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http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」 p079 (未定稿)


   神々の歳時記   1月下旬 但し方位による
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●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 
http://www.omatsuri.com/mailmag/ http://www.matsuri.or.jp/cgi-bin/wf/wforum.cgi

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-1月」及び奈良観光連盟ガイドブックの「知れ
ば知るほど奈良はおもしろい」06-07冬号より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。


1月・下旬 ・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★



1/21日   初大師 初弘法


■08初詣で・・・・・今は殆ど惰性か付き合いか観光で初詣していますから、意味を考え直すのも大切です。昔は檀家寺
もしくは氏神や産土神社に初詣したものと思います。或いは祭りの日にダンジリが回ってくる其の地区の神社とか、或
いは新興宗教の場合は其処に参ります。もう一つは最近人気復活の恵方(エホウ)詣で、です。

この場合は09年なら恵方は甲(きのえ)、つまり東東北に歳徳神が回座するので、現住所からそちらへ向かってお参り
する。しかし昔は大歳神の回座する方位にお参りしました。大歳神とは木星が12年で1周りして元に戻る事からエトとし
た天文的な風習です。因みに08年のエトは子でしたが09年は丑、つまり北北東の方位になります。

動物であるネズミとか牛を参拝するのではなく、その方位に向かうのが大切です。因みに円(方位万年)暦では1/21日
が冬至から30日目で正に丑の吉日となります。

初大師(弘法大師入定の日)・・・・・・真言宗の寺院。
●06-07-08初弘法・初大師(各地の真言宗の大師堂)。   
■ひがしかわ氷まつり【北海道東川町】

★07裸まいり・・・・・・秋田県本荘市、新山神社で1月第3日曜日。
■09だるま市【東京都足立区、西新井大師】

■09初大師【神奈川県川崎市、川崎大師】
■06-07川崎・身代わり不動尊・開山会。
■07-08初大師・・・・・・平間寺〔川崎大師〕(神奈川県川崎市)。 

★07夷子(エビス)大国・綱引き・・・・・・・福井・敦賀市西町。室町時代からの歴史があり、漁業と農業関係者が東西に
分かれて長さ50mの綱を引き合って豊漁か豊作かを占う。
★07水中縄切・・・・・・・福井県三方郡美浜町、日向海岸で1月第3日曜日。

●例年-初弘法(弘法さん)・・・・・・・京都市南区、東寺。09/1月21日(水)新春の風物詩「初弘法」です。1年の無病息
災を願う参拝客や、掘り出し物をさがす人達でにぎわいます。弘法大師(空海)の命日にちなむ今年最初の縁日で、境
内には、朝早くから骨っとうや全国各地の特産品、園芸などの露店が並びます。

また、弘法大師をまつる御影堂前は、灯明をささげたり、線香の煙を丁寧に体になでつける人たちで埋まります(以上
は、メルマガ【なっとく歴史館】 公式サイト:(随時更新) → http://1rekisi.jpより転載)。初弘法の詳細URL http://www.touji-ennichi.com/

■07おふさ観音・えびす大祭・・・・・・・・奈良・橿原市のおふさ観音0744-22-2212で初観音1/17〜18日に続いて行なわ
れる。

■明日香の石舞台の祭りか・・・・・・・石舞台は「蘇我馬子の墓」とされている。馬子の命日(5/20を参照)の逆の時
期に当たるとすれば当を得た祭りである。其処で例年、11月の日曜日には祭りをしていると言う。他人の墓を暴いて
見世物とするため財団法人化して拝観料を取っているので、せめてもの罪滅ぼしのつもりであろうか。

だがこの石舞台の築造方位は生憎、北の岡寺・奥の院を指している。つまり開口部が「命日は冬である」と示している
ので、別人と分かる。では此処は誰の墓かと言えば、馬子の子の蘇我倉麻呂と推定する(命日は文献にない)。その子
が蘇我倉山田石川麻呂であり、大化の改新で天智天皇の為に大役を成した。

だがその後、身内の讒言により山田寺で3月に自殺した。何故、彼が山田地区に居たのかと言えば、父・倉麻呂を石
舞台に葬り、その鎮魂のために其の方位に当たる山田地区に居たものと推定出来る。其の途中に先の岡寺がある。
此処は当初、草壁皇子の「岡の宮」と言われた所を、天智天皇の勅願によって寺にした所である。

では何故草壁皇子が居ついていたのか、と言えば、天武天皇の皇子・皇太子だったからだ。しかも草壁皇子は天智天
皇と妃(蘇我倉山田石川麻呂の姪娘)の皇女(後の元明天皇)を迎えていた。従って父・天武の代わりとして、また義理
の祖父・倉山田石川麻呂(3/26を参照)の代わりに、倉麻呂を弔う立場だったと判明する。

よって草壁皇子がやがて岡宮天皇と追号された。因みにこの岡寺は如意輪観音を本尊として祀り、厄除け観音として
知られているが、悪龍を押し込めた所と言うので龍蓋寺とも言い、西国33観音霊場第7番札所となっている。先の石
舞台の表土が剥がされているのとは対照的である。

同時に舒明天皇(天智・天武の父)の命日である10/9方位には舒明天皇に縁りの所と見られる軽寺跡(橿原市)が
有る。此れも偶然と言えるだろうか。

★07和歌山・御田祭・・・・・・かつらぎ町で第3日曜日。
★07大山寺の力餅・・・・・・・・徳島県板野郡上板町、大山寺で1月第3日曜日。
■07-08大護摩・・・・・・香西寺(香川県高松市)。 





































































1/22 


●豊臣秀長死去・・・・・・・・天正19(1591)年1月22日に、豊臣秀吉の異父弟である、大和大納言秀長が、病没する。
享年52歳であった。兄秀吉の片腕として力を発揮し、文武両面での活躍を見せて、秀吉の天下統一に貢献する。温
厚な人柄で、兄を立て兄を助ける補佐役に徹し、各大名からも頼りにされた人格者だった。

