http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」 p119 (未定稿) ![]() 神々の歳時記 6月上旬 但し方位による ●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起 の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 http:// www.omatsuri.com/link/linkvex.html/mailmag@mag2.comから 及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-6月」より一部引用・転載させて頂きました。 6月・上旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ 6/ 7 日 ★07YOSAKOIソーラン祭り(6〜10日)【北海道札幌市】 ■11YOSAKOIソーラン祭り(〜12日:例年6月上旬)【北海道札幌市】 動画http://www.omatsuri.com/movie/ysolan.html ■07-08-09-10山王祭・・・・・東京都千代田区、日枝神社で7〜17日まで:例年6月15日を中心とした一週間。 「動画」http://www.omatsuri.com/movie/sannou.html ■09鳥越神社・例大祭・・・・・・・・・東京都台東区。 ■東京・品川・荏原天王祭・・・・・・海中渡御。 ★09金沢・百万石まつり・・・・・・・・・7日(日) 最終日。8:30から16:00 百万石茶会 [兼六園周辺]、18:30から21:00 百万 石薪能 [金沢城公園] ■07-08-09三宝院花の峰・・・・・・醍醐寺(京都市伏見区)で6/7〜8日、修験者の大峰山入峰式。下記の「竜泉寺」も 参照。 ■45聖武天皇皇后・光明子の崩御日・・・・・・・彼女は藤原の安宿媛で光明子とも言われた。やがて光明皇后となっ たが、天平宝字4//6/7に崩御して佐保山東の陵に葬られたとされている。今、奈良市には聖武天皇陵の横に彼女の 陵aが並んでいるが、それでは命日と方位が合わないので誤伝か憶測による治定であろう。 他法、京都・向井市には桓武天皇の皇后(藤原 乙牟漏)のお墓とする長岡陵bがあるが、此処こそ光明皇后陵で有る 事が命日方位から確認できる。長岡京を築いた目的の一つが光明子の為で有った事が分かる。 広大な宮内庁陵の中で此の墓域の直径が約65メートル、高さ約7メートルの円形をしているが、命日と方位が藤原 乙 牟漏とは合わず、其れより寧ろ、光明子の命日に合致するのです。 光明子の終焉の地が平城宮、または其の東の法華寺(海龍王寺)として、其処を基点として命日の方位の前後を見て も、光明子の陵と思われる所が先の誤伝の陵a以外には見当たらないのです。 では次に此の6/7日の命日を旧暦乙丑の日と仮定して、ユリウス暦に換算すると760/7/23に相当するが、その方位の 前後にも格別其れらしい所もない。ただ、平城宮の近くに唐招提寺が有る。だがこの寺は彼女がなくなる前年に鑑真 和上が開山しているから直接関係はなさそうである。 さて、平城京の大極殿跡から先の6/7日の方位に進んで見ると12/3.5←→6/4方位に向日市の長岡陵b(桓武皇后高畠 陵の事)と五塚原古墳とが連なっている。所で45聖武と50桓武とでは一字違いの別人である。 この塚の形が略南北向きである上に、近くに光明寺があるので、此処は桓武ではなくて聖武皇后、つまり彼女(光明) の陵であると分かる(桓武皇后については「3/29日」を参照)。暦(命日)・方位が光明と略合致し、其処に光明寺まで有 る以上、最早彼女と断定する外はないのです。 しかもその陵の南部に、無論このラインの軸の上に勝龍(青龍)寺があり、本尊が桜木造十一面観音立像(重文)であ る。但し、この寺の創建年代はもっと後の平安時代なので、全く偶然此処に位置する寺であるかも知れない。其の点、 光明寺(長岡京市)は、この陵の2.5キロ先に有って命日ラインからも外れる。 しかも此処は法然上人が最初に立教の念仏を説かれた開宗の地として今では「総本山光明寺」となっている為、最早 彼女との繋がりを確認するのは無理かも知れない。だが、譬え寺伝にはなくとも、ご本尊が女性的な十一面観音立像 であり、平安時代の尊像として国の重文になっているので、無関係とは言えない。 この寺は聖武天皇の菩提を弔うために彼女が彼の陵との軸線の上に建てた(東大寺の裏に正倉院も建てた)訳だが、 法華寺の本尊(異常に腕が長い)、及び海竜王寺の本尊が何れも十一面観音像であり、何れも彼女(光明)をモデルに したものと言われ、国宝になっている。尚、法華寺は代々近衛家の娘が入寺し、真言律の比丘尼御所となった。 と言う事は、法然上人以前からあった寺である事が自明の理とも言えよう。所で、聖武の東大寺(総国分寺)に対して彼 女は法華寺(総国分尼寺=法華滅罪之寺)を創建した。 ともあれ、彼女は先の長岡京でもこの法華寺でもなく平城宮で崩御した。先の光明寺と法華寺(海龍王寺)とは11/28方 位を示しているので、生憎月日の数字としては異なるものの、両寺のご本尊として彼女が祀られ、その尊像がある事も 一つの傍証となる。