×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p078 (未定稿)


       神々の歳時記    1月・中旬 但し方位による
次は
1月下旬
1月下旬
または
戻る
戻る

●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 
http://www.omatsuri.com/mailmag/ http://www.matsuri.or.jp/cgi-bin/wf/wforum.cgi

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-1月」及び奈良観光連盟ガイドブックの「知れ
ば知るほど奈良はおもしろい」06-07冬号より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。


1月・中旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ○◎□◇■◆△▽▲▼☆★



1/16  


●例年-薮入り。賽日。   初聖天。   十王詣(初閻魔、閻魔の賽日)、念仏の口明け。

■10ひがしかわ氷まつり(〜18日:1月中旬の土〜日曜日)【北海道東川町】
            
■オシラ遊ばせの祭り・・・・・・岩手。オシラ様は馬と娘とを象った一対のヒナ飾りだが、子供の守り神、女性の守り神、
家の守り神として信心されている。約400年前、とある家の娘が馬と夫婦になった。其れに気付いた父親が其の馬を殺
した為に娘も後を追って死んだと言う。

此の話が柳田國男のフォークロア(民俗学)である。以上、06/12/12NHK総合TVより引用。

■11裸まいり(1月第3日曜日)【秋田県由利本荘市、新山神社】
■10利根川たこあげ大会・どんどまつり【茨城県取手市、取手緑地運動公園】

■07こんにゃくえんま【東京都文京区小石川、源覚寺】
●例年-初閻魔(各地閻魔堂) ・・・・・・・閻魔王を祀る寺院の初参り。旧暦の1/16と7/16とは閻魔様の縁日。 

●例年-初閻魔・・・・・・・新宿区新宿の太宗寺と墨田区本所の華厳寺。閻魔様とはこの世に初めて人間として生まれて
死んだ方である。だから人々の喜怒哀楽を全てご承知であり、愛や苦しみの厳しさとを教えるのが六道界である。

さてこの寺は内藤氏の菩提寺である。玉川上水が通るまで、ここは水の便が悪かった。家康が幕府を開くに当たって、
北条氏など残党狩りを内藤清成に命じたが、其の功により馬を駆けさせて倒れるまでの範囲を領地として与えようと約
束した。

よって清成は愛馬の白馬に跨って大久保、代々木、新宿、千駄ヶ谷を駆け抜けた処で愛馬が倒れたので、其の広大な
地域を褒美として貰ったと言う。其処からこの一帯を内藤新宿と言う。内藤氏は藤原氏であるから奈良の多武峰(とう
のみね)神社を新宿に勧請して祭り、また正勝が菩提寺としてこの閻魔寺・太宗寺を建てた。

此処のお地蔵様は江戸の六地蔵の一つ、鋳銅の座像である。因みに今の新宿御苑も無論、内藤町と言う通り内藤氏
の領地だった。また青山にも同様の話が伝わる。また百人町には根来の鉄砲隊や伊賀裳の甲賀の忍者がいた。服部
半蔵がいたのが半蔵門である。そうした事から此処が以来新たな宿場として旅籠が並び、新宿として発展した。

旅人は「七つ発ち」が多かった。今の時間で言う朝4時である(05/12/16のNHKラジオ深夜便より)。
半蔵は新宿に西念寺を、牧野氏が天竜寺を建てたが何れも家康の命によって建てたもの。尚、天竜寺には江戸三名
鐘の一つが有る。  

■07-08宗祖降誕会・・・・・・・誕生寺(千葉県小湊町)。日蓮は1222-82、承久4/2/16日の生まれで弘安5/10/13日に
亡くなった。所で千葉辺りは元々七星妙見信仰の漁民が多い地域であり、太陽とは全く無縁だ、とは思いますが、日蓮
のみならず、弟子には全て「日」を付けている点などから、太陽信仰の思いもあったのかと思われます。

また参考として、http://www.sol.dti.ne.jp/~sasaki-y/a005/b010505-j01.htmlによれば、安房郡天津小湊町に入ると「日
本で最初に初日の出が見られる町」という看板を見かけました。日蓮大聖人は太陽の仏法をそのような町で立宗宣言
をされたのは意義深いことだと改めて感じました。

走っているうちに小湊の漁港が見えてきました。見た瞬間に思った事は、何も無い所という感じでした。小湊の誕生寺
付近に到着しました。誕生寺は日蓮宗身延派の寺ですが、日蓮大聖人が建立した寺ではありません。

日蓮大聖人の弟子・日家(現地の解説による。しかし本来の日蓮大聖人の宗派ではない為、日蓮大聖人の弟子とは言
えない)が、1276年(建治2年)に日蓮大聖人の母親・梅菊女が病気の療養をされた場所です。

その寺では日蓮大聖人のことを、『日蓮上人』・『日蓮聖人』・『日蓮大菩薩』などと表現をしています。-----と有ります。


■11水中綱引き(1月第3日曜日)【福井県美浜町、日向海岸】

■07-08無生野大念仏・・・・・・・(山梨県秋山村)。 
■07-08報恩講・・・・・・・東本願寺別院(岐阜県)1/16 〜17日。 

■09-10武射神事・・・・・・京都市北区、上賀茂神社で「武射神事」と百手神事など。
■11三十三間堂大法要通し矢(15日前後の日曜日)【京都市東山区、三十三間堂】 1月17日 動画
   http://www.omatsuri.com/movie/tosiya.html

■07-08採灯護摩・・・・・・・北向山不動院(京都市伏見区)。 
▲06-07-09真宗本派・親鸞聖人忌。

■06-07閻魔詣で・・・・・・白毫寺0742-26-3392。奈良市観光センター0742-22-3900
■鹿寄せ・・・・・・奈良・飛火野。1月中旬から3月中旬まで。奈良市観光センター0742−22−3900

