http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」  p143  (未定稿) 


  神々の歳時記      10月上旬  但し方位による
次は
10月中旬
10月中旬
または
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●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性 を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」メルマガ全国版
http://www.omatsuri.com/mailmag/

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-10月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。
  
神々の歳時記・10月上旬 ・・・  ・・・  ・・・ ・・・ ●●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★


10/ 1  


■新湊曳山祭り・・・・・・・富山・新湊市で。
ぷどう感謝祭鳥居焼・・・・・・・大善寺(山梨県勝沼町)では柏尾山の中腹で鳥居形の火焚を行う。
■06瑞饋(ずいき)祭(10月1日〜5日)【京都市上京区、北野天満宮】

■90亀山法皇の命日・・・・・9/15を参照。
天武天皇の命日か・・・・・・・彼は飛鳥浄御原宮にて朱鳥元(686)年、旧暦の九月戊戌朔丙午、即ち9日に崩御され
た。此れを旧暦だから、即ちユリウス新暦で10/1相当になると解釈するのが一般的ですが、そうではない。

彼は藤原京を造営途中で崩御したので、其の遺志を引き継いで皇后の持統天皇が完成した。彼女は先帝を大内陵に
葬った。だが、其れを今は明日香村の「天武・持統天皇合葬陵」として治定している。@

★06池坊・華道展・・・・・・彼は遣隋使として、あの「日出処天子」の国書を持参した外交官であった。ただ文献上、生没
年月日が不明であるが、大阪南部の太子町には小野妹子墓と言われる前方後円墳がある。しかし此の塚の主である
かどうかは疑問視されている。

ただ彼は、仏前に花を供えたと言う伝承を伝える事から華道の祖と言われ、其の流れをくむ池坊が1400年を記念して
太子町と合同イベントとしたもの。

■06桜井神社の「こおどり」・・・・・・堺市泉北地区の当社で例年10月第一日曜日に行う。鎌倉時代の丹塗りと白壁造り
の拝殿(国宝)の前で無形文化財の「こおどり」を奉納する。此れは元々ニワ(上神谷)地区の「雨乞い」踊りから始まっ
たとされていて、鉢ヶ峰の国神社に伝わる芸能。

ヒメコと呼ばれる魔除けの紙花を挿した竹籠を背負った鬼神と三尺棒を持った天狗など総勢18人が、鉦と太鼓の音に
合わせて演じる。当日は国神社で先ず奉納し、道歌を歌いながら練り歩き、桜井神社へ向かいます(06/10朝日・大阪
風物詩より引用)。@

■06広八幡神社・秋まつり・・・・・・和歌山県広川町。
★06くえ祭・・・・・・和歌山県日高町。10月、第一土日。
大護摩会・・・・・・・伽耶院(兵庫県三木市)。 

■07みあれ祭・・・・・・・福岡・大島港の海〜広海町・神湊港。 
■07海上新幸祭(宗像大社みあれ祭、放生会)・・・・・・・・10月1日〜3日。福岡県宗像郡玄海町・大島村、宗像大社。
以下、http://kyuusyuu.jugem.jp/?cid=9「九州・沖縄情報」から引用する。

---場所:福岡県宗像市沖の玄界灘---問い合わせ先:宗像大社=0940(62)1311
豆粒大に見えていた無数の船が、色とりどりの大漁旗と紅白の吹き流しを掲げ、白波をけだてて押し寄せてくる。その
数、約400隻。目前に繰り広げられる海上絵巻に思わず息をのむ。

毎年10月1日、福岡県玄海町沖の玄界灘で行われる「みあれ祭」。同町などに鎮座する宗像大社の秋季大祭序幕に
あたる行事で、「みあれ」は漢字をあてると「御生(みあ)れ」。神様は毎年生まれ変わるとされ、それを意味する言葉だ
という。同大社の祭神は、天照大神の子である宗像大神(辺津(へつ)宮、沖津宮、中津宮の三女神)。

同大社は玄海町田島と、玄界灘に浮かぶ同県大島村の2カ所に、計三つの社がある。田島には辺津宮、大島村の沖
ノ島に沖津宮、同村の大島に中津宮がそれぞれまつられており、年に一度生まれ変わって一堂に会するため、島の二
神が海を渡ってくる旅―それがみあれ祭だ。

今年も十月一日午前八時半、沖津宮と中津宮の両女神をそれぞれ載せた神輿(みこし)が二隻の漁船に移される。
「御座(ござ)船」と呼ばれる。それらの後ろに「供奉(くほう)船」約400隻が縦10列に並ぶ。花火を合図に、大島の大
島漁港を出港。宗像七浦の漁師が舵をとり、神湊港を目指す。

陸では辺津宮(へつみや)が待ち、出港から約1時間後、三女神が出合うと祭の幕が下りる。起源は、中世に行われて
いた御長手(おんながて)神事といわれ、当時は、沖ノ島に生い茂る竹に紅白の布をつるした神の象徴を、数隻の船で
辺津宮に迎える簡素な儀式だった。

中断した時期もあったが、1962年に復活。海の安全と豊漁を祈願して盛大に催されるようになった。大島港から神湊
港までの海上をパレードする「みあれ祭」。見物に適した場所は、神湊港一帯。広く見渡したければ港そばの高台にあ
る宗像大社の頓宮周辺がおすすめ。以上、「九州のお祭り 」から引用。

また07/9/21日のテレビ大阪の番組で沖ノ島を紹介した。此処は縄文時代からの宝の島であり、宗像大社には8万点
の国宝があると言う。徹製品が多い。此れは海人(わだつみ)族のものとされる。地元では島からは草木1本持ち去っ
てはならないとした上で、島の事で見た事、聞いた事も口外せず、「お言わず様」として護って来たと言う。

今でも女人禁制。上陸する場合は誰もが事前に全裸で海に入って禊をする習わしである。沖ノ島には巨大な岩が有
り、神の依り代とされている。この島の御祭神は田心媛。中津島はタギツ媛、辺津宮は市杵嶋媛としている。以上を宗
像三女神と言う。



■06-07北海道・一般鳥獣狩猟解禁。    ■06-07労働衛生週間。     ■06-07法の日。    
■06-07共同募金。     ■06-07都民の日。   ▲06亥の子餅。  ▲06八専終わり。






10/ 2  


          ▲07己巳。

天海大僧正の命日・・・・・・・彼は会津の芦名氏、天台宗の僧侶で比叡山では南光坊と称し、周易にも通じて山王一
実神道を興し、江戸崎の不動院に住持して、その後に天海と改め、家康、秀忠、家光の三代の信認を得て大僧正とな
り、日光東照宮を造営し後に家光の快諾を得て江戸城の鬼門に東叡山・寛永寺を建てた。

