http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」 p143 (未定稿) ![]() 神々の歳時記 10月上旬 但し方位による 次は ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ ●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起 の意味を解説し、方位から正当性 を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」メルマガ全国版 http://www.omatsuri.com/mailmag/ 及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-10月」より一部引用・転載させて頂きました。 ■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記 には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の 詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。 神々の歳時記・10月上旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★ 10/ 5 日 ■06-07-09達磨忌。 ■十夜会・・・・・・・善光寺(長野市元善町)で10/5〜14日。 ▼06京都「ずいき祭」・・・・・・・10/4から。 ■十夜会・・・・・・・誓願寺(京都市中京区)では10/5〜14日。 ■達磨忌(臨済宗・曹洞宗)・・・・・・・5〜15日。因みに達磨大師はインド人で5-6Cに梁の武帝と問答し、魏の明帝の 時、慧可に禅の奥儀を伝え、少林寺で生涯を閉じた。面壁9年の話が有名。中国禅宗の基を開いた事から唐の代宗か ら円覚大師とおくりなされ、日本でも禅宗の祖師、達磨大師として忌み日の10/5-15日には禅寺で法会をしている。 ただ民間でも赤くてまん丸な「ダルマさん」として親しまれているので、宗教的な雰囲気はなくなっているが、神社や神道 とは無関係ですが、インドの梵語で「ダルマ」とは「法」「真理」を意味します。 ■僧形八幡神座開帳・・・・・・・東大寺(奈良市維司町)。 ●03転害会(テガイエ)・・・・・・・東大寺(勧進所)と手向山八幡宮(転害門)。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 期日:03/10月5日(日)。場所:転害門。時刻:正午12:00〜内容:当神社が奈良時代に東大寺境内に祭られて以来の 古い歴史をもつ祭です。 この日、同神社の神体で明治の神仏分離の際に東大寺八幡殿に移された国宝の僧形八幡像が東大寺で特別開扉さ れます。問い合わせ:0742-23-4404 ■お里・沢市祭・・・・・・・壷坂寺〔南法華寺〕(奈良県高取町)。 ■高天彦神社の例祭・・・・・・・高天彦神社は近くの鴨神地区に有る高鴨神社(式内明神大社)とワンセットで京都の上 賀茂、下鴨両社の元鴨の地である、と地元では信じている。此の辺りは金剛山麓の東面に広がる高原地帯であり、高 天、つまり高天原とも見られて来た。 さて、高天彦神社の主祭神はタカミ結びの尊である。@ ■36孝徳天皇の命日Bか・・・・・・彼は軽皇子と言われた。彼については大化の改新(645)の直前、皇極天皇の面前 で蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変の「陰の首謀者である」と言う(学習院大・遠山説)。暗殺の2日後に皇極天皇の退位 と交代するように彼(天万豊日尊)が孝徳天皇として即位した事は矢張り不自然である。 だが彼は孝徳天皇として「大化の改新」で公地公民制にした。此れが一般には「新日本統一の石杖となった」と評価さ れている。 其の彼もやがて難波長柄豊碕宮で崩御となったのが白雉5/10/10(暦換算654/11/24-11/27)の事でした。 @ この日とは白雉5/10/10日=654/11/24-11/27日とも解釈できるが、逆に白雉5/10/10日がユリウス日に近い和暦で あったとすれば、佛暦では8/24日となる可能性もあるのか? A因みに先の難波長柄豊碕宮から9/27日方位には神戸市灘区の摩耶山があり、山頂部の形が彼の命日方位に似て いる。更に傍にはトウ(立心偏に刀の字)利天上寺があって、孝徳天皇の勅願寺だった。此処は後に空海が山腹に摩 耶夫人(ぶにん)の像を祀った事から、以後は本尊を十一面観音とする女人高野として参拝が多くなった。 Bまた難波長柄豊碕宮から10/5日方位には西国33番札所の第26番、一乗寺(兵庫県加西市坂本町821-17、0790- 48-2006)があり、更にその延長線上に姫路市の書写山・圓教寺(えんぎょうじ)がある。此れが「偶然の一致」と言えよう か?円教寺の寺務所も彼の命日方位に似た形の古墳状の丘に有るのです。 兵庫県姫路市書写2968にある書寫山(しょしゃざん)圓教寺は、今は天台宗の別格本山で此処も西国33番札所の第27 番。と言う事は、彼・孝徳天皇の命日は、佛暦では計算上は8/24日としても、和暦では西暦の10/5日相当と判明する。 しかしながら此処では書写山そのものの形と共に、ユリウス暦に相当する形で今の寺務所の場に彼の墳墓を築いた二 つの墳墓の可能性も読み取れます ■鳳大社・浜宮祭り・・・・・・・・・高石市羽衣で両道入姫を祭る当社の例祭。彼女はヤマトタケルの妃神。浜の宮は現 在、堺市の鳳大社の摂社の一つであり、10/5日は鳳大社の摂社例祭となっているが昔は10/2日だった。次項、及び10 /6日も参照。 また此のころ、鳳(大鳥)大社など、勇壮な地車を曳く躍動感溢れる「ダンジリ祭り」があり、続く09/11/12日が「一の酉」 で鳳大社は賑わう。 ★08多治速比売神社・例祭・・・・・・・・多治速比売は、先の鳳大社の御祭神・日本武尊の妃の一人(弟橘姫)である。赤 丹の優美な社殿が美しい。旧境内には梅園が広がる。堺市南区宮山台2丁3番1号 TEL:072(297)0726。例祭日は1 0月5日に近い日曜日。午前9時からだんじり、神輿だんじり宮入り。 以下、http://www1.ocn.ne.jp/~tajihaya/haidenn.html「多治速比売神社」荒山宮(こうぜんのみや)-由緒から引用。 当神社には高山(こうぜん)縁起が伝わる。和泉国大鳥郡の延喜式内社24座の1つで、西暦530年頃の御創建と伝えられ ている。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、神仏分離の際、神社のみとなった。