秀長がいなかったら、と考えると、怖いですね。秀長の戒名は、「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」で、現在の奈良県
大和郡山市箕山町に「大納言塚」が伝わっている。 忠実に書かれた、秀長の肖像画をサイトにアップしています。凛々
しいですね。→なっとく歴史館 →http://1rekisi.jpメルマガ【1日1分歴史新聞】  http://sakon.1rekisi.jp/ @

★11若草山山焼き(例年成人の日)【奈良市】

旧元日(2004)、新月。中国では年に最大の春節祭となる。旧暦の元日(新月)は、普通、新暦二月初の節分の頃になる。旧正月になると韓国では町の中
央で火を焚き、其の周りに大円を作って女性たちが踊り回る。月を祝う行事だからです。06年は1/29、07年は2/18。

■09黙阿弥忌。





















































1/23    


               
■版籍奉還・・・・・・・・版籍奉還を先駆けた4藩とは?!明治2年(1869)1月23日に、薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前
藩の4藩主が、連盟で土地と領民を、朝廷に返還する上奏文を提出する。これが、廃藩置県への第一歩となる。

版籍奉還とは、諸藩主から天皇への領地(版図)と、領民(戸籍)を返還することを意味し、版図の「版」と、戸籍の「籍」
を言う。 -------以上は、メルマガ【1日1分歴史新聞】 なっとく歴史館 →http://1rekisi.jp歴史宝物館 → http://
takara.1rekisi.jp/ より引用。

■07-08星祭・・・・・・千蔵院(新潟県長岡市)では立春前月の一週間、1/23〜30日まで追儺式星祭の開運祈祷を行
う。結願日(節分)に年男による豆撤式がなされる。
■07-08かき餅念仏・・・・・・金竜寺(滋賀県永源寺町)。
 
●例年-大安寺光仁会(癌封じ笹酒まつり)・・・・・・大安寺(奈良市大安寺町)0742-61-6312では62歳で皇位についた
光仁天皇の御忌(命日)法要。祈祷後に開運長寿に因む行事としてガン封じに効くという笹酒が振舞われる。

反正天皇の命日・・・・・18反正天皇の事績を追えば先帝・履中天皇の宮と陵との整合性がより明確になる筈であ
る。彼は17履中天皇の後に即位したからだが、新たな宮を松原市に遷宮し、此処を丹比柴垣宮とした。今、松原市に
は柴籬神社がある。

堺東には伝・反正天皇陵があるが誤伝であり、其れに代わって土師ニサンザイ古墳とする説も有るが、ニサンザイの
方位は命日が3〜4月であると示しているので問題外である。@
反正は三人を祭る立場になっていた。だから宮が3ヶ所以上有るほか、其れに伴って墳墓も同数造られた。

三人とは@仁徳、A住吉仲皇子、B履中である。また反正死後は反正天皇を彼の皇女や次のC允恭天皇が祭ったの
で、併せて4ヶ所の宮と墳墓となった可能性がある。彼は先ず、父@仁徳の為に其の前方部に宮を置いて、次にA住
吉仲皇子の為に其の陵である土師ニサンザイ古墳のラインで弔いの為に居着いた。

其処が余部(堺市)である。余部は尼部に通じる。そして兄であり、先帝であるB履中の崩御に伴い、メスリ山古墳の
前方部である屋敷山・二塚辺り(かつらぎ市・新庄)に宮を造った筈である。其のラインの先には岸和田市の神於(こう
の)山---貝塚市がある。

此の辺りに次の允恭天皇が茅ぬ宮を造ったのは父・仁徳と兄・履中の為である(1/16と3/15を参照)。此のため、屋敷
山から反正命日の1/23方位にある奈良市・若草山には命日方位の形の鶯塚古墳が造られた。他方、先の余部(堺
市)にいた皇女たちも矢張り反正命日の1/23方位に当る生駒の石切に土を盛って墳墓とした。

そして淡路島にも宮があった。此処は応神天皇の命日(2/15)ラインであり、大隈宮の先になる。此処で反正が生まれ
たので後に「淡路宮」と言われ、またミズハワケと言われ容姿美麗であったと伝えられる。此のため、彼の死後には此
処淡路島から其の命日の1/23方位に向かった神戸市垂水の五色塚が造られた。

彼の命日1/23ラインと応神の2/15ラインとの交点が洲本市の安乎町古宮である。其のほかに、和泉市・松尾寺から1/
23方位に石切・正興寺「反正天皇御廟所」がある。まだ精査はしていないが以上3ヶ所の墳墓が彼の古墳である。

彼の陵として百舌耳原北陵と記録され、其処が今は堺東駅東に治定されているが、別人の墓地である。彼は仁徳陵の
南に宮を立てて即位し、現地妻・津野姫を后に立て、更に丹比(松原市か美原町辺り)に柴籬宮を造って都とした。だ
が在位4年で崩御した。既に60歳だった。しかも跡継ぎがなく、カガヒ、ツブラ、タカラの姫ミコだった。

高部皇子がいたとの説もあるが皇女との説も有る。そう言う事から次の天皇として弟の雄朝津間わくご宿禰が即位して
允恭天皇となった。

■07-08お日待・・・・・・五流尊滝院(岡山県倉敷市)で1/23〜24日。 
■07-08神代おどり・・・・・・1/23〜24日、立江寺〔立江地蔵〕(徳島県小松島市)。 

























































1/24 


●09己巳。     ●09初地藏・初愛宕。

●06-07-08-09初地藏(各地地蔵尊)。地蔵菩薩の初縁日。地蔵菩薩を祀る寺院。       
●例年-うそかえ神事(〜25日)【東京都江東区亀戸、亀戸天神社】
●例年-巣鴨とげぬき地蔵大祭【東京都豊島区巣鴨、高岩寺】では5月・9月の同日も大祭。 

