http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」 p138 (未定稿) ![]() 神々の歳時記 9月中1旬 但し方位による ●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起 の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版http:// www.matsuri.or.jp/cgi-bin/wf/wforum.cgi(mag2 ID 0000026310) 及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-9月」より一部引用・転載させて頂きました。 ■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記 には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の 詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。 「神々の歳時記」 9月中1旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ 9/10 日 ■10南部駒踊(〜12日)【青森県十和田市】 ★10花巻まつり(〜12日:9月の第2土曜日の前日から3日間)【岩手県花巻市】 http://www.omatsuri.com/movie/hanamaki.html 動画花巻まつり 9月第2土曜の前日から3日間 岩手県花巻市 ■大館神明神社・秋祭り・・・・・・秋田・大館市で11日まで。 ■例年-蛸島キリコ祭り(早船狂言)・・・・・・・石川県珠洲市蛸島町、高倉彦神社で9/10〜11日。 ★大聖寺・十万石まつり・・・・・・石川・加賀市で9月第2土、日曜日。 ■せともの祭(9月10日〜11日)【愛知県瀬戸市】 ■08広布薩会・・・・・・法然院(京都市左京区)。 ■08十講会・・・・・・四天王寺(大阪市天王寺区)。 ★08イスラエル大柴燈護摩・・・・・・イスラエル建国60周年祈念。イスラエル国・エルサレム市で午後4時から。日本時間 では午後10時、阿含(アゴン)宗の全国各道場で衛星中継。 ----筆者のコメント-----1949/5/14日にイスラエル国として独立宣言。ベングリオンが初代首相となり、5/15日に独立 宣言。5/16日に米ソがイスラエルを承認した。以来毎年イスラエルでは記念行事をするが、最近では他国でも日を変え 場所を変えてこうしたセレモニーやデモンストレーションを行っている。 しかも特に9/10日と言えば5/16日から117日も後である。其れが「世界平和祈念祭」とは言うものの、実は此の日は01 /9/11日に、NYマンハッタンの同時多発テロがあった。その記念日、つまり前夜祭の意味がある。NY同時多発テロに せよ彼らイスラエルの演出によるヤラセと今は見られている。 同時多発を理由に米国のアフガン侵攻があり、何が解決したのか?世界中にテロが拡散しただけです。とすれば彼ら の言う「平和」は欺瞞であり、其の陰謀に米国隷従の自民政府が雷同し、更に彼らのデモイベントに一部の宗派まで乗 っかるのは如何なものか。 9/11 日 ■06-07-09二百二十日・・・・・・立春から数えたもの。05〜06年など、平年は立春から数えて220日目で、この頃は 稲の収穫時期と台風シーズンとが重なるため、十日前の210日 と共に昔から農家の厄日として警戒されて来た。 ★09花巻まつり(〜13日:9月の第2土曜の前日から3日間)【岩手県花巻市】 ■都々古別(つつこわけ)神社の例祭・・・・・・福島・棚倉町。都々古和気神とは味耜すき高彦根命であり、出雲の大国主命 の息子である。同名の神社が近津村にもあるが例祭日が違う(11/11を参照)。例祭日が2ヶ月も違ってしまったの は恐らく明治政府の改暦指導であろう。 棚倉では10/11を守る為に9/11にバック・スライドし、また近津村では10/11を逆に旧暦と見て西暦の11/11にスライドし た可能性である。このため両社ともに誤伝を残したのではないか。さて此の神社の沿革は景行天皇の時代、ヤマトタケ ル東征の砌、都々古山(鉾建山)にみ鉾を立てた事による。 以後、田村麿が棚倉城に遷し、更に領主・丹羽氏が現在の丘地に遷したと言う。祭りの様子や大鳥居から随身門など 境内の仔細は不明だが2/3の節分祭、5/1の太々神楽講・春祭り、9/11の例祭と翌日の例私祭、11/24に古 式神農会・農産物奉献祭がある。@ 同様に9/11を旧暦から西暦に改暦したものと見ればこの日は本来、10/11だったと分かる。@ ▲東京・不忍池・弁天堂「巳金大祭」・・・・・・此処では毎月三日に初巳祭がある@(3/8日を参照)。08年は9/14日を参 照。弁天堂の電話は3821-4638 ■例年-だらだら祭(生姜祭り)・・・・・・・・・東京都港区芝大門、芝大神宮。しょうが市(芝神明だらだら祭り)(9/19を参 照)。21日まで。 ★10せともの祭(〜12日:9月中旬の土曜〜日曜日)【愛知県瀬戸市】 ■07-10わらじ曳き(9月申の日)【三重県志摩市大王町、波切神社】09/9/12--10/9/11 ■07八朔祭(旧暦8月1日)【京都市西京区、松尾大社】 ■07夏のひな祭り(旧暦8月1日)【徳島県海陽町宍喰地区】 ■藤崎八幡宮・例祭・・・・・・熊本市で11〜15日。 9/12 日 ▼09旧地蔵盆。09庚申。 ■十和田市・秋祭り・・・・・・青森・十和田市で14日まで。 ★08花巻まつり(9月の第2土曜日の前日から3日間)【岩手県花巻市】 ■日蓮上人竜ノ口法難会(日蓮宗) ■報恩講・・・・・・西念寺(茨城県笠間市)で9/12〜18日。 ■09大宝八幡宮タバンカ祭・・・・・・・茨城県下妻市の大宝八幡宮0296-44-3756で。 ▲塙(はなわ)保己一(ほきいち)の命日・・・・・・文政4(1821)9/12。武蔵木野村萩野氏出の国学者。5才で失明し、検 校門下、次に賀茂真淵の門下となり、水戸侯の依頼により「大日本史」を校正した。1779年に「群書類従」「日本後紀」 「扶桑略記」「六国史」等を刊行した。 ■竜ノロ法難会・・・・・・竜口寺(神奈川県藤沢市)で日蓮上人の法難法会。 ★09せともの祭(〜13日:9月第2土〜日曜日)【愛知県瀬戸市】 ◆09わらじ曳き(9月申の日)【三重県志摩市大王町、波切神社】・・・・・・・・・以下http://www.warajimatsuri.jp/より引 用。-----わらじ祭りは大王町波切(なきり)で毎年9月の申の日に行われ、祭りの再興以来300年以上の伝統的を誇 る祭りです。 江戸時代に書かれた古文書の中には平安時代の寿永年間(西暦1182年頃)を始まりと記した物があり、古文書通り であれば、820年余りの長き祭りとなります。中でも、わらじ曳き神事は県の無形文化財に指定され、志摩市の代表的 な祭りでもあります。 祭りのハイライトは、わらじを稚児が曳く「わらじ曳き」神事、わらじを海へ流す「わらじ流し」神事です。 前半、わらじ曳 きまでは出雲系の熊野社の祭りで、後半のわらじ流しはこの地で信仰の有った紀州熊野那智大社の補陀落信仰で す。出雲の熊野大社、出雲国風土記の信仰と熊野那智大社の信仰が合わさった祭りです。 平安時代の寿永年間の付近には堂の山に薬師堂が建てられ、補陀落信仰の補陀落山像が祀られた頃に当たりま す。わらじ流しの神事は補陀落の御詠歌を詠うなど、補陀落信仰に基づいた物となっています。この頃の祭事が、わら じ流しの神事の原型となり、わらじ祭りの始まりとも見ることができます。 元禄十六年、ゆやのまつりとして復興され、後に韋夜権現の秋祭り、韋夜権現祭と言われる様になりました。 古文書 には「ゆやの祭り」と記され、本来は合祀されている熊野社の祭りでもあります。当時は「だんだらぼっち」を魔王とし、 「花籠や におひもふかき やまと竹 わが行き先は あららぎの里」と記されています。 この地の日天八王子(現在の国狭槌尊)、牛頭天王(現在の素戔嗚尊)などを辿ると元熊野と呼ばれる出雲の熊野大 社(主神は素戔嗚尊)にまで遡る事ができ、大男、窪地や島を作った伝説は出雲国風土記、片足と大草鞋の伝説は出 雲の松江市八雲町に伝わる熊野大社の創建にまつわる民話などにその原型を見ることができます。 志摩国を作った出雲国造、出雲笠夜命は熊野大社を奉じ、志摩国を建国したとされる出雲笠夜命に縁のある祭りでも あります。.志摩は古くから出雲と密接な繋がりがあり、伝承の残る地域全てに出雲で伝承の残る地域と同じく「おう」の 文字が地名に隠されています。 この他、波切(魚切)、磯部(石部)、沓掛、白木、片田、岩倉、加茂、桧山、築地(ついじ)、迫子など出雲に関連した地 名が数多く残され、その殆どが松江市を中心とした地域に集中しその配置する方角も似ているなど、出雲の国がそっく り志摩に作り上げられた様な地名となっています。 志摩市内、鳥羽市内ではダンダラボッチの民話が残る地域にのみ祀られているる神様、国狭槌尊のルーツを探ると、 伊雑宮の御神田の神様、奈良時代の大歳神まで辿ることができ、奈良時代に出雲にも伊雑宮から勧進された神様 で、志摩国建国当時の姿が見えてきます。 祭りの問い合わせ先---波切神社 電話 0599−72−0165 志摩市観光協会・波切自治会 電話 0599−72−0789 志摩市観光協会 本部 電話 0599−46−1112 ■祖師音楽法要・・・・・・本圀寺(京都市山科区)。 ▲安倍晴明の命日か・・・・・・・陰陽師。外に天文博士、左京権大夫などを歴任し、85歳まで現役として生きた。命日は 寛弘2(1005)/9/26(ユリウス暦10/31)だが方位では本日9/12になるが、実は8/20でもある@ 何れにせよ京都・晴明神社では04年9/26の例祭日が1000年祭になった。 彼の出自は大彦命の後裔と言われ、出生地については、一説には大阪の阿倍王子神社と安倍晴明神社、其れに和 泉市の信太の森の稲荷を母とする伝説(葛の葉稲荷と聖神社)や茨城に晴明稲荷(猫島と吉生)、香川にも井原庄があ って謎に包まれているが、「尊卑分脈」によれば彼は右大臣、安倍の御主人(みうし)の九代目の子孫と有る。@ ■09八朔祭(旧暦8月1日)・・・・・・・・堺市で塩土翁を祭る開口(あぐち)神社(大寺さん)072-221-0171の祭り。9/11日は 宵宮。