何れにせよ、奈良から見て、命日とは逆方位の向日市高畠陵に葬られた事になります。 其の名前が今は五世代後の別の皇后に入れ替わっているものの、旧跡が此処まで残されていたのは幸運でした。長 岡京のケースは恐らく、地元の方々の篤い心と貴い努力が有ったのでしょう。尚、光明寺は075-955-0002、また法華 寺門跡(総国分尼寺)0742-33-2261は真言律の比丘尼御所とも呼ばれたが今は鄙びた寺である。 因みに05/10/29日には向日市で阪急・西向日駅の東に楼閣跡を確認して此れを「長岡京の朝堂院南門遺跡」と推測 した。だが長岡京はもっと西の向日神社側にあったと推定すべきである。 何故なら先の話の論旨で見れば、そもそも桓武天皇が光明子の弔いの為に此処(向日市)に長岡京(内裏)を造って 後背部の彼女の陵(今の伝・桓武皇后・高畠陵)を祭るためだった事が明白であるからです。其れは極めて政治色の 強い藤原一族への「大義名分」だったかも知れないし、祭政一致の原理にも適っていた事が此れで判明するでしょう。 ■長岡京(遷都の理由)@奈良の平城京から長岡に遷都をした理由-------日本の場合は外敵を予想して諸外国のように都城を要塞化する事は有 りませんでした。特に遷都の場合は「盆地が好き」とか、戦略上の問題ではなく、天皇交替の際の掟であった「一代一宮制」によって、先帝の命日方角とは反 対の角度に遷宮を重ねて来ました。例えば 長岡京への遷都の意味も、藤原氏である祖母の御霊を新宮で迎える為でした。遷宮の動機についても通説では桓武の気まぐれで放棄したとか、奈良(平城 京)の水利が悪く、既に衛生上行き詰っていた。 其れが「ならの都が臭うが如く」と和歌にも表現された真の事情であるとか、従ってより交通の要衝である淀川縁に移す必要性から長岡に着目したとか、或い は藤原氏や仏教勢力が強まったため、其処から脱出する方便だったとか、或いは藤原種継が秦氏の財力を当てにして近づいたとも言われて来た。要するに 何れも憶測ばかりで謎にしていた。 其処で此処に正解を述べる。長岡が784〜794年に都となったのは光明子(藤原氏・安宿媛・聖武皇后)が760年6/7日に崩御して24年目である。其処で桓武天 皇は聖務−孝謙−淳仁−(称徳)−光仁−桓武と続く皇統の内で先の聖武皇后(光明子)を弔い、次に恐らく23回忌を済ませた後の翌年に、彼女の御魂を 迎える必要が有った。 其の祭り事の為に命日とは逆方位の今の向日市に長岡宮を造営・遷都した。此れで藤原氏の勢力を祭り事に同化させる事に成功した筈である。此れが当時 の「大義名分」と言うものであるが、此処はしかし10年で放棄して次は先代の光仁天皇の弔いのために平安京に遷都した(1/15日)。 其れが祭り事の大義と順序であった。何故なら先の話の論旨で見れば、そもそも桓武天皇が義祖母・光明子の弔いの為に此処(向日市)に長岡京(内裏)を 造って後背部の彼女の陵(今の伝・「桓武」皇后陵は誤伝)を祭るためだった事が方位から明白であるからです。其れは極めて政治色の強い藤原一族への 「大義名分」だったかも知れないが、祭政一致の原理には適っていた。 桓武天皇が先ず光明子を弔い、次に母・高野新笠、及び皇后・井上内親王(いのえ、または「いがみ」ないしんのう)の弔いのため遷宮した。井上内親王の場 合は養老元年(717年)生まれ。第45代聖武天皇の第一皇女。伊勢斎王、のち第49代光仁天皇皇后。別名井上廃后、吉野皇后とも呼ばれて宝亀6年4月2日、 または27日(ユリウス775年5月5日または30日)が命日(獄死)。 井上内親王の陵は現在、五條市にある。其処から真北に当たる地点に桓武天皇が長岡宮を造って9年後に改めて彼女を弔おうとした事が分かる。こうした弔 いと祭りの為に此処(向日市)に長岡京(内裏)を造って、後背部には聖武皇后(光明子)の陵(今の伝・桓武皇后陵は誤伝)を祭るためだった事が方位から明 白になる訳です。其れは極めて政治色の強い藤原一族への「大義名分」となり、かつまた祭政一致の原理にも適っていた。 西向日は光明子陵と平城宮のラインの軸にあり、また次の平安宮つまり光仁天皇の命日ラインと交差する位置付けに当たる。具体的には今の「長岡宮跡」で はなくて、寧ろ向神社お旅所・法華寺辺りであったろう。 だがこうして折角、奈良から遷都したにも拘わらず、桓武はどうして10年間で長岡を見捨てたのかが謎とされていますが、それは父・光仁天皇が此の長岡で 崩御されたので、其処がケガレ地となった事から、その命日方位に当たる上賀茂に向かって遷都して平安京とした訳です。 ■長岡京(遷都の理由)A折角奈良から遷都したのに桓武はどうして10年間で長岡を見捨てたのかが謎とされ、また今もって元の都の正確な場所 が分からない。遷宮の動機についても通説では桓武の気まぐれで放棄したとか、諸説あるが憶測ばかりなので此処では正解を述べる。 長岡が784〜794年に都となったのは光明子の弔いが動機であった事は先に述べた。此れで藤原氏の勢力を祭り事に同化させる事に成功した筈である。此 れが当時の「大義名分」と言うものであるが、此処はしかし10年で放棄して次は先代の光仁天皇の弔いのために平安京に遷都した(1/15を参照)。 其れが祭り事の大義と順序であった。