http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p046 (未定稿)


  神々の歳時記  前文4

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■F方角の意味、「其の2」

■古墳から全てが始まった・・・・・・古墳は命日を方位として土に刻んだメモリアルでした。だが、この最も肝心な「方位」
の哲理に無知で、其の上にモノカネ主義の洋式考古学で見ていては殆どの古墳を暴き出しても謎を増やしました。

無数の古墳を発掘して見ても、「では誰が被葬者で、其の命日は何時だったのか」、と言う最大の課題には誰も答えて
いないのです。此れでは文化とも科学とも学問とも言えない。よって此処では考古学を排除し、全く別の観点から解説
する。例えば大王とはオオキミの事であり、彼は太陽の下で天・地を結ぶ方でした。

其れに対して天武朝からの天皇とは白い星、つまり北極星を頭上に頂く夜見の王を意味するスメ(皇)に改められた。
それ以前からの古墳は太陽の下で、命日の方角に向って円暦の示す方角に築いた。其の日影の角度を見る方が「ミ
カド」と呼ばれ、其の命日の側には寺を建てた。

寺の字を「土に寸」と書くのは、墓標の印す日影方位を庭の土に刻んで暦としたからでしょう。また其の逆方位には神
社が作られました。と言っても、此処には建物ではなく、甘南備の丘にヒモロギを立てた。ヒモロギとは「日を貰う木」で
あり、要するに此れも井垣の中に立てた柱(墓標)、或いは依り代となる鉾を納めて其処をホコラとも言った。

仏教渡来以前は、寺社の別はなかったので、こうした場や甘南備の山で「両方」の祭りをしました。だが、やがて壮大な
伽藍を持つ佛教建築が出来るにつれて神社側も其れに並ぶ建物を造った。こうして次第に寺社の別が不明確になっ
て来ました。

前述した通り、奈良から中世、そして近世の江戸末期までの長い間、神仏混交と言う形で寺には鎮守や宮が置かれ、
また神社には神宮寺と言う寺が並立する事となったのです。

其れが明治からの「神仏分離令」によって一連の関連性が分断・分離され、寺社の別が明確にはなったものの、実は
元々の伝統文化や昔の姿形が略解体されて今では本来の姿も伝統文化も、其の殆どが意味不明にされてしまいまし
た。

■方位には表裏がある・・・・・・・・表裏とは例えば、方位では鬼門と裏鬼門が知られる。或いはマイナスとプラスを陰と
陽と言う言葉で見たのが陰陽道でした。陰陽道と言えば普通は「大陸から渡来した呪術」と思われていますが、実は日
本発祥のものとも言われる。

表裏の例は外にも、寺と神社の関係のような二面性がありますが、真言宗には金胎・両部曼荼羅があるように、昔は
両部神道と言う宗派があり、其の様式の鳥居を「両部鳥居」と言い、今も近畿各地に残っている。

また飛騨には仁徳65年まで両面スクナ神があり、其れにローマにはヤヌス(両面)神が有りますが、何れも同じ象を、
別々に言ったものかも知れません。象が東を向いたら尾は西になる。其の象の全体を知らずに、鼻に触った人は「象
はダクトである」と言い、足に触った人は「象とは丸柱だ」と言ったような類例も多いのです。

何れにせよ、天皇の御幸や日本の寺社や祭りはこうした方位の二面性を特徴とします。其の方位と道理とを司るのが
円暦です。

■方定式・・・・・・・此処では数字を使う方程式ではなくて、数字の代わりに方位・方式によって答えを出しますので「方
定式」でもあるとご理解下さい。此れは円暦の方位を軸とした方式であり、昔は「道」と言い、その「道理」からシナでは
「道教」にも変化したと推定します。

方式を弁えて模索するのが方策であり、方理を求めるのが方便であり、或いは色んな方法で捌いて決定する事を方針
と呼んだとすれば、色々回り道するより「方定式」の定法や道理に従っていた方が楽と言うものです。