寛永20/10/2=G.1643/11/13日・遷化(108歳とも)して諡号に慈眼大師を賜った。彼は怪僧とも見られているが実は
当代随一のヒジリだった事が以下により分かる。彼の業績は色々挙げられようが、日光東照宮のような箱物造りより
も、もっと大きなスケールの遺跡を残している。

例えば家康の日光参道として凡そ五間(9m)幅の道路を日光から水戸までの約100kmに及ぶ長さで通していた事を
今でも確認できる点である。此れは空海の高野山へ向かう東西中の各々細い高野街道や東海道53次より遥かに大
規模であり、当時の土木事業のスケールに驚く。

のみならず、この並木道が村人や軍隊が通行するためのものではなくて、単に家康と家光公の年に2回の仏事と祭り
の大行列が何処でも同時に行き違える幅を取った点にある。とすれば其れが戦争や武力の行動のためではなく、モノ
カネ主義経済の産業道路でもなく、祭り事重視の政治姿勢の強調からだったと分かれば驚愕するしかないのです。

さて彼の墓地は日光の大黒山にある@
更に言えば川越大師?喜多院がある。ただ此処はグレゴリオ暦で設定されている。@

また07/3/3テレビ大阪の番組から引用すれば、光秀(7/12参照)と同一人物との説もある天海と初対面の時に、春日
の局は「お久しゅう御座います」と挨拶したと言う。実際、天海は彼女を引き立てたと言う(9/15お江与を参照)。天海に
ついて大阪・本徳寺文書がある。また叡山・長寿院には光秀銘の灯篭がある。

其の灯篭には、光秀の死後の1615年に光秀が寄進した事になっている。死後、彼は南光坊天海と称し、世に出て家康
に仕えたとも推定出来る。光秀と天海の筆跡鑑定でも似ている。天草四郎も実は秀頼の子と言う説もある。春日の局
は「豊臣を根絶やしにする」と言ったと言い、其の通り原城も徹底して破壊された。

また日光東照宮の鐘楼には明智の桔梗紋が散りばめられている。鼓楼は「世の始まり」を意味し、鐘楼は「世の終わ
り」を意味すると言われる。つまり、此れは、「世の始まりから終わり」まで、明智が支配する黙示であると言うのだ。

■06京都・北野天満宮・・・・・・・瑞饋祭(1〜5日)。 
■昔はこの日に鳳大社・浜宮祭りが有って大変な賑わいだった。其処から今も毎月2の日が縁日で賑わう。ただこの1
0月は浜宮祭りを10/5としている。

■本宮・献湯祭・・・・・・・熊野本宮。

■吉備真備の命日・・・・・・姫路市に広峯山と書写山・円教寺がある。前者は彼が勧請した神社であり、京都祇園の元
宮と言われる。後者は花山天皇以来、摩尼殿(如意輪堂、昭和8年再建)があって西国33ケ所観音27番の札所とし
て6本の手を持つ如意輪観音を本尊とする。ほかに四天王(重文)があるが共に秘仏。

1月18日の鬼追いの日のみ一般に公開される。だが謎の寺である。書写山も境内もほぼ吉備真備の命日方位に延
びている。ただ命日が宝亀6/10/2日とあるものの此の頃は暦法が色々で混乱する。壬戌日としても775/9/2、グレゴリ
オ暦11/3、ユリウスでは10/30日となるのです。彼は83歳でなくなった。

姫路市の薬師・増位山・隋願寺(有明城跡)と広峯山とを繋ぐ山道がなだらかに続くので此処も関係するかも知れず、
広峯山には白幣山に荒神社と吉備神社があるので、此処も関係があるかと思われる。

■海上神幸祭・・・・・・・福岡・玄海町10/1〜3日まで。宗像三女神、つまり弁天様を祭る宗像大社のミアレ祭りで、放
生会とも言った。1日から多数の漁船の群れが神を迎えに海上に繰り出す。因みに大島から沖ノ島への円暦方位は1
1/1〜4であるが、2003の旧暦は10/8〜11である。









10/ 3   

            ▲07下弦・大つち。

■三宅島の噴火・・・・・・・S58年の今日、三宅島は最大規模の噴火に見舞われたが旨く避難出来たために死者・不
明ゼロだった。阿古地区の上に90ヶ所の火口が出来ていて家屋の全壊が428棟となl、火山灰が1mも降り積もっ
た。噴火は災難でfあるが噴火があって助け合いが続いているため三宅島の島民は纏まり、共存していると言う。

■花馬祭り・・・・・・・長野・南木曽町。細長く割った竹に五色の色紙をつけた「花」に3頭の木曽馬を飾って、氏子や小
中学生の笛、太鼓と一緒にJR中央本線・田立駅前から同神社までの地区内を練り歩きます。
詳細は右記のURL http://www.nagiso-town.ne.jp/

■ほうらい祭り・・・・・・・石川県鶴来町日詰の金劔宮では二二ギを祭り、10月の此の頃は「ほうらい祭り」をする。岩手
紫波町にも日詰の地があり、9/4には志賀理和気神社の例大祭「日詰まつり」である。無論、日詰の両社の関連性は
不明だが方位関係では8/13--2/12であり、此れを旧暦と見れば西暦の9月や3月に祭りをする事になる。

だが10月の此の「ほうらい祭り」は前田利家公の祭りである。彼は慶長4/3/3薨去、金澤の尾山神社に祭られた。其れ
を旧暦とすれば4月に弔い10月に祭りとなる。
■07武生の菊人形(〜11月4日)【福井県越前市、武生中央公園】

■07京都・北野天満宮・・・・・・・瑞饋祭(1〜5日)。 
京都・月読神社の例祭・・・・・・・西京区松室山添町。以下http://kamnavi.jp/yamasiro/kadotuki.htm葛野坐月読神社
由緒から引用する。

山城国葛野郡の式内社。創建の由緒が『日本書紀』に記されている。顕宗天皇三年(487年)阿閉臣事代、命を衝け
て、出でて任那に使す。是に、月神、人に著りて謂りて曰はく。 「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔ひ造せる功有しま
す。民所を以て、我が月神に奉れ。 若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。

事代、是に由りて、京に環りて具に奏す。 奉るに歌荒樔田を以てす。歌荒樔田は。山背国葛野郡に在り。壱伎県主の
先祖押見宿禰、祠に侍ふ。とある。壱岐郡の式内の名神大社に月讀神社が鎮座、(名神大)、祭神は中月夜見尊、左
月弓尊、右月讀尊とあり、 対馬の古族が日神、壱岐は月神を祀ったのは亀卜と関係しているとのことである。 

壱岐の豪族であった安倍氏は後に中臣氏と祖先を共通としたようである。また京都の当社は松尾の南の山頂に鎮座し
ていたのを桂川辺に遷座させたが、大水などがあるようなので、現在地に遷したようだ。本殿向かって左側に御舟社の
小祠があるが、背後の山は舟の形に見えなくもない。