現在の本殿は室町 時代の建造物(天文年間1539年〜1543年に再建)で国の重要文化財に指定されている。 主祭神は多治速比売命(たじはやひめのみこと)で女神として厄除・安産・縁結びの神として崇敬が厚く、また本殿には素盞嗚 尊(すさのおのみこと)・菅原道真公も合わせて祀られ、特に道真公は学問の神(天神様)として厚く信仰されている。 境内には十三の末社【坂上社(式内社)、鴨田社(式内社)、大神社、住吉社、天照社、八幡社、春日社、熊野社、白山社、 弁天社、稲荷社、福石社、水天宮】があり合わせて荒山宮 (こうぜんのみや)と呼ばれている。また毎年3月の最終日曜日 に稲荷祭がある(以上、引用)。 所で此の宮は昔は6万坪の広大な社地にあり、神宮寺として荒山・総福寺もあって、今は社務所になっている。此処は 28宣化天皇の創建と有る。彼は明日香村・檜隈に宮跡を残して今の高取町に葬られた。従って実は次の29欽明天皇 が先帝である宣化天皇を祭る為に建てたものと推定する。 何故なら例祭日の10/5日の方位に古い石鳥居が立っていて、其の逆方位の4/5日の方位に本殿があり、其の延長線 上には高取町・市尾があるからです。此のラインには他にも葛の葉稲荷神社---多治速比売神社---滝谷不動----葛 城山頂----市尾----壺坂寺----丹生川上神社が並んでいる。ただ詳しい点は未調査。 10/ 6 日 ■06お十夜<十夜法要>(浄土宗)。 ■06十夜法要(お十夜)・・・・・・・浄土宗寺院でこの期間十昼夜の間、別時念仏を誦する。 ■06蒲生神社の観月会・・・・・・平成18/10/6日(金・十五夜)雨天中止。開催地・蒲生神社境内(八幡山公園南側)HP http://www.gamoujinja.com/---蒲生神社は幕末の古墳研究家・蒲生君平を明治に祭った所。今の史学・考古学は彼 の著した「山陵志」に拠る所が大きい。 ★07ほうらい祭り・・・・・・10月の第一(土)〜(日)まで。06年は10月7日〜8日だったが07年は本日から。石川県白山市 鶴来地区。二二ギノ尊を祭り、約800年の伝統をもつ金劔宮の五穀豊穣を祝う秋祭りで、神輿渡御、鶴来の棒振りと 言われる獅子舞や、「つくりもん」と呼ばれる巨大な人形が町内を練り歩く。 問い合わせ/石川県・鶴来町商工観光課 TEL: 0761-92−1111 ■伊勢山上秋峰・・・・・・・飯福田寺(三重県松阪市)。 ★07大津祭(体育の日前々日の土曜〜日曜日)【滋賀県大津市、天孫神社】 ■舎利会・・・・・・・泉涌寺(京都市東山区)。 ●06仲秋の名月「采女祭」・・・・・采女神社。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 ●06仲秋の名月「観月讃仏会」・・・・・唐招提寺。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 ■06堺市百舌鳥八幡宮「月見祭」・・・・・・月見祭は、毎年旧暦中秋の名月に行われます。 ■堺市百舌鳥八幡宮・例祭(旧暦8/15)・・・・今は八幡宮となっているが、この宮の西側に御廟山古墳があり、此処 が9/15方位に築造されてい る。 そしてこれ等の主軸の先には誉田の地(羽曳野市)があるので、本来は応神天皇の皇子の陵と彼(皇子)を祭る宮だっ たと思われるが、「10/3日、百舌鳥八幡宮・秋祭り」を参照。 ■白鳥神社-------白鳥神社(しらとりじんじゃ) 古市------http://www.kiis.or.jp/kansaida/habikino/habikino16.html 「羽曳野市」より引用。もとは、軽里(かるさと)地区の西方の伊岐谷(いきだに)に祀られ「伊岐宮(いきのみや)」といわ れていました。 その後、南北朝や戦国の戦火にかかって次第に衰微し、峯ケ塚古墳(みねがづかこふん)に小祠として祀られていまし たが、1596年慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていました。江戸時代の寛永末期に現在地に移され、日本武 尊(やまとたけるのみこと)と素戔鳴命(すさのおのみこと)を祭神とする古市の氏神となりました。 10月には、古市各町の地車(だんじり)が宮入りする勇壮な姿が見られます。 次に東香川市では10月6〜8日 秋季大 祭-----百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用すれば、----能褒野(三重県亀山市)で戦死し葬られたのち、 白鳥となって飛び去った日本武尊の霊が舞い降りた、という伝説が残る。 当地に降りた白鳥は間もなく死んだため、日本武尊の子である武鼓王が廟を建て手厚く葬ったという。白鳥神社はこの 時に始まるとされている。寛文4年(1664年)に高松藩初代藩主・松平頼重が朱印地200石を当社へ寄進して再興、以 後は天領となった。明治5年(1872年)に県社に列格される。 白鳥神社の松原 播磨灘に面して4万坪の広がりを有し、瀬戸内海国立公園の区域に指定され、日本の白砂青松100 選に選定されている。楠 目通り7.6m、樹高30m、枝張り30mの巨木。松原の中に聳え、白鳥となった日本武尊の霊が 舞い降りたとされる。 香川の保存木として指定されており、また2001年には環境省のかおり風景100選に選出されている。境内には、代々藩 主が寄進した燈籠が所狭しと並ぶ。猪熊家住宅(長年神官を務めた猪熊氏の屋敷。香川県指定文化財) 主な神事----5月4〜6日 春季大祭 、7月31日 夏越(花火大会)、10月6〜8日 秋季大祭 。 因みにヤマトタケルについては堺市の鳳大社・例祭8/13日、または3/16の項目を参照。両道(ふたじ)入姫は高石市の浜 の宮10/5日(鳳大社の摂社例祭)、また白鳥神社は羽曳野市及び〒675-0022 兵庫県加古川市尾上町口里770 TEL / FAX 079-424-6908がある。 弟橘姫については10/5日、堺市の多遅速姫神社、そして近江の建部大社祭は4/15日を参照。 ★07河内長野・秋祭り・・・・・・市内各地域の神社の祭り。10/5は西代神社の宵宮で境内では夕方から西代神楽の奉 納がある。10/6-7日とダンジリが市内各地を巡幸する。また長野神社や住吉神社は10/11日を参照。 ■07岸和田秋まつり(山手地区のだんじり)(体育の日前々日の土曜〜日曜日)【大阪府岸和田市、山側】 ■大宮神社-------和歌山県岩出市の紀の川の北岸で主祭神を日本武尊(ヤマトタケル)とする当社の例祭。当日の 深夜から「先走り」が始まる。真言宗豊山派・興教大師(覚ばん上人)が根来寺開基に当たり熱田から勧請との説があ るが、其れは寺の伝承であって事実は別かも知れない。10/5日、浜の宮を参照。 