■06-07-08法隆寺・上宮王院・修正会・・・・・・法隆寺0745-75-2555の夢殿(奈良県斑鳩町)で1/16〜18日。本尊・十
一面観音に「国家安穏」「万民豊楽」「寺門興隆」を祈る。奈良市観光センター0742-22-3900
■07-08百万遍会・・・・・・・大念仏寺(大阪市平野区)で大数珠を念仏を唱えながら繰る。 

16仁徳天皇の命日・・・・・・堺市の仁徳天皇陵は、どうしてあの角度に築いているのでしょう。其れは彼の命日
を方角で明示したメモリアルだったからです(詳しくは以下に解説する)。父君・15応神天皇の命日(2/15日を参照)ライン
を大隈の地(東淀川区)から北東に向えば宇治を通って其の先が滋賀県の栗東町や湖東町に至る。

またその方位を少しズラして見ると、安土があり、其処には今も沙々貴神社があり、此処は古来、少彦名神を祭る宮と
して、また近江を本貫地、祖先の地とする佐々木源氏の氏神がある。

その「沙々貴」と言えば仁徳天皇の忌み名も大沙々貴命であるから、青少年時代は父君の命日ラインの軸上に位置す
るこの近江に若宮として居ついていたのではないか。

同様に同軸上の宇治に居ついた弟の稚郎子と共に並び、ライン上に点在して父君を弔う位置付けにいたのでしょう。
そしてその後、父君が崩御したので彼は即位のために難波の高津の宮に遷宮をした。と言っても、難波とか高津の宮
については百論あっても未だ確定しない。

今では大阪城辺りと推測されているが、無論推測の域を出ない。当時の大阪市内は上町台地以外は殆ど海だった。
高津と言う場所は海辺に有った事には違いはないが、其処は今の大阪城近辺ではなくて、東淀川区と宇治市とを見通
したライン上で、しかも堺市とのラインの交点になければならない。とすれば今の枚方市の中振になるのである。

では何故「中振」なのかと言えば、2/15日の項で述べる通り、この地は父君・応神天皇の命日ラインに当たるからで
ある。何れにせよ彼・仁徳は近江から大阪の手前の枚方市まで近づき、父君の宮のあった大隈宮から其の軸先に当
たる中振に遷宮して新たな皇居を造り、其処を難波の高津の宮と名付け、以後居ついて父君を祭った事になる。

従って無論其処は現在想定されている大阪ミナミ(難波の繁華街)でもなければ今の大阪城でもなかった。生駒の山裾
の石切からこの枚方市辺りにかけては神武天皇の時代から「浪速」と言われて来た。と言うのは、其の当時は今の大
阪平野は遠浅の内海であり、「難波八十島」と言われた程だ。

以下、高津宮について「ヤフー知恵袋」で回答した中から引用する。回答日時: 2008/4/6 16:23:35回答番号----本当
は枚方市にあったと思われます。第一の理由は堺市にある仁徳天皇陵が枚方市の南中振を指しているからです。此
処で(仁徳が)1/16日に崩御した。よって逆方位の堺市百舌鳥に彼の陵が築かれた。

次の履中天皇と住吉仲皇子によって二つも造られた。当時、南中振の西は浪速の海だった。浅瀬が広く、今の西淀川
区や此花区まで延びていて、今の長柄橋辺りが難所だったと推定する。

満潮には枚方市まで海になり、逆に干潮には急激に沖まで、まるでお盆の水をひっくり返したように大阪平野の全体が
急流となって長柄橋辺りに流れ出したので「浪速」と呼ばれた。其れを当時は、高津宮(枚方)から見下ろす事が出来た
筈です(引用以上)。

従って大阪湾の潮の満ち干のたび、急にお盆をひっくり返したような増水となったが、其の上、この中振の岡の直ぐ下
は淀川と旧・大和川が合流する地点だったから波の逆巻く「浪花」の、岬の突端に位置する宮であっただろう。其れは
前の大隈の宮が「八十島」や低地だったので、彼は殊更この高台を選んで高津宮としたと推測する。

其れに対して今のミナミは低地どころかまだ海の中だったろう。さてこの中振には今、市立高校と御殿山神社が有る
が、この高台がかつては「渚の森」と言われ、その後は「渚の岡」と変わっている。この地名の変化から見ても、昔は矢
張り海辺だった事を明かしていよう。

また少し離れた所には有名な石清水八幡宮があり、両社には当然ながら応神天皇が祭られている。@
石清水八幡宮には若宮として仁徳を祭っているが、石清水八幡宮の元の宮は、淀川の対岸の大山崎にあって、其処
が今は水無瀬神社として存在する。

仁徳陵の奥月の軸線は実は「中振の宮」から此処・水無瀬を通過して京都市下京区の平野に至る。其処に昔は平野
大明神が有ったが、今はなくなって別の平野神社が北区に存在している。平野には平野町と言う町名だけが残り、先
の平野大明神は「仁徳帝廟」の伝承で正観音を祀っていた。

更にその軸線の先は、近江高島市の釣瓶岳(1061m)に向かっている。

信じられないだろうが、其処に向かって堺市に築造された陵が今の仁徳天皇陵であり、其の命日方位は、記紀にもあ
る「仁徳87年のこの日に崩御し、百舌鳥に葬った」との記述と一致する。従ってこの墳墓の主軸が、先の中振の宮を
指して築造されている訳です。

ただ、「書記」には同時に彼が生前にこの堺の石津原や百舌鳥に陵地を定めに行ったとの記述もあるが、其れが彼の
墓地と同一とは断定できない。彼は生前に幾つもの墳墓を築造しているし、しかも此処には同時代の古墳が幾つもあ
るからだ。