元々、月神を船神として祭ったのか、 また月神も舟で運ばれるものとして祭られたのか、関わりの深さを感じる御舟社
である。旧鎮座地の歌荒樔田については『京都名所図絵』によれば、「松尾橋より南で、桂川右岸の月読塚の場所(桂
上野町)や、桂の里(下桂村)、下嵯峨斎宮神社などが候補。 

当社の領地であるが、山城各地に禰宣田が分布、また山林や松室に屋地のほか、松尾前の河原田方五町余(梅木原
二段を含む)とあり、この比定地としては、大井川沿いに字河原町、字川原町の名が見えるように松室から桂上野にか
けての地域と思われる。要は移転前の鎮座地周辺と言えよう。歌荒樔田を月読塚の位置とする一つの根拠となろう。

光明真言土砂加持法要・・・・・・・西大寺(奈良市西大寺町)では10/3〜5日に光明真言を誦し、1日3回厳修する。

橿原神宮・秋季大祭・・・・・・・奈良県・橿原市の橿原神宮で行われる。橿原神宮は明治23年に新設された歴史の
浅い神宮であり、特に近年の歴史家は誤解によって「神武天皇は存在しなかった」とする偏見から、此処は単に国家神
道の権化として常に批判の的になって来た。

だが、それらは渡来系学者の恥ずべき偏見と無知論であるから無視して良い。何れにせよ此処は神武天皇の柏原の
宮跡に因み御陵※の修復と共に新設された宮ではあるが、先ず4/3に神武天皇の崩御の日に因み、大和の地方で
は「神武さん」と親しまれる「神武祭」がある。@

大津皇子の命日・・・・・・・彼は天武天皇の第三の御子として生まれて詩文に優れ、未来を期待された方だった。彼
に関しては普通、「新羅の僧・行心の妖言を信じて俄かに反を謀り」と解説されて来た。だが実は、彼の姉(大来皇女)
が伊勢斎宮で斎王として仕えていた(ヒジリ事典を参照)。 

なので、その姉に会うため伊勢に近づいた事が災いして、持統天皇の朱鳥元(688)年の10/2己巳、謀反の疑いで
皇子(彼)以下30余人が逮捕された。無論、張本人の僧・行心も掴まったものの、持統天皇は「彼に罪を問うのは忍び
ず」として許し、飛騨に飛ばしただけだった。

問題は別だったのだ。問題の第一はこの姉弟が継子だった事と、第二の理由は、当時の伊勢は、天皇以外の者が行
ってはならない聖域(禁則地)であり、従って天皇の主祭権を犯せば皇子・皇族であろうと反逆と見なされたのである
(神宮の祭祀権は天皇独占制だった)。

よって、この日「をさだ(譯語田)の舎に賜死らしむ」。時に24歳。父(天武)が崩御した直後の不幸だった。この日、山
辺の妃・皇女素足にて走り、殉死し、其れが世間の同情を誘った。やがてこの重大事件が伊勢の姉(大来皇女)にも届
き、急ぎ彼女は11/16に京師(藤原宮)に戻った。そして二上山に向かって悲しみの歌を詠んだ。

翌日この地・京師も震えた(地震となる)。@

■だんご茶会・・・・・・・大阪・玉造稲荷神社で。
 
■07宝当神社・祭日・・・・・・・・佐賀県唐津市高島(唐津湾に浮かぶ)。メサ(卓状)玄武岩の島。野崎姓が多い島。ご
祭神は大友宗麟、即ち野崎隠岐守綱吉(ノザキオキノカミツナヨシ)。御祭日とは彼の命日で旧暦8月23日(平成18年は
10/14日)。以下、http://www.h5.dion.ne.jp/~houtou/page003.html「宝当神社」より引用する。

綱吉様の歴史は天文23(1554年)、信州諏訪の国に生誕。幼少の頃より才能があり、哀れみの心も篤く、動議もわきま
え礼儀正しく勇気と力を持ち、当時の人々より大変慕われていました。

後に肥後の国豊後の大友義鎮(おおともよししげ)公につかえ、数度の軍功著しく恩賞を戴く。大友義鎮は、出家した後、大
友宗麟(おおともそうりん)と名乗る。大友義鎮(おおともよしいげ)公は、肥前国草野城の城主として草野鎮永に迎えられる。元
亀4(1574)年3月2日、草野城は、龍造寺隆信の率いる5400騎に取り囲まれる。

野崎隠岐守綱吉と原瀬久太郎久国は、矢面に立ち奮戦。これにより、龍造寺は勢力を失い敗走した。草野城はこれで
安堵したが、草野家の老臣は綱吉の勇力を恐れ、ねたみ、主家に綱吉の居場所が無いように仕向ける。9月21日、綱
吉はやむを得ず三人を引き連れ、夜影に紛れ小船を操りここ高島にたどり着く。

12月29日、龍造寺は、再度草野城に至り連戦の末、草野城を陥城した(平原の合戦)。綱吉公が高島にうつりし頃、当
時世の人は筑前の国吉井の海賊火山神九郎の猛悪異名に恐れおののいていた。ある日の事、吉井荊娯が神九郎の
手下30人余りを率いて、高島の民家を襲った。

穀物や金銭を強奪し、船に積み込み、とも綱を解き、浜辺を去ろうとしていた。これを聞きつけた綱吉は、浜辺に走り
出て飛鳥の如く賊船に飛び乗り、帆柱を引き抜き横一文字に振りまいた。賊徒は、その場になぎ倒され、各自物を取っ
て綱吉たちに向かってきた。

綱吉は車輪の如く早業で投げ飛ばし、骨折、転倒、流血負傷を負いながらも、賊徒を倒した。生き残った者はわずか5
人であった。5人は、強奪した物を前にして命乞いをし、綱吉は、それをねんごろに諭し許した。その後遠近の賊船は、
綱吉の勇力を聞き二度と高島を襲うことは無かった。

天正12(1585)年、綱吉の嫡男、吉道(姶称主馬之助)高島において生誕。天正13(1586)年8月23日、綱吉は,にわかに
病に冒され再起することが出来ず、高島において逝去(32歳の時)。島民は、綱吉の弔いを厚くし祠を建てて島の大権
現として祀る。

明治34年(1901)年、島の産業である製塩業が盛んになり島が潤い利益をあげた時、お礼として綱吉を祀った当神社
を当島の宝と称え『寳當神社』と記した石造りの鳥居を奉納した。この頃より宝当神社(ほうとうじんじゃ)と呼ばれ親し
まれてきました。

その後、平成に入って当神社の『寳當』の文字にあやかって宝が当あたるということが宝くじファンみなさんからに広ま
り、お参りをされた方の中から当選者が多数出て、テレビや雑誌などに紹介され、宝くじが当る神社として一躍有名に
なって現在に至っています(以上、引用)。