因みに05/10/29日には向日市の阪急・西向日駅の東で楼閣跡が確認された。此れを今の関係者は「長岡京の朝堂院 南門遺跡」と推測している。だが長岡京はもっと西の向日神社側にあったと推定すべきである。 西向日は光明子陵と平城宮のラインの軸にあり、また次の平安宮つまり光仁天皇の命日ラインと交差する位置付けに当たる。具体的には今の「長岡宮跡」で はなくて、寧ろ向神社旅所・法華寺辺りであったろう。その意味で先の楼閣は其の一部であろうが南門ではなくて寧ろ北門側になる。 此の長岡京で光仁天皇が崩御のために、彼は次に其の祭りの場として父の命日方位に当たる方位を選定し、遷宮して平安京とした事になります。 ■隆光僧都の法要・・・・・・・・・彼は長谷寺で修行したが、やがて江戸に出て高僧となり、徳川綱吉の生母・桂晶院の信 認を得て大本山護持院を開いた。だが綱吉に「生類哀れみの令」を進言して犬公方と妖僧と言う悪評を受けて引退し 大和に帰った。やがて享保九年のこの日に76歳で死去。 其れまでの彼は、言わばねずみ講方式で資金を集めて大和の名のある寺院を再興したので彼に恩のある寺は東大 寺、薬師寺、長谷寺、室生寺、教興寺(八尾)などである。 ただ彼の悪評のために沈黙している寺が今も多い中、法要が真言宗豊山派本山・長谷寺(桜井市)で行われ、墓地が 筆者の知る範囲では通法寺跡(大阪・河南町)にひっそりとある。 ■07-08-09三宝院門跡花供入奉・・・・・・竜泉寺(奈良県天川村)で6/7〜8日、三宝院門跡を迎えて大護摩をたく。上 記の醍醐寺「三宝院」も参照。 ■住吉大社の貴船社・例祭・・・・・・風雨を司るタカオカミを祭る貴船社の本社は京都の貴船。此処ではこの日の10:0 0から。 ■生田神社の例祭か・・・・・・・神戸市の生田神社は稚日女(わかひるめ)尊を祭り、例祭(生田祭・神幸式)を4/15 〜6日としている。参道が真っ直ぐ600m南に伸びて、阪急・三ノ宮駅を突き抜けて神戸港に向いている。其の暦・方 位が6/7←・→12/6なので、生憎この4/15日の神幸式とは一致しない。 ただ参道の向きからは本来の例祭日が6/7だったと判明する。この道は神戸市の都市計画で新設された道路ではな い。江戸末期の伊能忠敬の地図にもこの参道が海まで伸びて、今の市立博物館辺りに鳥居が描かれている。 其の参道は今の国土地理院の1/1万分の地図ともピッタリ重なるので、200年前に伊能忠敬は方位を重視するた め、磁石ではなくて天文観測によって其の地図を書上げた事が分かる。だが其の恩恵に浴している筈の現代人が科 学・数字・モノカネ迷信に陥って方位無視でいるのですから残念です。 生田の例祭にしても昔は8/12、やがて7/晦日、次に4/3となり、明治18年から今の4/15になったと言うから随 分いい加減である。5/15には太々神楽、7/15に千灯祭、そして9/19〜23までの秋祭りは殊に賑わうと言われ る。其処でもう少し由来を遡れば、社殿は昔は六甲山の砂(いさご)山にあったと言うのだ。 ただ其処を今の地図では確認できないので先の参道から辿る。参道から真っ直ぐ六甲山に向かえば小山がある。 其の形が南北に向いた前方後円墳と分かる。とすれば生田神社の主の命日が冬で、其の祭りが夏祭りとなる。この小 山の標高は362mあるが、その下は山麓バイパスの第二布引トンネルが通っている。 序ながら言えば、「布引」とは、昔の祭礼で神の通り道を示すために伸ばして標したものである。そして更に北へ向かえ ば石峰寺があり、豊岡市の気比から日本海に出る。一般に「気比」は吉備に通じ、また丹生(にゅう)に通じるとも言わ れる。 其処で生田神社の正面である6/7.5日方位を見れば神戸港から大阪・泉南市を通って和歌山の丹生の里に至り、 其の先はすさみ町・和深崎から太平洋に出る。和歌山と言う県名にしてもこの稚日女尊に由来するし、彼女のまたの 名は丹生都姫命である。 其の地が紀伊山地であり、紀伊の伊はイズノメからであり、彼女は天照大神の姉であり、和歌で返せない回り歌の恋 文を哲学者・思兼命に渡して終に其の恋を成就させた姫でした。その軸線の途中の桃山町にも丹生神社もあるが、同 軸上の段地区の八坂神社の例祭日はこの日6/7である。 因みに生田神社もこの丹生神社も神功皇后ゆかりの宮である。皇后はこの神の御蔭で大願成就となったので宮を作 り、祭礼を行わしめたと社伝に残る。尚、丹生神社は0734−71−9092 ■08大山山開き(〜8日:6月第一土曜日〜日曜日)【鳥取県西伯郡大山町】 ▲07大山祇神社・例大祭・・・・・・・・旧暦4/21。前日が御更衣御戸開祭。愛媛県今治市大三島町宮浦3327。主祭神- 大山積神、社格等-日本総鎮守、伊予国一の宮、延喜式神名帳<名神大>国幣大社。 因みに産須奈大祭(旧暦8月22日)があり、西暦にすれば彼岸の頃になる。 例えば来年08/9/21日は旧暦8/22日である(3/21「東西に並ぶ弁天」を参照)。 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、瀬戸内海の大三島に位置する神社。大山積神を祭神とし、全国の山祇神社、三島 神社の総本社である。国宝8件、国の重要文化財75件(2005年現在)を有し、天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」 がある。