因みに今の仁徳天皇(大仙)陵は全長486mで世界最大であり今、此れと同じものを造るとすれば、延べ680万人掛
かっても完成まで15年を要すると試算されている。また付近の伝・反正陵と陪塚とされる東永山古墳、其れに御廟山
古墳などは仁徳以前からの古墳もあったろうが、彼の後に居ついた子孫の墳墓もある。

だから大仙陵の周囲の古墳が総て仁徳の「陪塚」と規定した今の考古学的見地で見れば真実が分からない。@

つまり此処には仁徳天皇の孫が居ついた所と分かります。其れが「我孫子」の意味である。何故、「天皇の子」ではなく
て「我孫子」(あびこ)としたのか。仁徳の皇子が履中、反正、允恭と次々天皇となり、残った兄弟の中では、住之江仲
皇子が先ず滅ぼされて大草加皇子、それにハタヒノ皇女が残った。

よってこの三人の子孫が我孫子公きみ、安孫子宿禰、安彦氏などと名乗って祭り事を続けたのだろう。因みに仁徳陵の
隣に全く同方位で一回り小さな伝・履中天皇陵がある。此れが履中陵ではない事は彼の命日が3/15であるから分か
る。この二つの仁徳陵の謎を解くには矢張り命日を鍵とすれば方位で解けるのです。

ともあれ次の履中天皇が此処に先帝を弔い厳くために仁徳陵を造った後に、住之江仲皇子も其の東北にもっと大きな
伝・仁徳陵を造った。とすれば一つの所に二つの王家が並んで並立する事になる。

その事が大きな原因となって後者が滅ぼされた事になり、従って彼の子孫は、父の名を語れず「我孫子」と称したので
はないか(「6/30日の住吉祭り」を参照)。さて、仁徳陵から逆方位に進めば、泉大津市に広大な境内を有した聖神社
があり、其の西にも我孫子地区がある。

聖神社のご祭神の中に向日神があり、其の実体は不明だが、この神は恐らく此処が仁徳の弔い方位とは逆になるの
で、彼の御魂を神として「日向い」すると言う意味で、矢張り我孫子一族が永く居ついて祭り事を継続して来た事と想像
できます。またその先は和泉市の摩湯山古墳の近くに至る。

其処から方位はズレるが海岸部に近づけば貝塚市になる。此処にも再び「あびこ」がある。二色の浜、脇浜には古くか
ら網曳御厨(あびこのみくりや)と言われて来た所があった。とすれば此処も仁徳を祭る為に、我孫子たちが居付いた所と推
定出来そうである。以下、http://kamnavi.jp/en/izumi/wakihama.htm「脇浜戎大社・高おかみ神社」から引用する。

----『和泉名所図会』には、「神前(かうさき)神社 神前村にあり。今、妙見と称す。」と記載されている。今の貝塚市畠中
(引用以上)。つまり此処は「あびこ」の「神前村」であったと思うのです。

さて履中の後は、反正となり、其の後は允恭天皇となるが、允恭8年には「皇后の妹・衣通姫のために茅渟宮を造って
住まわせ、しばしば通った」と記されている(前記の1/14を参照)。

とすれば彼が彼女のためではなくて、寧ろ仁徳の命日とは逆方位に当たるこの地に若宮を作り、仁徳を祭ったものと
推定する。ただ此処では允恭の代りに彼女が居つき祭り、やがて薨去して近くに葬られた事になり、従って今も泉佐野
市日根野に彼女の墳墓が残されているのである。

さて、大阪湾から船で来た場合は、此処に並び立つ二つの「仁徳陵」が海に突き出た岬のように見えたに違いない。其
れは海や川が当時の人々にとっては異界との接点であったからだ。琉球の人たちのニライカナイのように、新たな神を
迎える場として此処に御崎のような陵(みささぎ)と言う「お台場」を苦労しながら築き上げる必要性があったのです。

だが無信仰の歴史学者や考古学者は「海外から来る外国の使節にこの陵を眺めさせて其の威容を誇るためだった」と
口を揃えて解説して来たのです。

清寧天皇の命日・・・・・・・22清寧天皇は袁祁石巣別尊・白髪武広国おし稚日本根子尊と言われた。雄略天皇が彼
を皇太子と定めて朝倉宮で8/7に崩御したので、その後に彼が即位した訳だが清寧5/1/己丑16/484/2/27-2/28
には彼自身も崩御してしまった。

その陵を河内坂門原陵としているので、方位から検証すれば、先ず彼は先帝が崩御した長谷寺西の朝倉宮(桜井市出
雲地区の十二柱神社・末社として武烈天皇社がある)から、其処を基点にして8/7方位の前後を見れば、裏は桜井市の
金屋地区を通って三輪山山頂に至る。また表に向かえば今の橿原市西池尻町に向かう。

所が其れよりずっと東の東池尻町には御厨子神社があって、其処が磐余甕栗宮(伝承地である)と言われている。@
つまりこの内の何れかが間違っている事となります。第一は十二柱神社の末社は彼ではなくて三代先の武烈天皇を祭
った所だから無関係でした。

次に、先の古墳の外郭を近年発掘した所、全長112mの墳丘に対して二重の環濠を持つ立派な大王墳と判明したとは
言え、その形の主軸が2/28方位であるから、矢張り別人の墓地と分かる。では真の陵は何処かと言えば、また磐余・
甕栗宮(伝承に戻って見直す必要があります。@

何れにせよ、次のヲケ(顕宗)天皇が甕栗宮(伝承地)から少し南に八釣宮を設ける事になりますが、其れは先帝の墳墓
の方位とは逆の、「日迎えのライン」に当たる地を選んでの事でした。

■07-08やぷ入大般若会・・・・・・・円教寺(兵庫県姫路市)。
■11大山寺の力餅(1月第3日曜日)【徳島県上板町、大山寺】

■07-08念仏のロ明け(仏の正月)・・・・・・・念仏初めをいう。(鳥取県八頭郡一帯)。 

★ホーランエンヤ  05/1月16日(日) (大分県豊後高田市)・・・・・・江戸時代中期に始まったホーランエンヤは、豊後高田市が島原藩の領地であ
った時代に年貢米を島原や大阪に廻送船で送っていたことから、航海の安全と豊漁を祈願する行事として行われてきました。