例えば紀の川の対岸が和歌山市船戸であり、此処には浜の宮と主軸(1/10--7/12.5 )が合う八王寺1号墳など古墳群があるからです。 ■仙涯忌・・・・・・・聖福寺(福岡市博多区)。 ★07那覇まつり(那覇大綱挽)(体育の日前々日〜体育の日)【沖縄県那覇市】 ■04-06仲秋祭・・・・・・・この日の晩は旧暦8/15で満月。中国では仲秋節となる。古来シナではお正月と同じ大切な祭 りであり、家族団欒で月を祝い、月平餅を食べる風習がある。だが04年は月平餅が大量生産されて1500トンも売れ 残り、其のお蔭で豚は甘い甘い餌にありついたとか。 またハノイの街頭では06年も中国製の風船を売る売り子たちが町を彩った。 ■06-07国際文通週間。 10/ 7 日 ■06全国花火競技大会・・・・・・茨城・土浦市、桜川畔。029-824-2810 ■佐原の秋祭り・・・・・・・千葉・佐原市には香取神宮があり、また伊能忠敬の里。佐原市では本日、江戸時代から伝わ ると言う独特の囃子や14台の山車が出る。佐原は早良親王に音の響きが似ているが詳細不明。 ■07狐の夜祭り(体育の日前日の日曜日)【新潟県高柳町】 ■府八幡宮・例大祭・・・・・・静岡・磐田市で10月の土日。 ■ぎふ信長祭・・・・・・・岐阜市で10月の第一(土)〜(日)まで。 ■06-07大津まつり・・・・・・・10月7日〜8日。滋賀県大津市、天孫神社の例祭。「体育の日」前日の日曜日に本祭り、 前々日の土曜日に宵宮。翌日にはカラクリ人形の曳山13基が夕方まで市内を巡行する。見せ場が市内に26ヶ所設け られて、12万7千人が沿道に詰めかけた(07/10/8朝日)。 ★塔影能・・・・・・・興福寺で10月第一土曜日。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 ■住吉仲皇子の命日・・・・・・彼は仁徳天皇の皇子の一人だったが、弟のミズハワケ(後の反正天皇)に10/7己亥 の日に討たれて東百舌鳥の土師ニサンザイ古墳(大きさ約290m)に葬られた。@ ただ重大な問題として此れは命日方位ではなくて逆方位に設定されている事です。 しかも陵の頭が命日方位の西ではなくて、東を向いている。と言う事は、神としての祭礼がなされず、従って蘇りが出来 ない仕組みでした。丹北郡住道村には土師郷があり、長原荘、大堀、羽咋荘などが有ったが、中でも黒山は丹治氏の 流れで鋳物師の里として中世は栄えて来た所です。@ そして更に東に進めば黒山の阿弥陀寺、そして太子町の伝・用明天皇陵(方墳)から明日香村に至る。太子町には履 中天皇がまだ太子の時にこの「埴生坂」に差し掛かった時に、宮を仲皇子に焼かれて振り返って驚き見たと言う因縁の 地でした。逆方位には石津神社と石津太神社がある。後者は「いしづた」とか「いわづた」とも呼ぶ。 此れは「祝う」のではなくて「言わず、祝わず」の意味ではなかったか。つまり「祭りをしない宮寺だった」とも理解でき る。 先の陵は前方部が逆の形なので、それは「祭りをしない弔いだけの陵」であり、宮寺でも祭りをしないと言う例外的 な所と分かります。石津神社と石津太神社は此処に昔、蛭児が漂着した所と言われた。 其処から上石津と下石津の蛭児社として、或いは八重事代主神を祭る戎宮として、孝昭天皇7/8/10の勅願によっ て古来、本邦最古の恵比寿(惠美酒大神)神を祭って式内社とも言われているが、石津神社の地は元は観音寺の場 所であり、現在は初戎を1/10に、そして例祭日を10/5に行う。 とすれば2日のズレで住吉仲皇子の命日に略合致する。しかも石津神社では昔、3/10に船祭りとして神輿が浜のお 旅所へ神幸していたと言われるので、西暦にすればそれも今の四月の神事であったろう。尚、この陵が土師ニサンザ イ古墳として土師の名が付く事は、往時この辺りは土師の里だった事を意味する。 土師氏の祖は野見宿弥であり、住吉仲皇子よりも古い、垂仁天皇の時代であるが、彼(野見宿弥)がこの石津神社の 神主であったと社伝にある。だがその後の孝謙天皇の時に藤原姓を賜わったとあり、その後は天穂日命(野見宿弥の 祖)を祖とする石津連の末裔の陸野氏で代々続いて来た。 因みに此処では「やっさいほっさい祭り」と言う火踏みの祭りを旧暦11/14にして来た。此れは神代に、戎神を迎えた 当時の喜びを伝えたものと言われる。そして石津の先は大阪湾であり、その先は神戸市垂水区塩谷の岬に至る。此処 に厄除八幡宮がある。@ そして住道首や住跡物部として、或いは中臣住道として他流に同化した。またこの頃は葛城氏族の玉手氏も仁徳皇后 (磐之媛)が生まれた家の支族であるから住吉仲皇子や反正天皇にとっては母の実家である。玉手氏は後に漸く天武 朝になってから朝臣の一人として他家に並ぶ者が出たくらいである。 何れにせよ住吉仲皇子の子孫は葛城氏によって守られたろうが、矢張り表には立てず、よって後を丹治比に託して全 国各地に去ったと思われる。その点で丹治一族は反正天皇の流れとして今の松原市で柴垣宮を残し、或いは反正天 皇の後裔が丹比郷(今は美原町)に居つき、永く栄えた。 ただもう一つの可能性として、彼の子孫が住吉に居着いた可能性がある。以下、「ヤフー知恵袋」に回答した中から引 用する。住吉大社にはかつて古墳があった。地元の人や極く内部の関係者だけは此処に明治まで古墳と神宮寺があ った事をご存知です。ただ彼の命日(10/7)と古墳の軸線が合わないので彼の墓地ではなかったと思います。 ただその子孫の墳墓と祠であろうと思います。今の歴史学や考古学では否定されるが、住吉仲皇子は実はニサンザイ 古墳に葬られた。その子孫が今の住吉大社に葬られている。明治には神宮寺も消されたし古墳も消されたので荒神さ んが有るなら、其処に祭られている筈です。 荒神は一般には荒々しい神と誤解されていますが、実は新たな神として迎える所でした。さて、彼の亡きあと、御子が 当初、仁徳天皇陵の南の上野芝に居着き、やがて1/6日に亡くなった。よって其の方位の堺東駅の東の伝・反正天皇 陵に葬られた。その子が其処に居着いたが、やがて12/29日に亡くなった。 よって其の方位に当たる今の住吉大社の第一本殿から社務所の軸に葬られて墳墓となりました。よって其処にはやが て薬師如来が祭られて新羅寺となった。其の軸線の先には今も大海神社と生根神社がある。何れも由来なく存在する 訳ではないのですね(引用、以上)。 ■07忠岡の秋祭り・・・・・・大阪・忠岡町の忠岡神社。 ★06岸和田秋まつり(10月7日〜8日)【大阪府岸和田市山側】 ■07大阪南部の泉佐野市ではダンジリを曳いていた男女10人が転倒して怪我。田尻町ではダンジリが横転して13人 が病院へ行った(07/10/8朝日)。 ★07笑い祭(体育の日前日の日曜日)【和歌山県日高町、丹生神社】 ★07クエ祭り・・・・・・和歌山・日高町。