だ。この寺は百済の聖明王から蘇我氏
が貰った阿弥陀仏像を祀った寺である。物部氏が捨てたのを本田善光が拾って祀ったものでした。其れが普通の認識
である。だが我々はあと二つの勘違いをしている。善光寺の前身に元善光寺(飯田市)がある事ではない。@

明日香村の向原寺の横には、「物部尾輿が仏像を捨てた」と伝わる難波池が有る。其れ(善光寺如来出現地)を今は
大阪難波近くの西区の堀江(阿弥陀池)と言われて信じているが、仁徳天皇の頃の難波の堀江は寝屋川(まんだの
堤)にあり、また善光寺縁起の難波は先の西区(大阪市)ではなくて明日香村にも有ったのです。

大阪西区の堀江は仁徳期に初出の地名であるが本田善光が此処に捨てたと言う事には結び付かない。其れにもう一 
つは聖徳太子の命日ラインが暦法の違いで2/5日としても、法隆寺から其の方位にあるのは善光寺である。此処に
は大勧進(天台宗)と言う善光寺の別当と大本願(浄土宗)と言う寺が有る。

後者は蘇我馬子の女が開基の尼院であり、だから今以て女性の参詣者が多い。また善光寺は「死霊の赴く霊地」と言
う強い信仰があるのは寺である以上は何処の寺でも大同小異としても、代々宮家・堂上方の女性を迎えて来たのは何
故か。其れは聖徳太子と来目皇子を弔う意味からであったろう。

更に後の天武天皇がこの辺りに遷宮を図ったのは何故か。太子と皇子の命日方位に当たるからだ。近くの鬼無里(き
なさ)村は今は長野市であるが、東京、西京、中御所、二条、三条、安茂里の地名が残り、また近くに御厨公園があ
る。加茂神社には「天皇が信濃に勅使を派遣したが、この地の鬼たちが抵抗し、其れを阿倍比羅夫が追い払った。

だから鬼無里と言う」と伝える。その後の歴史を見れば、鬼の選択が正しかったと言える。其れに太子は確かに素晴ら
しい事績を残したけれども、仏法導入以来の日本が白村江で大敗して百済を失い、山背大兄を失い、以来戦乱の時
代へと突入したのですから彼はこの点で後悔しているのではなかろうか。

そう述べた後に法隆寺の仏像(文殊菩薩)が06/2/5に盗難に遭った。其の犯人が同日、次は橘寺に入って薬師如来
像を盗んで捕まった。何れも太子に縁の寺であり、しかもこの日は太子の命日である。此の不思議な奇遇に関係者は
「太子からのメッセージ」と気付き、仏像よりも命日の意味を改めて問い直すべきだろう。

此の目的から太子が犯人を使ったとさえ思えます。次に奈良大(考古学)酒井教授が「法隆寺一帯は真北から西に20
度傾いた線を基準に太子が都市計画していた」との新説を出した(06/4/7朝日新聞)と言う。詳細不明だが着眼は良
い。
蛇足かも知れないがもう一つ。其れは聖徳太子について----ヤフー知恵袋http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/
question_detail.php?qid=1420835589の「上宮記って、捏造?????????」asddwwerfyuy9789990さん -----に
対する回答です。

伝記にとって最大要件としての命日だけを論じれば、上宮記では二月廿一日癸酉(みずのと・とり)に王后即世(そくせい)した
まう。翌日法王登遐(とうか)したまう。---とあります。其れに対して日本書紀では、推古天皇29年2月5日癸巳の半夜に
薨去ましぬ、とある。年49歳だった。

両者の日数のズレは16日である。こうした場合、普通は同一の日でも、暦法の違いで数字が変わっている場合が多
い。しかし2/21日は上宮記では癸酉としているが、暦計算上は己酉(つちのととり)になります。もし当時の仏教暦=旧暦で
癸酉とすれば1/15日か、3/16日になってしまうのです。

法隆寺や南河内の太子町にある叡福寺は今もほぼ当時のままの位置に存在しています。其れを暦・方位で見れば、
正に2/5方位に並んでいますので、命日は2/5日と判明します。上宮記が捏造とは思いませんが、その根拠とした当時
の暦法が果たしてどのような暦法だったのか、興味ある所です。----回答日時:2008/11/21 22:33:39 

■06-07良忍聖人忌(融通念仏宗)。 開祖・良忍(姓は秦氏)の生没年は1072-1132

●枚岡神社の例祭・・・・・・・東大阪市で天児屋根命を主神として祭るかつての河内国一ノ宮・枚岡神社の例祭。@
因みに奈良の春日大社はこの枚岡神社から天児屋根命の御子・天押雲根命を勧請して若宮として祭った所であり、@
昔は9/17に「若宮おん祭り」として行って来たものである。

また熊本・山都町の幣立神宮には彼の墳墓と言われる今宮がある。

■例年-南部梅林開き(和歌山県)

鵜戸神宮・例祭・・・・・・・宮崎県。山幸彦(ホホデミ)と竜神の娘(豊玉姫)との間に生まれた「葺き合えずの尊」を祭る
古宮の例祭。此処はご祭神(うがや葺不合命)の降誕、産殿の宮としての社殿が岩窟内にあり、其の上が速日峯と言
い、二つの古墳状の山(吾平山上御陵)になっている。

此処は言わば「竜宮」の入り口であり、宝物には日輪瓊、潮満珠、塩涸珠がある。彼(ご祭神)は神武天皇の父に当た
る。創建はずっと後の祟神天皇の御代だが、桓武天皇の時に勅号により、天台宗・鵜戸山大権現・吾平山・仁王護国
寺と言う長い名の寺になった。其れを明治七年、鵜戸神宮と改称したものである。

尚、吾平山上御陵祭は翌日の2/2に行われる。@

イスラム教最大の聖地・メッカへの大巡礼ハッジ」(2004)・・・・・・悪魔に見立てた石柱に石を投げる儀式があり、本年は約200万人が集まっ
たが、この儀礼の時に押し合って244人が死亡した。

世界的祭典リオのカーニバル・・・・・・元はローマのカトリックでは謝肉祭。今は山車を伴った仮装行列とドンチャン騒
ぎである。リオでは08年の2/1日から6日くらいが本番パレード。昨年に上位6位以上に入賞した舞踊団によるチャンピ
オンパレードなど。参加者は2万人、観衆が8万人くらい。10日間ほど続く事がある。