ただ八朔祭は元々旧暦8月1日の祭りであり、其の点で本日9/12日は旧7/24日であるが・・・・・・・・。 ■例年-筥崎宮・放生会・・・・・・福岡市東区筥崎宮で12〜18日まで。 ■鹿島の面浮立・・・・・・・佐賀県鹿島市。豊後の大友勢が肥前を攻めた際、龍造寺方の鍋島直茂が一族郎党に鬼の 面をかけ、赤熊(しゃぐま)をつけ、陣鉦、陣太鼓、笛を鳴らして敵に夜襲をかけ、勝利したという故事にもとづくと伝えら れています。 詳細は右記URLをクリックhttp://www.city.kashima.saga.jp/index.html (以上、メルマガ「なっとく歴史館」より転載)。 9/13 日 ■06白河提灯祭。 ■例年-上総はだか祭(玉前神社秋季例祭、一の宮の裸祭り)・・・・・・【千葉県長尾郡一宮町、玉前神社】 ★08城端むぎや祭(敬老の日直前の土曜〜日曜日)【富山県城端町】 ▼08観月の夕べ(〜15日:9月中秋の名月の日)【京都市右京区、大覚寺】 ■聖武天皇・皇太子(基皇子)の命日・・・・・・・先ず概要をウェキペディアから引用する。彼は聖武天皇と光明子との間 に生まれた。光明子は718年(養老2年)阿倍内親王を出産。724年(神亀元年)夫の即位と共に後宮の位階である夫人 号を得る。727年(神亀4年)に彼・基皇子(もといのみこ)を生んだ。 聖武天皇と光明皇后との間に産まれた唯一の男児(但し、後に聖武天皇には県犬養宿祢広刀自との間に安積親王と いう男児が生まれる)。生後1ヶ月の11月2日にで皇太子に立てられたが、翌年に病気のため1歳を迎える前に夭逝(よ うせい)する。神亀5年9月丙午13日(728年10月24日)だった。 この時の天皇・皇后の悲しみは大変なものだったと言われる。この早過ぎる死が、左大臣・長屋王の呪詛(じゅそ)によ るものという噂が流れ、此の為、後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾したが、長屋王の変後、729年(天平元年) に光明子を皇后にするとの詔が発せられた。これは皇室以外からの異例の立后である。 以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。其処から「長屋王の変は光明子を皇后に冊立するために藤原氏が 仕組んだ謀略」とも言われる。尚、彼・皇子は元明陵に葬られたと言われる。@ ただ其処では命日方位とは違うので内裏を遷した後に改葬された可能性が強い。@ 其処が今治定の聖武天皇・皇太子・那冨山墓である。墳丘の四隅には獣頭人身像を線刻した石が埋められている(此 れが言わば八方を画した法界石である)。@ だから其の日の対極に当たるこの日が祭りのピークとなる訳です(3/12「お水取り」を参照)。 ▼08観月まつり・・・・・・・・大阪・河内長野市の天野山・金剛寺で、毎年9月の満月前後の土曜日に行う。野点、邦楽演 奏、時代衣装、詩吟詩舞、剣舞、天野酒コーナーなど。 ★08岸和田だんじり祭り(敬老の日直前の土曜〜日曜日)【大阪府岸和田市】 ■09面浮立(9月第2日曜日)【佐賀県鹿島市】 ■06-07-09世界の法の日。 9/14 日 ■08遠野まつり(〜15日:敬老の日前後)【岩手県遠野市】 ■春日の局(かすがのつぼね)の命日・・・・・・・寛永20(西暦1643)年9月14日。因みに其の後18日で天海が没した。天海は 当代一のヒジリだったので、其の後の日付については疑問が残るだろうか?彼女は安土桃山時代から江戸時代前期の 女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。 「春日局」とは朝廷から賜った称号で、本名は斎藤 福(さいとう ふく)。 父は美濃の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明 智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる齋藤利三で、母は稲葉一鉄の娘・稲葉あん。 稲葉正成の妻で、稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利は実子。養子に堀田正俊。江戸城大奥の礎を築いた人物。松平信 綱、柳生宗矩とともに家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 屋敷跡は東京都文京区に春日町とその名を留め、また墓地は文京区湯島の麟祥寺にある。麟祥寺の墓地と湯島天 神とは200mほど離れているが、角度も同軸上に並んでいて、社務所と銅鳥居の角度を見ても、表裏の関係にあったの かと思われる程だが彼女に関しては無関係。 本来の春日は小石川の今の後楽であるが、1630年(寛永7年)に徳川家光の乳母・春日局が拝領、町屋にした。其の 後、金富町、仲町、大和町、水道町、大門町、同心町などを吸収・合併して春日町が誕生した。春日局は麟祥院(りんし ょういん)と言う。麟祥院は文京区湯島4−3。 此の寺は、徳川3代将軍、家光の乳母である「おふく」こと”春日局”の菩提寺であり、寛永元(1624)年に「報恩山天沢 寺」として創建された。その後、春日局の法名から「天沢山麟祥院」となった臨済宗の寺。実は京都は妙心寺の塔頭に も、この「麟祥院」がある。 