■愛宕神社お事の使い・・・・・・・東京芝の愛宕神社は愛宕山円福寺・愛宕権現と言って昔は1/3に此の行事をした。祭
神は家具槌(火産霊)神。火の神のため生まれた時に母(いざなみ)のホトを焼いて死なせたので仇子(熱子)と呼ばれ
た。江戸は火事と喧嘩の町だったので「火防ふせの神」として、或いは毘沙門天の使いとして信仰された。

戦後は神仏分離により、此の日は「強飯の式」として白衣に昆布の鎧、シダの鍬形を付けた兜を被り、九尺余りの太刀
とスリコギを腰に差し、大杓子を持って式場に入る(「日本の年中行事」金園社より引用)。7/24を参照。

徳川秀忠の命日・・・・・寛永9(1632)年1月24日に、江戸幕府第二代将軍である徳川秀忠が死去する。享年、5
3歳であった。さて秀忠は、天正7年7月7日に徳川家康の三男として生まれる。母は、側室の西郷局で、同母の弟に
四男の松平忠吉がいた。

秀忠の長兄である信康は、秀忠の生まれた年に織田信長の命で切腹させられ、次兄の秀康は、豊臣秀吉の養子に出
されて結城氏を継いだので、秀忠が実質的な世子とされて14歳で中納言に任官し、江戸中納言と呼ばれる。だが関ヶ
原合戦に遅参したのは、有名な話である。

 -------以上は、メルマガ【1日1分歴史新聞】 なっとく歴史館 →http://1rekisi.jp歴史宝物館 → http://takara.
1rekisi.jp/ より引用。

その後、彼は二代将軍としては実質七年の天下で其の座を家光に譲り、大御所として駿府に隠棲して太政大臣の官
位を得たものの寛永9(1632)年1/24に薨去して台徳院として増上寺(浄土宗)に葬られた。とされているが、現在の
増上寺の縁日の中に家康は有っても秀忠の法要がないのです。

実は日光東照宮を弔いの「寺」として祀られていた事が分かる。今では神君家康(源家康朝臣)を主神として祭るため
に日光山が創建されたと信じられているが、秀忠の時代は今の東照宮は未だ出来ていなかったのだ。一言で日光と言
っても、此処は日光三所権現や東照宮三所権現、其れに代々の法親王の霊ラインも有ると思われる。

なので、少なくとも数本の霊ラインが一山内に錯綜している。しかも既に400年前の「見えないライン」を弁えて見える
物から捌き、方位と暦から元の意味を割り出すのが今ヒジリとしての筆者の役割とは思うが、中々一筋縄で括る事が
出来ない訳です。だが少なくとも駿府と日光のラインは秀忠以外ではない。

此処は天海によって先ず「本社と本地堂」が建てられたに過ぎない。その後、家光が改葬して今の東照宮になったので
すから、喩え家康が主神となっていても何処に祭ったのかさえ怪しい。其の点、三代・家光の代には、父・秀忠を弔う寺
として造り替えている。東照宮の建物は歴史が浅いにも関わらず多くが国宝や重文になっている。

其れは奈良・談山神社・妙楽寺の建築様式に倣ったものであるとか、或いは周易にも通じた天海の着想であったろう
が、特に目立つのは彫刻の多さであるが、中でもシナ「24孝の伝説」などから引用した親孝行、道徳の美風を讃える
物が散りばめられている。

ただ何れも、家康が両親に孝養を尽くした絵解きとは思えないし、また家康に対する孫の家光の孝養心を絵に描いた
としても無理がある。其の何れでもなくて、秀忠の親孝行を讃えて冥土の土産としたものと見るべきなのだ。其の事は
色んな事から分かる。

先ず、命日については隠棲の地であった駿府城址、即ち今の静岡県庁の場から日光に向かうラインが西暦の1/21
方位になっているので判明する。しかも其の先には会津若松城の東の猪苗代湖に至る。

だから家光の代に会津40万石の加藤氏(外様)の領地を返させて、その代わりに兄弟であった秀忠の実子・保科正之
を1643年に転封して会津23万石とした。正之もまた其れに減税・善政で応え、後に玉川上水を造って名君と讃えら
れ、此れで保科家が御三家に次ぐ家格となった。

以後も幕末動乱の時に松平容保が「幕府の盾」として働いたのはNHK大河ドラマ「新撰組」でも良く知られた通りです。
余談になるが、保科公が名君だったから会津に赴任したのではなくて、経緯から言えば話は逆になる。秀忠の実子で
あると言う理由から父の弔いの地に領地を与えられたのであり、其れが封建制の原理でした(「封」を参照)。

だから彼は其の立場を認識して祭り事に務めた結果として其の霊力を戴いて数々の仁政・善政をやり遂げた。よって
更なる結果として「名君」になったものと分かる。また傍証として述べる。@

伊達家の菩提寺は代々「瑞巌寺」であるから、其れとは別に輪王寺と言う徳川家の寺が何故有ったのかと言えば、家
康の嫡子・忠輝と政宗の娘が縁組して越後高田60万石に栄転(後に改役)と言う深い関係が有ったためだ。

さて先の久能尾から逆方位が掛川であり、此処には徳川四天王の井伊家の代々の本家がこの遠州に有り、井伊直延
3万石があった。其れを家康の弟・松平定勝外、定綱、定行などの知行地とした。だからこの暦日は西暦方位と整合す
る事になる。@

先ず12/11は秀忠の弔いの序曲であり、忌み篭りが始まっただろうし、其の5日後の和暦(グレゴリオ暦)の12/1
6日が秀忠の命日であり、この日は徳川家だけで行う内密の法事としただろう。