以上はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%A5%87%E7%A5%9E%E7%A4%BEより引用。 ★09壬生の花田植(6月第一日曜日)【広島県北広島町】 ★09鹿島ガタリンピック(例年5月下旬頃の潮位が安定する日)【佐賀県鹿島市】 ■08呼子の大綱引(〜8日:6月第一土曜日〜日曜日)【佐賀県唐津市呼子町】 ★09せっぺとぺ(6月第一日曜日)【鹿児島県日置市】 ★08糸満ハーレー(旧5月4日)【沖縄県糸満市】09/5/28 ★計量記念日。危険物安全週間(3〜9日)。 ★07原水禁平和行進・・・・・・・高松市。 6/ 8 日 ▼09満月 ★07YOSAKOIソーラン祭り(6〜10日)【北海道札幌市】 ■08寝釈迦の花まつり・・・・・・・・茨城・稲敷市。釈迦堂。0297-87-3169 ■08鳥越神社大祭(〜10日、例年6月9日に近い日曜日)【東京都台東区、鳥越神社】 ■杭全(クマタ)神社・夏祭?・・・・・・・・現在は7/15に行われるが、方位から此れを見れば、此処からの方位が新宮 で5/30、本宮が6/5、那智は6/8である。其れが明治の改暦により、夏祭りが7/6〜14、例祭が10/17とな った模様である。でもこの方位には関係先が全く見られない。 とすれば矢張り本祭りは昔の6/5〜8が正しかったのではないか。 ■08因幡の菖蒲綱引き(旧5月5日)【鳥取県気高町など】 6/ 9 日 ★07-10YOSAKOIソーラン祭り(〜13日)【北海道札幌市】 「動画」http://www.omatsuri.com/movie/ysolan.html ★07チャグチャグ馬コ・・・・・・・【岩手県岩手郡滝沢村・盛岡市】毎年6月第2土曜日はチャグチャグ馬コの日(平成18 年6月10日)。色とりどりの装束と鈴を付けた約100頭もの馬が、鈴の音をチャグチャグと響かせながら練り歩く「チャグ チャグ馬コ」は、愛馬の日頃の労をねぎらう目的で始まった。 昔は陰暦6月17日で芋田にある村社駒方神社の祭典、所謂「お蒼前さま」であった。夜の明けぬうちから近郷の若者が 昔の戦絵にある様な、紫、朱、・・・様々の美しい飾りを着た馬が鈴の音、嘶ぎの音、勇ましく暁の村路を急ぐ様子は、さ ながら幾十年の歴史を逆上がりしたかのやうに感ぜられる。 約200年の伝統をもち、南部駒の産地にふさわしい馬の祭りです。国の無形民俗文化財に選定されています。※開催 場所:岩手県滝沢村鬼越蒼前神社から盛岡八幡宮まで約4時間かけて行進します。※詳しくは主催者にお問い合わせ ください。問い合せ先:盛岡商業観光課 019-651-4111 ○施設へのお問い合わせは 019-659-0131 ★かんぽの宿 盛岡http://www.fukushi.kampo.japanpost.jp/shisetsu/yado1/2032morioka/index.htmlより一部引用。 ★11鳥越神社大祭(〜12日:例年6月9日に近い日曜日)【東京都台東区、鳥越神社】 (神輿渡御など中止)動画http://www.omatsuri.com/movie/torigoe.html ■07山王祭・・・・・・東京都千代田区、日枝神社で17日まで。 ★06加賀百万石祭り(〜11日)【石川県金沢市】・・・・・07年は6/1-3。 ■09近江神宮・献茶祭・・・・・・・・大津市。 ■京都・北野神社の九度参り・・・・・・宮渡祭。東向観音堂から本社へ七度参る。 ★07ウィンドン・モーガン供養祭・・・・・・奈良・安倍文殊院で。戦時中、彼は「日本の文化財を空襲で焼いてはならない」 と運動した。其の事に感謝して桜井市仏教会などが主催して命日法要を執り行うもの。 ■07錦帯橋・花菖蒲まつり・・・・・・・・岩国市。 ★07ロックの日・・・・・・・6/9はロロックであり、其れにこじつけて防犯の鍵の記念日としたもの。 6/ 10 日 ★09・第18回YOSAKOI(よさこい)ソーラン祭り・・・・・・・・北海道札幌市で10〜14日までの5日間(例年6月第2日曜前 後)。3.3万人参加。 ▼06チャグチャグ馬コ・・・・・・・ちゃぐちゃぐうまっこ【岩手県岩手郡滝沢村・盛岡市】[ 行列・パレード ] 2006.06.10 (土)。装束で飾った馬約100頭が、子どもを乗せて滝沢の鬼越蒼前神社から盛岡八幡宮15kmを練り歩く。09年は13 日。 ■例年-長井あやめ祭(〜7月10日)・・・・・・・・山形県長井市。※開花時期により前後することあり ■11長井あやめ祭(〜7月6日)【山形県長井市】 ■08あじさい祭・・・・・・・・・茨城・桜川市・雨引観音0296-58-5009で7/20日まで。 ■09山王祭(〜16日:例年6月15日を中心とした一週間)【東京都千代田区、日枝神社】 ★07鳥越神社・例大祭・・・・・・東京都台東区浅草でヤマトタケルと天児屋根命を祭る。名物「お化け神輿」は交通事情のた め別の日に出る。また6/30夜には悪病祓いの「茅の輪潜り」7/1には柳橋から品川沖へ60隻の船による「形代流 し」がある。ただ例祭は第二日曜なので毎年変わる。 ★06-07金沢百万石まつり・・・・・・・10日の夕方から先ず浅野川で1200ヶの加賀友禅の灯ろう流し。