因みに日本とシナでは08年の此の時期は旧正月、つまり新月に向かう歳末。


























































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■08弘前城雪燈籠まつり(〜11日)【青森県弘前市】
■08岩手雪まつり(〜11日:例年2月第一土曜日〜)【岩手県雫石町】

弥彦神社の例祭・・・・・・・以下、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%BD%A6%E7%A5%9E%E7%A4%BEより引用
すれば、彌彦神社(いやひこじんじゃ)は、新潟県西蒲原郡弥彦村。弥彦山の東に位置し、弥彦山全体を神域とする。式内
社(名神大)、越後国一宮で、旧社格は国幣中社(神社本庁の別表神社)。

正式には「いやひこじんじゃ」だが、地名などが全て「やひこ」であることもあって、一般には「やひこじんじゃ」と呼ばれて
いる。越後国開拓の祖神・伊夜彦神(天香山命、またの名を大屋彦命あるいは大彦命)を祭る。宮中でも行われる鎮
魂祭を行う神社として、石上神宮、物部神社と共に有名である。

但し11月22日でなく、此処では4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊まつりの時期は特に賑わ
う。大鳥居は高さ30m。昭和57年に建てられた。

■08諏訪・御神渡・・・・・・・1月上旬から2月下旬に掛けて、平均55日間に海抜759mの諏訪湖では湖面が夜間に急
速に氷結して盛り上がり、1本 の筋となって、東西、或いは南北に現れる。一旦凍った氷が夜間に収縮して裂け、其れ
が昼間に膨張して側圧のため裂け目に沿って押し上 げられ、時には湖岸にまで突き上げる事がある。

こうした現象を地元では古来、「御神渡」と言い、神がお渡りになった印しと見て来た。だが最近は氷結しない年が多く
なり、06/1/31にはオミワタリとなったが、07/2/25日には氷結がなかった事を報告する神事となった。
毎月2日は諏訪明神の縁日。08/2/2日には湖面から高い所で50aも盛り上がり、御神渡神事が執り行われた。

■07「お綱掛け神事」・・・・・・三重県熊野市有馬町・花の窟いわや神社では毎年2/2日と10/2日の2回、此れを行ってい
る。此処はイザナミノミコトの墓所があり、その向いには妻を殺されて逆上したいざなぎの尊に切り殺された息子・家具
土の尊の墓所がある(と言われてきた)。

日本書紀には紀伊国の熊野の有馬村に彼女を葬りまつる。土俗、此の神の御魂を祭るには、花のときには亦花を以
て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭るとある。ただ古事記には彼女は出雲と伯耆(鳥取県西部)の境の比婆の山
に葬られたと記す。※1

ウバメガシの木に掛けるお綱の長さは170m、其れに2月は椿、10月にはケイトウの花を入れる決まり。それを七里御
浜まで引っ張って固定する。地元の伝承によれば、毎年朝廷から「錦の幡」が贈られて来たと言う。

境内から弥生中期の土器が発掘されていて、また近くの産田神社はイザナミノミコトが家具土を生んだ所と言われてい
る(以上は08/4/21日の朝日記事より引用)。

※1-----両地を方位で見れば10/19---4/18日のラインとなる。従って彼女は此の日の何れれかに崩御したと推定出
来る。可能性としては10月に比婆山に葬られ、その御霊の日迎えとして熊野で2月から準備に掛って4月に花を飾った
ものと推定出来る。

■06-07-08追儺鬼の法楽・・・・・・盧山寺(京都市上京区)では2/2〜4日に赤・青・黒三匹の鬼が宝剣・斧・槌を持って
踊ったうえ、護摩の火を受け、紅白の豆と餅を投げられて退散する。 

京都八坂神社節分祭 2月2〜3日 京都市東山区
http://www.omatsuri.com/movie/setubun.html<動画>

■09-10-11吉田神社節分祭(大祭)(節分の日の前日〜立春の日)【京都市左京区、吉田神社】

●例年-壬生寺節分会(壬生大念仏会)・・・・・壬生寺(京都市中京区)では2/3〜4日(節分の日の前日〜立春の日)に
鬼払い壬生狂言を行う。但し09-10年は2/2-3日とする記事もある。

★壬生狂言は無言劇で、演目が30項目あるが、此の日に上演されるのは「節分」で、女主人が鬼に酒を飲ませて酔い
潰し、打ち出の小づちを奪って豆をまいて追い払う。

壬生と言えば新撰組の寺(壬生塚があり7/16日に慰霊供養)として、或いは昔は湿地帯でミブ(水生)と呼ばれ、今も京
野菜(壬生菜)で知られ、もしくは境内の3600体の石仏と地蔵盆で親しまれ、また節分の頃の壬生(大念仏)狂言で知ら
れる。壬生寺は南都六宗の一つで、鑑真が伝えた律宗に属している(★印以下は10/1/23日の朝日記事から引用)。 

壬生寺節分祭  http://www.omatsuri.com/movie/setubun.html <動画>
■07喜光寺・行基会大祭・・・・・・奈良市・喜光寺0742-45-4630では行基法要、紫燈大護摩執行、写経会なども。
 
行基菩薩の命日・・・・・・行基は百済王の子孫の高志氏を親とする家原村(堺市)出身である。だから市内の深井・
土塔町には彼の塔があり、此のため此処が土塔町と名付けられたのだろう。彼は当初、道昭から学んで帰郷し、旧宅
を家原寺とした。其処には今も家原寺が有り、進学祈願の名所となっている。

彼は生駒に仙坊を構えて住し、弟子と共に説法に行脚したが其れが道俗を惑わすと言う理由で禁止された。だが彼は
弟子を率いて諸国に橋を渡し、堤を築き、道路を修理し、田地を開き、港湾を造り、諸寺院を建立し、布施屋を設ける
等、社会福利に尽力した。よって詔により、彼の修業は認められた。

やがて彼は聖武天皇の東大寺・大仏建立の前に信楽に赴き、貢献した事から初の大僧正の称号を賜った。のみなら
ず天皇・皇后に菩薩戒を授けて「大菩薩」の号を戴いたが、直後に家原寺東南院にて没し、生駒山の東陵に火葬され
た。

他方、奈良市の菅原寺=喜光寺(0742-45-4630)の寺伝では当寺・東南院で入寂と言う。此処は東大寺大仏殿を建て
るに当たり、其の1/10の尺度で「試みの堂」として造られた寺であり、今もこの日に行基会大祭を行い、併せて「癌封
じ」などがあり、参拝者には御ぜんざいの接待をする。