■恵方詣で・・・・・・恵方とは歳徳神が12支に従って在泊する方位の事で此れを「あきの方」とし、吉方と見て年の初め
にお参りに行く事を「恵方詣で」と言いました。ですから混雑する有名社寺に初詣するよりも、或いは「お水取り」に行く
のも、こうした吉方へゆっくりと行く方が良い訳です。

ですが、恵方は星回りであり、従って365日の数式のカレンダーでは分からない。自分の歳回りとの関係なども太陰暦
(一歳360日)から算出しなければ正解とはならないので、そんな面倒な事をせず、西暦の元旦ならば円暦を使って1
/1方位に向えば良いのです。

■G寺と神社の別・・・・・・・寺社の違いはあの世への入り口か、此の世への入り口か、の違いです。家に例えれば仏
壇(または勝手口)と玄関とも言える。家は一体の物として機能する以上、寺社も分離しては分からなくなり、意味もなく
なります。

▲寺・・・・・・・今の神社は神のおわす社と言っても、殆ど森が有って薄暗く気色悪い場となっていますが、寺の場合はも
っと凄い。此処には必ず裏手や境内に墓地があるし、仏がおわす様に装ってはいるものの、暗い仏堂には煤けた仏像
がギラギラと並んでいる。

アレはどう見たって魔物か怪物であり、佛性とか人間性の発露とは感じられず、寧ろ、お化け屋敷と言った感じに外人
観光客には見えるに違いない。とすれば有り難いとは分かっていても、それ以上に近づこうとは思わず、つい「触らぬ
神に崇りなし」と敬遠する事になるのでしょう。

だから学者は「仏教美術」と言った。其れに骨董屋は能書きを付けてより確かな骨董価値として売買した。でも普通の
人は格別関心は持たない。壮大な伽藍を見ても、凡そ日常性から離れて空々しく、また其の広さと大きさに見合うだけ
の人々が近くにいなければ却って寂しい感じがします。結局、態々行くのは「ゴメンダワ」となるのでしょう。

でも此処から日本神道は発生したのです(延喜式)。

■神社神道は大昔から有った日本の宗教ではなくて明治に出来た大日本帝国の国家宗教でした。しかも、日本神道と
言う一貫した教理の宗教である筈の神社にも実は表裏の二面性が有る事を前述した。それ以外にも教派神道と言う
多数の宗教勢力があり、今は神道が実に多面性を帯びています。其の点では寺も元々多宗派であり、多面性が強い。

とすれば両者の何処が違うのかと言えば、其れは前述した通り何れも「神霊」の祭りの方式について、役割の違いで一
対で対峙した場であったと言えます。

寺と神社とは一体不可分だった・・・・

▲古墳は一定の方角を向いて築造(其の形がハッキリしない場合もある)されています。古墳はつまり方位では頭と足
の別があり、頭の軸線には先ず寺院があり、古墳と同じ軸線を向いて本堂か堂塔が建てられました。また其のライン
に従って山門・楼門が有り、その軸線に参道も伸ばされた。

其処から先は川や海に至って、この世とあの世を分かつ結界、即ち彼岸となっていた。

■他方、古墳の足の方位には矢張りその先の日迎え方位を向いて神社が建てられた。先ず古墳から長い参道が延び
て鳥居や太鼓橋※があり、、更に鳥居や参道が延びて拝殿、本殿に至る。※太鼓橋は元々、神が彼岸からやって来て
お渡りされる橋でした。だから人間が渡る橋ではなく、渡ろうとしても歩きにくいように作られている訳です。

その先が神の降臨して来る方位であり、川や海もあるが山の場合もあり、その場合、この山が甘南備とか神山と呼ば
れた。このため他の事例や人の都合がどうであれ、故事来歴を第一として、鳥居や本殿の位置・方位を勝手に移動す
る事はなかった。其れをすれば「祟りが有る」と恐れて決してしなかったのです。

其の御蔭で、この筋が今も名残を止めていれば、本来の縁日・例祭日を糺す事が出来る訳です。

■神社には決まってご祭神が有ります。古社とか大きな神社になると、其のご祭神の数が何座にも及ぶ所がありま
す。其の場合、祭りは例祭日が一回だけではなくて、三座の場合は各一回づつ、それぞれの暦・方位に向けて年に二
回づつ、都合六回行われました。