10/ 4 


■06-07二本松ちょうちん祭り・・・・・・・10月4日〜6日。福島県二本松市、二本松神社。日本三大提灯祭りの一つという
より日本一の提灯祭りとも言うのがhttp://www.h3.dion.ne.jp/~paint/maturi.htm ----更に、「祭りの見どころ」をhttp:/
/p133.pcsn.co.jp/~nihonmatsu/maturi.htmlより引用する。

雨天中止の場合、同時間5日・6日に順延となります。一番の見どころ「宵祭り」! この日は各町内から鈴なりの提灯
をつけた7台の太鼓台が繰り出し、二本松神社のかがり火を紅提灯に移します。太鼓台は威勢のいい若連のかけ声と
お囃子を奏しながら、市内を勇壮に練り歩きます。

夜空を赤々と焦がしながら移動する幾千もの提灯は見物客までも熱くし、しかも夜間の運行で全ての町内が揃うのは
この日だけなのです。 本祭り! 5日は、例大祭の最も重要な行事である「神輿渡御」が行われる日です。7町合同引
き廻しも2日目を迎え、午前8時半頃駅前を出発し、午後3時頃まで行われます。

その後、神社では神輿の宮入が行われ、夜は各町内に戻った太鼓台が再び提灯をつけて町内を練り歩きます。祭り
の最終日「後祭り」! 昼は、それぞれの町内を引き廻し、夜は4町と3町のふたつに分かれ、合同引き廻しが行われま
す。一通り廻った後も、名残り惜しさゆえ、なかなかお囃子は止まず、夜がふけるまで満天の空に鳴り響きます。

■全国花火競技大会・・・・・・土浦市029−824−2810

06京都「ずいき祭」・・・・・・・北野天満宮で10/4-5日。平安時代から始まったと言う「ずいき神輿」が正午過ぎに御旅
所からスタートし、続いて菅原道真公と妻子の神霊を載せた3台の鳳輦や馬車が天満宮まで巡行する。5日は境内で田
舞の奉納がある。

▼百舌鳥八幡宮・月見祭・・・・・・堺市で旧8/15まで。
御坊祭・・・・・・・・・和歌山御坊市で10/4-5日。 

■06-07里親デー。 












10/ 5


■06-07達磨忌。 ▼07一粒万倍日。
十夜会・・・・・・・善光寺(長野市元善町)で10/5〜14日。 
06京都「ずいき祭」・・・・・・・10/4から。

十夜会・・・・・・・誓願寺(京都市中京区)では10/5〜14日。  
達磨忌(臨済宗・曹洞宗)・・・・・・・5〜15日 

僧形八幡神座開帳・・・・・・・東大寺(奈良市維司町)。  

●03転害会(テガイエ)・・・・・・・東大寺(勧進所)と手向山八幡宮(転害門)。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900
期日:03/10月5日(日)。場所:転害門。時刻:正午12:00〜内容:当神社が奈良時代に東大寺境内に祭られて以来の
古い歴史をもつ祭です。

この日、同神社の神体で明治の神仏分離の際に東大寺八幡殿に移された国宝の僧形八幡像が東大寺で特別開扉さ
れます。問い合わせ:0742-23-4404 

お里・沢市祭・・・・・・・壷坂寺〔南法華寺〕(奈良県高取町)。 

■高天彦神社の例祭・・・・・・・高天彦神社は近くの鴨神地区に有る高鴨神社(式内明神大社)とワンセットで京都の上
賀茂、下鴨両社の元鴨の地である、と地元では信じている。此の辺りは金剛山麓の東面に広がる高原地帯であり、高
天、つまり高天原とも見られて来た。

さて、高天彦神社の主祭神はタカミ結びの尊である。@

鳳大社・浜宮祭り・・・・・・・・・高石市羽衣で両道入姫を祭る当社の例祭。彼女はヤマトタケルの妃神。浜の宮は現
在、堺市の鳳大社の摂社の一つであり、10/5日は鳳大社の摂社例祭となっているが昔は10/2だった。次項、及び
10/6日も参照。

★08多治速比売神社・例祭・・・・・・・・多治速比売は、先の鳳大社の御祭神・日本武尊の妃の一人(弟橘姫)である。赤
丹の優美な社殿が美しい。旧境内には梅園が広がる。堺市南区宮山台2丁3番1号 TEL:072(297)0726。例祭日は1
0月5日に近い日曜日。午前9時からだんじり、神輿だんじり宮入り。

以下、http://www1.ocn.ne.jp/~tajihaya/haidenn.html「多治速比売神社」荒山宮(こうぜんのみや)-由緒から引用。

当神社には高山(こうぜん)縁起が伝わる。和泉国大鳥郡の延喜式内社24座の1つで、西暦530年頃の御創建と伝えられ
ている。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、神仏分離の際、神社のみとなった。現在の本殿は室町
時代の建造物(天文年間1539年〜1543年に再建)で国の重要文化財に指定されている。

主祭神は多治速比売命(たじはやひめのみこと)で女神として厄除・安産・縁結びの神として崇敬が厚く、また本殿には素盞嗚
(すさのおのみこと)・菅原道真公も合わせて祀られ、特に道真公は学問の神(天神様)として厚く信仰されている。

境内には十三の末社【坂上社(式内社)、鴨田社(式内社)、大神社、住吉社、天照社、八幡社、春日社、熊野社、白山社、
弁天社、稲荷社、福石社、水天宮】があり合わせて荒山宮 (こうぜんのみや)と呼ばれている。また毎年3月の最終日曜日
に稲荷祭がある(以上、引用)。

所で此の宮は昔は6万坪の広大な社地にあり、神宮寺として荒山・総福寺もあって、今は社務所になっている。此処は
28宣化天皇の創建と有る。彼は明日香村・檜隈に宮跡を残して今の高取町に葬られた。従って実は次の29欽明天皇
が先帝である宣化天皇を祭る為に建てたものと推定する。

何故なら例祭日の10/5日の方位に古い石鳥居が立っていて、其の逆方位の4/5日の方位に本殿があり、其の延長線
上には高取町・市尾があるからです。此のラインには他にも葛の葉稲荷神社---多治速比売神社---滝谷不動----葛
城山頂----市尾----壺坂寺----丹生川上神社が並んでいる。ただ詳しい点は未調査。














10/ 6

                                
■06お十夜<十夜法要>(浄土宗)。 
■06十夜法要(お十夜)・・・・・・・浄土宗寺院でこの期間十昼夜の間、別時念仏を誦する。 

■06蒲生神社の観月会・・・・・・平成18/10/6日(金・十五夜)雨天中止。開催地・蒲生神社境内(八幡山公園南側)HP
http://www.gamoujinja.com/---蒲生神社は幕末の古墳研究家・蒲生君平を明治に祭った所。今の史学・考古学は彼
の著した「山陵志」に拠る所が大きい。