平成18年6月10日 (土)〜、石川県金沢市にて、金沢百万石まつりが開催されます。藩祖前田利家公が天正11年(1583年)金沢城に入城 し、金沢の礎を築いた偉業・遺徳を偲び、金沢入城を再現した「百万石行列」は、豪華で見ものですね♪ なんてたって、約約5時間にわたって繰り広げられるんですよ(驚)金沢百万石まつり公式HP http://www. 100mangoku.net/index.html 以上、メルマガ「なっとく歴史館」 http://1rekisi.jpより転載。---09年は6/13日。 ■09近江神宮・漏刻祭・天大日月地大神祭・・・・・・・・大津市。 ■06-07-09時の記念日・・・・・・・この日を制定した経緯について筆者は無知であるが、古典によれば斎明天皇六年の 夏五月、当時の皇太子(後の天智天皇)が漏刻を作った。 またその後、天智天皇の10年夏4月丁卯朔辛卯の25日に初めて漏刻により時を打ち鐘鼓を鳴らした事に因んで、後 者の日をグレゴリオ暦の6/10(ユリウスでは6/7)として大正9年に「時の記念日」としたものと推測する。 だが偶然にもこの時期は天智天皇が此処・大津の宮で崩御された命日(ユリウスでは1/7、グレゴリオ暦で1/10)の 裏正面、即ち「日迎えの祭り」の時期に当たる。とすれば何と言う奇縁であろう。 天智天皇をご祭神とする近江神宮は、昭和13年創立の神宮であるが、この日「漏刻祭」を行い、同時に「時の記念日」 を祝い、また7/7には「燃水祭」で祝う訳です。因みにこの神宮の例大祭は4/20日である。此処には「時計博物館」0 77−522−3725があり、また「日本暦学会」事務局がある。 ■06-08-09京都・伏見稲荷の田植え祭・・・・・・此処は稲作の神を祭る大社として伊勢の外宮以上に庶民の信仰が集 まる。この日は神前に供えた苗を境内の約3アール(100坪)の神田に運んで薄緑の平安装束の神楽女4人が「御田舞」 を披露し、茜タスキに菅笠の早乙女たち25人が古式ゆかしく早苗を植える。伏見稲荷大社075-641-7331 ■沖縄・糸満ハーレー・・・・・・・・【沖縄県糸満市】 6/11 日 ●入梅・・・・・・西日本はこの頃から凡そ7/20日まで入梅。但し、年により約10日くらい前後するので気象庁が毎年 判断を誤り悩む時期。旧暦5月に降るこの雨を「さみだれ」と呼んで五月雨と書いた。 ★11チャグチャグ馬コ(6月第2土曜日)【岩手県盛岡市・滝沢村】動画http://www.omatsuri.com/movie/chag.html ■北条政子・・・・・・7/13日に記載。 ■源 為朝の忌日・・・・・・彼は九州で活躍した武将(鎮西八郎)だが乱暴狼藉を働き、また清盛にも大敗した結果伊豆 の大島に流された。だが其処でも同じ状況を作ったので工藤茂光の軍に攻められてこの日に自尽した。とは言え、嘉 応2(1170)年4月と記録にあるのみで実際の命日は不詳だった。 所が八丈島には為朝神社とか彼の子、次郎の創建とされる宗福寺など、彼に関する遺跡が結構ある。其処で大島と 八丈島との位置から凡その方位を見れば新暦のこの日6/11となり、此れを当時の暦に逆算すれば閏4/18戊辰と 判明する。 ■第13代・成務天皇の命日・・・・・・・彼(ワカタラシ彦)はヤマトタケルの弟だった。景行天皇13〜14年(83〜84年)に生 まれて成務天皇60年6月11日に崩御している。記紀では第13代の天皇として在位元年(131年)1月5日 から 同60年 (190年6月11日)であり、和風諡号は稚足彦尊、若帯日子天皇と言う。 皇居は志賀高穴穂(たかあなほの)宮で今の滋賀県大津市穴太辺りと推定。此の当時の皇居は素朴な物であり、しか も定型化した御堂のような建物だったので一時解体してソックリ移動した。「立つ鳥跡を濁さず」と言うように元の田圃 に戻した。 此の為、宮跡を今になって掘り返しても簡単に見つからないが方位でなら命日の交点で捉える事が出来る。御陵もま た科学や学問では簡単には分からなかった。方位を無視しては尚更です。一般に、「沙紀の多他那美(たたなみ)」、ま たは「狭城盾列陵」、狭城盾列池後陵(--いけしりのみささぎ) とされている。 其れが現在、奈良県奈良市山陵町の佐紀石塚山古墳(前方後円墳・全長218m)に比定される。江戸時代までたびた び盗掘の被害に遭った古墳の一であるから宮内庁が締め出していても色々分かっている筈であるが、特定には至って いないので本書として確定的な結論を述べる。 本書では当初、「此処は命日が真冬の冬至の翌日に崩御の方である事をその陵形で黙示しているから別人の墓地で ある。とは言うものの、主軸は彼の命日ラインに近い」と述べて更に、「なので彼の陵の可能性が強いが、第二候補とし ては開化の兄として日高見国を平定した大彦命を挙げる事も出来る。 と言うのは、此処から出土したとされる鏡には神代文字でセマキシアモヒコ命イルヒが大彦命であると解読できる銘文 が有った。此れは当時、楽浪郡(高句麗)から献上されたものと見られる(後半部は「日本超古代文明のすべて」から引 用)。@ と述べて来たが、国土地理院の1/1万分の地図を拡大して見直しをした結果、今治定の成務天皇陵が彼の命日に合 致した。