■古墳も寺社も歳時記の原点であり、従って自ら天文観測して暦を作って祭りの段取りを進めていました。その必要か
らこれらは決まって小高い、見晴らしの良い場所に有ります。無論今では其処が明神、或いは権現や荒神様※になっ
ている所もある訳です。

※権現や荒神は人霊が祭りに際して仮の神となって再臨する場であり、荒々しい神ではなくて、新たな御魂の神として
再び姿を現す所でした。また其処が天神様や薬師堂に変わっている事も多い。外にも観音堂、阿弥陀堂、地蔵堂、庚
申堂、不動尊・・・・等の場合もあるし、公民館その他の公共施設に変わって敷地だけ残っている場合も有ります。

或いは小字などの地名だけ残しているケースも無数にある。其れに対して仏教で言う三宝荒神は仏法僧の三宝を意味
し、竈の神、即ち台所の神にも変質している。 

■「目の薬師」の素性・・・・・・・明神は日月を明らかにする暦の神であり、また弁天や薬師も暦の神でした。弁天は古
墳の形をミニチュア化した形でその姿を今も池の中の小島の水神として祭っています。ですから本来は蛇の神でも水
神でもなくて、天を弁えて暦と方位を司る神だったのです。

それに対して薬師は東方瑠璃光如来として、矢張り東方の日の出を観測して暦を司る神でした。つまり12ヶ月の日月
を観測したので12神将を従え、更に日光、月光と言う菩薩を脇侍としています。でも今は「目の薬師」として信仰されて
いますが、其れは本来、観測を意味する「目」であって、目を治療する仏と勘違いしての信仰では誤信となります。

その上、薬師を薬屋が信仰したので薬上、薬王両菩薩とも混同して、今では完全に「医王」と誤解しての御利益信心に
なっています。でも本来は少彦名命などであり、コヨミの神でした。


寺社の分離

▲神社と寺の違いは神道と仏教の違いと見られている。其れでも間違いとは言えないが、本来同じ先祖の祭りを清・濁
別々の場で別々の方位から相反する時期に分担して担った所でした。寺が濁だと言えば寺から反発を買うかも知れな
いが、寺も神社も、聖地である古墳や墓地と直結・連動し、一体不可分の関係にあった。

こうした意味から神社の中に神宮寺(宮寺)があり、また寺の中にも神社があったと言えば益々分かり難くします。同
列・無差別で見ようとすれば分からなくなるので、違いを敢えて明確にしたほうが理解し易い。ともあれ墓地や神社は古
来、原則として24時間オープンです。つまり神社も、其の元を糺せば寺の一部でした。

実際、江戸時代までの日本には、何処の神社にも宮寺があり、かの伊勢神宮でさえ神宮寺があった(別紙「ヒジリ事
典」の「神仏習合」を参照)。

中世の寺社は、特権として壮大な伽藍を荘園経営で維持発展させ、次に戦国乱世の時代になれば僧兵を雇い、領主
の前線基地としての役割も担っていたので真っ先に攻撃されて焼失の歴史を重ねました。また幕末までは寺請け制度
でお役所としての機能も担った。所が幕末には廃仏毀釈の嵐が吹き荒れてお寺は全て危急存亡の時代を迎えた。

其処で、文明開化の「時流」に逆らわずに寺の看板を「宗旨替え」して「神社」一色に塗り替える事で整理されず助かっ
た所が今の神社です。其れまでは坊主だった人達が袈裟を外して直衣に着替え、経本を祝詞に替えて俄かに国家神
道の国の公務員、即ち「神官」として召抱えられて目出度く再就職出来た訳です。

でも此の宗派寺院の「宗旨替え」は個人の其れとは比較にならないほどの変心であり、裏切り行為でした。だから今は
神社はしんどい。架空の神を祭って祭りを続けてもその存続が危うくなって来たのかも知れません。其の点、寺は曲が
りなりにも実態としての墓地がある。