祭りでは、大漁旗などで飾られた宝来船にフンドシ姿の若者たちが乗り込み、川岸の見物客から祝儀が出されると、漕ぎ手の若者が厳寒の川に飛び込み受
け取りにいき、船からは紅白の祝い餅が投げられます(メルマガ【なっとく歴史館】http://1rekisi.jpより転載)。詳細URL   http://bungotakada.
com/kankoukyoukai/kankou.jsp 07年は1/7

■07-10-11ヘトマト【長崎県福江市下崎山町、山城神社】


















































1/17  
        

▼09冬の土用入り(立春まで)。
●初観音・・・・・・観世音菩薩の初縁日。観世音菩薩を祀る寺院。

★09ひがしかわ氷まつり(〜19日:1月中旬の土曜〜日曜日)【北海道東川町】
★10裸まいり(1月第3日曜日)【秋田県由利本荘市、新山神社】

■06-07秋田太平山・梵天祭り・・・・・・・神社に80本の梵天を奉納する祭り。平鹿郡山内村の旭岡神社と秋田市赤沼
三吉神社、其れに仙北郡中仙町の八坂神社などで行われる。梵天の名は仏教語からの用語であるが、元は神のホ
デ、即ち神霊の依りましたまう標識でした。昔は1/16日、旧正月17日、2/17に行われた。

江戸時代からと思われているが、起源はもっと古いのでは ?

●例年-花まつり・・・・・・・・・山形県米沢市、笹野観音。
●例年-裸胴上げまつり【新潟県能生町藤崎観音堂】

■07-08清水観音縁日・・・・・・・清水寺(千葉県岬町)。 
★10水中綱引き(1月第3日曜日)【福井県美浜町、日向海岸】

■07-08田峯田楽祭・・・・・・・高勝寺〔出峯観音堂〕(愛知県田峯村)では鳳来寺・黒沢の田楽と合わせて古色に富むも
のとして著名。
■07-08餅住居講・・・・・・・鯖江観音堂(滋賀県)。

■10三十三間堂大法要通し矢(15日前後)【京都市東山区、三十三間堂】
■10三十三間堂通し矢 1月17日 京都市東山区
http://www.omatsuri.com/movie/tosiya.html「YouTube等の動画」

■高野新笠の命日・・・・・・彼女は光仁天皇(1/11を参照)の后として桓武天皇、早良親王などを生んだが、延暦8/12/
28崩御。平安遷都の4年前でした。送り名して天高知日之子姫尊と申し、皇太后、次いで太皇太后と追尊された。さて
彼女の陵が長岡京の北に治定されているが、其れは生憎別人の墓である。

光仁天皇がユリウス暦の方位の平安京・平岡に造られたので、彼女の場合もユリウス暦で見よう。そうすれば790/U1/
17となる。其の方位に向かえば図らずも光仁陵の近くになる。今の幡枝町の北稜高校の東の小山に至る。@
実相院や加茂齋院が伊勢に並ぶ権威となったのは光仁と彼女の霊廟・神宮寺としての役割からである。

此れが平安遷都の原点にあった。

■牛王宝印神符頒布祭・・・・・・・奈良・天川村の天河弁財天社は吉野修験のメッカであり、日本三大弁天の一つとして
も有名。尚、逆の時期の7/17には例大祭として例大祭では採燈護摩、御神火大花火。大祭の後に格調の高い「神
事能」と「天川狂言」がある。大峰本宮・天河弁財天社0747−63−0558

■07-08棒打ち・・・・・・・妙法寺(神戸市須磨区)。生木の棒で床を打ち倒り、木が折れて飛び散るのを吉兆とする。

■07須磨寺では此の日の追悼(13回忌法要)の為に、ネパールから来日した6人の僧侶によりネパールの岩石の砂に
彩色して直径3mの砂曼荼羅をトゥンブーなどにより5日を掛けて制作して15日に完成した(07/2/16朝日)。其の他、被
災地の寺221ヶ寺で正午に追悼の鐘を衝いた。教会も弔いの行事をした(07/1/15朝日)。

■07-08天上寺修正会・・・・・・・兵庫県神戸市麻耶。また此処では彼岸になると江戸時代より、旧暦2月初午の日に近
郷在所の人々が馬を連れて天上寺に参拝、飼馬の息災を祈願、花かんざしを馬に飾り、土産に摩耶昆布を持って帰
るという珍しい風習があった。

■06-07-09阪神大震災記念日・阪神淡路大震災物故者・追悼法会・・・・・・・地震の原因は当時、野島断層が@

この様に陰陽関係のエネルギーの流れは対極に流れているからですが、地盤や建造物の多さや強弱の差からこの方
位の軸線から更に東側に広がって、西宮以東にも大きな被害を出した訳です。07年は13回忌。神戸市では6600本の
ローソクを灯して追悼した。だが県・市の責任者に実刑も処分もなく、辞職もせずにローソクで誤魔化してはいけない。

以下、苦言になるが、神戸鰍フ建築・消防・水道など行政のミスが大惨事とした。だが、首長も関係者も責任を天災と
して、スリ替えて居座っている。とすれば税金でこの様なセレモニーを続けても、犠牲者の慰めにはならないだろう。

★10大山寺の力餅(1月第3日曜日)【徳島県上板町、大山寺】




■06-07防災とボランティアの日。

 

















