また終焉の地について日本霊異記は「白壁天皇の世の天平2(749)春2/2、僧の姿を生馬山に捨てた」と伝える。
其処に今も簡素な墳墓がある。其れに対して先の史跡・土塔は数ヶ所の池に囲まれた住宅地の中でひっそりと美しい
ピラミッドを見せている。因みにこの命日をユリウス暦にすれば2/23、グレゴリオ暦では2/27となる。@

■07石上神宮・玉の緒祭・・・・・・天理市・石上神宮0743-62-0900

■安彦山・観音寺の節分・・・・・大阪・東住吉区、2/2〜4まで。此処は仁徳天皇(1/16を参照)に縁の観音である
が、今はこの節分行事がドル箱である。

▼09椿まつり・・・・・・・・・伊豫豆比古神社。旧暦1/7-8日、09/2/2日に祭り。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%
E8%B1%AB%E8%B1%86%E6%AF%94%E5%8F%A4%E5%91%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BEによれば、------愛媛県松山市居相
町にある神社である。

式内社、旧社格は県社。神紋は十六弁八重表菊。地元では椿神社、椿さんとも呼ばれている。開運縁起・商売繁昌の
御利益がある。ご祭神は、"伊豫豆比古命(男神・いよずひこのみこと) "伊豫豆比売命(女神・いよずひめのみこと)
"伊与主命(男神・いよぬしのみこと) "愛比売命(女神・えひめのみこと) 。

『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、伊与主命は初代の久米国造であり、伊豫豆比古命と伊与主命は同一であ
るとする説と、伊豫豆比古命を祖神、伊与主命をその後継者とする説がある。

また、愛媛県の県名は愛比売命から名づけられており、都道府県名で神名を使用しているのは愛媛のみである。
由緒として、社伝では、孝霊天皇の御代に鎮座したとされ、昭和37年(1962年)には御鎮座2250年祭が行われた。
延喜式神名帳所載の伊豫豆比古命神社(小社)に比定されるが、名神大社の伊豫神社に当てる説もある。

但し、伊豫神社に比定される有力な論社は伊予郡松前町の伊予神社である。
「椿まつり」(春季例大祭) は旧暦1月7日〜9日に行われる。かつては旧暦正月8日のみ祭礼が行われており、これを
「お八日」(おようか)と呼んだ。現在はその前後の3日間(7日〜9日)にわたって行わる。

「お椿さん」「伊予路に春を呼ぶ祭り」と呼ばれる。期間中、数十万人が参拝し、参拝者の数では四国一の大祭という。
期間中の祭儀は、旧暦7日午前0時に開門、同8日午前9時に春季例大祭、同9日午後6時に後宮祭が行われ、午後0
時に閉門される。また、特殊神事として貸銭神事・お忍びの渡御・合せ火が行われる。

貸銭神事は、神社から守り金(20円)を借り、翌年、倍額にして返すという非常に珍しい行事で、誰でも無条件で借りる
ことができる。一年間、生業に励み、少しでも多くお返しできるように頑張ることを約束する意味があるという。
お忍びの渡御は、中日(旧暦1月8日)夜、神社の神輿が北土居町の金刀比羅神社まで渡御する行事である。

神輿が社殿を出て楼門を通過するまで、神輿を揺すったり、掛け声を出したりせず、静かに進むところから、お忍びの
渡御の名前がある。合せ火は五馳走火ともいう。お忍びの渡御の際、その道筋にある家は、その年の正月の飾りを焚
いて神輿を迎える。これを合せ火という。

またhttp://www.onceworngowns.com/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE.wikipedia.htmlによれば、
河野氏の系譜を記した『予章記』には孝霊天皇の皇子の彦狭島命が反抗する民を制圧するために伊予国に派遣され
たとあり、続けて皇子が現社地にあたる神崎庄に鎮座し、このことから当社を親王宮と呼ぶと記している(以上引用)。

さて、今となっては、不明な部分も多いので、憶測を含めて言えば、恐らくご祭神の系譜は、孝霊天皇----彦狭島命--
---伊豫豆比古命---伊与主命----となる。しかし此処では、2/8日の孝霊天皇の命日(「2/8日・孝霊天皇の命日」を参
照)に代々祖神としての孝霊天皇の命日に合わせて、今は旧暦の1/7-9日、09/2/2日に祭りをして来た事になります。

丁度此の頃が、寒椿の花の時期なので春季例大祭を「椿まつり」としたものでしょう。
因みに、彦狭島命は、2/8日とは逆方位の室戸に若宮を置いた事と思う。其処で4/6日に亡くなり、この為に御子の
伊豫豆比古命が其の逆方位に当たる伊予の国に若宮(神崎庄親王宮)を営んだ。

従って、下記の祭りが例祭日となったものと判断できます。当時の暦法は、数字ではなくて厳格な方位によって刻んで
いました。古墳の向きが色んな方位を向いているのは、各々命日が違うからです。また当時の天皇系はこのように、命
日の逆方位に新天地を求めてその土地に天下りする事で勢力を伸ばしました。

だから此処の紋は16弁菊なのでしょう。
10月6日秋季例大祭 に続いて、10月7日神幸祭、御旅所祭、還幸祭。


■06-07-08節分会・・・・・・東長寺(福岡市博多区)。
 

















































2/ 3   日  



豆まき、鬼やらい(節分の日)
▼09上弦0813。
 
●節分・・・・・・・・此の日は各地で節分祭(会)が行なわれ、厄払いや豆撒き行事や各種の催しがあります。元々、節分
は年に四度行われた。だが中でもこの時期の節分が一番大きな節目として伝わったのは、旧暦の正月の前夜祭、つ
まりこの時期は太陽と月との節目、即ち新年の節目と重なったからでした。

この頃の新月、または満月の日が旧暦(陰陽暦)の正月前の 晦日、其れが節分でした。この時期は方位では丑寅であ
り、鬼門とも言う。節分行事に必ず鬼が出演するのは、鬼がこの丑寅の方位を司る存在だったからです。よって、鬼は
必ず「牛の角と虎皮の褌」を付けて此の時期に出てくる訳です。