従って檀家回りで先祖祭りを続けていますから、喩え「堕落」と言われようとも檀家があれば安泰だ。喩え「葬式仏教」
や「観光坊主」と批判されようと、カラオケで歌うように読経を上げていればこの高齢化社会では楽に暮らして行けるの
です。
 
■其れに対して、先のような俄か神社、或いは本質が寺院で、宮司が実は坊主だった大部分の神社、つまり日本神道
の関係機関は、国家神道が戦後にまた一転して分離され、更に戦後のベビーブームも住宅ブームも去った今、結婚式
も少なく厳しい時代を迎えている。何故なら其の素性から神事を知らない階層であるからです。

単に寺院の世襲体制に乗っかって今も神主を務めている所も実は多いため、神も仏も知らない神職たちは精神主義
を作って売るか、もしくは組織・建物管理業に忙殺されて、祭りを従としてしまうのです。ともあれ、明治の「神仏分離令」
と言う宗教弾圧で寺社は共に破壊され、日本文化も抹殺された。

だが関係者は歴史を隠し、墓地も寺も隠して、純粋な神社神道を装って澄ましているから困る。此れでは古の優れた
祭りの文化も分断されたままとなり、人々の目から益々遠ざかって、犬を散歩させる公園の一部にしか見えなくしてい
るのです。しかも更に不幸な事として戦後、GHQの祭政分離令によって国家神道も神官もなくなった事です。

従って神社には古の日本の神道はなく、しかも単一法人化して独立した寺社も有るので益々古の優れた伝統文化や
歴史関連が消された。つまり今の神社が寺と一体で祭りをすると言う伝統方式や歴史文化が既に壊滅している訳で
す。さて門限の話が途切れたままでした。

寺院の多くが今は門限を設けて、例えば9時から5時までの所が多くなってしまった。防犯・防火がその理由なのだろう
が、本来の立場※は当時、新興宗教の一つに過ぎなかった仏教が、墓守りの役割lりを担った事で以来日本に根付く
事が出来た、とも言える。

 ※仏教はインドに興った新興宗教ですから「弔い」の宗教ではなかったが、日本には飛鳥時代に氏寺として採り入れ
られ、奈良時代になって国家を守る国教となった。

大乗や密教と言っても其れは後の事であり、当初から今に至るまで日本に於ける立場は皮肉にも「弔い」が主務となっ
た。「弔い」はしかし、日本では本来、祝(堀、堀部)、斎部、忌(伊)部氏などの職掌でした。其の領域を仏教が侵したと
も言えます。仏教はしかし元々はあの世を否定し、尼の存在も先祖祭りも否定する独身男子の新興宗教でした。

それでも日本では例外的に尼寺が建ち、菩提寺としてスタートしたのです。その後は国家と結びついて国教となり、や
がて中世には特権として荘園領主となって僧兵と権力を持ち、また乱世には戦争で漁夫の利を得て潤い、江戸時代は
寺請け制度で役場となって食いつなぎ、今に残る立派な箱物を造った。

其れが過ぎた結果、管理能力云々で自分の首を絞めている。例えば24時間オープンを取りやめて私物化し、更に勝
手な禁止事項を色々と掲示するのは自己否定となろう。私企業と違ってお役所や寺社は公共の場である。税金も払っ
てないなど別扱いである以上、納税者や檀家・氏子には出入り自由にするのが当然であるが現実は逆。

お役所や公共の場がカレンダー通りに休むために市民を締め出している。のみならず色んな制約を設けるのはもって
の外ではないか。

更に彼らは自分で修理さえせず、国や地方の文化財指定によって税金で修理し、其の上、信仰の対象と称していなが
ら仏像を見世物とし、或いはその拝観料で息をつなぐ観光寺院と化し、人が来れば掃除も防犯にもコストが掛かる所と
している。

でも曲がりなりにも「先祖祭り」をしている寺院は安泰であり、不況と言えど此処は別世界、笑いが止まらない所が多い
が、神社も、「先祖祀り」とは言わなくても実質上は氏神として祭る事で先祖祭りを続けているので、其の限りにおいて
は以後も末永く安泰であろう。