豊漁祈願の祭り。クエとは江戸時代から続く白鬚神社の秋祭り「クエ祭」に奉納さ れる魚で、町では昔から人々の暮らしと密着した魚です。名物「クエ料理」はクエ祭で知られる本場、日高町で此の時 期にこそ食べて値打ちが分かると言われる。 ■白国神社・秋祭・・・・・・・・以下、http://www.geocities.jp/shirakunii/「安産の神様」より引用。姫路市白国字山田691 電話 0792-24-1380で10月8日-9日。今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子(稲背入命)が、大和から当地(白 國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。 孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産のおり大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に、安産を祈願されたところ、 このはなさくやひめ(木花咲耶媛)が、忽然と現れ『私が永くこの地に留まり婦人を守護し安産させましよう』とお告げに なり、白幣が高く舞い上がり、命が館へ帰られると妃が無事男児を出産されたといわれます。 その神徳を感謝され倉谷山の麓に木花咲耶媛(このはなさくやひめ)を祭られたのが、白國神社の創立であると、伝承され ています(以上、引用)。因みに景行天皇以前に、此処は開化帝第一姫宮だった。また播磨国風土記には伊和大神の 妃神として木花咲耶媛と記されている。 とすれば伊和大神は出雲の神ではなくて、此の地を出雲として天孫降臨したニニギノ命と言う事になります。家島には ニニギノ命を先導した猿田彦を祭る家島神社(7/25参照)もあるので、播磨が古出雲の国であった可能性がある。 ■07道後温泉・神輿合わせ・・・・・・四国の松山市では此の日、勇壮な神輿の鉢合わせがある。ただ06年に1人死亡 し、07年には24人が怪我をした。 ▼08抜穂祭(旧暦9月9日)・・・・・・・【愛媛県今治市大三島町、大山祇神社】 ■09伊豫豆比古神社・神幸祭(御旅所祭、還幸祭)・・・・・・・・愛媛県松山市居相町の此の神社では、10月6日秋季例大 祭 に続いて、10月7日に神幸祭(御旅所祭、還幸祭)。詳しくは2/2日(椿まつり)を参照。 ■阿沼美の二つの祭・・・・・・・・阿沼美(あぬみ)神社は愛媛県松山市平田町宮内983、及び同県松山市味酒町3-1-1に ある。前社の例祭は10/4-10/7日。そして後社の阿沼美(あぬみ)神社の例祭は10月5日宵宮祭、10月6日の古式之例大 祭、そして10月7日の神幸祭(後宮祭)としている。 以下、阿沼美神社の由緒についてhttp://www.genbu.net/data/iyo/anumi2_title.htmから引用すれば、祭神・大山祇 神 、月讀神、高おかみの神(雷神)。例大祭10月4日。社伝記によると12代景行天皇の皇子・武国凝別(御村別の祖) 日本武尊の御子・十城別王(別王の祖)の宮居された所と伝えられており地名を大内、小字を宮内という。 別氏の子孫は阿沼美の神を奉斎して深く尊崇を尽くし40代天武天皇、45代聖武天皇、50代桓武天皇、52代嵯峨天皇 75代崇徳院等は幣帛を奉り勅願により宮殿を再造営した。別氏の没落後、河野氏は三島の神を合わせ祭り「阿沼美 三島大明神」と号して累代崇啓を尽くし神領を321町6反を寄進した。 更に河野道直は新たに社殿を築き厳命して「新宮」の二字を加え「阿沼美三島新宮大明神」と称え一族の潮見山城 主・大内伊賀守越智信泰を大宮司として祭事を掌らせた。 河野氏滅亡後「三島新宮」とのみ称するようになっていたが天明2年、本殿が大破して再建した際屋根裏から文録年度 の「阿沼美三島新宮大名神」と記した古棟板が発見され、又天保4年9月6日には御幸橋の地下から「阿沼美宮」と刻し た延文年間の石額が出土した。 翌天保5年に藩命を奉じて天朝に奏し「阿沼美神社」の旧号に復した。延喜式神名帳に伊予国温泉郡「阿沼美名神大」 又同臨時祭式に名神祭(285座)「阿沼美神社一座」(伊予国)とあるのは当社であるといわれている。 神紋は、河野氏の家紋・「折敷に縮三文字」、式内社、伊豫國温泉郡 阿治美神社、名神大、旧郷社。 ゆるい上り坂の参道の突き当たり、丘の上に境内があり、境内・社殿は西向き。 御村別の祖・景行天皇の皇子武国凝別、及び別王の祖・日本武尊の御子・十城別王の宮居があった場所という。 さて、地図で見る限り、現在の参道は真っすぐ子午線を主軸としている。しかし例祭は10月5日宵宮祭、10月6日の古式 之例大祭、10月7日に神幸祭(後宮祭)としているので秋祭りであり、従って本殿を秋の方位の西向きとしている。此処 はつまりヤマトタケルの日迎えの為に、日本武尊の御子・十城別王が居着き祭った事が分る。 同様の立場の、羽曳野市の白鳥神社、次の鳳大社・浜宮、次に百舌鳥八幡宮があって、何れも歴史が古く、しかも略 同時期に例祭をしているので、こうした文化の一連性・一貫性が凄い。 ■赤間神宮の神事・・・・・・・下関市阿弥陀寺町で81安徳天皇を祭る赤間神宮ではこの日に「海峡祭」が有り、神楽を 奏する。@ ■例年-長崎くんち(諏訪祭り)・・・・・・・長崎市、諏訪神社ほかで7-9日まで。370年の伝統ある祭りで、迫力ある投げ 網の川船や蛇船や七福神の宝船などが活躍し、其れに蛇踊りがあって、20万人で賑わう。 動画http://www.omatsuri.com/movie/kunti.html ■06那覇まつり(10月7日〜9日)【沖縄県那覇市】 10/ 8 日 ●06-08-09寒露。★07体育の日。07亥の子餅。 ■例年-まりも祭り(〜10日)【北海道釧路市阿寒町】 ★佐原の大祭・・・・・・・・千葉県香取市・10月第2金〜日曜日 動画http://www.omatsuri.com/movie/sawara.html ■佐倉の秋祭り・・・・・・・千葉・佐倉市で10日まで。 ■06狐の夜祭り【新潟県高柳町】 ■アザカ神社の例祭・・・・・・三重・松阪市で猿田彦大神を祭る阿射加神社が二社あって、この日は両社の例祭であ る。この地は今は田園地帯だが、古 事記には猿田彦神が比良部貝に手を挟まれて海水に溺れた所としているので、 当時は海だったのだろう。 また倭姫の時代は荒ぶる神の地とされていたが、垂仁18/4/16日に伊豆速布留神として祭られた。 尚、近くの茅 原神社ではこの日の逆方位に当たる4/8に例祭をする。因みにこの日の方位から更に先に進めば略逆の暦・方位 の4/27日 方位に二見興玉神社があり、此処もまた猿田彦大神(他にミケツ大神)を祭る名社である。 だが例祭日が生憎7/15である。そして此処(興玉 神社)から伊勢市に遷ったのが猿田彦神社である(4/5を参 照)。 ■花園天皇の命日・・・・・・・彼は後醍醐天皇の前の、第95代天皇であり、落飾して遍行と号した。その後52歳で正平 3/11/11に崩御とされているが、実は本日10/8の事であった。彼に所縁の寺院は妙心寺である。@ 平安京にしても今の御所とは違って、室町以前は千本中立売を中心とする東西1.1km、南北1.5kmの規模であ り、内裏(大極殿)は今の二条城の乾の方に有った。其処には彼のミササギが山城国愛宕郡粟田口村・十楽院上陵と 記された通り、今も存在するのである。 ■祟道天皇の命日・・・・・・・桓武天皇の皇太子で早良親王と言った。廃帝となって乙訓寺に幽閉、後に淡路に流されて 延暦4/10/8薨去した。後に遺骸を迎えて大和の八島に奉安し、祟道天皇と追号された。京都市や御所市にも祭ら れている。@ ★06西大寺・大茶盛・・・・・・奈良市・西大寺で第二日曜日に行われる。 ■翁舞・・・・・・奈良豆比古神社。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 ■堺市・愛宕神社のライン・・・・・・・以下、http://www.geocities.jp/engishiki01/izumi/bun/iz050107-02.htmlより大部分 を引用し、補足した。 ----延喜式神名帳では火電神社。和泉国大鳥郡鎮座。旧地名は東陶器村北。今は堺市中区福田484 【ご祭神】愛宕神、但し「祭神古來不詳」とも。明治12『神社明細帳』では別雷神、『和泉国式内社目六稿』では火雷大 神、『和泉国式神私考』では火之焼速男神、『特選神名牒』では火雷命。今は【例祭なし】 、【社格】旧村社。 明治5年 (1872)村社、明治41年2月に近くの陶荒田神社ヘ合祀。 【関係氏族】不明。ただ此の地は弥生時代からの伝統ある陶器村であり、古来、陶器窯の火の神として祭った可能性 が考えられる。 【祭祀】江戸時代は「愛宕地藏権現」、または「愛宕大権現」と称していた。 社名がよく分からない神社である。「国史大系本」では火電神社と記して「いなひかり」と読みを振っているが。 本文では「九條家本・金剛寺本・吉田家本ともに「大電神社」と記し、前二者は「イナヒカリノ」、吉田家本は「イナヒカリ」 と訓む。しかし近世では「火雷神社」となり、「ホノイカヅチノ」と訓むよやうに変つてしまった。 「大」と「火」、「電」と「雷」は誤読・誤写しやすい文字であるが、「イナヒカリ」と「ホノイカヅチ」の字義は全く別であるか ら、社名の称呼により祭神にも移動があつたものと考えられる。」結局「大」と「火」、「電」と「雷」をどう組み合わせれば 良いかは不明である。 由緒は不詳。近世の俗称は「愛宕地藏権現」、または「愛宕大権現」であり、明治以後も「愛宕さん」と呼ばれていた。 神宮寺は嵯峨大覚寺末寺眞言律宗金龍山興源寺であり、その社僧が社務に関与していたと思われる。 明治41年2月、延喜式内社陶荒田神社へ相殿合祀された。 戦後陶荒田神社とは無関係で、百坪足らずの旧社地の一隅に小祠を建て、愛宕神を勧請して祭る個人が現われ、現 在は旧地に愛宕神社が祀られている。 ---此の神社は、同神を祭る下記の神社と10/9日のラインで繋がっている。 ただ新旧暦法の混乱により、「火祭り」の日に差異が出ているものと思う。@11/15日の笛吹神社「火祭り」、及びA12/ 12日の野々宮(旧畑山)神社の「火祭り」を参照。 ■錦織神社・秋祭り・・・・・・・大阪・富田林市。10月の第二土日、または10/11〜12 ★06河内長野だんじり祭り・・・・・・・大阪・河内長野市。此処は昔から高野街道の宿場として栄え、中でも長野神社は 木屋堂(こやど)の宮と呼ばれて来た。鎌倉後期の「後宇多院御幸記」には昼御饌をしたと記されている。従って各地点 で篝火を焚き、その間を松明のリレーで迎えた事だろう。 松明は昼間ではなくて夜に焚くものであり、或いは「太を待つ」火の神事である。だが今は此れに先立って市内各社で も秋祭りが繰り広げられ、05年は10/8(土)から9(日)、06年は10/7〜9(体育の日)まで岸和田式ダンジリが30基ほど が曳き回される中で、長野神社の松明神事は昔から10/11(別項参照)を変えずに守っている。 ■06笑い祭【和歌山県日高郡川辺町、丹生神社】 ★06秦河勝の祭りか・・・・・・・以下http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE「ウィキペ ディア」より引用。大避神社(おおさけじんじゃ)は兵庫県赤穂市の坂越にある神社。祭神は秦河勝・天照皇大神・春日 大神。瀬戸内海三大祭りの一つ「坂越の船祭り」で知られる。 また司馬遼太郎は「兜率天の巡礼」においてこの神社を登場させ、秦氏はネストリウス派キリスト教徒の末裔であった という物語を創作している(あくまでも物語である)。大避神社は坂越(さごし)浦に面して鎮座する。その歴史は古く,播磨 国総社縁起によると養和元年(1182年)当時には、既に有力な神社であったという。 拝殿の両翼には、全国で最も古い船絵馬もある。正面の海上に浮かぶ生島は神社の神域となっており、島内には祭 神である秦河勝の墓がある。坂越の船祭りは、毎年10月に行われる大避神社の、江戸時代初期からの歴史を持つ祭 礼で、瀬戸内海三大祭りの一つ。 櫂伝馬、獅子船、頭人船、楽船、神輿船、供奉船、歌船など12隻の和船が坂越湾を渡御する(船渡御)。1992年に国 の選択無形民俗文化財に選定された。〒678-0172 兵庫県赤穂市坂越1297 続いてhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%B3%B6「ウィキペディア」から引用する。 生島(いきしま)は兵庫県赤穂市の坂越浦沖にある島。〒678-0172 兵庫県赤穂市坂越生島。瀬戸内海国立公園の区域 であり、国指定天然記念物。坂越の氏神である大避神社の沖に浮かぶ周囲1630mの小島である。古来より神域として 人の立入が禁じられてきたため、原始の森が保たれた。 常緑樹のスダジイ、アラカシなどから成る自然植生で、学術的価値の高さから生島樹林(いきしまじゅりん)として大正13年 12月9日に国の天然記念物に指定されている。また島内には7世紀半ばに畿内から坂越に逃れ、この地で没した秦河 勝の墓がある。 続いてhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D「ウィキペディア」からの引用。秦河勝(はたのかわか つ)は、6世紀後半から7世紀半ばにかけて大和王権で活動した秦氏出身の豪族。生没年不詳。 秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝と もいい、古代イスラエルという説もある。