所が平安末期になると鬼は大和朝廷のプロパガンダ(宣伝工作)によってモノノケのモノと混同させるよう仕向けた。本
来の鬼は、獣や妖怪ではなくて、前述のように丑寅の方位と暦を司り、新年を迎える方々(言わば天子や公務員)でし
た。しかし渡来人の大和朝廷の触れ込みで出雲の勢力を駆逐する芝居や行事を演出して神楽化したのです。

物を何処かにブツけるような下品で乱暴な仕草は日本古来の風習にはなかった。つまり「豆まき」は、シナ渡来のツイ
ナ(追難)を猿真似したものでした。

さて今でも「来年の事を言うと鬼が笑う」と言うのも、化け物が笑うのではなくて、その歳を迎える肝心要となる彼ら
「主」、即ち鬼を差し置いては「大事な事が何も決まらない」と昔から民衆は分かっていたからでしょう。 

兎も角、この日は各地で「鬼追い」の祭りがあり、「福はー内、鬼は外 !」と、炒り豆を投げつける訳だが、成田山新勝寺
の場合は「福は内」だけで「鬼は外」を叫ばない。また奈良は吉野のキンプセン(金峰山)寺では例外的に「鬼はー内」と
叫ぶし、天河では「鬼もー、内」と言う。金峰山寺ではこの日、「鬼踊り」や「鬼火の祭典」も行なう。

所で、豆撒きには福を呼び、邪気を祓う呪力があるとする信仰があり、其れは凡そ1300年前の飛鳥時代に始まった
と言われる(別紙の「ヒジリ事典・節分」を参照)。

●「節分の鬼は・・・祝った」のに・・・・・・今はトホホ、鬼の厄日です。

日本は永い間、お正月を此の時期にしていました。七草でも西暦の正月には自然界にはなく、此の節分の時期になっ
て揃います。そしてお正月は新たな歳神を迎える事ですから家の周りも大掃除して、借金は精算して、人の心身も清め
て迎えようとしました。商習慣では5日と10日毎の「ゴト(五十)払い」と言う慣習や盆正月の精算も有りました。

年末は其れらを全て精算、つまり払って罪穢れを祓ってから迎えて来ました。日本人の律義さ、純朴さ、いさぎよさ・・・
は、こうした節目節目の祓いの伴った年中行事や決まり事を守ろうとする暮らしの中で培われ、継続されて来ました。

節分は大寒の最終日なので「大寒」明けの翌日が立春。此処から「初春」のスタートです。ですからこの後直ぐ旧暦の
正月で、中国では春節祭を祝う。例年2/3の節分と2/4の立春とは不変ですが旧暦は動きますので、何日が元日な
のかを確かめるため有名社寺では其の前後に「修正会」と言う行事をして来た。

旧暦は「月読みの暦」ですから06年は1/29が新月・月初めで元日。本当の戌年が始まります。一般にエトは旧暦の正
月からスタートします。そうすると、歳末に出したり、元日に貰ったあの鳥の絵の賀状とか、初詣の時に神社の境内を
賑わせた縁起物の鳥たちは一体何だったのか・・・・

と心配になりますが「初春」も、「鳥」も出るのがチョット早すぎた感じです。と気づいた方は、「アッ!シマッタ!」と後悔
するでしょうが、誰も気にしてませんから、まずは大丈夫。其れより知らないと少し損するのが節分と鬼の話です。

この晩は家々で皆んなが「鬼はー外っ!」と叫んで、ドット炒り豆を投げつけますが、それをやっても炒り豆を「鬼」と思
って歳の数ほど「食い尽くし」たつもりでも彼らは四季の変わり目にはまたやって来るのです。また譬えヒイラギの枝に
イワシの頭やニンニクを刺してイヤガラセても多分、何の効果もありません。

彼ら五色の鬼は四方から牛の角とか虎皮の褌を付けてまたキッチリ訪れる役目があるので、「鬼退治」も無理・無駄と
分かればもう「鬼虐め」は意味がないでしょう。次もタメニなる大人の話です。

何故、鬼が五色で「牛虎」なのかと言えば、四季の境目が節分であり、暦の上でこの時期は丑寅、即ち東北の方角を
意味したからであって、虎皮の褌を着けていても阪神タイガースと肉体関係がある訳ではない。試しに「鬼」の字を分解
して見ても此れは「鍋蓋・田・ひと足・ム」の組み合わせ・・・ ・・・

とお気づきの通り、実は太陽の日影を計るために地上に立てた「見柱」と「升目、日脚の速さ・勾配」を合成したもので、
要するに暦を作る人々を意味した。だから節分の晩に彼らが来て立春の朝まで活躍する。

でも其れを全く知らない人々が彼らを嫌い、そしてこの方位を丑寅とか「鬼門」と言って怖がってこの頃の時間までを昔
は「丑三つ時」などと言って決して出歩きませんでした。でも今は皆さんお元気で夜更かしたり、「御前様」になっても平
気ですが大丈夫でしょうか。

実は昔は鬼や鬼門より、この節分の日が一番怖かった。この日は歳末の師走の最後の晦日です。昔の節分は年に四
回もあって、各々季節の変わり目なので装いも変われば暮らしの中身も変わり、家族の体調も狂う。其のため節目節
目に鬼が出まして其れや此れやを一切引き受けて「祓う役」を果たして来た。

特に歳末は煤払いや「大祓い」があるように、盆正月にツケ払い精算する風習もあって、年の瀬には借金を溜め込ん
だ人の家には必ず取立屋と言う「借金トリ」が次々やって来たので、此れはもう鬼より怖かった。其れに堪りかねた家
人が終に「出て行けー!、おみゃーわー外だっ!」と叫びたくもなります。

悪夢のような昔の話ですけどね。いや世の中には今でも鬼のような人が必ずいるものです。ですからつい「出てけー
っ、オニワーポカリ!」とやってしまう・・・としたらホントの鬼が可哀そうです。鬼は暦と時刻を決める働き者なので寺社
では彼らに手伝って貰って「修正会」とか「修二会」と言う行事を此れまでつつがなく続けて来たのです。

とすれば節分に出る鬼は、借金トリとは別のメデタイ春の鬼ですし、皆様の先祖の鬼もやって来られるので、もう追い掛
け回さずに「鬼さんこちら」と迎えたほうが良い。節分と立春を区切りに、この年を無事に過ごせます様に春を祝って頂
きますように。