埼玉県の川越市にある喜多院にも、この春日局に纏わる”春日局化粧の間”がある。天海が居た喜多院が寛永15 (1638)年の火災で焼けてしまった後、江戸城紅葉山にあった別殿を客殿として移築した所だが、喜多院には書院とし て、”徳川家光誕生の間”もある。 かつて垣根が枳殻の木だったことから、枳穀寺(からたちでら)とも呼ばれた。この寺の前の道が、春日通りと呼ばれる所 以も、春日局に因んだもので、春日という地名が今も残る。其れは、文京区後楽に彼女の屋敷が有ったからである。よ って逆方位の湯島の「麟祥院」に墓地と菩提寺を建てた。 後楽はその後、「春日」と「春日通り」の地名として残った。ただその方角は逆方位の3/14日の方角である。此処は墓 地と寺で有って「祭りの宮」ではないので、後の人によって、彼女の魂も封じられた事になる。 所が他方、東照宮からその方位には小石川3丁目の高台にある浄土宗の寺、徳川家の菩提寺・伝通院http://ja. wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E9%80%9A%E9%99%A2#.E6.96.BC.E5.A4.A7.E3.81.AE.E5.A2.93がある。 伝通院は秀忠の妻・「おえよ」の菩提寺として建てた寺であるが、家光の実際の母は正母「おえよ」ではなくて、実は「お ふく」だっと言われ、其の為、家光が東照宮で彼女の御魂を迎えて祭りをした事になります。目出度し目出度し、です。 因みに東照宮から9/14の逆方位、つまり3/13日の方角に現在は日本学士院が上野に出来たが、此処も寛永寺跡だ った。 ■08巳成金(ミナルカネ)大祭・・・・・・・東京上野の不忍池にある08年の「巳の日」の本日、弁天堂3821-4638で午前5時か ら午後5時まで諸願成就大般若経祈祷会と年に一度の秘仏御開帳。因みに不忍池から上野の森の清水観音堂に向 かって参道が真っ直ぐに伸びている。何のためか?更に隅田川に向かって3つの寺が点在するのだ。@ ★生麦事件(1862)・・・・・・文久2年8月21日、生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で「生麦事件」が起こりました。薩摩藩主 の父・島津久光はこの年3月1000人の武士を率いて京都に上り、公武合体のために活動を始めます。 4月23日には寺田屋事件を起こして自藩の尊皇攘夷派を文字通り切り、5月には大原重徳を勅使にたてて一緒に江戸 へ向かい幕府に種々の改革を迫ります。そしてこの日一通りの役目を終えて京都へ戻ろうとしていました。久光の護衛 の武士はこの時400人ほどいました。 一行が生麦村にかかった時、たまたま川崎大師を見物に行こうとしていたイギリス人4人が乗馬のままこの行列の前 を横切りました。彼らは大名行列の前を馬に乗ったまま横切ることが極めて無礼な行為であるということを知りません でした。 一人の武士が、こんな所を通ってはいけない、と注意したのですが、もっと気の短い一人の武士は4人に斬り掛かって いきました。そうするとそれに続いていく者も出てきて結局4人のうち1人が死亡、2人がけがをし、もう一人も帽子と髪 の一部を切られました。 命からがら逃げてきた3人から事情を聞いたイギリス人たちがその大名行列にすぐさま報復をという騒ぎになりますが イギリス代理行使のニールがみんなを抑え外交ルートでの決着を図ります。 ニールは4人が被害にあった場所はイギリス人が遊歩することを許可された地区であったとして幕府と薩摩藩に謝罪と 犯人の引き渡し及び賠償金の支払いを要求します。これに対して幕府は何とか穏便にと賠償金を支払いますが、薩摩 藩は犯人は不明であるとして要求を拒否しました。 このためイギリスは薩摩藩に報復すべく軍艦を派遣、翌年7月2日、薩摩湾でイギリス艦隊と薩摩藩船との激しい戦闘 が起きました。「薩英戦争」です。この戦争ではイギリス軍も薩摩の船を拿捕しますが薩摩軍もイギリス軍の旗艦ユリア ラス号に多大の被害を与え艦長を死亡させます。 結局大勢としてはイギリス側の勝利ではあったものの、死者の数はイギリス63名に対して薩摩はわずか17名でした。 この結果イギリスも「薩摩は良くやる」と敵を評価し、両者は急速に仲がよくなって、維新への流れが加速することにな ります(以上、http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/namamugi.htmより引用)。 さて此の横浜「生麦事件」は旧8/21であり、グレゴリオ暦にすれば9/14の日曜日である。災いを蒙ったのは、外交官の くせに、日本の決まり(風習)を無視した結果に於いての自己責任である(此れは無免許で交通事故に遭ったに等し い)。彼らの奢り高ぶりによる自業自得である。アメリカ大使の場合は下馬して、行列を脇で見送っていたのだ。 リチャードソンの死亡にしても、即死ではなくて馬で逃げた途中で事切れたものである(今は現地に祀られている)。 だが幕府は、英国大使ニールに10万ポンドの賠償金を支払った。今の金額にして6000億円に相当する。更に薩摩も薩 英戦争の結果、略同額を支払わされた(読売テレビ06/9/14の「今日は何の日」より引用)。 