1/18   


▼09下弦1146。
●06-07-09初観音(各地観音堂)。  

■最上義光死去・・・・・・・慶長19年(1624)1月18日に、出羽の戦国武将である、最上義光(もがみ よしあき)が、
亡くなる。享年69歳であった。最上家は、足利将軍家の一門にあたる斯波氏の支流で、義光は、最上義守の長男とし
て生まれ、最上氏11代当主となる。

義光の妹は、伊達輝宗の正室、義姫(保春院)で、義姫の産んだ子が、後に独眼竜と言われ恐れられた、伊達政宗で
ある。因みに、1月18日生まれの有名人に、ビートたけしさん(芸人)や、衣笠祥雄(元プロ野球選手)がおられます。 
以上、「なっとく歴史館」 →  http://1rekisi.jpメルマガより引用。

■09裸まいり(1月第三日曜日)【秋田県由利本荘市、新山神社】

■07-08馬祭・・・・・・・西光院峰寺(茨城県八郷町)。
■07-08芝山仁王尊・・・・・・・観音教寺(千葉県芝山町)の大縁日。 
■07-08亡者送り・・・・・・・浅草寺(東京都台東区)の初観音行事。  

源頼朝の命日・・・・・・鶴岡八幡宮から真っ直ぐに若宮大路が由比ヶ浜に向けて伸びています。あれは何の意味
があるのかと言えば、鎌倉市が観光用の都市計画道路として造ったのではなかった。単なる都市計画道路ではなく
て、頼朝の命日を示した黙示録でした。

では誰が何のために造ったかと言えば、政子が亡き夫のために鎮魂と祭の壮大なセレモニーのために造ったのです。
当時、京の都の天皇と並ぶ、関東の盟主としての源氏の総本山の大祭礼としてこの日と7/19には大勢の御家人・武
士団が全国から集まって行き来する。

其の壮麗な舞台装置でした。但し道の真ん中(正中線)は神の道として空ける必要があった。荷物の流通ではなくて、
大祭礼のためにあれだけ広い神道・人道が作られたのです。以下に其の意味を解説します。05年にNHK大河ドラマで
「義経」が放映されたので鎌倉の鶴岡八幡宮にも観光客が押し寄せた事だろう。

だが此処について正しく理解している人は少ない。例えば八幡宮とは八幡大菩薩か応神天皇を祭った所である。その
点、鶴岡八幡宮は先の御二方ではなくて、実は頼朝を祭った廟である。彼は正治元(1199~1200)年正月13乙巳に鎌
倉で年53歳の時に薨去した。

但し、どう言う訳か鎌倉正史である「東鑑」が全52巻も有るのに、この月の記載が抜け落ちている。武門の棟梁である
頼朝が落馬が原因で落命した事を不名誉としたからだろうか。彼については最早不明な点が多い。一般に知られた神
護寺の肖像にしても今は疑問視されているのである。

何れにせよ、鎌倉は京都の暦法がややズレて伝わったので干支の確認も出来ないが、一般に言う「乙巳」の日付を元
に新旧暦換算すればユリウス/グレゴリオ暦1199/U2/9、G2/16となる。此れでは方角に合わないので、当時の暦法
は和暦であったと仮定するしかない。ともあれ彼の菩提寺として今の鶴岡八幡宮に廟所が造られた。

と言えば読者は疑問視するだろう。世間一般の常識として、「八幡様は応神天皇を祭る神社であって墓所ではない」と
の反論があって当然だからだ。だが、其れは表向きの事に過ぎない。全国津々浦々に散在する無数の八幡様は決し
て一様の祭神ではなく事実は多様であり、それが参道の向きを各々異なる形で個性を示しているのです。

八幡様のご祭神は実は各々別々であって、決して応神天皇お一人とは限らず、従って境内の接点に固有の墓地が有
っても不思議ではない事を此処でも黙示している。しかも此処、鶴岡八幡宮は、元から神社ではなくて先に墓地があ
り、其のご廟を守る大きな寺でした。此処には国宝が多いが全て仏像か寺物であってご神体はない(推測だが)。

しかも此処は「頼朝が建てた八幡宮」と今では理解されているが、其れは誤伝である。そう判断出来るのは若宮大路も
此の鶴岡も、彼の命日方位に合わせて死後に造られた事がハッキリ分かるからだ。

誤伝と共に、誤解の原因となったのは、鎌倉には元の宮が別の所にあるからで、其れこそが頼朝の高祖父・頼義が石
清水から勧請して建てた鎌倉宮である。そうした事が今まで混同されて来たのだ。判官びいきの日本人は当時の義経
の戦法を見て英雄視するが、其れはドラマの世界であって真実とは別かも知れない。

武士の力で平家を滅ぼし、天下を制したのは頼朝の力や義経の働きであるけれども、実はそれ以上にヒジリの力があ
ったと此処では見たい。頼朝にこの武略・兵法を教えたのは、恐らく政子の内助であり、政子側(父が北条時政)には
当代随一のヒジリ(軍師)・大江の廣元(明法博士)が付いていた。

彼は公文所と政所の別当であり、此れが後の執権である。因みに彼が鎌倉に加担した後に、子孫の時親が南朝の軍
師となり、其の子孫が毛利氏となって明治維新を成し遂げた。此れも因縁であろうか。何れにせよ元・鎌倉宮とは別
に、この鶴岡八幡宮が頼朝の死後八年に建てられたものである。

陸奥の国を治めた頼家は石清水八幡宮を鎌倉・由比ヶ浜郷勧請し社殿を創建したのが今の「元八幡」、其の100年
後、源頼朝は源氏の棟梁として鎌倉(鎌倉幕府)に拠点を置き、鎌倉の鎮護神として「鶴ヶ岡八幡宮」を大々的に祀っ
たのか?由比ヶ浜の対極に政子は寺を建てた。其の往路を「若宮大路」と呼んだ。