■06-07-08節分(立春前日)・・・・・全国諸寺院で鬼払い除災招福の豆撒きをする。 
■07岩手雪まつり(2月3日〜12日)【岩手県岩手郡雫石町】

■06-07-08鎧行列・・・・・鑁阿寺(栃木県足利市)では節分の行事で鎧武者行列がある。 
■06-07-08節分会・・・・・輪王寺(栃木県日光市)。
■10節分祭・・・・・茨城県笠間市、笠間稲荷神社ほか。笠間市観光協会 0296-72-9222
2月3日
■11豆まき、鬼やらい(節分の日)
■11成田山節分会【千葉県成田市、成田山新勝寺】
■11だるま市【東京都足立区、西新井大師】
■11長田神社追儺式(阿吽の舞、太刀渡の儀、餅割)【兵庫県神戸市、長田神社】




■例年-だるま市・・・・・・西新井だるま供養(だるま市)【東京都足立区、西新井大師】
■06-07-08追儺式・・・・・浅草寺(東京都台東区)。 
■06-07-08節分会・・・・・平間寺〔川崎大師〕(神奈川県川崎市)。 

■06-07-08だるま市・・・・・喜多院(埼玉県川越市) 。
■06-07-08節分会・・・・・清澄寺(千葉県小湊町)。 
■例年-成田山節分会(節分の日)【千葉県成田市、成田山新勝寺】

■06-07-08節分会・・・・・誕生寺(千葉県小湊町)。 
■06-07-08節分会・・・・・久遠寺(山梨県身延町)。 
■06-07-08鬼おどり・・・・・本成寺(新潟県三条市)では奇声を発して踊り狂う五匹の鬼を鐘楼の中へ追い払う。

■06-07-08星祭厄除け・開運祈願の祭・・・・・飯福田寺(三重県松阪市) 
京都八坂神社節分祭 2月2〜3日 京都市東山区
http://www.omatsuri.com/movie/setubun.html<動画>

■06-07-08追儺式・・・・・鞍馬寺(京都市左京区)。 
■06-07-08節分会・・・・・聖護院(京都市左京区)は修験道のメッカ。本尊不動明王が2/3〜4日に御開帳される。

■06-07-08吉田神社節分祭(大祭)(節分の日)【京都市左京区、吉田神社】  
■06-07-08節分祭・・・・・六波羅蜜寺(京都市東山区)では六斎念仏追儺式が行われる。 

■07節分・立春厄除祭・七福神祭・・・・・・奈良・大和郡山市の松尾寺0743-53-5023では日本最古の厄除霊場として2/
3〜2/4日の朝から夕方まで厄を祓い、福を授ける。

■06-07-08-09節分・大燈籠(万燈籠)・・・・・・・奈良・春日大社0742-22-7788。舞楽奉納は午後5時半から。奈良市観
光センター0742-22-3900
■お田植え祭・・・・・・奈良市・手向山八幡宮。

■06-07-08鬼追式・追儺式・・・・・・奈良・興福寺(奈良市登大路町)0742-22-7755の東金堂で午後7時から「鬼やらい」
と豆撒きなど厄除け招福の行事。奈良市観光センター0742-22-3900

■06-07節分・星祭り・・・・・・・奈良・東大寺0742-22-5511二月堂で午後2時頃から「豆撒き」。豆の外にも色とりどりの
「鈴」等も撒かれる。万灯明は午後6時から。

■06-07節分・星祭祈願会・・・・・・・奈良・西大寺0742-45-4700の愛染堂で。
■07節分会・開運星まつり・・・・・・・奈良市の大安寺0742-61-6312では開運厄除護摩祈祷と福豆撒き、福引など。

■06-07-08柴燈護摩会(火渡り)・・・・・元興寺0742-23-1377極楽坊(奈良市中院町)では節分に柴燈護摩会と厄除け
の大護摩供養。また一般参加の火渡りの儀(秘供)を行う。午後3時半から豆撒き。

■07節分・星祭法会・・・・・・・奈良市の霊山寺0742-45-0081では、午後2時から弁天堂で「節分・星祭法会」。午後5時
から本堂で修二会結願法要。

■07節分星祭・・・・・・・奈良市の帯解寺0742-61-3861では夕方6時から本尊・御宝前に星マンダラを掲げて、祈願者
各人の1年の厄除、無病息災を祈祷する法要。福豆授与。
■07節分祭・・・・・・・奈良・天理市の石上神宮0743-62-0900

■07節分・粥占・・・・・・・・・天理市の大和神社0743-66-0044では午後4時頃から節分祭、午後7時頃から節分鬼追い、
午後8時頃から粥占を行い、農作物の豊凶や其の年の天候を占う。

■07節分祭・・・・・・・・・桜井市の談山神社0744-49-0001では午前10時から節分祭。一般参拝者には本殿授与所で福
豆授与(100円)。

■07-08節分祭・福寿豆撒き式・・・・・・奈良・桜井市の大神神社0744-42-6633の拝殿では11時から宮司の「福は山、
福は山」の掛け声で一斉に福豆と福餅を参拝者に向けて撒く。

■07節分・大黒天祭・・・・・・・奈良・桜井市の長谷寺0744-47-7001本堂では1/28〜2/3日に星祭。特に本日は節分・大
黒天祭。

■07節分・銭ぶつけ厄払い大法要・・・・・・・奈良・桜井市の安倍文殊院0744-43-0002の金閣浮御堂では秘仏の軸の
中で、今年の恵方に当る守護神の軸が御開帳され、其の軸に向かって当山が用意した1円玉を自分の年の数だけぶ
つけて1年の厄を払う。

■07節分祭・・・・・・・奈良県斑鳩町の法隆寺0745-75-2555西円堂で午後5時頃から修二会法要、午後7時頃からタイ
マツを投げる鬼3匹を毘沙門天が退治する。

■08おんだ祭り(2月第1日曜日)【奈良県明日香村、飛鳥坐神社】

★08飛鳥坐います神社・おんだ祭・・・・・・・明日香村・飛鳥坐神社0744-54-2071で毎年2月の第1日曜日の正式には「御
田植祭」で、五穀豊穣、子孫繁栄を祈る伝統行事。ただ祭りよりも「夫婦和合」のアトラクションのほうが人気があって、
子授けの神として信仰を集めている。

青竹のササラを持った天狗と翁が登場して境内にいる男女の「尻叩き」をする。此れには「厄払い」の効能があると言
う。次に拝殿では牛の面の男性が四つん這いになってスキをひく田作りの場面になる。怠け者の牛とせっかちな翁の
掛け合いで観衆を笑わせる。次に宮司がモミを撒き、苗に見立てた松葉を並べる。