▲寺社について纏めれば、僧侶は直ぐにインドやシナ、朝鮮式仏教を吹聴するが、そんなものを日本人は何も信仰し
たくはない。神社の場合も架空の神々を信仰している氏子は皆無であろう。寺社を千年間も支えて来たのは氏神・先
祖祭りであり、そのためにコヨミを守る神であった。よって次項の天皇家などは二千年以上続いた。

この間、日本にも戦乱があったり、神仏分離もあった。にも拘わらず世界に比類ないほど永く平和を維持し、祭り事と
言う大事業を継続した力は寺社も天皇家も暦法を守った場であったからであって大陸仏教への信仰心でもなく、弘法
大師でもなく、企業経営のようなソロバン勘定でもなかった。企業生命は今も精々50年と言う儚さである。


■天皇家の宮と院政(真の意味・解釈)

■天皇には固有の義務・責任・特権(専権事項)とも言うべきものがあり、其れが古来、年号、暦法、度量衡の決定・制
定権でした。またその他にも、「一代一宮」の制度、つまり即位の前提として遷宮式なと国事行為があった。此れは、先
帝を陵に祭った後に即位する事でした。当然其処から度量衡や年号、暦法も改まる。

其れが祭り事、つまり祭政一致の具現でした。ともあれ、天皇になるまでの彼は天皇の若宮として、青少年の時代を個
別の宮で養育された。そして東宮に住んで皇太子となった方が次期天皇として即位し、やがて彼が在位のまま崩御し
た場合は、其処から命日方位に葬られた。日本はこうした祭政一致の方式を長く続けて来ました。

所が平安時代になると全てが唐風・仏式になるに及び、天皇が途中で譲位する風習を美風と見るようになった。この場
合は出家して仏門に入り、僧籍を得て法皇となり、その寺院を門跡と呼び、此処から政治に介入する事を院政と呼ん
だ。

従来、この院政についてのみ詳しく語られる傾向があるが、門跡の主務は政治ではなくて実は先帝を仏式供養で弔う
のが目的の坊主になる事でした。例えば京都には仁和寺や本願寺など仏教の総本山や大本山が集まっている。其の
大元締めは無論、天皇家であって天皇家は神道の宗家だけではなかったのです。

繰り返せば、日本の神祭りの方式は墳墓の頭と足とも言うべき所に寺と若宮と言う二種の施設を作って双方向で交互
に祭る方式を採って来ました。

仏寺がない時代は、其処は伊部(忌部)、ハフリ(祝、堀部)、斎部などが斎き祭って来た訳です。もし大王に若様が何
人も有った場合は若宮がその軸線上に並んで点在した。其の中の一人が日嗣の御子となり、次期の大王になった場
合は、やがてその宮が皇居となるものの、彼が崩御すれば、皇居は次の地方へ移動する。

つまり命日方位に遷宮する事になります。ただ彼にもし嫡子がなかった場合は、先の王を引き続いて日祭りにより弔い
祭る事が出来ない。そのため、残りの若様が各地の宮にそのまま居つき、先の大王を斎き祭ったのです。

従って彼ら残りの兄弟たちは依然その地方の祭主・領主として残り、やがて数代後には野に下るものの、矢張り次の
宗家・本家として代々世襲してその宮を守った。先に「寺社は一体である」と説いたが、本質は別である。僧侶は原則と
して妻帯せず出家するので嫡子がない。

従って弟子に譲るのに対して、宮家はヒジリでも在野の俗人であり、子生みが言わば責務である。従って血筋の世襲
が望ましい。こうして先王の弔いと日迎えと言う二方向の祭式を子々孫々守り続けた。よって日本には各地に古墳が残
り、寺や神社と共に祭りが伝わった。

其処が今も各地に見られる普通(無名)の神社であり、またその祭りに集う氏子たちは原則としてその種の血筋を引く
人たちであり、或いは朝野、宮家、宮元、宮下、堀・・・などを地名とする地区があれば其処も同類であり、更にそうした
苗字を名乗る人たちもまた同族と見て差し支えはないのです。




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