次に12/22には暦に対する天文方位(冬至点)を確認し、更に翌年のグレゴリオ暦1633年1/3(旧暦11/23丁巳)
には家康ではなくて秀忠を「東照大権現」として祭る神事を行い、同時に本地堂から宝塔に対して仏事を行ったかのよ
うに、建物の位置関係では示している訳です。

にも拘わらず日光東照宮や輪王寺は秀忠の事を一切触れていない。此処の関係者は芝の増上寺との縄張りからそう
しているのだろうか。其れとも客寄せ・物売り観光事業に熱心な余り、徳川は過去の遺物と見ているのだろうか。

徳川一門以外に檀家のない寺としては、今の世をやりくりするのが大変なのであろうけれども、物を売ってもレシートす
ら出さず、商品にも定価さえ入れていない。秀忠公が此れを知ったらきっと怒るに違いない。

■09若草山山焼き(例年、成人の日)【奈良市】
●07-08初天神・梅花祭・・・・・各地の天神さんで24-25日。

■愛宕神社のしゃごしゃご馬・・・・・・・福岡市の蛭浜、愛宕神社の祭礼に、馬を飾って参拝させる行事。昔は愛宕の馬
市があった(「日本の年中行事」金園社より引用)。
































































1/25 


初天神。
■08支笏湖氷濤まつり(〜2/17:1月最終金曜〜2月第3日曜)【北海道千歳市】

■07-08箆岳白山祭(宮城県)。 
■06-07うそかえ神事(1月24日〜25日)【東京都江東区亀戸、亀戸天神社】

■佐藤良二の命日・・・・・・・名古屋から金沢まで250kmに5万本の桜を植えた男。彼は岐阜・白鳥町で国鉄バスの運
転手として働きながらバス停に桜を植え続けた。給料の半分を苗木代に遣って2000本も植樹した。癌になっても400
年の名木、荘川桜の種を育てようと苦心し、S51年には遂に其の種の発芽に成功した。

だが夢半ばでS52/1/25日に癌で永眠。47歳だった。彼の遺志を継いで今も其の桜の手入れを続ける姉さんが、「き
っと優しくて強い桜になりたかったのでしょう」と語った。また岐阜さくらの会などが彼の後を継いで今はその数も数万本
になっている(06/1/25読売テレビの「今日は何の日」より引用)。

●例年-初天神(天神さん)【京都市上京区、北野天満宮】
●例年-うそ替神事【大阪市北区、天満宮】 06-6353-0025・・・・・・浪花に春を告げる新春の縁日(初天神梅花祭)では
神前に梅の小枝を供えて菅原道真公の御霊を慰め、続いて「うそ替神事」となる

●例年-初天神・梅花祭・・・・・天神様は毎月25日が縁日です。中でも初天神は西暦のこの日1/25と決まっている
が、各地の天満宮では初天神と梅花祭を別々にしている所も有り、1/25と2/25とに分けてしている。とすればどち
らが正しいのでしょうか。

其の理由として考えられるのは二つあり、先ず、例えば九州と関東と違いの様に場所の違い、つまり梅花の咲く頃でな
ければマッチしないから梅花の咲く時節に合わせて行うのだろうか(2/25を参照)。そして次は天神様の縁日が新旧
暦の違いで違って来たのだろう。 ともあれこの日は

@命日の祭り・・・・・菅原道真公の命日。彼は右大臣だったが延喜三(903)年2/25、大宰府の配所にて薨去した。此
の日を旧暦2/25丙申と見れば、ユリウス暦では3/26、グレゴリオ暦は未だなかったが3/31に相当する。

だが、この命日が元々ユリウス暦で記録されたものとすれば、その2/25はグレゴリオ暦の3/21、旧暦では正月の
1/25丁卯の日となるのです。では其の何れが真実かを方位関係から見てみよう。

但し、北野天満宮は彼が存命以前から京都にあった北野天神に丹治比文子が祭った所なので、この話からは除外す
るとして、先ずこの日には各地の天満宮で「初天神」として、或いは「梅花祭」として何れかの神事が必ずなされるが、
此れは彼の命日の神事である。

だから夏の賑やかな天神祭とは逆に、静かに梅を愛で、歌を交わして在りし日の公を偲ぶ鎮魂の儀礼であり、またこ
の頃には「鷽替え神事」と言う神事をする天満宮も有る。

此れは彼が太宰府に左遷された事を「嘘」と見なして、嘘を覆して真としたいとする気持ちを言挙げて呪詛したものかも
知れない。彼は若い頃から梅とは縁が深く、よって梅花を天満宮の神紋にしている訳だ。更に

A二つの飛梅伝説・・・・・・京から大宰府に彼の後を慕って梅が飛んで行った、とする「飛び梅」伝説があり、今も太宰
府天満宮の本殿前にはその「飛び梅」が有る事と、またその後、彼の愛でた大宰府の梅が今度は彼の亡き後、「浪花
に飛んで来た」、と言う第二の「飛梅」伝説が出て、此れも各地に広まった事にもよる。

さて、太宰府で彼は政庁からかなり離れた辺鄙な南館と言う所に謫居させられ、薨去した。此の跡地にはその後、榎寺
(榎社)が建ったが、亡き骸は其処から東北に向って運ばれた。所が途中の「四堂」と言う所に来たとき、牛車が突然動
かなくなった。其処で其の地を墓所と決めて安楽寺を建てたのが今の大宰府天満宮092-922-8225である。

此処が府庁からこの日の方位に当たる。其処で牛が止まったと言う伝承は「丑」、即ち、この日の方位の由来を牛に重
ねて伝えたものだろう。だから以後、牛は彼の「御使い」として他の神社の狛犬と同様、天満宮の社前には必ず置かれ
るようになった。@