結局、ニールの巧みな外交力が日本を押し切り、イギリスが此れで味をしめた事になる。 ■安房・国司祭・・・・・・千葉・館山市で14〜15日まで。 ■例年-鶴岡八幡宮例大祭(流鏑馬神事)・・・・・・・(〜16日)【神奈川県鎌倉市、鶴岡八幡宮】 ■簿念仏会・・・・・・清浄光寺〔遊行寺〕(神奈川県藤沢市)で薄のまわりを念仏を唱えながら回る行事。 ■若狭・小浜・放生会・・・・・・福井・小浜市で14〜15日まで。 ■08采女祭(9月中秋の名月の日)【奈良市】 ■讃仏観月会・・・・・・唐招提寺(奈良市五条町)で9/14〜16日、金堂の扉を開き、月を待って堂内に点灯する。 ■野身神社・・・・・・以下、http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/daiou/28.html「大王の国から」より引用する。 当(高槻)城内にあり。延喜式内。今牛頭天王と称す。此処の生土神とす。例祭九月十四日。摂社八幡宮、八幡町にあ り。若宮永井氏の祖神なり(『摂津名所図会』より)。菅原道真をまつる上宮天満宮(じょうぐう てんまんぐう)は、大宰府に次 いで古い、全国2番目の天満宮という古い由緒を伝えています。 『摂津名所図会』には、上宮天神の祠として記載されています。----但し、現在の例祭日は5月5日。 ★06岸和田だんじり祭り(けんか祭り)(06年から9月第3月曜日直前の土日に変更)。 ■08面浮立(9月第2日曜日)【佐賀県鹿島市】 9/15 日 ★08敬老の日。 ■07遠野まつり(敬老の日前後)【岩手県遠野市】 ■07全国かかし祭(〜24日;9月15日前後から1週間)【山形県上山市】 ■石岡総社祭・・・・・聖武天皇の勅旨により、天平(729〜749)年間から大国主命ほか四座(注)を祭る茨城県の石岡総社祭が14〜16日に行われる(06/ 9/16-18)。(注)ご祭神は大国主尊、スサノオノミコト、ニニギノ尊、大宮比売尊、布留大神の6神とも言われる。 此処は常陸の一宮として、また旧16ヶ村の産土神として、祭りを年番制で行った。或いは明神様とも呼ばれ、或いは天王社(八坂神社)とも呼ばれて、例年6 /14に祇園祭に似た祭りを行い、引き続いて7/2には愛宕社の「麦岩祭り」を行い、そしてこの総社の例祭を9/9にして来た。 中でも本日(9/15)は総社本宮の例大祭であるが、初日は第2土曜に神幸祭りとして仮殿に向かって供奉行列があり、次に第3日曜には中日大祭があって 染谷12神楽、浦安の舞、獅子舞、相撲が奉納され、また山車や獅子が仮殿から駅前に掛けてパレードする。 そしてこの第3日曜(中日大祭)は楽日・還幸祭でもあり、仮殿から総社宮へ神輿にて御神体を還御する供奉行列となる。宮では神事があり、その後も山車や 獅子が市内を巡行し、夜9時頃まで祭りを盛り上げる。以上はhttp://www11.ocn.ne.jp/~sisimai/gaiyou.htmlより引用。 詳しくは石岡市観光協会0299-23-1111(内線172)まで。但し05年は9/17〜19日に行われた。09年は9/19-21日。 ■07久伊豆神社の「ささら本祭り」・・・・・・・・・・全国かかし祭(最初何も知らずに「クイズ神社??」と思って興味が湧い て検索で調べてみました所、北埼玉郡騎西町の玉敷神社(たましきじんじゃ)が、かつて「久伊豆明神」と称し、久伊豆 神社の総本社とされていたようです。 此処の参道が巳の方角に延びて、其の先にも久伊豆神社があります。本殿と参道が未に向かい、逆方位に騎西城跡 がある。此処からも久伊豆神社と丹党との関わりが深いと見られているようです。 なので、観光情報とかご利益信心で惑わされるよりも、ご先祖の縁から選んで参拝されるのが良いと思います。 因みに越谷市越ヶ谷1700の久伊豆神社は方除総鎮守『厄除け・八方除災』 http://www.hisaizu.net/annai.html「参拝のご案内」があり、 長い参道が示す方位は1/1--7/3日。但し今の例祭は9/28日。 また越谷市内には他にも小さな久伊豆神社が10箇所ほどあるそうですね? 更に久伊豆神社が岩槻市・総鎮守としてさいたま市岩槻区宮町2丁目6−55にあって、商売繁昌・家内安全・縁結び・厄 除・方位除・病気平癒・開運招福祈願をしていて、此処は約1300年前に建立された、岩槻の総鎮守と云う。 特に初日の出参拝が有名で例年の人出が10万人とか。因みに参道の方位は6/18--12/18日頃を向いている。 更に久伊豆神社が行田市桜町2丁目20−35にあって、07/9/15(土)に「ささら本祭り」をしている。此処では初宮詣・ 七五三詣・方除・学業成就・交通安全(自動車祓)・家内安全・商売繁昌・安産祈願・厄除・病気平癒・神前結婚式な ど。 因みに本殿は東向きで参道は3月方位に伸びるので、此の点では方位と祭日とがほぼ合致。 以上の久伊豆神社は何れも主祭神:大己貴神(大国主命)。 普通、お子様のお宮参りは、近くの神社に行きます。お住まいの所に、ミコシやダンジリを巡回する所が其の神社の産 土神としての縄張りと理解します。 それから、車の安全祈願などは、お仕事などで往来する地域の社寺。 そしてご自分の厄除けは苗字と関わる氏神や日頃崇敬する寺社が良いと思います。 最後に今回、奥さまの厄除けは、先の産土神社が良いと思います。