★07ほうらい祭り・・・・・・10月の第一(土)〜(日)まで。06年は10月7日〜8日だったが07年は本日から。石川県白山市
鶴来地区。二二ギノ尊を祭り、約800年の伝統をもつ金劔宮の五穀豊穣を祝う秋祭りで、神輿渡御、鶴来の棒振りと
言われる獅子舞や、「つくりもん」と呼ばれる巨大な人形が町内を練り歩く。

問い合わせ/石川県・鶴来町商工観光課 TEL: 0761-92−1111
伊勢山上秋峰・・・・・・・飯福田寺(三重県松阪市)。 
★07大津祭(体育の日前々日の土曜〜日曜日)【滋賀県大津市、天孫神社】

舎利会・・・・・・・泉涌寺(京都市東山区)。 
●06仲秋の名月「采女祭」・・・・・采女神社。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900
●06仲秋の名月「観月讃仏会」・・・・・唐招提寺。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900

■06堺市百舌鳥八幡宮「月見祭」・・・・・・月見祭は、毎年旧暦中秋の名月に行われます。
■堺市百舌鳥八幡宮・例祭(旧暦8/15)・・・・今は八幡宮となっているが、この宮の西側に御廟山古墳があり、此処
が9/15方位に築造されてい る。

そしてこれ等の主軸の先には誉田の地(羽曳野市)があるので、本来は応神天皇の皇子の陵と彼(皇子)を祭る宮だっ
たと思われる。

白鳥神社-------白鳥神社(しらとりじんじゃ) 古市------http://www.kiis.or.jp/kansaida/habikino/habikino16.html
「羽曳野市」より引用。もとは、軽里(かるさと)地区の西方の伊岐谷(いきだに)に祀られ「伊岐宮(いきのみや)」といわ
れていました。

その後、南北朝や戦国の戦火にかかって次第に衰微し、峯ケ塚古墳(みねがづかこふん)に小祠として祀られていまし
たが、1596年慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていました。江戸時代の寛永末期に現在地に移され、日本武
尊(やまとたけるのみこと)と素戔鳴命(すさのおのみこと)を祭神とする古市の氏神となりました。

10月には、古市各町の地車(だんじり)が宮入りする勇壮な姿が見られます。 次に東香川市では10月6〜8日 秋季大
祭-----百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用すれば、----能褒野(三重県亀山市)で戦死し葬られたのち、
白鳥となって飛び去った日本武尊の霊が舞い降りた、という伝説が残る。

当地に降りた白鳥は間もなく死んだため、日本武尊の子である武鼓王が廟を建て手厚く葬ったという。白鳥神社はこの
時に始まるとされている。寛文4年(1664年)に高松藩初代藩主・松平頼重が朱印地200石を当社へ寄進して再興、以
後は天領となった。明治5年(1872年)に県社に列格される。

白鳥神社の松原 播磨灘に面して4万坪の広がりを有し、瀬戸内海国立公園の区域に指定され、日本の白砂青松100
選に選定されている。楠 目通り7.6m、樹高30m、枝張り30mの巨木。松原の中に聳え、白鳥となった日本武尊の霊が
舞い降りたとされる。

香川の保存木として指定されており、また2001年には環境省のかおり風景100選に選出されている。境内には、代々藩
主が寄進した燈籠が所狭しと並ぶ。猪熊家住宅(長年神官を務めた猪熊氏の屋敷。香川県指定文化財)
主な神事----5月4〜6日 春季大祭 、7月31日 夏越(花火大会)、10月6〜8日 秋季大祭 。

因みにヤマトタケルについては堺市の鳳大社・例祭8/13日、または3/16の項目を参照。両道入姫は高石市の浜の宮
10/5日(鳳大社の摂社例祭)、また白鳥神社は羽曳野市及び〒675-0022 兵庫県加古川市尾上町口里770 TEL /
FAX 079-424-6908がある。

弟橘姫については10/5日、堺市の多遅速姫神社、そして近江の建部大社祭は4/15日を参照。

★07河内長野・秋祭り・・・・・・市内各地域の神社の祭り。10/5は西代神社の宵宮で境内では夕方から西代神楽の奉
納がある。10/6-7日とダンジリが市内各地を巡幸する。また長野神社や住吉神社は10/11日を参照。

■07岸和田秋まつり(山手地区のだんじり)(体育の日前々日の土曜〜日曜日)【大阪府岸和田市、山側】

大宮神社-------和歌山県岩出市の紀の川の北岸で主祭神を日本武尊(ヤマトタケル)とする当社の例祭。当日の
深夜から「先走り」が始まる。真言宗豊山派・興教大師(覚ばん上人)が根来寺開基に当たり熱田から勧請との説があ
るが、其れは寺の伝承であって事実は別かも知れない。10/5日、浜の宮を参照。

例えば紀の川の対岸が和歌山市船戸であり、此処には浜の宮と主軸(1/10--7/12.5
)が合う八王寺1号墳など古墳群があるからです。

仙涯忌・・・・・・・聖福寺(福岡市博多区)。
★07那覇まつり(那覇大綱挽)(体育の日前々日〜体育の日)【沖縄県那覇市】

■04-06仲秋祭・・・・・・・この日の晩は旧暦8/15で満月。中国では仲秋節となる。古来シナではお正月と同じ大切な祭
りであり、家族団欒で月を祝い、月平餅を食べる風習がある。だが04年は月平餅が大量生産されて1500トンも売れ
残り、其のお蔭で豚は甘い甘い餌にありついたとか。

またハノイの街頭では06年も中国製の風船を売る売り子たちが町を彩った。

■06-07国際文通週間。 














10/ 7     


■06全国花火競技大会・・・・・・茨城・土浦市、桜川畔。029-824-2810

■佐原の秋祭り・・・・・・・千葉・佐原市には香取神宮があり、また伊能忠敬の里。佐原市では本日、江戸時代から伝わ
ると言う独特の囃子や14台の山車が出る。佐原は早良親王に音の響きが似ているが詳細不明。
10月7日
■07狐の夜祭り(体育の日前日の日曜日)【新潟県高柳町】
■府八幡宮・例大祭・・・・・・静岡・磐田市で10/(土日)。

■ぎふ信長祭・・・・・・・岐阜市で10月の第一(土)〜(日)まで。

■06-07大津まつり・・・・・・・10月7日〜8日。滋賀県大津市、天孫神社の例祭。「体育の日」前日の日曜日に本祭り、
前々日の土曜日に宵宮。翌日にはカラクリ人形の曳山13基が夕方まで市内を巡行する。見せ場が市内に26ヶ所設け
られて、12万7千人が沿道に詰めかけた(07/10/8朝日)。

★塔影能・・・・・・・興福寺で10月第一土曜日。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 

住吉仲皇子の命日・・・・・・彼は仁徳天皇の皇子の一人だったが、弟のミズハワケ(後の反正天皇)に10/7己亥
の日に討たれて東百舌鳥の土師ニサンザイ古墳(大きさ約290m)に葬られた。@ 
ただ重大な問題として此れは命日方位ではなくて逆方位に設定されている事です。