のみならず其の軸線の延長上に垂仁天皇の纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)があった。本書で確定した 所はJR郡山駅辺りです。 とすれば11代の垂仁の宮からは彼が離れずに本家として留守を守っていたのか、もしくは志賀の高穴穂宮から舞い戻 っていた事になりますが、結果として、陵の位置からは彼が第13代の天皇として纒向珠城宮で亡くなった事を明示して いる。何れにせよ陵が伝承され、其れが今の治定に結び付き、其れを本書で確認した。 こうした三点合致の例は珍しい。ただ此れまでは各地に皇子が分散して朝廷としての正式な祭り事を行われず、各地 で勝手に墳墓の祭りが行われて正史として残らなかった可能性もある。其の点では先の穴太寺が見過ごせない。穴太 寺の後背地には八木町の清源寺がある。@ そして更に南行すれば和歌山県橋本市の隅田八幡宮に至る。此処には国宝に指定された銅鏡があり、その銘文は謎 めいている。「癸未の年の八月にこの鏡を男弟王がオシサカの宮にいた時に兄の長寿を念じて白銅で造らせた」云々 と解釈できるものの、この歳が西暦の何年になるかと言う点と、彼には53人もの弟がいた。 だから年代と人物共に特定が出来なかったが、仮に西暦143年とすれば成務13年、倭国大乱の30年前頃である。 ともあれ更に其の先には二日ズレた位置ではあるが、奈良県野迫川村の立里荒神社があり、今は簡素な社だが、地 元では古来、高野山と並んで霊験あらたかな古社として広く崇敬されている。 ※先に触れた「鳥飼西」にはかつて大隅宮があったと推定する。 と言うのは、神功皇后は三韓征伐から凱旋するに当たり、先ず紀州の岸の宮で亡夫(仲衷天皇)を弔った後で、難波津 に凱旋したからだ。難波津には既に亡き成務天皇の斎の宮があったろうが、生憎、この天皇には弟は多くとも皇子が ワカヌケの王しかなかった事もあり、彼女が大隈に居つく事で、亡き祖父・成務天皇への鎮魂と凱旋報告となったろう。 其処で我が子の誉田別命はまだ三歳であったが、亡夫(仲衷天皇)の皇太子としてではなく、亡き祖父・成務天皇の日 嗣の幼帝として即位させ、此処を大隈の宮とした。此処こそ羽曳野市の陵の主軸と合致する地点であり、だから宮を設 けた訳である。無論、彼女は其の摂政となった。 所で、日本書紀にはこの頃の宮をこの難波の大隈ではなく、磐余・若桜宮と記しているが、今も大阪市天満の淀川べり には凱旋の記念碑が立っているし、JR桜の宮駅もある。この淀川べりの遺跡は昔から何度も氾濫で流失し、既に大隈 の地も桜の宮も特定できなくなっているものの、東淀川区には大隈町や大隈神社が今も有る。 よってこの辺りの可能性が大きい。しかも、先の崩御日と命日ラインから見れば他説よりもその可能性がある。またこ の日の神事については羽曳野市の伝・応神天皇陵に隣接して八幡宮があり、此処ではこの日に「降誕祭」をして来た。 この誉田八幡宮は八幡宮としては最古とも言われており、其の意味が此れで無理なく合点出来よう。 其れは成務が八幡神・応神の養父であり、実家だったからでした。@ 当時から天皇家は各代の遷宮の都度、皇子たちを各地に分散して祭り事の拡張を続けた。武力による侵略・討伐では なくて、遷宮とか祭り事を大義名分の方式・方便とした暦法の改変と条里制など、要するに税務管理と収奪支配の冊封 覇権体制の拡張だった。結果として当時は放射状に皇子たちを各地に天下りさせた疑いである。 よって当時をタラシ王朝とも呼ぶ。垂仁までは特にそうだった。彼・成務も和名ではワカタラシと呼ばれた。だがそうした 言わばパーティ屋ではなくて彼は寧ろ国土開発にポイントを置いて大和内部の安定を図ったのではないか。彼・成務は 東西南北を改めて明示したと日本書紀に記された。 つまり彼は近江ではなくて大和にいて亡くなった。陵は此の為、巻向から6/11の逆方位に当たる12/10方位に葬られ た。其れが今の伝・成務陵(奈良市北部)である。さて彼は生前に兄・日本武尊の偉大な功績に鑑み、実子の和訶奴 気王を差し置いて日本武尊の息子(成務にとっては甥)の足仲彦尊を皇太子に立てた。 其の上で成務60年(190年)6月に崩御(95〜107歳)した。其れによって次の仲哀天皇となったが、彼・成務は言わば中 継ぎの立場になりますから当時の一連の流れの中では異例だった。だが皮肉にも時代はやがて所謂「倭国大乱」時代 (178-184)に入る。 武之内宿禰が5帝に仕えると言う異様な世の中で再び成務の跡継ぎとして応神天皇が出現するのである。 ■08水口祭・・・・・・・・・香川用水土地改良区が地元の伝統行事として行う。 6/12 日 ★10チャグチャグ馬コ(6月第2土曜日)【岩手県盛岡市・滝沢村】 「動画」http://www.omatsuri.com/movie/chag.html ★10小町まつり(〜13日:6月第2土曜〜日曜日)【秋田県湯沢市】 ■07-09東京・日枝神社・山王祭・・・・・・・・・6/10〜16日。 ■07-08-09成田山・開山忌・・・・・・・・新勝寺(千葉県成田市)で開山の僧・寛朝の法会。 平将門か叛いたので朱雀天 皇が彼に宝剣を授けて朝敵調伏の祈祷を命じた。彼は難波津を出て公津ヶ原に壇を築いて修法した。よって2/14日に 将門が倒れたと言われる。彼は京都に戻ろうとしたが、神護寺から捧持した不動明王が重いので置いて行った。 