以上は、「ヤフー知恵袋」に回答した中から転記: 2010/2/9 11:29:10 ■徳川お江与の命日・・・・・・・・1626/9/15日。身分の高い人は普通土葬だったが、彼女の場合は芝・増上寺の発掘で 火葬と分かった。証拠を隠すためにやった。つまり殺された可能性がある。彼女の父は浅井長政。秀忠17、彼女は22 歳で政略結婚した。秀忠・家光・忠長は何れも出張中で徳川実記には死因記述なし。 毒殺で砒素を盛られた場合は湿疹が出るからバレる。当時、竹千代が生まれた。斎藤ふく(春日の局)が養育係。敵 (長政と信長を殺した光秀側の家老)の娘が世話役となった。次子に国松が誕生した。国松は信長に似ていた。お江与 と国松--竹千代と春日の局と言う対立があった。竹千代が家康の意志で3代将軍になり、忠長は55万石。 家康は既に亡くなり、徳川が二分していた。忠長の正室として織田信男の娘を迎え、権大納言に就任のため上京して いた中でお江与が死んで火葬となった。春日の局は大奥を男子禁制とし、お江与の家臣を遠ざけていた。秀忠も其の2 年後に52歳で死去。続いて忠長も追い込んだ。 春日の局は光秀(7/12を参照)の家老・斎藤利三の娘だった。無位無官から従3位に出世したが1643年に64歳で死 去。晩年には家康のためとして「薬絶ち」をしていたが、其れは寧ろ毒殺を悔いての事かも知れない。光秀と同一人物 との説もある天海と初対面の時に、春日の局は「お久しゅう御座います」と挨拶したと言う。 また天海(10/2日を参照)は彼女を引き立てた。以上、07/3/3テレビ大阪の番組から引用。 ★07城端むぎや祭・・・・・・・敬老の日直前の土曜〜日曜日に富山県城端町の善徳寺で。 ■07-08-09-10安乗文楽(安乗人形芝居・デコシバヤ)(〜16日)【三重県志摩市阿児町、安乗神社】 ■関ヶ原の合戦の日・・・・・慶長5(1600)9/15日に西軍の石田三成と東軍の徳川家康が東西15万人の合戦をして東軍 が勝った。原因は小早川秀秋の寝返りであり、彼は家康から事前に「味方すれば関白にする」と裏工作されていたと言 われる。だがこの戦は淀殿と北政所(高台院)の対立と言う「女の戦い」でもあった。 西軍の秀頼の母が淀殿であり、其れに対して秀秋は北政所から養育されていたため東軍に組して当然であったかも知 れない(以上、読売テレビ「今日は何の日」より借用)。ただ彼は関白ではなくて岡山72万石を領したが28歳で亡くな り、継嗣がないため所領没収となった。 ■大谷吉継・供養・・・・・・大谷吉継の菩提寺である敦賀市の永賞寺0770-22-1919で此の日前後に供養祭を催してい る。また永賞寺の南西に位置する八幡神社には城内にあったと言われる欄間、灯籠、礎石が残されている。 以下http://www.geocities.jp/bane2161/ootaniyositugu.htmによれば、敦賀城最後の城主・大谷吉継は、豊後の大谷 盛治の子、あるいは近江出身であるともいわれている。16歳の時、長浜城主羽柴(豊臣)秀吉に仕え、天正17(1589) 年、30歳の若さで敦賀5万石の領主となり、大谷刑部少輔吉継と称した。 秀吉の配下である五奉行の一人として活躍し、文禄、慶長の役にも朝鮮半島に出兵している。吉継は結城町と三島町 にまたがる城域に三層の天守閣を擁する敦賀城を築いた。また在城15年間に現在敦賀の町並みの基礎を築いた。 今も常宮神社にある国宝・朝鮮鐘は、吉継の寄進したものと伝えている。 秀吉の死後、慶長5(1600)年、石田三成の友情に感じて西軍に与し、関ヶ原の合戦に参加して42歳の若さで自刃し 果てた。 ■虫供養・・・・・・大吉寺(滋賀県浅井町)で放生会の行事の一。 ■義経祭・・・・・・鞍馬寺(京都市左京区)。 ■90亀山法皇の命日・・・・・彼の皇位継承の時に、大覚寺、持明院両統の対立が始まり、彼は大覚寺統に属した。天 皇として始めて禅宗に帰依したが、院政時代に蒙古襲来があり、この未曾有の国難に際して彼は身をもって伊勢大神 に祈って国難を避けた。 嘉元3(1305)9/15に亡くなった が、ユリウス暦にすれば10/4に当たる。山城国・亀山法華堂に葬られたほか、 南禅寺の元となった南禅院にも分骨されている。先の亀山法華堂とは現在、嵯峨・天竜寺境内の亀山陵となっている。 @つまり当時の南禅院は、寺と言うより「宮の役割り」だったと分かる。@ そうした事から彼の皇子の一人である寛尊親王も大覚寺宮として大覚寺に葬られた。こうした一連の事跡が分かれ ば、当時は暦・方位による一貫した祭り事がなされていた事実を確かめる事が出来るのです。因みに南禅寺からは後 に金地院祟傳が出て徳川家康の政治顧問となり、「黒衣の宰相」とも言われた。 ■例年-石清水祭・・・・・・京都府八幡市いわしみず。此処は古都・大阪と京都、そして奈良の中心に位置し、三本の 川が合流する交通・軍事の要衝にある。その男山の祭りは応神天皇の祭りであり、平安京以来、三大勅祭の一つとな ったが、神社の祭りと言うよりも仏教祭祀による「放生会」が行われ、「物の怪の祭り」とも言われた。 さて、此の「男山」は、八幡宮としての総本家と言われる宇佐八幡宮から貞観元(859)年に勧請した宮※であり、別当寺 として神応寺が建てられた。