ただ、この1/25を旧暦と勘違いした所や梅花前線が遅れる関東方面では2/25日に梅花祭をするのであるが、各
地の天満宮の中には故意に方位を狂わせて怨霊封じの「封神」の場とした所や、もしくは折角伝わった暦・方位を後の
人が軽視して事実を狂わせ、弔いも日迎えの祭りも「後の祭り」としている所もある。

だがそうした宮では祭りに崇敬者たちが折角参拝しても単なる銭集めのセレモニーしか出来ないだろう。尚、上記「安
楽寺」の別当は代々菅原氏の子息の世襲となった。彼の薨去後に、京では旱魃と洪水が続き、疫病が蔓延した。延喜
八年には藤原菅根、九年には時平が死んだ。二十三年には保明親王が若死にした。

延長八(930)年6月と天慶四(941)年には内裏の清涼殿に落雷して公卿の多数が死傷した外、関東では平将門、西海で
は藤原純友が乱を起こした。そうした一連の事変に驚いた朝廷が彼を怨霊神・祟り神と恐れて以後、天満宮には勅使
が飛び、一般人の多くも崇敬するようになったのである。

Bラインの中身・・・・・・@

菅原町は菅原氏に所縁の地名。菅大臣天満宮は、生前に道真が通称「白梅殿・宣風坊」としていた屋敷跡である。次
の「梅ノ木」は彼のシンボル、次の「御霊神社」はご祭神は別だが、彼も御霊と恐れられた。赤山禅院は、天満宮を禅
宗で祭った寺院である。

次の「環来神社」は滋賀の龍華庄にあるが、ラインから少し外れるものの、この一帯はかつて藤原氏の庄園だった。藤
原旅子(桓武天皇夫人)が若くして亡くなったが、遺言に従いこの地へ還った事から還来(もどろぎ)大明神として祀ら
れ、また、平治の乱で敗れた源義朝が武運長久を此処で祈り、のち頼朝が上洛を果たして大願の成就を謝したとも言
われる。

そうした事から後の世にも無事帰還を願う参拝者が増えた、と言う事だが、この道は彼の鎮魂方位であるから、道真に
とっての「帰還祈願」であればミスマッチとなる。つまり此処は、実は道真の怨霊を恐れる藤原一門がこの道を塞ぐため
に荘園を作って占拠し、道真が出て来た時には「再び冥土へ帰れ!」と帰還を祈った呪術結界だったとも邪推出来る。

其れは兎も角、次は「揚梅滝」がある。此れは梅花、つまり「道真を神に高める」と言う意味にも通じるだろう。

■06-07-09法然上人忌。
■07篠原天神社・・・・・・奈良・五条市の篠原天神社では篠原踊りの奉納。惣谷天神では狂言の奉納。何れも県無形
民俗文化財。五条市商工観光課0747-22-4001

■姫路宰相と言われた武将の急死・・・・・・・1613年1月25日に池田輝政が播磨国(兵庫県)の姫路城で急死する。享
年、50歳であった。輝政は、池田恒興の次男として尾張国(愛知県)に生まれ、織田信長に仕える。本能寺の変後は、
父兄と共に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、小牧・長久手の戦いで父・恒興と兄・元助が戦死したため、家督を継ぐ。

秀吉没後は家康の娘婿ということもあって家康と懇意になり、「姫路宰相」「西国将軍」とまで称される。輝政の死は、秀
吉の呪いとも世間では噂されたらしい。 -------以上、引用はメルマガ【1日1分歴史新聞】 戦国武将・幕末志士が今
日甦る!なっとく歴史館 →  http://1rekisi.jp【1日1分歴史新聞】 戦国武将・幕末志士が今日甦る!

■07-08-09法然上人御忌法要・・・・・・西念寺(山口県楠町)。 


























































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▼09朔・新月1655。●09金環日食。▼09旧正月元日。
◆07初庚申の日は帝釈天(各地庚申堂)。
■07支笏湖氷濤まつり(1/26〜2/18)【北海道千歳市】

◆07柴又帝釈天初庚申・・・・・・題経寺(東京都葛飾区)では厄除け、豊作祈願の庚申参り。初詣りも兼ねてにぎやか。
本尊御開帳。

道元禅師・誕生会・降誕会(曹洞宗)。
■06-07天理教本部・春季大祭。

■09和布刈(めかり)神事【福岡県北九州市】
■09長崎ランタンフェスティバル(〜2/9)【長崎市】


■06-07文化財防火デー。

▼09旧正月・春節祭。































































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■07支笏湖氷濤まつり(1/26〜2/19)【北海道千歳市】

■07寒川の花桶かつぎ〔小山市〕・・・・・・[ 小山・栃木・足利・両毛地域 ]美しく着飾った稚児行列で知られる「花桶かつ
ぎ」は胸形(むなかた)神社の祭礼で、主役は数え年7歳の女の子です。祭りは夕刻より始められ、七五三の祝いをす
る7歳の女の子たちが美しく着飾り、梅の花の造花で飾られた花桶をかつぎ、神輿や山車を先導し、龍樹寺から... 
 
開催日 2007年1月27日(土) 以上、http://event.donet.tv/news.shtml?5「日光-那須-栃木の観光イベント」より引用。

■東京・神田明神の参道・・・・・・古来、「祭りと喧嘩は江戸の花」と言われたほど、祭りは江戸っ子を元気付けるエネル
ギーとなっていた。さて神田明神は、大手町1から江戸初期に現在地(外神田2)に移った。其処から、「神田明神は江
戸城の鬼門を守る為に置かれた」と言われるが正確に言えば鬼門から外れる。

今の神田神社は、一ノ宮に大己貴命、二ノ宮(エビス宮)に少彦名命で、つまりエビス大黒の一対と三ノ宮に平将門を
祭っている。確かに江戸初期に官幣となって威容を整えたものの、祭神の順序は123の序列ではない。二宮の将門は
一時外されて少彦名命が祭られ、明治になって彼が戻って三ノ宮になったのである。