頼朝の死後に、尼将軍となった政子が寺(八幡宮寺)として建てたものだ。「若宮大路」とは頼朝の若様、つまり頼家と
実朝を意味しているのだ。所が06/3/15の読売TV「今日は何の日」では若宮大路が寿永元年3/15に頼朝によって建
設が始まった日であると解説していた・・・が間違っている。

吾妻鏡には頼朝死後の承元2(1208)年12/12日に神宮寺を造畢している。翌年初に頼朝の没後10年にして11回
忌を迎えるために政子が熊野参詣から戻り開眼供養している。本尊は薬師、導師は日光山別当だった。因みに命日
方位は日光ではなくて筑波山である(筑波にも中禅寺が有った)。

承元2(1208)年の12月12日(ユリウス暦の1209/1/19)、この八幡宮寺(鶴岡八幡宮)の本尊として薬師如来(頼
朝)を安置して16日に実朝が拝礼し、17日には開眼供養が行われた。そして明くる承元3(1209)年の正月12日(同
暦の1209/2/17)、初めて修正会(鬼走り)が行われた。政子(尼将軍)はこの神宮寺の尼だった。

後鳥羽上皇の追討令に対して政子は63歳で尼将軍として立ち、御家人以下19万の軍を纏めて勝利に導き、以後70
0年間を武士の世とした。彼女は将軍の妻から寺の尼になって深謀遠慮を働かせて寺としたのだろう。従って若宮大
路は頼朝ではなくて、頼朝の若宮である頼家か実朝が造ったと見るのが妥当。

此処が宮ではなくて寺である事は、「一の鳥居」が今の八幡様の直前にではなく、ずっと後方の海側に立っている謎か
らも分るだろう。本殿前にあるのは三の鳥居であり、次が二の鳥居、其処から遠くに一の鳥居がある。普通は逆に、一
の鳥居、二の鳥居と言う呼称で、神殿に近い所から数えるのである。

つまり一般の常識に照らせば此処は逆なのだ。その謎も此処を寺とすれば自動的に氷解する。つまり丘の上の宮は
寺であって、本当の鶴岡八幡宮は、丘とは反対側の由比ヶ浜にこそ想定されており、祭りは浜で行われた筈である。

よってこの縁日には由比ヶ浜から「一の鳥居」を潜って、若宮大路を真っ直ぐ進む。そうすれば寺、即ち八幡宮に鎮ま
る頼朝公に正対する。祭主は若宮、つまり頼家か実朝だった。彼らが源氏の棟梁として華々しく登壇する大義名分を
形で示す装置でした。そうした意味から此処が武士、特に源氏の総本山となったのである。

何れにせよ、この宮は元々彼・頼朝の廟(墓地)であるから本来ならば此の日は特に祭りではなくて弔いのお経を上げ
るべきである。

だが、今は其れがすっかり変えられ本末転倒して宮とされているため、お経を上げる訳にも行かない。多数の参詣人
が神社に参拝したつもりで拍手を打つ訳ですから、「右に倣え」と二拍手を叩くほうが無難なのです。ですが、こうした形
式ではあの世の頼朝の弔いにはならず、またこの世に彼が甦り・再臨する事も出来ない。

もっと驚くべき事は、此の日の方位を更に進めば、横浜の岡村天満宮から鶴見の総持寺、など幾つもの寺を超えて遂
には隅田川の畔に出て浅草観音前の駒形堂に至る。其の手前の総持寺にしても後に幕府の祈願所となり、今や末寺
13400ヶ寺を擁する大寺院に成り上がった、これまた普通の寺ではないのである。

その先には方位からズレるが雷門があり、其の奥には金龍山・浅草観音が有る訳です。
さてこの駒形堂は何のために誰が建てたのか、と言えば、此処にはかつて浅草寺の総門があり、馬頭観音が有った。
此処は平公雅(キンモチ)が建てたもの(今は駒形堂がある)でした。

彼は平良文の曾孫だったが、何故、源氏でなくて平家が建てた所に行き着くのか不思議である。浅草寺は推古天皇3
6年創建の都内最古の寺とされるが、その後、従五位上・安房守・平公雅朝臣が天慶五(942)年に駒形堂や山門(仁
王門、宝蔵門)、総門(風雷神門)を建立していた。

とすれば、既に頼朝以前に馬頭観音や此の堂があり、そして鎌倉以後に総門が今の所に移設していたので、代わりに
駒形堂が残った訳だ。彼は此処を頼朝の為に建てたのでは決してない。時代が違うから其れが明白であるものの、頼
朝の後に、総門を移してお堂とし、また鶴岡八幡宮の経蔵にあった四天王の内、二天を此処に誰かが奉安した。

其れが今の二天門と言う(寺伝)。この寺にはそうした複雑な故事来歴があるが、此処を頼朝亡き後に平氏の北条家
が使ったとすればまた別の話となる。観音様なら観音経を上げるべきだがそうではなかった。此処では殊更「陀羅尼」
を唱えた。

寺である以上、其れも不思議ではないものの、その日が頼朝の命日(陀羅尼会は現在1/12〜18にある)にしていた
事は、鶴岡と直結した行事だったと見ても異論はなかろう。頼朝廟の奥付きにこうした門や寺堂を建てたのは何か頼
朝夫人・政子の恣意があったのではと感じる。

こう見れば鶴岡よりも寧ろ、この浅草寺を軸に鶴岡廟を造ったのではないかとさえ思える。と言うのは、先ず浅草寺の
伝説にある檜前氏が治承四年に頼朝の下で大工として鶴岡の元宮工事に従事している。だから浅草寺から政子が頼
朝側の霊力を無能にする呪詛も出来た点である。

其の効果があったのか、頼朝は落馬※が元で53歳で亡くなり、しかも死後20年にして鎌倉源氏は三代で滅び、その
後を北条と言う平家の世に戻してしまった(「8/17頼家」を参照)のであるが、其の為か鎌倉はその後、大地震(1241)、
大火(1251と1254)があり、特に建長三(1251)年には、此処浅草寺では多数の僧が変異に遭った。