僧「行教」以来この寺は今も曹洞宗寺院として残っているが、応神天皇の字を逆に並べた ような神応寺とした寺号は覚え易い。 八幡神は、南無八幡大菩薩とも唱えられる神であり、神宮寺(大乗院)で祭られて来た。※石清水の元宮と言うのが2ヶ 所現存する。1つは対岸に、もう1つは奈良市大安寺南の八幡神社である。何れにせよ、八幡神は8/15前夜に御鳳 輦※に乗ってこの「放生会」を朝まで続ける祭りだった。 此れは源氏物語の時代から千年変わらぬ 衣装でこの日に続けられて来たものである。※鳳輦レンとは天皇が儀式や 行幸の際に乗る乗り物。因みに、応神天皇の命日は2/15であり、 従ってこの日迎えの祭りは8/15〜16でした。 所が八幡宮の場合も行政指導のためか旧暦の月日を一ヶ月伸ばして今の9/15にしてしまった為に、各地に散在す る八幡宮の例祭が二つ に分かれた。一つの神の祭りであるにも拘わらず、8/15を守っている所と、9/15にしてし まった所とになったのです(8/15 宇佐神宮を参照)。序でながら、男山と宇佐との方角は8/29に当たる。 以下、余談になるが石清水は聖武天皇の母・宮子に縁りの地(7/17を参照)である。よって当時国分寺が置かれた(が 今は忘れられている)。平安京に遷宮した50桓武天皇の母・橡姫(49光仁天皇皇后)も紀氏であり、よって鞍馬-上賀茂 神社-内裏-石清水の軸上に平安京を設定したと思われる。以来此処は今に至るも紀氏系の宮である。 ■嶽神社秋祭り・・・・・奈良・榛原町の嶽神社では1400年前からの秋祭りである。山麓には同じ神を祭る伊豆神社が あって此処でも祭りがある。何れも主神は雨乞いの神、タカオカミである。 ■06-07敬老祭・・・・・・奈良・桜井市の大神(おおみわ)神社の祭り。 ■日本武尊の祭りか・・・・・日本武尊の御子・建部稲依別王が父の神霊を祭った所が近江の国の一ノ宮・建部大社で ある。この宮の例祭日は4/15であるが、後記の理由から実は3/16だったと仮定する。其れが日本武尊の命日だ ったと此処では推定し、従って祭りが本日9/15とした(詳しくは「3/16」を参照)。@ まだ詳しく調べていないものの、此れくらいで命日が確定できる筈である。彼については記紀に語られているが、史家 の多くは頭から否定的に見て「架空の人物」と誤解の上で断定して来た。けれどもこのように神社の位置で命日がハッ キリした事と、其れに沿って建部氏の故地や関連があると思われる箇所が並ぶ以上、其の存在を認めるべきだろう。 ■誉田八幡宮・例祭・・・・・・ 9/14日に秋季大祭宵宮祭。15日、秋季大会。午後9時みこし渡御(応神天皇陵へ)、 神楽奉納 献茶奉納 。17日、地車曳行。18日、地車曳行。 八幡宮の主神は殆どが応神天皇である。彼は誉田別命と言った。彼は仲衷天皇の第四皇子だったが、そのまま天皇 となった方ではなくて、いったん誉田真若王(5/8を参照)の娘(仲津姫)の婿となる事で誉田の分家となったために誉田 別天皇と称したのである。其処が古市(今の羽曳野市)であった。 其処に今は伝・応神天皇陵と言う古墳も存在し、その南側にこの誉田八幡宮が存在する。@ 例えば大隈半島の大隈は彼が宮とした大隈宮(大阪)と関係するから付けた地名であろうし、実際、大隅の国には一ノ 宮として鹿児島神宮があり、此処は大隅正八幡と言って昔から8/15を例祭として来た。 彼は2/15日が命日ですから8/15日には日迎えの祭りとなった。所が殆どの八幡宮は明治の改暦により9/15日に例祭 日を変えられた訳である。さて此処・誉田八幡宮は、元は本尊として阿弥陀如来を祀る真言宗・護国寺と言う寺であっ た。 昔は和泉の海辺から上陸し、還御する古例に倣って来たが、明治10年の明治天皇の道明寺ご駐輦の叡覧以後この古 例が途絶えた。各地の八幡宮では8/15日に放生会があったが、誉田八幡宮の例祭も無論9/15日に変わっている。 そして偶然にも其の9/15日方位には百舌鳥八幡宮があった。其の西は浜寺、つまり浜辺であり、本来は別の行事であ ったのが此処で一緒くたになったものと思われる(前項の「岸和田だんじり祭り」、及び次の「百舌鳥八幡」も参照)。 ■百舌鳥八幡・例祭(旧暦8/15日)・・・・今は八幡宮となっているが、この宮の西側に御廟山古墳があり、此処が9/15方位に築造されてい る。 そしてこれ等の主軸の先には誉田の地(羽曳野市)があるので、本来は応神天皇の皇子の陵と彼(皇子)を祭る宮だったと思われる。旧暦8/15日は09/ 10/3日を参照。 ★07岸和田だんじり祭り(けんか祭り)・・・・・・大阪府岸和田市で〜16日まで(敬老の日直前の土曜〜日曜日)。 なお、岸和田だんじりの公式サイト(岸和田市)はこちら。http://www.city.kishiwada.osaka.jp/danjiri/ 岸和田だんじりを見るコツ http://allabout.co.jp/gs/eventkansai/closeup/CU20070812A/ ■06勝浦八幡神社・例祭・・・・・・・和歌山県那智勝浦町。 ■06三輪崎の鯨踊・・・・・・・和歌山県新宮市。 ■六条八幡宮(神戸市北区)の例祭・・・・・・神功皇后の行宮跡と言わるこの地に、六条判官・源為義が再興した寺 院だが今は八幡宮として の例祭。本殿は南向きで正面に馬場のような広場があり、其の先に鳥居がある。 