河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍し た。 また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建など に関わったという説もある。聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。没したのは赤穂 の坂越で、坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の生島には秦河勝の墓がある。 本拠地とした京都市右京区太秦(うずまさ)や、秦河勝の墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す。更に右京区西 京極には川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。この地域は明治の初めまで川勝寺村 と呼ばれ、住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた。(注)川勝寺は三宮神社にある。 秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、幕臣川勝氏も河勝の子孫を称した。また、現在楽家として知られる東儀家は河 勝の子孫であるという。 秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰する一族であったとする説がある。秦一族が渡来する6世紀以前に既に 唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており(彼らはそれらを伝来した人々であるといわれ、唐の時代の景教の寺院 は大秦寺と呼ばれていた)。引用以上。 以上の秦河勝と大避神社については07/3/22、播磨の船曳氏からのご連絡で詳しく知った。神社と参道、更に船渡御 のコースと島の古墳とが実にピッタリ並んでいるとの事であり、しかも千種川周辺には大避(おおさけ)神社が30ヶ所ほど もあり、彼が大和の蘇我入鹿から追われて82歳で相生の那波野に上陸した。 其処から何所かを攻めて戦い、坂越(さこし)の対岸の生島に辿り着いて没した。此の島には秦河勝よりも古い古墳もあ って、船渡御は現在、丸山の浜に入る事。また河勝の末裔が土佐の豪族の長曽我部氏であると言う。秦河勝の命日 が不明だったので早速、図上で見た結果、大避神社と生島の西の古墳との位置から命日が5/12日と判明した。 写真で見てもこの島は実に美しい前方後円墳の姿を見せている。現地に立てば、海に浮かぶひょっこりひょうたん島と 言った感じの絵に描いたような美しくも幻想的な景色である。命日方位の先には淡路島の洲本市---紀州の海南市・ 簑島---潮岬の出雲地区に至る。また神社の後ろの茶臼山の頂上は命日の逆方位に当たる。 つまり此処で祭りをした事が分かる。祭りの場合は三朝町・穴鴨方面から御魂(大避大明神=秦河勝公)を迎える仕掛 けです。大避神社0791-48-8136の縁書によれば、彼は大化3(647)年にこの地で薨ぜられたとある。此処で「逝った」 から生島と言うのだろうが、今は「彼が生きていた時に辿り着いた島」と解釈されている。 また対岸の大避神社や茶臼山の頂上に立って眼下の生島を見ればより幻想的である。因みに茶臼山には観音堂の 33ヶ所霊場遺跡がある。また其の下には建武の中興で活躍した児島高徳ほか和田範長など5柱の五輪塔がある。 さて地元の古老によれば、生島には陸側にない植物ばかりが繁茂していると言う。祭りでは船を出して島を1周する。 総勢300人の人手を要するので中々大変だと言う。因みに大避神社には昔の楽船が残されている。地元でも秦氏を渡 来人と見ているが、京都の日枝--松尾--賀茂両社--伏見稲荷の一連の祭りを賀茂氏と秦氏が担って来た。 其処から見れば、秦氏は賀茂氏・出雲族であった事が分かる。余談だが赤穂は地元の人よりも、余所から来た人たち によって栄えた。今の赤穂市内はゆったりとした臨海の綺麗な町である。街路樹に花壇が続く明るく豊かな町である が、そうなるには秦一族も赤穂浪士も今も働いているように思える。 赤穂浪士47士の内の33名は実は水戸から来た笠間藩士だった。此の生島にしても陸側にはない、余所から持ち込ん だ植物・数百種の群落が国の特別天然記念物(特別保護区)を形成している。其れは秦氏の子孫が全国から持ち寄っ て捧げたものかも知れない。いや、各地から船で土を運んで古墳の島を造ったかとさえ思える。 無論、地元の人が守って来たからだが、この島があるお陰で此の浜には台風の被害がなかった。島は自然の防波堤 となって津波さえ防いでいた。風も防ぐので天然の良港だったろうから、余所からの廻船で湊が栄えた。今も参道の古 民家には遊郭の名残が残る。ともあれ本来の祭りは11/10日と分かる。 明治の改暦にも関わらず、此処では旧暦の10/10日前後の数字を其のまま頑固に守って今まで伝えて来たと思われ る。よって本来の祭礼日が今より1ヶ月ズラせて11/10日と見るのが正しいと分かるが、今は10月の第2日曜日に固定し てしまった。だが先の船曳様によれば、「後で調べたら5/12日に神社だけで祭りをしている」との事(注)。 ならば立派です。だが宮司から最近、船曳氏が電話で確認した所、「古文書にある秦河勝の命日は9/12」との事。9/ 12が旧暦とすれば西暦の10/8日頃になると言う。因みに07年は西暦10/22、08年は10/10日となる。しかし今の旧暦は 647年当時の暦法ではない(其の古文書の日付を確認しなければ即断できないが旧暦9/12日ではない)。 なので、茶臼山頂上と大避神社と生島古墳との主軸方位である11/10日を当時のユリウス暦にすれば647/11/10= 大化3/10/8辛酉となる。従って彼の命日は11/10日とは逆方位の5/12日と見なければならない。因みに最近の日付で は05/11/9=旧暦10/8、に当たる。或いは08年の第2日曜日が10/12日(日)になる。 また京都の川勝寺から5/12方位は伏見桃山城に向かうが、07/3/24現在、其の関係は不明。因みに子孫の秦造内麿 が川勝の為の菩提寺として相生市矢野町三濃山の三野山観音・求福教寺を建立している。 ■06-07牛喰い絶叫大会【大分県湯布市】 ★07/10/8日は体育の日・・・・・・此の日は全国各地で秋祭りがあって、特に体育会系の人々が例年活躍して祭りを盛 り上げて来た。しかし、ただ罵声を張り上げて祭りを取り仕切って、其れを祭りの中心としたり、「祭り文化」を担ってい ると思っているとすれば少しどうかな?と思います。 