しかも陵の頭が命日方位の西ではなくて、東を向いている。と言う事は、神としての祭礼がなされず、従って蘇りが出来
ない仕組みでした。丹北郡住道村には土師郷があり、長原荘、大堀、羽咋荘などが有ったが、中でも黒山は丹治氏の
流れで鋳物師の里として中世は栄えて来た所です。@

そして更に東に進めば黒山の阿弥陀寺、そして太子町の伝・用明天皇陵(方墳)から明日香村に至る。太子町には履
中天皇がまだ太子の時にこの「埴生坂」に差し掛かった時に、宮を仲皇子に焼かれて振り返って驚き見たと言う因縁の
地でした。逆方位には石津神社と石津太神社がある。後者は「いしづた」とか「いわづた」とも呼ぶ。

此れは「祝う」のではなくて「言わず、祝わず」の意味ではなかったか。つまり「祭りをしない宮寺だった」とも理解でき
る。 先の陵は前方部が逆の形なので、それは「祭りをしない弔いだけの陵」であり、宮寺でも祭りをしないと言う例外的
な所と分かります。石津神社と石津太神社は此処に昔、蛭児が漂着した所と言われた。

其処から上石津と下石津の蛭児社として、或いは八重事代主神を祭る戎宮として、孝昭天皇7/8/10の勅願によっ
て古来、本邦最古の恵比寿(惠美酒大神)神を祭って式内社とも言われているが、石津神社の地は元は観音寺の場
所であり、現在は初戎を1/10に、そして例祭日を10/5に行う。

とすれば2日のズレで住吉仲皇子の命日に略合致する。しかも石津神社では昔、3/10に船祭りとして神輿が浜のお
旅所へ神幸していたと言われるので、西暦にすればそれも今の四月の神事であったろう。尚、この陵が土師ニサンザ
イ古墳として土師の名が付く事は、往時この辺りは土師の里だった事を意味する。

土師氏の祖は野見宿弥であり、住吉仲皇子よりも古い、垂仁天皇の時代であるが、彼(野見宿弥)がこの石津神社の
神主であったと社伝にある。だがその後の孝謙天皇の時に藤原姓を賜わったとあり、その後は天穂日命(野見宿弥の
祖)を祖とする石津連の末裔の陸野氏で代々続いて来た。

因みに此処では「やっさいほっさい祭り」と言う火踏みの祭りを旧暦11/14にして来た。此れは神代に、戎神を迎えた
当時の喜びを伝えたものと言われる。そして石津の先は大阪湾であり、その先は神戸市垂水区塩谷の岬に至る。此処
に厄除八幡宮がある。@ 

そして住道首や住跡物部として、或いは中臣住道として他流に同化した。またこの頃は葛城氏族の玉手氏も仁徳皇后
(磐之媛)が生まれた家の支族であるから住吉仲皇子や反正天皇にとっては母の実家である。玉手氏は後に漸く天武
朝になってから朝臣の一人として他家に並ぶ者が出たくらいである。

何れにせよ住吉仲皇子の子孫は葛城氏によって守られたろうが、矢張り表には立てず、よって後を丹治比に託して全
国各地に去ったと思われる。その点で丹治一族は反正天皇の流れとして今の松原市で柴垣宮を残し、或いは反正天
皇の後裔が丹比郷(今は美原町)に居つき、永く栄えた。

ただもう一つの可能性として、彼の子孫が住吉に居着いた可能性がある。以下、「ヤフー知恵袋」に回答した中から引
用する。住吉大社にはかつて古墳があった。地元の人や極く内部の関係者だけは此処に明治まで古墳と神宮寺があ
った事をご存知です。ただ彼の命日(10/7)と古墳の軸線が合わないので彼の墓地ではなかったと思います。

ただその子孫の墳墓と祠であろうと思います。今の歴史学や考古学では否定されるが、住吉仲皇子は実はニサンザイ
古墳に葬られた。その子孫が今の住吉大社に葬られている。明治には神宮寺も消されたし古墳も消されたので荒神さ
んが有るなら、其処に祭られている筈です。

荒神は一般には荒々しい神と誤解されていますが、実は新たな神として迎える所でした。さて、彼の亡きあと、御子が
当初、仁徳天皇陵の南の上野芝に居着き、やがて1/6日に亡くなった。よって其の方位の堺東駅の東の伝・反正天皇
陵に葬られた。その子が其処に居着いたが、やがて12/29日に亡くなった。

よって其の方位に当たる今の住吉大社の第一本殿から社務所の軸に葬られて墳墓となりました。よって其処にはやが
て薬師如来が祭られて新羅寺となった。其の軸線の先には今も大海神社と生根神社がある。何れも由来なく存在する
訳ではないのですね(引用、以上)。

■07忠岡の秋祭り・・・・・・大阪・忠岡町の忠岡神社。
★06岸和田秋まつり(10月7日〜8日)【大阪府岸和田市山側】

■07大阪南部の泉佐野市ではダンジリを曳いていた男女10人が転倒して怪我。田尻町ではダンジリが横転して13人
が病院へ行った(07/10/8朝日)。
★07笑い祭(体育の日前日の日曜日)【和歌山県日高町、丹生神社】

★07クエ祭り・・・・・・和歌山・日高町。豊漁祈願の祭り。クエとは江戸時代から続く白鬚神社の秋祭り「クエ祭」に奉納さ
れる魚で、町では昔から人々の暮らしと密着した魚です。名物「クエ料理」はクエ祭で知られる本場、日高町で此の時
期にこそ食べて値打ちが分かると言われる。

白国神社・秋祭・・・・・・・・以下、http://www.geocities.jp/shirakunii/「安産の神様」より引用。姫路市白国字山田691
電話 0792-24-1380で10月8日-9日。今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子(稲背入命)が、大和から当地(白
國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。

孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産のおり大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に、安産を祈願されたところ、
このはなさくやひめ(木花咲耶媛)が、忽然と現れ『私が永くこの地に留まり婦人を守護し安産させましよう』とお告げに
なり、白幣が高く舞い上がり、命が館へ帰られると妃が無事男児を出産されたといわれます。

その神徳を感謝され倉谷山の麓に木花咲耶媛(このはなさくやひめ)を祭られたのが、白國神社の創立であると、伝承され
ています(以上、引用)。因みに景行天皇以前に、此処は開化帝第一姫宮だった。また播磨国風土記には伊和大神の
妃神として木花咲耶媛と記されている。

とすれば伊和大神は出雲の神ではなくて、此の地を出雲として天孫降臨したニニギノ命と言う事になります。家島には
ニニギノ命を先導した猿田彦を祭る家島神社(7/25参照)もあるので、播磨が古出雲の国であった可能性がある。