※頼朝は21日間、鎌倉弁才天で奥州の藤原秀衡(鎮守府将軍)打倒のための祈祷を行った結果、秀衡が10/29に
急死している。武士の落馬は日常の事であり、武将である頼朝が落馬で死ぬなどは到底有り得ない事だ。つまり当時
はカジリ、つまり呪詛が横行した時代であり、死因は其れと見るのが妥当。

僧50人が食堂で集会中、怪異を見て24人が病気となり、また他の7人が座したまま即死しているのだ(「東鑑」)。
また鎌倉は地震が打ち続いた。1213/6/18(建保1/5/21)と1227/4/1(安貞1/3/7)、そして1230/3/15(寛喜2/閏1/22)
には大慈寺の後山が崩れ、また1240/3/24(仁治1/2/22)には鶴岡神宮寺が風なくして倒れ、北山が崩れた。

続く1241/5/22(仁治2/4/3)には鎌倉にM7の地震で津波が押し寄せ、由比ヶ浜大鳥居内拝殿を流失、岸に有った船
10艘が破損した。そして1257/10/9(正嘉1/8/23)にはM7〜7.5の地震で鎌倉の社寺完きものなくなり、更に1293/5
/27(永仁1/4/13)にもM7の地震で建長寺殆ど炎上し、諸寺に被害、死数千、或いは2万3千余となった(地震歴は
「理科年表」より引用)。

▲さて此処・鶴岡には大きな神宮寺(八幡宮寺・神護寺など25坊)があり、本尊(御正体)は秘仏だった。其の前で70
0年間も「日夜不断の勤行」を続けた多数の供僧と12院も、時が移って明治になるや廃して神社に生まれ変わった。

しかし神仏習合の総本家として睨まれたのか、県庁から度々催促されて、僅か十数日で薬師堂も破壊し尽くされた。こ
うして武家政治700年の伝統を作った元凶としての頼朝公を否定する「文明開化」の下、一般神社と同じレベルに零落
させた。よって多数の寺僧をリストラ(還俗)しなければならなかった。元々社僧(神主)はたった1人だった。

神主の上に多くの供僧が立って支配していたのである。しかも当時、「八幡様なら祭りは8/15が当たり前であり、其
れは旧暦だから9/15に改めよ」、とのお上のきつい「お達し」があったのだろう。従って本来は本日18日が法要、そ
して逆の7/19には祭礼があった筈だが、全ては消された。

全ては「ご維新」による愚策である神仏分離と改暦政策の弊害により抹殺された結果、今があるのである。さて、纏め
とする。@

所が今、此処の公式行事は八幡例大祭を月遅れの9/15とし、頼朝の命日に近い1/15を佐義長神事・成人祭と
し、4/13を頼朝公の墓前祭としているので、もし此れだけとすれば暦・方位では「神事」になっていない。

■鶴岡とは別に高野山(和歌山県)にも頼朝と実朝の菩提を弔うため政子によって建暦元(1211)年に禅定院が創建さ
れ、政子の念持佛の愛染明王も此処に祀られている。此処で密教、律、禅の三宗による学風を発揚した。其処が今の
金剛三昧院である。多宝塔は国宝。多宝塔への参道は、鶴岡の若宮大路と略同角度に伸びている。

尚、此処は3年に一度、4月から5月には石楠花が満開となり、ピンク色一色に山が染まると言う。但し法事の日時は
未調査。

■07-08西浦田楽祭・・・・・・・西浦観音堂(静岡県水窪町)の観音堂で古伝の地能・はね能数十番が演じられる。
■07-08四観音・・・・・・・愛知県の四観音(竜泉寺・笠寺・甚目寺・観音寺)の初詣。 
■07-08青峰縁日・・・・・・・正福寺(三重県鳥羽市)。 

★09水中綱引き(1月第三日曜日)【福井県美浜町、日向海岸】
■数珠繰り・・・・・・・白山信仰の地、福井・大野市の中福寺?ではこの日に江戸時代から続く「数珠繰り」をする。

■09三十三間堂大法要通し矢(15日前後)【京都市東山区、三十三間堂】

■06-07松尾寺・初観音・・・・・・奈良・大和郡山市。松尾寺0743-53-5023で大般若経転読。
■06-07西大寺・初観音・・・・・・奈良市。西大寺0742-45-4700
■07おふさ観音・えびす大祭・・・・・・・・奈良・橿原市のおふさ観音0744-22-2212で初観音1/17〜18日。

■06-07岡寺・初観音・・・・・・奈良・明日香村。岡寺0744-54-2007
■06-07壷坂寺・初観音・・・・・・奈良・高取町。壷坂寺0744-52-2016

■09大阪・達磨供養・・・・・・・北区の太融寺。
■07-08たいへい・・・・・・・紀三井寺(和歌山市三井寺町)。

■08-09和歌山・仙人風呂・カルタ大会・・・・・田辺市本宮町の川湯温泉で25チームが河原に臨時に設けられた千人
(仙人)風呂で、杉板製のカルタを取り合う。

追い会式・・・・・・毎年1月18日、兵庫県姫路市。平安時代以来、西の比叡山として知られる書写山円教寺の年
中行事で、五穀豊穣と平和を祈る法会です。境内の邪気を焼き尽くして断ち切るため、山の守り神である赤鬼と青鬼
が登場する。赤鬼は毘沙門天、青鬼は不動明王である。

赤鬼は火のついたタイマツを、青鬼は金色の宝剣を持って舞います。同寺の開祖、性空上人(しょうくうしょうにん)が亡
くなった約1000年前から始まったとされています(以上の大要は、メルマガ【なっとく歴史館】
公式サイト: http://1rekisi.jpより転載)。この祭りの詳細URL   http://www.shosha.or.jp/index.htm
 