其処に朝廷は国司に伽藍を建てさせたが、やがて現在地に移したのが新勝寺と言われる。 ■09近江神宮・雷神祭・・・・・・・・大津市。 ■07-08-09琴曲開祖・八ツ橋忌・・・・・・・・法然寺(京都市下京区)。 ■蘇我入鹿の命日・・・・・・5/15を参照。 6/13 日 ▼09チャグチャグ馬コ・・・・・・・岩手県岩手郡滝沢村・盛岡市で6月第2土曜日に[ 行列・パレード ] 。装束で飾った馬約 100頭が、子どもを乗せて滝沢の鬼越蒼前神社から盛岡八幡宮15kmを練り歩く。 ■九頭龍神社例祭・・・・・・箱根神社の境内にある九頭龍神社の例祭。芦ノ湖から湖尻に向かった湖岸にも元の九頭 龍神社(電鉄会社の敷地内)があり、鳥居が湖中に立っている。箱根神社では7/31から8/1まで九頭龍神に対して 「湖水祭」を行い、3升3合3勺3才の赤飯を納める。 九頭龍は古くから埋没させられた謎多い神であり、各地の其れは直接出入りできないような所にひっそり祭られている 事が多い。この神についてホツマツタヘには、天照大神の12妃の内の持子と早子であり、此れをハタレ魔としている。 奈良や各地には葛の地名があり、また北陸の白山から流れ出る川に九頭龍川があるが、それらとどう関連が有るの かどうか興味ある所です。箱根権現の場合は、中世では源氏に崇敬され、また北条氏も時政が江ノ島に参篭して夢告 を得て以来九代の北条家の家紋として「三つ鱗」を旗印に掲げた。 其れは九頭龍のウロコのシンボルであり、北条氏に所縁の神であった。 ★09加賀百万石まつり・・・・・・・ ■最澄の命日・・・・・・・天台宗は比叡山と三井寺が各々総本山で共に有名であるが、前者は山門派、後者が寺門派と 言う関係で、かつては激しく対立して叡山が僧兵を繰り出して十数回も三井寺の伽藍を焼失させた。だが叡山側も信 長の反感を買って焼き討ちされた。 では何故、両寺が別々に出来たのか、と言う点については誰も半分しか語らないので、残りの半分を追跡して真因に 迫りたい。先ず最澄が叡山で開宗後、弘仁13(822)/6/4日に入寂したので弟子の円仁が跡を継いで山門派と称し、そ れに対して逆の命日6/4方位に近い三井寺に円仁の跡を継いだ円珍が園城寺と言う別院を興した。 所で最澄は大師号として初の「伝教大師」を追贈され、また其れ以前に根本中堂が「延暦寺」として勅額を賜っていた。 とは言え、鎮魂の側にある三井寺が本来の寺であり、それに対して叡山は言わば神社と言う意味・役割りの違いが当 初から有った事になる。 しかも元々、叡山の山末には山王権現があったので最澄はこの神(大山咋クヒ神・今の日吉大社)を寺の鎮守としてい た。そうした二つの由来から以後、叡山は「三千坊」と言われるまで発展した。其れは山王権現として神仏習合の一大 根拠地となった訳だが、天台座主が検校となって社家を配下に置く構図になって行く。 円珍は終生叡山にいて、其の興隆に尽くしたのであるが、円珍の130年後の正暦四(993)年、山門派・円仁系と円珍系 の両派の対立が限界に達したのか、円珍系の門徒千人が山を下り、三井寺に移って寺門法流となったのです。以上で 両寺の役割の違いと方位関係の意味が判然とする訳だが、次の問題は命日の日付です。 此処で「この日」と論ずるにはラインがズレているため、断言できない点がある訳です。先ず、命日とする叡山(根本中 堂)から6/4方位に進めば京阪の浜大津駅に行ってしまうからだ。つまり駅から一キロ西に行かないと三井寺・金堂に 至らないのである。言い換えれば、叡山と三井寺金堂との暦・方位関係は6/13日になるのである。 叡山からこの命日方位に進めば建立院があり→次に崇拝福寺跡→新羅三郎墓→三井寺・園城寺・金堂→千頭岳 (600m)に向かう。此れが鎮魂方位に当たる。其れとは逆に叡山から日迎えの12/4方位に進めば叡山の青竜寺を突き 抜けて京都大原に至る。 其の大原には寂光院(伝・聖徳太子の開基、天台宗)があるが、その西を通過すれば野村があり、無名の寺と神社を過 ぎると滝谷(別所)山があり、更に奥にも同程度(標高877m)の山が並んでいる。因みに命日の6/4を仮に旧暦と見て、此 れをユリウス暦に換算すれば6/26となる。 其処で叡山から其の日の方位に進めば京都・山科の寂光寺の西に出る。更に進めば閉栖寺の西を通って伏見区の 南端山に至る。だが逆方位の12/26方位はどうかと言えば、目立った所が何も見つからないのでこの可能性は「なし」と できる(「12/13」を参照)。と言う事で最澄の命日は6/4なのか、それとも6/13であるのか。 と言う点に関して次は縁日も垣間見て置きたい。例えば叡山では山王講、山家会(大師忌み日)、霜月会(智の法会) があり、各々5/26、6/4、11/24としている一方で、今では8/18を「降誕会」として行っており、実際の誕生日を 祝う法事である。ともあれ、先の方位のラインから、命日は旧暦の5/21、ユリウス暦の6/13と判断して置きたい。 序でながら付け加える。従来から叡山の素晴らしい事について、各方面から指摘されて来た。例えば以後、叡山から は法然や日蓮など多くの宗教家を出したので日本仏教の母山とも言われているし、また此処・根元中堂(本尊は薬師 如来)では以来、1182年間、「不滅の法灯(宝燈)」を絶やす事無く燈し続けて来たから立派である。 