10/ 9 日 ■07田立花馬祭り(2007年は9日)【長野県南木曽町】 ★10ほうらい祭り(〜10日:例年10月第1土曜〜日曜日)【石川県白山市鶴来地区】 ■例年-秋の高山祭(八幡祭)・・・・・・(〜10日)【岐阜県高山市、桜山八幡神社】本祭り。動く陽明門と形容される絢爛 豪華な屋台やカラクリ人形が見もの。岐阜・高山市の桜山八幡神社で10日まで。尚、飛騨高山では山王祭が日枝神 社を中心として春の4月14日〜15日まで行われる。 此れが日枝神社の春祭りであり、ご祭神は日吉大社と同じ大山咋神であり、からくりが人気である。其の略対極になさ れるのがこの秋の高山祭(八幡祭)である。街中を練り歩く4台の屋台には飛騨の匠の技が見事に残されているのも人 気の的で凡そ20万人が集まる。飛騨の小京都の風情も人気です。此処は400年前、高山城に金森氏がいた。 文政年間に造られた屋台の高さは10m、重さ2トン。以来、地元の豪商が11台の屋台を残した。今の金額で1台3億円 の財産である。但し大人ではなくて子供達が乗る屋台です。昔は9/14から行なっていたが、台風シーズンに重なる為s 43年から10/9日からに変更した。 ただ1台を10軒ほどの家が守って10人くらいで引くので大変であり、負担も大きいので、今は保存会が出来ている。屋 台によってお囃子も変わる。お囃子は06年に28年ぶりに復活した(06/10/9の読売テレビ「今日は何の日」より一部引 用)。動画http://www.omatsuri.com/movie/takaaki.html ■おし祭・・・・・・・真福寺(愛知県岡崎市)。 ★10大津祭(〜10日:体育の日前々日の土曜〜日曜日)【滋賀県大津市、天孫神社】 動画http://www.omatsuri.com/movie/otsu.html ◆粟田神社大祭・・・・・・きょろきょろ検索 http://www.kyorokyoro.net/event/saiji/autumn/595.html「京の歳時記」より 引用。■日時: 10月9日〜10月15日 平成18年は10月8日(日)9日(祝・月)15日(日)■場所: 粟田神社 ■住所: 京都 市東山区粟田山北町■お問い合わせ先: 粟田神社 TEL: 075-551-3154 ■概要: 粟田神社最大の祭礼行事です。下記の祭りを総称して粟田祭(粟田神社大祭)と呼ばれています。●御出祭 (おいでまつり)体育の日前日/9日10:00 ●夜渡神事 体育の日前日/9日17:30 ●神幸祭(しんこうさい)体育の日 /10日12:30 ●例大祭(れいたいさい) 15日11:00 舞楽奉納 粟田祭は一千年の歴史を持ちます。室町時代には祇園祭が斎行できない場合、粟田祭を以て祇園御霊会の代わりと したそうです。また当社のホームページから引用すれば、旧社名は、感神院新宮(カンジインシングウ)、粟田天王宮と 称されていましたが、明治になり粟田神社と改称されました。 次にhttp://www.heiankyo.co.jp/cgi-bin/topics/cho/index.cgi「京の歳時記」からの引用では、■歴史を誇る粟田神社 の例大祭(あわたじんじゃたいさい)10月8日・9日・15日 粟田口はかつて京の東の出入口にあたり、粟田神社は疫病退散を祈願して876年に創建されたといわれています。祭 で氏小町に飾れる18基の剣鉾は、祇園祭の山鉾の原形といわれるもの。そのうちの数基が9日の神幸祭で、蹴上から 東大路にかけて練り歩きます。 祭の呼び物は順路の要所要所で剣鉾を1人で持って前後にしならせる鉾差で、沿道の人々の注目を集めます。【8日 出御祭(午前9時)見物は夜の十二灯行列、9日神幸祭(午後12時半)見物は鉾差です。15日例大祭(午前11時)】 粟田神社 075-551-3154(以上引用)。 ◆桓武天皇の命日は3/17だが、ユリウス暦では4/9。其の方位には粟田神社があって、逆方位の時期の此の10/9日 に大祭をしている。主座、左座、右座のご祭神に桓武天皇は入っていないが、右座の外殿合祀として崇徳天皇を祭っ ている。また此のラインの先には日向神社(逆の園部町にも)がある。 ■長岡天満宮・例祭・・・・・・菅原朝臣道真公を祭る長岡京市の長岡天満宮では、他の天満宮の縁日が決まって25日 であるのに対して、此処は3月、8月、11月に各々梅花祭、夏祭り、新嘗祭をするものの、例祭は他所とは例外的にこ の日に行う。@ 長岡天満宮は 075-951-1025 ■34舒明天皇(田村皇子)の命日・・・・・・彼は33推古天皇の次に即位した天皇だったが、在位13年、明日香・岡 本、または百済の宮にて崩御により、押坂内陵に葬られた。@ 因みに明日香村の岡寺は如意輪観音を本尊として祀り、厄除け観音として知られているが、悪龍を押し込めた所と言 うので龍蓋寺とも言い、西国33観音霊場第7番札所となっている。此れは特別史跡・石舞台の表土が剥がされている のとは対照的である。 同時にこの岡寺から舒明天皇(天智・天武の父)の命日である10/9方位には舒明天皇に縁りの所と見られる軽寺跡 (橿原市)が有る。此れは偶然だろうか(1/21を参照)。 因みに34舒明天皇は10/丁酉9に崩御した。これはユリウス・グレゴリオ暦で 641/11/17-11/20であり、次の35皇 極天皇が656年に吉野宮を造営して656年に吉野を訪れている。これは別荘地を造った訳ではない。百済宮は吉野 の宮滝遺跡から丁度11/18方位に当たる事が方位で判明するからである。 と言う事は、当時の百済宮は現在の広陵町百済地区と確定できると共に、この宮滝が舒明天皇の日迎えのために造 られた所と判明する。以来この吉野宮は歴史に度々登場するが、その意味が謎のままなので序に解説する。 その後は12/22命日の41持統天皇のため、次に6/15命日の42文武天皇の宮として、次に12/7命日の43元 明天皇のため、続いて4/21命日の44元正天皇のために45代・聖武天皇が736年にその西側に吉野離宮(とつみ や)を造営した。何れも鎮魂の場ではなくて、神霊として迎えるための宮としての役割でした。 ■天武忌(万燈会)・・・・・・薬師寺。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 ■大茶盛・・・・・・第2日曜。西大寺。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 ■古室八幡宮・秋祭り・・・・・・・・藤井寺市で応神天皇を祭る古室八幡宮・秋祭りで10/8日は宵祭、10/9日に本宮であ る。社伝では欽明(きんめい)天皇の詔勅で仲津媛(実は応神)陵の一部(前方部の一端)に設けた日本最古の八幡宮 と言う。 誉田八幡宮のある伝・応神陵の主は応神天皇ではなくて実は成務天皇の可能性が強いが、考古学上は5世紀初頭の もので、墳丘全長425m、長さは仁徳陵についで全国第2位、体積では日本最大と言う。