★09大山寺の力餅(1月第三日曜日)【徳島県上板町、大山寺】

■07-08観音会式・牛王授・・・・・・・長谷観音(鳥取県倉吉市)。 

■07-08バタバタ市祭・・・・・・・安良寺(福岡県)。
■07-08和布刈(メカリ)神事【福岡県北九州市】
■09熊本の的場会・・・・・・・・塩路神社。わらの的。

■09ヘトマト【長崎県五島市、山城神社】
■09メンドン【鹿児島県指宿市、利永神社】

★08アシュラ-------イラク南部のイスラム教シーア派地域で行われた宗教行事・アシュラが此の日に最高潮を迎え
た。同派巡礼者を狙ったテロの懸念もあったが、群衆とイラク治安部隊の衝突となり、50人以上が死亡した。



















































1/19 
        

▼09甲子・陽遁始め。

■08ひがしかわ氷まつり(1月中旬の土曜〜日曜日)【北海道東川町】

■07-08星祭・・・・・・・立正寺(岩手県)。
■09蒟蒻大黒天祭【群馬県下仁田町、諏訪神社】

■銭洗い弁天の縁日・・・・・・・・鎌倉市の頼朝ゆかりの源氏山公園にある銭洗い弁天の縁日である。其処から北進、
即ちこの日の方位に向かえば浄智寺があり、其の東境内に至る。つまり寺が頼朝の弔いを行い、弁天が彼の御魂を
迎える立場を位置関係では示している。

■07-08明恵上人忌・・・・・・・高山寺(京都市右京区)。
■10お焚き上げ神事・・・・・・・京都府八幡市の石清水八幡宮で神事の後に「厄除餅」を配る。

●例年-脳天大神・新春大祭・・・・・・奈良・吉野町。金峰山寺0746-32-8371当日はゼンザイを振舞う。
  
■07-08会陽・・・・・・・本山寺(岡山県柵原町)。 
















































1/20    


●06-07-09大寒。      二十日(本来は旧暦の)正月。

■07ひがしかわ氷まつり(1/20〜22日)【北海道東川町】

■07大寒みそぎ・・・・・・秋田・角館市で神道青年協議会により行われる。
★08裸まいり(1月第3日曜日)【秋田県由利本荘市、新山神社】

■08-09-10-11二十日夜祭・・・・・・・岩手県平泉町、毛越寺・常行堂祭(延年舞)・・・・・・・毛越寺の摩多羅神祭ともい
う。延年の舞を演ずる寺僧に見物が悪口を言う風習があり、悪態がひどいほど豊作という。

■09川原湯温泉湯かけ祭り【群馬県長野原町】・・・・・・05/1月20日(木)群馬県・川原湯温泉。大寒の日、長野原町川原
湯の川原湯温泉街で、400年ほど前から伝わる祭りです。下帯や水着姿の子どもたちや若衆が、源泉の湯を豪快に
かけ合います(メルマガ【なっとく歴史館】公式サイト: http://1rekisi.jpより転載)。 祭りの詳細URL http://www.town.naganohara.gunma.jp/

■08水中綱引き(1月第三日曜日)【福井県美浜町、日向海岸】
■09志摩の恵比寿祭り・・・・・・・三重県志摩市の恵比寿祭りは、戎さんの像を囲んで初笑いをする。
■10-11長浜盆梅展・・・・・・・滋賀県長浜市港町の慶雲館で3/10日まで。市観光振興課0749-62-4111

■07-08-10湯立神楽・・・・・・・京都・伏見の城南宮075-623-0846で1/20日、午後2時から月次祭と湯立神事。タスキ掛
けの巫女が笛・太鼓で舞い、直径約70cmの大ガマに沸き立つ湯を、両手に持った笹の束で勢い良く散らして邪気を祓
い、無病息災・願望成就を祈る。福笹は800円(07/1/18朝日)。

■竹ノ内宿禰・・・・・@
■07丹生都(にゅうづ)比売神社・厄除・御田祭・・・・・・・和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野の当社では08/1/20(日)に
厄除祭・御田祭を行う。此処が神仏融合のはじまりとも言われる。0736-26-0102

■08大山寺の力餅(1月第三日曜日)【徳島県上板町、大山寺】
■07-08会陽・・・・・・・善通寺(香川県善通寺市)で1/20〜21日。五重塔からの餅投げ、裸の男たちの宝木の奪い合い
などがある。

■09松山市・大師寺の水行・・・・・・・愛媛県。40年前から。

■百手祭 05/1月20日(木)・・・・・高知県夜須町。香美郡夜須町の夜須八幡宮の百手祭は、五穀豊穣(ほうじょう)や家内安全を願って、氏子の中から
選ばれた12人の射手が2日間で1200本以上の矢を射る祭りです。400年以上の伝統を誇る県内三大弓行事の一つである。

その昔、人畜を襲い田畑を荒らしていた牛鬼を、弓の名手だった近森左近という人物が退治したことを祝って始まったなどの伝説が残っています(以上、メル
マガ【なっとく歴史館】http://1rekisi.jpより転載) 。詳細URL  http://www.yasu-kochi.jp/

★07-08会陽(裸祭)・・・・・・・西大寺(岡山市西大寺町)では数千の裸の男衆が一本の小さい宝木を奪い合う壮観な
祭。現在は第3土曜日〜21日。
■07宮島・杓子供養・・・・・・・広島・宮島町の光明院で江戸時代からの法要。

■08-09-10-11幸若舞【福岡県みやま市瀬高町、大江天満神社】
■08ヘトマト【長崎県福江市下崎山町、山城神社】









































1/21 以下、次ページへ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲★☆

次は「1月下旬」  
1月下旬
1月下旬
戻る
戻る

パテント・著作権は本会に属します。    「鬼の会」