其処から「夫婦和合」の儀式だ。翁に先導された天狗がお多福面の「嫁」を連れて登場するが、無論ごつい男性が恥ず
かしそうにしなを作るので観衆の笑いを呼ぶ。天狗が床にお多福を寝かせ、裾を割って上に覆い被さる。仲人役の翁
は天狗の後ろへ回り、勢いをつけて二人の「和合」を手助け。

無事営みが終わると、天狗が懐から出した紙で股間を拭く。此の「拭くの紙」は子宝に恵まれる御利益があると言うの
で、翁が神を撒くと、其れまで腹を抱えていた観衆らが歓声を上げて飛びつく。この様に、大らかに性行為を演じる祭り
は各地にあったが、明治以降は「わいせつ」として姿を消した。

性行為を公然と見せる事で笑いが起きるが、笑いには日常を変える力がある。生命を生み出す行為の力を笑いによっ
て高め、五穀豊穣と子孫繁栄を祈ったのでしょう(以上の大部分を08/2/7朝日記事から引用)。

■07節分祈祷会・・・・・・・・・奈良県高取町の壷阪寺0744-52-2016では11:30から住職法話。正午から節分祈祷会・大
般若経・転読会。午後12:30から昼食(要予約・参加者無料)。午後1時から星祭り祈祷会・特別座法要・豆まき。

■06-07-08蔵王堂の節分会・・・・・金峯山寺蔵王堂(奈良県吉野町)0746-32-8371では午前10時から365巻の般若心
経の読誦「日数心経」、星を供養する「星供」、そして「福は内、鬼も内」と唱える全国でも極めて珍しい鬼の調伏式など
を行い、全国から追われてきた鬼を救い、仏道に導くという行事に続いて、午後1時からは福引つき福豆撒きがある。

■07鬼火の祭・・・・・・・・吉野山一帯では2/1〜2/4日に掛けて奉納演奏「鬼火ライブ」や吉野街並み桜燈火など。
■07節分会・厄除星祭・・・・・・・奈良・生駒市の宝山寺0743-73-2006本堂で、お札に名前と年齢を墨書きしてお供え
し、護摩木を焚いて1年の厄除祈祷をします。福豆(有料)。

■06-07節分大法要・鬼追式(豆撒き)・星祭法要・・・・・・・・奈良県・平群町の信貴山・朝護孫子寺0745-72-2277本堂
と宿坊3院ではタイマツを焚いて数匹の赤鬼、青鬼が本堂へ乱入し暴れ回るのに豆をまく。午後5時から星祭り法要(本
堂)、続いて鬼追式。

■06-07-08節分会・・・・・大聖観音寺〔我孫子観音〕(大阪市住吉区)。
■06-07妙見山感應寺の厄除祈願の節分星祭り・・・・・大阪。堺市郊外。以下、http://www.semboku.jp/ensen/1-
13myoken.html「妙見山感應寺」より引用。

---日蓮宗(総本山・身延山)の寺院で、通称「上神谷(にわだに)の妙見さん」とよばれています。大化元(645)年、唐
の僧法道仙人(ほうどうせんにん)がこの地で北辰尊星(ほくしんそんせい)の霊示を受けて、謹刻せられた妙見大菩薩
の尊像を安置された尊星降臨の霊場です。

妙見堂の側壁には、欅(ケヤキ)の一刀彫の彫刻が見事に施されています。江戸時代のマリつき唄に、「一に生駒の聖
天さん、二に上神谷の妙見さん、三に讃岐の金刀比羅さん」と数え唄われた霊験新たかな妙見さんとして今日なお信
仰を集めています。主な年中行事---2月3日の厄除祈願の節分星祭り。

7月土用の丑の日には「頭痛封じのほうろく灸祈祷」。

■06-07-08 節分追供会式・・・・・青岸渡寺(和歌山県那智勝補町)。 
■07-08-09-10長田神社追儺式・・・・・・節分の日、神戸市長田区、長田神社で阿吽の舞、太刀渡の儀、餅割等。

▲11和布刈神事(旧暦1月1日)【福岡県北九州市、和布刈神社】
■06-07-08鬼びっくり・・・・・興禅寺(大分県)。 

●例年-子泣き相撲・・・・・最教寺(長崎県平戸市)では節分の日、二歳末満の幼児二人を土俵で相対させ、早く泣い
た方が勝ちという子泣き相撲の行事。

子泣き相撲・最教寺 http://www.omatsuri.com/movie/konaki.html<動画>


■春節の頃・・・・・・中国ではこの頃、年に最大の春節祭となるが、2004年の場合、旧暦の元日(新月)は、1/22、06/1/29、07/2/18日。08/2/7
日。








































































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立春0150。
       
●立春・・・・・・・・暦上の立春は太陽の黄径315°に当たり、冬至からは45°離れているので方位としては丑寅であ
る。この頃の新月、または満月の日が旧暦(陰陽暦)の正月になる。正月と言う以上は月の祭りであり月の年始です。
つまり立春の前夜祭が旧暦の晦日になる場合が多いので一応此れを節分と言った。

因みに旧暦の薮入りはこの後になるので古来、盆正月には長い連休となり、日本列島では国民の大移動が繰り広げ
られました。因みに京都を中心に方位を見れば、鬼門と裏鬼門に山形と鹿児島が位置する。

此れを霊的に見れば、この時期に両者の間でエネルギーの交換作用、即ち大きな浄化作用が効果的に果たされるの
で、此れも節分と言う行事の効能でした。だが今は、其れを西暦の元日にしているので効果も半減です。
暦では此の節分・立春の頃が正月です(但し07年の旧正月は2/18日)。

従って西暦の1月=睦月が重なるのは三日間だけで、実は西暦の1月の中身の殆どが旧12月・師走である。西暦の
正月では、七草と言っても野山に七草はなく、初春と言っても小寒、大寒、節分まで益々寒さが厳しくなる。其れに対し
て、此の節分とか旧暦の正月から、やっと春めいて来るので「初春」の実感が涌くでしょう。 

方位と月日・・・・・古来、祭りは壇を基点として方位を決めたが、方位の基準は八方です。八方を四方四隅(維)と言
った。南蛮渡来の数字式カレンダーではなくて本来の円暦・方位では先ず真北を冬至と し、其処を基点として時計回り
に一周する方位暦なので北東が立春に重なります。