この間に此処は三回焼けた。其の後、関東大震災と空襲でも全滅した。平将門の首塚が神田明神にあり、其れが昔
は大手門(将門塚)にあった。其れを江戸城の鬼門を守る守護神として其処から現在地に移したために江戸城の鬼門
を守護すると信じられて来たが、鬼門からは外れているのでこの話は半分しか信じられない。@

そうすると江戸城とは関係が深そうである。因みに平将門は石井に偽宮を建てて新皇と称し、文武百官を置いた事が
朝廷を驚かせ、天慶の乱で滅ぼされる事となる。彼は藤原秀郷と平貞定盛らに下総幸島で誅されたが、この方位は彼
の命日(天慶三年2/14、或いは3/14とも)に近いので彼にも関係するものと見て良い。@

更に進めば水戸市・渡里方面に至る。此処は那珂氏や平氏の活躍した所です。さて、神田明神の例祭はかつては9/
15にあり、船の祭りが主だった。其れが将軍上覧の「天下」祭りとして栄え、元禄から山車が主の華麗な三日祭りとな
り、其の山車の高さが9mにもなっていた。

所が明治以後、電線に引っかかって引き出し難くなり、またこの時期は台風時期と重なって祭りに支障を来たした。よ
って今は二年に一度の本祭りが5/10〜11に変更され、水天宮から毛槍が先導して108の町を練り歩き、神田神社
に大神輿が宮入りする。約200基の神輿が中心の「神田祭」に変化した(「5/10」を参照)。

と言う訳で、神田神社の場合、折角参道で例祭日を指示しているのに残念ながらこの日の祭りは不明。其処で一応次
に移る。神輿や時期よりも平家や江戸城との関係が面白いからだ。平家については先の将門があり、次は安徳天皇を
祭る水天宮との関係である。

安徳天皇は平家最後のシンボルであり、以後は船人の守護神となってこの水天様になっている。だから船祭りは水天
宮からスタートしたし、今も神輿が此処からスタートする。@

さて次に、此処は江戸氏の領地だったから江戸となった町であるが、其の後に太田道灌が城を築くまでは平安末期か
ら鎌倉時代には那珂氏・秀郷流の一族・江戸氏の居城だった。其れについて言えば、此処から神田神社に向かい、更
に1/27方位に向かえば水戸市に至る。水戸市は実は江戸氏の出身地であり、従って水戸は江戸だった事になる!

今の神田や江戸城は江戸太郎兵衛・平重長などの領地や居城であり、つまり江戸になる前の神田は、那珂一族・江戸
氏の出先地だった。

■07-08浪切不動尊縁日・・・・・・大聖寺〔浪切不動〕(千葉県大原町)で〜28日まで。 
■06-07-08小田原道了尊大祭・・・・・・最乗寺(神奈川県南足柄市)で道了大薩と天狗をまつる祈祷供式。

源 実朝の命日・・・・・彼は頼朝(1/18を参照)、頼家(7/18を参照)の後、鎌倉三代将軍となったが、28歳の時に頼
家の子の公暁により承久1/1/27甲午に弑せられた。八幡宮の大銀杏の前であった。兄は時政によって弑殺され、更
に彼も義時によって殺された。公暁もまた同じである。

こうして源氏は関東武士団と言う平家によって絶たれた。因縁であろうか、其れとも朝廷の「官打ち」と言う呪いによるも
のなのか。@

所で鶴岡八幡宮の横には白幡神社があり、此処に彼が祭られていて、現在は例祭を命日(1/27)とは無関係の5/28
に行い、また8/9を実朝の生誕日として実朝祭(ぼんぼり祭)としている。何れにせよ白幡神社から其の暦・方位に進
めば鎌倉駅を過ぎて和田塚に当たる。@

また05/3/2にNHK総合テレビ「其のとき歴史が動いた」では秦野市に彼のみしるし塚(首塚)があると放映したが、位
置関係から見れば10/7−4/7日を示す方位なので何かの間違いと分かる。

結論として彼は和田塚に葬られてこの日1/27に弔いの法要がなされ、逆に白幡神社では7/29に彼の御霊を神と
して迎える祭りが行われたものと推測できる。

■07-08-09源実朝忌・・・・・・大通寺(京都市)。 

帝塚山の方位・・・・・・住吉区の帝塚山について、「ヤフー知恵袋」の質問に2009/6/17 日回答した中から転載する。
----町名の由来は、「帝塚山」と云われる墳墓があるからです。ただ、今の考古学の能力では、何処の古墳も被葬者
は不明です。天皇陵は特に不明です。

その理由として彼らは、「宮内庁が立入りも発掘もさせないから」と自己弁護しているのですが、既に多数の古墳やキト
ラや高松塚のように完全に破壊しても尚、被葬者が全く見当もつかないのですから、もう発掘と云う「墓暴き」と、「開
発」と称する公的ビジネスを、やりたい放題にさせてはなりませんね。

さて、住吉区・帝塚山の「帝塚山古墳」は全長120mの中期前方後円墳で、主軸は1/27日の方位を指し、逆方位は7/28
日を指して築造されています。主軸(後円部)は被葬者の命日方位を示していて、天王寺区松崎に向かっています。そ
の逆の前方部は住吉公園を通過して、堺市神南辺町に向っています。

内部は不明ですが、外部からは円筒埴輪列と葺き石が確認された。考古学からではなくて、命日方位から被葬者を推
定すれば、456/8/9日の眉輪王、雄略天皇23/8/7日の星川皇子。或いは逆方位からでは410/1/23日の反正天皇、
603/2/4日の来目皇子、125/2/5日の彦狭嶋王、621/2/5日の聖徳太子、などの可能性があるかと思います。