■07道後温泉・神輿合わせ・・・・・・四国の松山市では此の日、勇壮な神輿の鉢合わせがある。ただ06年に1人死亡
し、07年には24人が怪我をした。

■赤間神宮の神事・・・・・・・下関市阿弥陀寺町で81安徳天皇を祭る赤間神宮ではこの日に「海峡祭」が有り、神楽を
奏する。@

■06-07長崎くんち(諏訪祭り)・・・・・・長崎市・諏訪神社ほかで9日まで。370年の伝統ある祭りで、蛇船や蛇踊りが
活躍する。

■06那覇まつり(10月7日〜9日)【沖縄県那覇市】












10/ 8     


●06寒露。 ★07体育の日。07亥の子餅。
■06-07阿寒・まりも祭。 ■まりも祭り(〜10日)【北海道釧路市阿寒町】
■佐倉の秋祭り・・・・・・・千葉・佐倉市で10日まで。 

■06狐の夜祭り【新潟県高柳町】

アザカ神社の例祭・・・・・・三重・松阪市で猿田彦大神を祭る阿射加神社が二社あって、この日は両社の例祭であ
る。この地は今は田園地帯だが、古 事記には猿田彦神が比良部貝に手を挟まれて海水に溺れた所としているので、
当時は海だったのだろう。

また倭姫の時代は荒ぶる神の地とされていたが、垂仁18/4/16日に伊豆速布留神として祭られた。 尚、近くの茅
原神社ではこの日の逆方位に当たる4/8に例祭をする。因みにこの日の方位から更に先に進めば略逆の暦・方位
の4/27日 方位に二見興玉神社があり、此処もまた猿田彦大神(他にミケツ大神)を祭る名社である。

だが例祭日が生憎7/15である。そして此処(興玉 神社)から伊勢市に遷ったのが猿田彦神社である(4/5を参
照)。 

花園天皇の命日・・・・・・・彼は後醍醐天皇の前の、第95代天皇であり、落飾して遍行と号した。その後52歳で正平
3/11/11に崩御とされているが、実は本日10/8の事であった。彼に所縁の寺院は妙心寺である。@

平安京にしても今の御所とは違って、室町以前は千本中立売を中心とする東西1.1km、南北1.5kmの規模であ
り、内裏(大極殿)は今の二条城の乾の方に有った。其処には彼のミササギが山城国愛宕郡粟田口村・十楽院上陵と
記された通り、今も存在するのである。

■祟道天皇の命日・・・・・・・桓武天皇の皇太子で早良親王と言った。廃帝となって乙訓寺に幽閉、後に淡路に流されて
延暦4/10/8薨去した。後に遺骸を迎えて大和の八島に奉安し、祟道天皇と追号された。京都市や御所市にも祭ら
れている。@

★06西大寺・大茶盛・・・・・・奈良市・西大寺で第二日曜日に行われる。
■翁舞・・・・・・奈良豆比古神社。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 
■錦織神社・秋祭り・・・・・・・大阪・富田林市。10月の第二土日、または10/11〜12

★06河内長野だんじり祭り・・・・・・・大阪・河内長野市。此処は昔から高野街道の宿場として栄え、中でも長野神社は
木屋堂(こやど)の宮と呼ばれて来た。鎌倉後期の「後宇多院御幸記」には昼御饌をしたと記されている。従って各地点
で篝火を焚き、その間を松明のリレーで迎えた事だろう。

松明は昼間ではなくて夜に焚くものであり、或いは「太を待つ」火の神事である。だが今は此れに先立って市内各社で
も秋祭りが繰り広げられ、05年は10/8(土)から9(日)、06年は10/7〜9(体育の日)まで岸和田式ダンジリが30基ほど
が曳き回される中で、長野神社の松明神事は昔から10/11(別項参照)を変えずに守っている。

■06笑い祭【和歌山県日高郡川辺町、丹生神社】

★06秦河勝の祭りか・・・・・・・以下http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE「ウィキペ
ディア」より引用。大避神社(おおさけじんじゃ)は兵庫県赤穂市の坂越にある神社。祭神は秦河勝・天照皇大神・春日
大神。瀬戸内海三大祭りの一つ「坂越の船祭り」で知られる。

また司馬遼太郎は「兜率天の巡礼」においてこの神社を登場させ、秦氏はネストリウス派キリスト教徒の末裔であった
という物語を創作している(あくまでも物語である)。大避神社は坂越浦に面して鎮座する。その歴史は古く,播磨国総社
縁起によると養和元年(1182年)当時には、すでに有力な神社であったという。

拝殿の両翼には、全国で最も古い船絵馬もある。正面の海上に浮かぶ生島は神社の神域となっており、島内には祭
神である秦河勝の墓がある。坂越の船祭りは、毎年10月に行われる大避神社の、江戸時代初期からの歴史を持つ祭
礼で、瀬戸内海三大祭りの一つ。

櫂伝馬、獅子船、頭人船、楽船、神輿船、供奉船、歌船など12隻の和船が坂越湾を渡御する(船渡御)。1992年に国
の選択無形民俗文化財に選定された。〒678-0172 兵庫県赤穂市坂越1297
続いてhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%B3%B6「ウィキペディア」から引用する。

生島(いきしま)は兵庫県赤穂市の坂越浦沖にある島。〒678-0172 兵庫県赤穂市坂越生島。瀬戸内海国立公園の区
域であり、国指定天然記念物。坂越の氏神である大避神社の沖に浮かぶ周囲1630mの小島である。古来より神域とし
て人の立入が禁じられてきたため、原始の森が保たれた。

常緑樹のスダジイ、アラカシなどから成る自然植生で、学術的価値の高さから生島樹林(いきしまじゅりん)として大正13年
12月9日に国の天然記念物に指定されている。また島内には7世紀半ばに畿内から坂越に逃れ、この地で没した秦河
勝の墓がある。

続いてhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D「ウィキペディア」からの引用。秦河勝(はたのか
わかつ)は、6世紀後半から7世紀半ばにかけて大和王権で活動した秦氏出身の豪族。生没年不詳。

秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝と
もいい、古代イスラエルという説もある。河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍し
た。

また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建など
に関わったという説もある。聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。没したのは赤穂
の坂越で、坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の生島には秦河勝の墓がある。

本拠地とした京都市右京区太秦(うずまさ)や、秦河勝の墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す。さらに右京区
西京極には川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。この地域は明治の初めまで川勝寺
村と呼ばれ、住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた。(注)川勝寺は三宮神社にある。

秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、幕臣川勝氏も河勝の子孫を称した。また、現在楽家として知られる東儀家は河
勝の子孫であるという。

秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰する一族であったとする説がある。秦一族が渡来する6世紀以前にすで
に唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており(彼らはそれらを伝来した人々であるといわれ、唐の時代の景教の寺
院は大秦寺と呼ばれていた)。引用以上。