其処に対して古室は伝・仲津 媛皇后陵と云うが、実は応神天皇の陵である可能性が大きい。 古室神社は其の前方後円墳の前方部一角の、更に別の墳丘にあって、一見して何の変哲も無い小さなお社である。 ただ、「古室」と言うネーミングは昔の古室村によるが、此の一帯の古墳の親元であるとも推定出来る。何故なら、幾つ かの墳墓の主軸が古室で交差するからです。 此のためか、隣接する藤井寺市も此の10月9日10日、11日、に市内各地区で秋祭りとなる。所で此の八幡宮の本殿と 参道、そして鳥居をなす方位は2/19.5---8/21日を示している。更に其の後背部にも同軸上に神社があって其の前庭 との角度が応神天皇の命日2/15日である。 つまり何らかの事情で神社が遷されて、其れを印すために此の二つの地点に神社が置かれたと推定出来る。先の仲 津媛皇后(実は応神)陵も同方向を向いているので、此処が応神陵と確定できる。ただ折角此のように命日を示してい るのに、現在の祭りが8/16日ではなくて7/25日を夏祭りとして、また10/9日に秋祭りとしている。 7/25日は八幡宮の8/16例祭に近いものの、此処・藤井寺では道明寺の天神さんの祭りですから残念である。 ★10岸和田秋まつり(山手地区のだんじり)(〜10日:体育の日前々日の土曜〜日曜日) 【大阪府岸和田市、山側】動画http://www.omatsuri.com/movie/kisiaki.html ★泣きずもう・・・・・・海南市。体育の日に。 ■丹波の柏原(かいばら)八幡神社の織田祭り・・・・・10/9〜10日。此処は品陀別、足姫、姫三神(弁天)を祭り、京 都の石清水八幡宮の別宮と言われ、2月には石清水と同様、最古の厄除け行事がある。ただ石清水との方位は略10 /17なので七日ほどズレる。 寧ろこの日は石清水よりも宇佐の中秋祭と同日になる。本日は織田信長に縁の祭りと言われるが、此処は明智光秀 に焼かれて、今は神宮寺の三重塔が残されている。信長の配下の明智光秀に焼かれているので仮に織田信長の縁 日でないとすれば前項の田村皇子か次項の孝徳天皇に縁の可能性もある。 ■例年-金刀比羅宮例大祭・・・・・・香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮。例年の10月9日〜11日。金刀比羅宮は大 物主神と、後に崇徳天皇を相祭る金刀比羅大権現と言う宮になったが、同時に象頭山・ 松尾寺と言う寺院でもあっ た。785段と言う観光客泣かせの長い石段がまた観光名物でもある。 縁日・例大祭はこの日10/9〜11の御神幸「お頭人さん」の神事である。@ ■永渕神楽・・・・・・・旧暦9/18 (06/10/9)。高知県・大豊町 (町役場・企画課 0887-72-0450)。 ●大神山神社の例祭・・・・・・鳥取・伯耆大山(標高1729m)の山麓の大神山神社(主神は大穴牟遅神)と地蔵菩薩 を本尊とする大山寺があり、この日10/9は大神山神社の例祭日である。@ ■物部神社の例祭・・・・・・物部氏の祖神・ウマシマ遅の命を祭り、古の石見国の一ノ宮として島根・川合村に鎮座する 物部神社の例祭。また10/24日の夜には鎮魂祭がある。此れは11/22夜、宮中で行われる鎮魂祭の起源をなす ものと言われる。 ■宇佐神宮の仲秋祭・・・・・・宇佐市で9〜11まで。和間の浜まで神輿で行幸し、海に蜷を放生するので「放生会」とも 言う。@ 聖武天皇の勅願で弥勒寺が建立された。東大寺の大仏建立には全面的に協力し、次々と託宣を下して「八幡大菩薩」 の称号を賜った。其れに当時、和気清麻呂がこの神のご託宣で称徳天皇の時の弓削の道鏡を排除した事件は良く知 られている。 こうした結果、宇佐の神が春日の手向け山の神として迎えられ、朝廷の政に影響を与え、やがて京都の守護神として 石清水にも迎えられ、更に頼朝の時に鎌倉に勧請されて鶴岡八幡宮となり、以後は武士の神として全国に広まり、今 では全国四万社の総本宮となっている。 例大祭は3/18、御神幸祭が7/3〜18/2、この外年間に80余りの祭がある。@ ■06-07-09久留米・高良大社・例祭(高良山くんち)・・・・・・・筑後・一ノ宮・高良大社の例祭が9〜11日まで。福岡。 ■横代神楽・・・・・・福岡・北九州市、高倉八幡神社。起源は約400年前、風水害に悩む藩主が社寺に祈祷させた事 から、天孫降臨神話を演じる「御先」など、八演目が奉納される。 ★10那覇まつり(那覇大綱挽)(〜11日:体育の日前々日〜体育の日)【沖縄県那覇市】 動画http://www.omatsuri.com/movie/nahatuna.html ★06-07-09万国郵便連合記念日。 ★06体育の日。 ▼09亥の子餅。 10/10日以降については次ページへ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ■「神々の歳時記」の各項目のご理解には「366円暦」が必要です。円暦は別紙の「日読み1」http://toki.mikosi.com/ page044.htmlで公開していますが、其の実物を希望される方は末尾に従ってご請求下さい。 ■尚、各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年06-07と追加する形で示していますので、 *開催日等の詳細には主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。 ■「神々の歳時記」に記した例は仮説ではなくて、太陽暦に重ねて古式祭による祭政一致を行っていた古からの日本 文化の原理です。其の具体例を今回、公開したものですが、海外への情報流失防止のため、特に「本文」については0 4/11月から「非公開」としました。 ■@マークの付いた以下の部分が「非公開」部分です・・・・・・・@マーク以下には「地理・方位の具体例と其の意味や 暦との関係式」などの詳細を隠しています。この隠れた部分の資料をご希望の方は、「メールフォーム」または「掲示 板」からコンタクト下されば実費で郵送します。 ■文中に誤記や間違いがありましたら、恐れ入りますが前項の方法で下記まで御一報賜れば幸いです。尚、参考文献 は巻末に記しました。 ■♪ ただいま募集中 ♪-----●各地のお祭り情報-----あなたの自慢の祭り、知っているお近くの祭りなどの情報 をお寄せ下さい。http://6535.teacup.com/hijiriou/bbs ひじり(日知り)掲示板、 またはメールアドレス tjkny@ybb.ne.jptjkny328@ybb.ne.jp (鬼の会)へ、どうぞ。 次は「10月中旬 」 パテント・著作権は本会に属します。 「鬼の会」 |