因みに次項も参照下さい。

大伴金村の命日?・・・・・・文献では彼の命日が不明ですが、帝塚山古墳が彼の墳墓との伝承があるので、其処を
見れば此の日と分る。

大阪市住吉区帝塚山は1丁目しかなく、2丁目以降が無いという不思議な地名である。帝塚山古墳は、もと大手塚と子
手塚の2古墳があった。現存するのは、小手塚のほうである。大手塚前方部は、切り崩されてしまい今はない。

手塚山が帝塚山に変わった時の話として、明治31年(1898)11月に、明治天皇が、陸軍大演習を望見したのがこの場
所だったので、それを記念して改称したとも言われるが、そうではなくて実は江戸時代に書かれた「摂津名所図会」に
既にその名が載っている。

尚、帝塚山古墳は、6世紀頃の前方後円墳(後円部のみ現存)で、全長120m,後円部径50m、前方部幅56m。葺き石と
円筒埴輪の存在が知られている。埋葬者は不明。因みに同じ「帝塚山」について前項の帝塚山も参照。
また、09/6/19「ヤフー知恵袋」uhgfrtbndさんの回答から引用。
 
----帝塚山は、昔は、大帝塚と小帝塚の二つがあり、一説によれば古代に継体天皇を擁立した大伴金村とその子の
墓とされています。

この地に彼らの墓があるのは、古代において帝塚山のある住吉は王権の社である住吉大社に近く、また風光明媚の
地として貴族の別邸や館が立ち並んでおり、大伴金村の館もあったからであり、大伴金村は晩年は、住吉の館に住ん
だという記録があります。

名称は、元は「手塚」あるいは「手塚山」だったようですが、明治天皇が、南朝の行宮のあった住吉に来た時に手塚山
にも足を運んだことから「手塚山」が「帝塚山」に変わったといわれています。-----以上引用。
 
◆失われた帝塚山(てづかやま)古墳---(「新修大阪市史(しんしゅうおおさかしし)」第1巻より) 〒558-8501 大阪市住吉区南住
吉3丁目15番55号(住吉区役所3階)大阪市住吉区区役所区民企画担当、電話: 06-6694-9734 ファックス: 06-6692-
5535




◆左が小手塚----ただこの図面では西の帝塚山古墳が1/14-7/16日、東の古墳が12/6-6/7日となる。

◆もう一つの小手塚(1/27日方位)-----図面はhttp://file.sumikouken.blog.shinobi.jp/db8ecacd.jpg
http://file.sumikouken.blog.shinobi.jp/375465e9.jpg 「大阪市立大学前方後円墳研究会」を参照。

■07-08初荒神・・・・・・清澄寺(兵庫県宝塚市)。 

さすが隆景!!明軍を碧蹄館で撃破した作戦とは?!・・・・・・・・文禄2年(1593年1月27日に、朝鮮半島の碧蹄
館(へきていかん・現在の高陽市碧蹄洞一帯)周辺で、宇喜多秀家、小早川隆景、立花宗茂らが率いる日本勢が、大
軍を率いる李如松の明軍を撃破する。

この戦いは、小早川隆景の偽りの退却に追撃した明軍が、伏兵によって大混乱となったところに、立花勢の突撃によ
り、勝利したのである。 戦勝後に、石田三成や小西行長らは、明との講和交渉をはじめる。 ---------メルマガ【1日
1分歴史新聞】 戦国武将・幕末志士が今日甦る!なっとく歴史館 →  http://1rekisi.jpより引用。


■06-07-09国旗制定記念日。
■モーツアルトの誕生日・・・・・・・250年前。

































































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●例年-初不動(各地不動尊)。 不動明王の初縁日。不動明王を祀る寺院は下記の▲印。 

■11帯広氷まつり(〜31日:1月最終金曜〜日曜日)【北海道帯広市】
■11支笏湖氷濤まつり(〜2/13:1月最終金曜〜2月中旬の日曜日)【北海道千歳市】

■07-08-09初不動・・・・・・・・新勝寺(千葉県成田市)。 

■07元服式(川俣の二十日祭り)・・・・・・日光市(川俣温泉)。国の重要無形民俗文化財に指定されている「元服式」が
1月28日(日)、川俣集会所で行われます。「元服式」は川俣地区出身の男子が数え年の20才になると行われる成人
の儀式です。今回の二十日祭りでも男子で数え年20才の該当者が3人おり、二年連続で行われます...
 
開催日 2007年1月27日(土)〜1月28日(日) 。以上http://event.donet.tv/news.shtml?4「日光-那須-栃木の観光イベン
ト」より引用。
 
■07太子講・手斧(ちょうな)始め・・・・・・〔鹿沼市〕建築関係者の仕事始めとなる新春恒例の「太子講・手斧始め」が1
月28日(日)、鹿沼地域職業訓練センターで厳かに行われます。太子講は建築にゆかりの深い聖徳太子を祀る行事
で、手斧始めは平安時代から伝わり、神木に手斧を打ち込む仕事始めの行事です。昭和初期に...
 
開催日 2007年1月28日(日) 。以上http://event.donet.tv/news.shtml?4「日光-那須-栃木の観光イベント」より引用。

■07宇都宮二荒山神社・太々神楽・・・・・宇都宮市無形文化財の「宇都宮二荒山神社太々神楽」は、江戸時代中頃か
ら続いている上演奉納神楽です。江戸系統に属する神田流(浅草の若山に始まる)の流れをくみ、神社では宮比流
太々神楽と称しています。毎年1月、5月、9月の28日に奉納されます。娯楽の少なかった時...
 