境内には本殿に隣接して仏堂や桧皮葺の秀麗な三重塔が 建つなど、神仏習合の面影を色濃く残す古社として今では 貴重である。ただ再興した時点で既に旧暦時代であったためか、本殿を南向きに建てた上、9/15方位に仏堂・阿弥 陀堂を建て、また逆の3/15方位に 三重塔を建てたものと思われる。 従ってこの塔は、下記の花折山から30°ズレた地点に当たる。つまり春には三重塔に向って応神天皇への鎮魂の祈 りをし、また秋にはこの日に寺で「放生会」を行って、彼が阿弥陀如来として再臨される事を祈る場だったろう(本地垂迹 説を参照)。 また其れとは別にやや離れた山間部に「無動寺」がある。@ この寺の本尊は大日(阿弥陀・釈迦)如来三尊立像だが、他に十一面観音立像(何れも平安中期、国重文)、その他が 有るので、本来は六条八 幡宮の神宮寺であったろう。 とすれば、やはり元の例祭日は8/15であり、仏教渡来後の中世に旧暦に従って行い、其れを明治以後に9/1 5に 変更したものと推定する。そして先の八幡宮の三重塔は、春の縁日に花折山を指し示す標柱として、或いは其の山麓 に建ったこの寺を遥拝する望楼として建てられたものと推定する。 ■元・敬老の日・・・・・・現在,9月の第3月曜日は『敬老の日』ですが,元々は9月15日でした。この日の由来には2つ の説があるんです。1つは、聖徳太子説。聖徳太子が大阪の四天王寺に今でいう老人ホームにあたる悲田院を建てた のが9月15日だったからというもの。もう1つは養老の滝説。 『養老の滝』と言えば親孝行の息子が父親にお酒を飲ませてあげたいと思っていた矢先、お酒の流れる滝を見つける というものですが、それを聞いた元正天皇が,元号を養老と定めました。この話にもとづき、全国的に9月中旬頃に地 域のお年寄りを招待して敬老会を開くということが慣わしになったというもの。 どちらの説が正しいかは定かではないのですが1947年、兵庫県のある村が農閑期で気候も良い9月15日を『としよ りの日』と定め、この 運動がどんどん広がっていきました。そして『としよりの日』という呼び方があまりいい印象がない ということで1966年には『敬老の日』として国民の祝日に加えられたのです。 何れの説も,お年寄りを大切にする心は、今も昔も変わっていないことを教えてくれます。目まぐるしい現代においては 敬老の日は立ち止まって思いやりの心を取り戻す日であるかもしれませんね(以上は「メルマガいばらき」50号より抜 粋)。 ■幣立(へいたて)神宮・風鎮祭・・・・・・以下、http://blog.goo.ne.jp/noyamany/e/60c8eb94e90e8792b4f13e8bf228ec5b 「九州神社紀行ブログ---幣立神宮」から引用。<通称>高天原日の宮・幣立神宮(たかまがはらひのみへいたてじんぐう)【鎮座 地】〒861-3905 熊本県上益城郡山都町大野712 旧肥後国 阿蘇郡。 【御祭神】神漏岐命- 神漏美命 -大宇宙大大和神 -天御中主大神 -天照大神 (配祀)神代七世の大神 天神七代の大 神- 地神五代の大神- 五色神。【例祭】4月4日 風鎮祭 9月15日 例大祭 11月23日 新嘗祭。【旧社格等】郷社。 【御由緒】----大日本史に見える知保(ちほ)の高千穂嶺が当宮の所在地である。 筑紫の屋根の伝承のように神殿に落ちる雨は東西の海に注いで地球を包むので高天原日の宮の伝承を持つ国始め の尊宮である。古来天神地祇を祭った神籬(ひもろぎ)は、日本一の巨桧として厳存する。神武天皇のご発輦(はつれん) の原点で、皇孫健磐龍命(たけいわたつのみこと)は勅命によって、天神地祇を祭られた歴史がある。 なお、祭神は神漏岐命(かむろぎのみこと)・神漏美命(かむらみのみこと)及び大宇宙大和神(おおとのちおおかみ)・天御中主大神・ 天照大御神など最高の神をお祭りしてある。(境内由緒掲示板より)神代に民族の宗廟として創建せられた云われる。 延喜元年阿蘇友成は本社を造替して健磐龍命を配祀奉り、天養元年には阿蘇友隆が本社を造営して阿蘇両宮を配 祀した。その後文安二年、天文十四年、天正十年阿蘇氏の造営があり、今日の社殿は享保十四年細川宣紀の改修し たものである。明治六年十一月三日郷社に列した。(熊本縣神社誌より) 九州のほぼ真中に位置し、九州の「へそ」と言われる山都町(旧蘇陽町)にあります。以上、引用。 次に方位から見る。播磨の国の風土記には伊和大神の神子に石龍比古命ト妹神石龍比売命ノ二神を記している。ま た今も祝田神社(龍野市揖西町)に2神を祭っている。 健磐龍命と石龍比古命とは響きが似ており、また父の伊和大神を今の通説は大国主命としているが、実は天照大神 の孫のニニギである。両神には龍の字を当ててタツと読み、よって「辰」と誤解して、此の祭りの頃に来る台風鎮めの為 の風の神、或いは冶金の為の踏鞴(タタラ)の神としたのであろう。其の為に、風鎮祭となった(推定)。 さて方位ではまだ精査していないが、此の幣立神宮と龍野市が略8/17---2/15のラインとなっている。其の風鎮祭が明 治の西暦への改暦によって、今の9/15にスライドした可能性がある。 ★06-07-09老人の日(「敬老の日」は09/9/21日)。 または ![]() パテント・著作権は本会に属します。 「鬼の会」 |