以下同様に、真東が春分、東南が立夏、真南が夏至、南西が立秋、真西が秋分、西北が立冬、そして真北が冬至に
重なる。此れを古来「四至(時)・四立」とも言った。今の月日にすれば冬至と夏至が12/22と6/22となり、其の日
から45日後が立春(鬼門)と立秋(裏鬼門)で、2/5と8/6となります。

そして冬至と夏至から91.5日目が春分・秋分(3/23←→9/21)であり、其の137日後が5/7の立夏(巽)と11
/6の立冬(乾)となります。ただ此れは黄道を基準の方位に基づく円暦八方日なので、其れとは別の、地軸主義の星
座によって天文台が行う今の西暦月日とは若干ズレます。

だが古式祭りは西暦ではなくこの八方から見なければ分からない。

黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい) ・・・・・・・岩手県水沢市黒石町。2月中旬(旧暦1月7日〜8日)。05年は1月28
日(土)。06/2/4〜5。 問合せ先 水沢市観光協会tel:0197-22-7800 。祭りの起源・由来は、黒石寺が天平元年(729)、
行基菩薩の開基と伝えられ、その後、何度か火災に遭い、現在の建物は明治17年(1884)に建てられた。 

祭りは厄年連らの、裸参りで幕開けです。燃え上がる井げたの上で若い男衆が気勢をあげる柴燈木登(ひたきのぼり)
などを繰り広げ、メーンの蘇民袋争奪戦は翌朝午前5時ごろ、本堂で始まります。以上は、メルマガ【なっとく歴史館】:
公式サイト:(随時更新) → http://1rekisi.jpより転載。詳細URL  http://www.isop.ne.jp/atrui/

祭りの概要は、天台宗妙見山黒石寺で夜を徹して行われる行事で、薬師信仰をもとに、裸の男と炎の祭りとし、裸参
り、柴燈橙り、別当登り、鬼子登りなどがある。翌日未明からは堂の前で男たちが東西に分かれ、裸で押し合いながら
蘇民袋を奪い合う。

蘇民袋は護符が入った麻袋で、これを最後につかんだ者の 住む方角がその年、豊穰多福になると伝えられている。
国の重要文化財である薬師如来坐像や木造僧形坐像、県の文化財に指定された四天王像、木造日光・月光菩薩立
像、木造十二神将像が安置されている。

交通アクセスは、東北自動車道水沢ICから車で約30分・JR水沢江刺駅から車で20分・JR水沢駅からバスで25分。以
上、http://www.bunka.pref.iwate.jp/dentou/maturi/maturi/maturi_027.htmlより引用。尚、07年は2/24-25. 

岩手雪まつり(2月4日〜12日)【岩手県岩手郡雫石町】

斎宮の由来・・・・・・・伊勢神宮の起源については謎が多いが、此処で一つのキーとなるのが続日本紀に「文武天皇2
/12/29乙卯、多気大神宮を度会郡に遷す」との記録である。つまり当時まで伊勢神宮は大宮町の滝原に有った事が
分かる。ともあれ此の日をユリウス暦に直せば699/2/4日となる。@

尚、斎宮と内宮の暦・方位関係は5/6となるので、斎宮は両社の扇の要に位置していた。伊勢南部の両宮一帯を含
む広い地域が渡会の地域であった所に、多気郡と言う郡名が既に孝徳(在位645-654年)に初めて創設されていた。

其処で皇大神宮は孝徳時に御厨(みくりや)と改称し、神郡、屯倉(みやけ)を置いたが、斎王は後醍醐天皇以後廃絶
となった。その後、祭主は藤波家の世襲となり、明治以後は祭主が皇宮家になっている。現在地ならば斎宮は北に水
平線、東には明星地区があるが、此処から明けの明星と冬至の日の出とが観測できる位置でした。

次は傍証であるが、滝原から明和町の間には両大神御魂を祭る相鹿上(おおかがみ)神社がある。また天照大御神を
祭る佐那神社(※1)や津田神社があって、何れも社伝に古来、「斎宮の祈年祭・新嘗祭に与る宮」とあり、今もこの相
鹿上神社は立春の前日(節分)が春祭りである。

(※1)県社・佐那神社-----多気町仁多156、式内社。祭神は天手力雄命など24座、外に不明3座。どんど祭1/15日、
建国祭2/11日、祈年祭3/8日、例祭10/8日など。因みに「記」の開化天皇の段には、「伊勢の品遅部君、伊勢之佐那
造之祖」としている。江戸期には大森社、中の宮とし、明治41年には37社を合祀した。

さて、この頃は歳末に日食が続き、大陸の暦法と不一致が有れば信を失うのみならず、国内でも天皇の大権を疑われ
るからである。前年には大宝律令を発布したが、この後に初めて日本国成立を唐や新羅に宣告して710年に平城京
へ遷宮する事になる。@

■07-08立春祭・・・・・・・奈良・桜井市の大神神社0744-42-6633

来目皇子の命日・・・・・・・来目と言えば神武以来の久米舞、或いは来目部、其れに天平時代の久米仙人、そして橿
原市の久米寺、岡山の久米郡、沖縄の久米島、更に久留米市にも何か関係があるような名前です。この内で偶然かも
知れないが命日方位の久米寺と其の反対方位の久米島が合致する。

彼は聖徳太子の実弟で久米王とも言われ、新羅征討将軍となって2万5千の軍を率いて筑紫に着いたが、翌年の推古
天皇11年春二月の丙子の日(603/2/4、ユ3/21、グ3/24)、病没となった。よって周防の娑婆にモガリし、後に河内の
埴生の山の岡の上に葬られたと言う。

埴生野の地は今、羽曳野丘陵地の北にあり、羽曳が丘二丁目に彼の陵として方墳が残されている。ただ方墳は正方
形ですから命日方位が不明であるため、遺跡を辿って探る必要がある。其の点で彼が少年時代に目を患った時に兄
の太子が薬師如来に念じて治してくれたお礼に建てたと言われるのが橿原市の久米寺である。

其処でこの久米寺から2/4と8/4のラインを引いてみると、桜井市の西光寺から西の宮地区、そして藤原京跡を袈
裟掛けするように通り抜けて本薬師寺跡を通る。また其の逆方位は、倭彦命墓東から高取町の天津岩戸明神社から
御所市柏原の誓願寺に進むので、何となく関係箇所が出て来ると期待した。