開催日 2007年1月28日(日)。 以上http://event.donet.tv/news.shtml?4「日光-那須-栃木の観光イベント」より引用。

■07-08だるま市・・・・・・高幡不動尊(東京都日野市)。 

■07-08初不動・・・・・・深川不動尊(東京都江東区)。 
■07-08だるま市・・・・・・麻生不動院(神奈川県川崎市)の火防せの不動で、初縁日。名物のだるま市で賑わう。
■07-08火防祈祷・・・・・・安居寺(富山県福野町)。

■06-07笠荒神大祭・・・・・日本の三荒神と言われる桜井市の笠荒神で1/28、4/28、9/28日に地元の神輿のお渡り行
事がある。笠山三宝荒神舎44-48-8312.

■07十輪院・新春初護摩・大祈祷・・・・・奈良市。一願不動尊(重文)に願い事の成就を祈ります。十輪院0742-26-
6635

07宝山寺・不動護摩供・・・・・生駒市の宝山寺0743-73-2006

■天正少年使節を派遣した武将とは?-------天正10(1582)年1月28日に、大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の九州の
キリシタン大名3人が、長崎よりローマへ4人の少年使節を派遣する。少年たちは、天正18(1590)年に、帰国する。少
年たちの持ち帰ったグーテンベルグ印刷機によって、日本語書物の印刷が初めて行われる。

ちなみに上記を、キリシタン版という。--------以上はメルマガ【1日1分歴史新聞】 戦国武将・幕末志士が今日甦
る!なっとく歴史館 →  http://1rekisi.jp・・・より引用。

■07-08このみや祭・・・・・・玉祥寺(熊本県玉祥寺)。  


































































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■10帯広氷まつり(〜31日:1月下旬)【北海道帯広市】
■10支笏湖氷濤まつり(〜2/14:1月下旬〜2月中旬)【北海道千歳市】

■奈良公園で鹿寄せが始まる。

■和布刈神事【福岡県北九州市】







































































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■09支笏湖氷濤まつり(〜2/15:1月最終金曜〜2月第3日曜)【北海道千歳市】
■09帯広氷まつり(〜2/1:例年1月最終金曜〜日曜)【北海道帯広市】

■07-08観音修正会・・・・・・美江寺(岐阜市美江寺町)。 
 
■幕末の動乱を生き抜いた男の誕生日!!坂本龍馬物語----文政6(1823)年1月30日に、 旗本小普請組の勝小
吉と、母の信の子として、勝海舟が誕生する。幼名を麟太郎(りんたろう)といい、本名は義邦 (よしくに)で、維新後改
名して安芳(やすよし)と称す。

これは、勝安房(かつ あわ)と呼ばれていたため、安房(あほう)と同じ音の安芳と変えたもので、海舟は号である。佐
久間象山より貰った「海舟書屋」よりとったといわれる。山岡鉄舟・高橋泥舟と共に、「幕末の三舟」と呼ばれる。 ・・・・・
以上は「なっとく歴史館」→http://1rekisi.jpメルマガより引用。
 







































































1/31  



■09北海道狩猟期間終了。
■09岩手雪まつり・・・・・1/31〜2/8。例年3日前後〜12日。岩手県雫石町。

●オミ(御神)渡り・・・・・・・この頃、諏訪湖では湖面が氷結して、ほぼ中筋辺りで割れて盛り上がり、ほぼ南北方向に道
路のような太い筋となる現象から、此処を神が通った印しとして「オミ渡り」と言う。

地元の八剣神社(諏訪市)の神職が此れを確認するが、近年は暖冬の関係で年々此れが少なくなり、2003年には四年
ぶりにあり、また翌2004年にも起こった。この日1/31には八剣神社でオミ(御神)渡り拝観神事が行われた。06年は1/9
日に出現した。

●八朔の裏正面・・・・・・この日は西暦で八朔の裏正面に当たる。つまり師走の大祓いの日であるが、毎月29日か晦
日で終わる旧暦行事を改暦のときにそのまま数字だけスライドしたため何処の寺社でも大祓いをしていない(このため
節分に纏めてしている)。

■07-08蚕祭・・・・・・美江寺(岐阜市美江寺町)。

■09めかり神事・・・・・出雲大社の旧正月の行事で、海でワカメを採って神前にお供えする。



★イスラム教の旧正月(2004年でシンガポールでは1/31)・・・・・・・・シンガポールでは犠牲祭とチンゲイ・パレード(4000人が仮装舞踏会)が行われた。
旧正月は大きな爆竹を一斉に鳴らす。犠牲祭はエブラハムが息子を神に捧げた由来に因んでラクダや羊の肉を神に捧げた後、貧しい人々に振舞う行事で、
イラクではイードと言う。
























































2 月 以下は次ページへ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★

■「神々の歳時記」の各項目のご理解には「366円暦」が必要です。円暦は別紙の「日読み1」http://toki.mikosi.com/
page044.htmlで公開していますが、其の実物を希望される方は末尾に従ってご請求下さい。

■尚、各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示していますので、*開催
日等の詳細には主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。

■「神々の歳時記」に記した例は仮説ではなくて、太陽暦に重ねて古式祭による祭政一致を行っていた古からの日本
文化の原理です。其の具体例を今回、公開したものですが、海外への情報流失防止のため、特に「本文」については0
4/11月から「非公開」としました。

■@マークの付いた以下の部分が「非公開」部分です・・・・・・・@マーク以下には「地理・方位の具体例と其の意味や
暦との関係式」などの詳細を隠しています。この隠れた部分の資料をご希望の方は、「メール・フォーム」、または掲示
板からご連絡下さい。

■文中に誤記や間違いがありましたら、恐れ入りますが上記により下記まで御一報賜れば幸いです。尚、参考文献は
巻末に記しました。  

■♪ ただいま募集中 ♪-----●各地のお祭り情報-----あなたの自慢の祭り、知っているお近くの祭りなどの情報
をお寄せ下さい。http://6535.teacup.com/hijiriou/bbs ひじり(日知り)掲示板、
またはメールアドレス tjkny@ybb.ne.jptjkny328@ybb.ne.jp (鬼の会)へ、どうぞ。




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