だがこの日は次の光秀の命日にも重なる。光秀は信長と共に1569?年に叡山焼き討ちをして3000人を殺した敵で あるから祀る事はないとは思う(次項を参照)が、何れにせよ、そうした災難があったにも拘わらず法灯を守り、最澄の 命日ラインを両寺の位置で印していた事を賞賛したい。 ■明智光秀の命日・・・・・・天正10(1582)6/13日、57歳。叡山下の西教寺に首塚がある(7/12を参照)。 ●和歌山・井堰祭・・・・・・・・・・日前国懸神宮。布施屋に神幸する。龍蛇の伝えや井自氏、井沙汰人の制があって五月 下旬に行われた。 ■08一人相撲(旧5月9日)【愛媛県大三島町、大山祗神社】 6/14 日 ■09北海道神宮祭。17日まで。 ★08チャグチャグ馬コ・・・・・岩手県盛岡市・滝沢村で6月第2土曜日。08年の此の日は祭りの日に栗駒山が震度6強の地震 となったが滝沢村では被害がなかった。栗駒山の東部を此の日の方位、つまり略南北に地震波が走って、不自然な近 代的・金権的・人工構築物を尽く破壊した。被災者には心からお見舞い申し上げます。09年は13日。 ■07-08-09厩山観音詣・・・・・・・・福島県。 ■07東京・日枝神社・山王祭・・・・・・・・・6/10〜16。江戸城の守護神として勧請された。14日には本社から鳳輦が出 て巡幸し、15日には本社で例祭、16日には皇居を回って茅場町のお旅所に入り、17日に還御する。 ●06金沢・加賀百万石祭・・・・・・・前田利家を祭る尾山神社で13〜15日。6/14は彼が金沢城に入城した日と言う。 ★07-08-09青鬼祭・・・・・・・・石山寺(滋賀県大津市)で6月の第二土曜日、鬼と螢の精に扮した少女たちが踊る、ユー モラスな行事。 ■石切劔箭(つるぎや)神社の旧例祭・・・・・・大阪・東大阪市の石切さん。昔は毎年この6/14が例祭だった。この神 社は神武天皇の東征に刃向かった所として、歴史的にはやや差別されて来た経緯があるが、神社の由緒(社伝)によ れば、「創建は神武二年に東側の宮山に饒速日命と宇摩志摩治を祀った」と言う。 また勝井純氏の『神武天皇聖跡考』によれば饒速日命は現在の大阪城所在地にあったとされる磐船神社に祀られて いたとの説もある。それから草香山を目指して当地に移った。饒速日命はその後饒速日山(草香山)の頂上に設けら れた上の宮に祀られ、物部氏が滅ぶと上の宮の神霊はそれぞれ東西の下の宮に移されたと言う。 下の宮として生駒市上町長久寺の登弥神社(伊弉諾神社)と当社である。・・・・しかも昔は石切で6/14に例祭をして いたとすれば翌日、6/15に例祭がある天美コソ神社の方位に向かう事で繋がる。但し今の祭り は、4月14日〜16 日 石切講の大祭り。また8月3日・4日に「夏の祭り」大幣撓(おおべいため)神事。 10月21日・22日 秋期大祭・宝物館一般公開・・・・・としている。 ■例年-住吉大社・御田植神事・・・・・・大阪住吉区。1800年前からの伝統として国の重文。この日の13:00。第一本宮 から御田へ踊り子たちが出て田植えをする。総勢約300人の奉仕者が古来の儀式とミトシロ(神田代)舞や住吉踊り、 武者行事を奉納する。この神事を俗に「オランダ」と呼ぶ。 此のときに植えた早苗が育ち、11月に収穫して神前に奉納するが、其れが新嘗祭になる。住吉の御田植神事は神功 皇后の時に始まったとされるが、伊勢の伊雑宮、千葉の香取神宮の御田植祭と並んで日本三大御田植と呼ばれる。 因みに常識的には此の祭りが稲作の祭りと見られる。 しかし実は、此の田は社前ではなくて南側に位置する。要するに暦観測のための池によるモヒトリ(水準)のため設営さ れたとも思われる。冬至にモヒトリをして夏には早苗を植えて、11月に収穫すれば、また冬至には水準器として使える 訳です。 「動画」http://www.omatsuri.com/movie/otaue.html ●西宮・戎神社・尻ひねり祭・・・・・・・・・兵庫県西宮市。夕方から参詣者が互いに異性の尻をひねる。昔は男女が雑魚 寝した。此れは忌み籠りの夜を互いに不眠で過ごした名残りとも言われる。 ●07-09-10おこしや祭り・・・・・・・上記の西宮神社周辺で行う祭り。えびす様が訪れたと言う伝説に因んだ祭りで、地元 では此の日に衣替えをすると言う事から、「ゆかた祭り」、また枇杷をお供えする事から「びわ祭り」とも呼ぶ。2時から 枇杷籠を手にした浴衣姿の「びわ娘」の先導で神輿が巡行。3時から神楽の奉納。 御輿屋(おこしや)跡地で巫女による神楽奉納の後、参拝客にビワが配られる(先着200人、以上07/6/5朝日記事より)。 ■07-08-09誕生会・・・・・・・・善通寺(香川県善通寺市)で6/14〜15日(6/15日が弘法大師・空海の誕生日)。 ■07-08-09太閤献花会・・・・・・・・恵光院(福岡県)。 旧暦6/14日 ■津島祭・・・・・・愛知。津島神社の祭礼。旧暦6/14〜15。京都祇園祭と同様、牛頭天皇を祭り、「天王祭」とも言わ れる(10/11を参照)。 ■広島・住吉祭・・・・・・旧暦6/14〜15。厳島神社の管弦祭の前前日に行われる船祭り。川上の空鞘神社に管弦船 を従えた神輿船が渡御する。 6/15日 以下、次ページへ ![]() パテント・著作権は本会に属します。 「鬼の会」 |