第二候補としてこの寺を基点に方位を見れば、福岡市が9/11、防府市が9/15、来目皇子の方墳の位置が推定1
0/6、岸和田市の久米田寺(此れは無関係かも知れないが)が10/12となる。とすれば何れも命日から遠くなる。

第三候補として飛鳥の小墾田宮跡を基点に見れば東は3/23方位に山田寺、西は9/24方位に法林寺があり、其
処を更に進めば南河内の太子町・一須賀に出る。其の辺りには広大な古墳群があり、矢張り昔は埴生と言われ、聖徳
太子の陵もある土地柄であるが決め手がない。@

こうなると先の命日とは暦・方位が数十日開いてしまうので古墳から見直す必要が有る。丁度06/1/21日、羽曳野市の
「塚穴古墳」発掘調査説明会があり、長さ100mに及ぶ大きな外堤があったと分かった。

此れで方位がよりハッキリするものと期待したが、此処は宮内庁の陵墓なので立ち入りは出来ない。ただ開口部が南
に向いた方墳であり、皇子の命日方位とは違うと判明したので別人の墳墓と判明した(いや市の発表では可能性大と
した)。其処よりも寧ろ@

(4/9用明を参照)。

■07飛鳥坐神社おんだ祭・・・・・・・明日香村・飛鳥坐神社0744-54-2071で五穀豊穣、子孫繁栄を祈る伝統行事。子授けの神として信仰を集めている。

平清盛の命日(福原遷都と一の谷の因縁)・・・・・・・清盛は白河法皇(当時65歳)の胤ではないかと噂された。清盛
の母は、祇園女御の妹と呼ばれていた女性で、亡き白河法皇の想い人であり、祇園に住んでいた事から此の名で呼
ばれた(8/26崇徳天皇を参照)。彼の出世の理由が此処に起因するのだろう。

やがて養和元年の閏二月のこの日、平清盛が64歳で謎の熱病によって憤死し、愛宕に荼毘し骨を経島に蔵む。所で
彼は生前、父・忠盛のために福原に遷都した。何故なのか。

其れは彼が仁平三年正月15日に父・忠盛を失ったが為、其の御魂の日迎えのためであった。仁安二年五月、太政大
臣を罷(や)む。三年二月、剃髪して法名を清蓮と号し、次いで淨海と改めた。世に太政入道と言う。

三年七月29日に重盛を失い後、壮麗なる別荘を福原に営み、四年の六月、安徳天皇を福原に遷都せられた。だが不
評を買って11月には旧都に復した。その後32回忌の喪に服すべき時、元暦元年2/7、清盛の子・忠度たちは一の
谷に布陣して義経に急襲されて破れ、9人の宿将を失った。

これ等一連の事柄は二月と言う因縁の月であり、しかも逆方位に位置した結果、平家は敗れた事になる。生兵法は大
怪我の元と言われるが、事も有ろうか弔いの場である京都の花背別所とは逆方位の須磨一の谷に布陣して事を構
え、戦仕度したために敗れたと判明する(「遷宮」「日迎え」を参照)。

とすれば、生噛り(生神呪)による力の戦法は此れをもって教訓としなければなるまい。ただ敗因は他にもある。渡来の
唐風に偏り、更に公家化した事が「奢れるもの久しからず」、と歌った平家物語の盛者必衰の理(ことわり)である。だ
から一夜(一の谷、壇ノ浦でも那須与一の一矢)で壊滅したのであろう。@

さて、清盛塚が衣笠天神森町に有る。仔細は不明だが仮に神戸の長田神社を基点にして方位を採れば2/14の暦
日方位である。荼毘した愛宕は旧暦に近い2/4〜7、花背も2/7である。

それに対して六波羅が2/19日方位であり、この日は彼の命日のユリウス暦に合致する(尚、この項目の一部は05/6
月のヤマス様からの質問に対して回答したもの)。次に大輪田泊の住吉神社には清盛塚・琵琶塚がある。此処の場
合、先の花背が2/6日の方位になる。

此の辺りは昔から兵庫津と言う良港であり、彼が大輪田泊を改修して日明貿易で栄えた。やがて堺や博多と並んで日
宋貿易、其れから日明貿易の拠点として栄えた。室町時代には17回90隻の遣明船を仕立てている。其のうちの13回66
隻が兵庫津からの出帆であった(いづち会07/3/25資料より引用)。

こうして清盛以来、今も栄えているのはきっと清盛の先見の明のお陰であろう。

■08尾鷲まつり・・・・・・2月1日〜5日。

■元日生まれ・・・・・・・元日生まれは手が付けられない暴れ者になると言う。秀吉は日吉丸と言われて天下人にまで出
世した。また米屋に生まれた長五郎も手が付けられない暴れ者で家を出されて次郎家の養子となった。此のためやが
て次郎長と言われた。ただ何れも旧暦時代の話だから今の立春前後の生まれ。鬼門の方位である

■毛利輝元が生まれる・・・・・・・輝元は幼名を幸鶴丸と称し、毛利元就の孫として、天文22年旧1月22日(1553年2月
4日)に生まれた。因みに父は毛利隆元で、母は内藤興盛の娘である。安土桃山時代から江戸時代の大名で、豊臣秀
吉の政権下にて五大老を務める。1589年旧1月19日には輝元が広島城の築造を計画する。

長州藩初代藩主である(以上は、メルマガ【1日1分歴史新聞】 なっとく歴史館→http://1rekisi.jpより引用)。

■09義士忌。 































































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■「神々の歳時記」の各項目のご理解には「366円暦」が必要です。円暦は別紙の「日読み1」http://toki.mikosi.com/
page044.htmlで公開していますが、其の実物を希望される方は末尾に従ってご請求下さい。

■尚、各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示していますので、*開催
日等の詳細には主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。

■「神々の歳時記」に記した例は仮説ではなくて、太陽暦に重ねて古式祭による祭政一致を行っていた古からの日本
文化の原理です。其の具体例を今回、公開したものですが、海外への情報流失防止のため、特に「本文」については0
4/11月から「非公開」としました。

■@マークの付いた以下の部分が「非公開」部分です・・・・・・・@マーク以下には「地理・方位の具体例と其の意味や
暦との関係式」などの詳細を隠しています。この隠れた部分の資料をご希望の方は、「メールフォーム」または掲示板
からご連絡下さい。

■文中に誤記や間違いがありましたら、恐れ入りますが上項により下記まで御一報賜れば幸いです。尚、参考文献は
巻末に記しました。  

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