以上の秦河勝と大避神社については07/3/22、播磨の船曳氏からのご連絡で詳しく知った。神社と参道、更に船渡御
のコースと島の古墳とが実にピッタリ並んでいるとの事であり、しかも千種川周辺には大避(おおさけ)神社が30ヶ所ほ
どもあり、彼が大和の蘇我入鹿から追われて82歳で相生の那波野に上陸した。

其処から何所かを攻めて戦い、坂越(さこし)の対岸の生島に辿り着いて没した。此の島には秦河勝よりも古い古墳も
あって、船渡御は現在、丸山の浜に入る事。また河勝の末裔が土佐の豪族の長曽我部氏であると言う。秦河勝の命
日が不明だったので早速、図上で見た結果、大避神社と生島の西の古墳との位置から命日が5/12日と判明した。

写真で見てもこの島は実に美しい前方後円墳の姿を見せている。現地に立てば、海に浮かぶひょっこりひょうたん島と
言った感じの絵にかいたような美しくも幻想的な景色である。命日方位の先には淡路島の洲本市---紀州の海南市・
簑島---潮岬の出雲地区に至る。また神社の後ろの茶臼山の頂上は命日の逆方位に当たる。

つまり此処で祭りをした事が分かる。祭りの場合は三朝町・穴鴨方面から御魂(大避大明神=秦河勝公)を迎える仕掛
けです。大避神社0791-48-8136の縁書によれば、彼は大化3(647)年にこの地で薨ぜられたとある。此処で「逝った」
から生島と言うのだろうが、今は「彼が生きていた時に辿り着いた島」と解釈されている。

また対岸の大避神社や茶臼山の頂上に立って眼下の生島を見ればより幻想的である。因みに茶臼山には観音堂の
33ヶ所霊場遺跡がある。また其の下には建武の中興で活躍した児島高徳ほか和田範長など5柱の五輪塔がある。

さて地元の古老によれば、生島には陸側にない植物ばかりが繁茂していると言う。祭りでは船を出して島を1周する。
総勢300人の人手を要するので中々大変だと言う。因みに大避神社には昔の楽船が残されている。地元でも秦氏を渡
来人と見ているが、京都の日枝--松尾--賀茂両社--伏見稲荷の一連の祭りを賀茂氏と秦氏が担って来た。

其処から見れば、秦氏は賀茂氏・出雲族であった事が分かる。余談だが赤穂は地元の人よりも、余所から来た人たち
によって栄えた。今の赤穂市内はゆったりとした臨海の綺麗な町である。街路樹に花壇が続く明るく豊かな町である
が、そうなるには秦一族も赤穂浪士も今も働いているように思える。

赤穂浪士47士の内の33名は水戸から来た笠間藩士だった。此の生島にしても陸側にはない、余所から持ち込んだ植
物・数百種の群落が国の特別天然記念物(特別保護区)を形成している。其れは秦氏の子孫が全国から持ち寄って捧
げたものかも知れない。いや、各地から船で土を運んで古墳の島を造ったに違いない。

無論、地元の人が守って来たからだが、この島があるお陰で此の浜には台風の被害がなかった。島は自然の防波堤
となって津波さえ防いでいた。風も防ぐので天然の良港だったろうから、余所からの廻船で湊が栄えた。今も参道の古
民家には遊郭の名残が残る。ともあれ本来の祭りは11/10日と分かる。

明治の改暦にも関わらず、此処では旧暦の10/10日前後の数字を其のまま頑固に守って今まで伝えて来たと思われ
る。よって本来の祭礼日が今より1ヶ月ズラせて11/10日と見るのが正しいと分かるが、今は10月の第二日曜日に固定
してしまった。だが先の船曳様によれば、「後で調べたら5/12日に神社だけで祭りをしている」との事(注)。

ならば立派です。だが宮司から最近、船曳氏が電話で確認した所、「古文書にある秦河勝の命日は9/12」との事。9/
12が旧暦とすれば西暦の10/8日頃になると言う。因みに07年は西暦10/22、08年は10/10日となる。しかし今の旧暦は
647年当時の暦法ではない(其の古文書の日付を確認しなければ即断できないが旧暦9/12日ではない)。

なので、茶臼山頂上と大避神社と生島古墳との主軸方位である11/10日を当時のユリウス暦にすれば647/11/10=
大化3/10/8辛酉となる。従って彼の命日は11/10日とは逆方位の5/12日と見なければならない。因みに最近の日付で
は05/11/9=旧暦10/8、に当たる。或いは08年の第二日曜日が10/12日(日)になる。

また京都の川勝寺から5/12方位は伏見桃山城に向かうが、07/3/24現在、其の関係は不明。

■06-07牛喰い絶叫大会【大分県湯布市】

07/10/8日は体育の日・・・・・・此の日は全国各地で秋祭りがあって、特に体育会系の人々が例年活躍して祭りを盛
り上げて来た。しかし、ただ罵声を張り上げて祭りを取り仕切って、其れを祭りの中心としたり、「祭り文化」を担ってい
ると思っているとすれば少しどうかな?と思います。












10/ 9  


●07寒露。
■07田立花馬祭り(2007年は9日)【長野県南木曽町】

■06-07秋の高山祭(八幡祭)・・・・・・(〜10日)【岐阜県高山市、桜山八幡神社】本祭り。動く陽明門と形容される絢爛
豪華な屋台やカラクリ人形が見もの。岐阜・高山市の桜山八幡神社で10日まで。尚、飛騨高山では山王祭が日枝神
社を中心として春の4月14日〜15日まで行われる。

此れが日枝神社の春祭りであり、ご祭神は日吉大社と同じ大山咋神であり、からくりが人気である。其の略対極になさ
れるのがこの秋の高山祭(八幡祭)である。街中を練り歩く4台の屋台には飛騨の匠の技が見事に残されているのも人
気の的で凡そ20万人が集まる。飛騨の小京都の風情も人気です。此処は400年前、高山城に金森氏がいた。

文政年間に造られた屋台の高さは10m、重さ2トン。以来、地元の豪商が11台の屋台を残した。今の金額で1台3億円
の財産である。但し大人ではなくて子供達が乗る屋台です。昔は9/14から行なっていたが、台風シーズンに重なる為s
43年から10/9日からに変更した。

ただ1台を10軒ほどの家が守って10人くらいで引くので大変であり、負担も大きいので、今は保存会が出来ている。屋
台によってお囃子も変わる。お囃子は06年に28年ぶりに復活した(06/10/9の読売テレビ「今日は何の日」より一部引
用)。

おし祭・・・・・・・真福寺(愛知県岡崎市)。

粟田神社大祭・・・・・・きょろきょろ検索 http://www.kyorokyoro.net/event/saiji/autumn/595.html「京の歳時記」より
引用。■日時: 10月9日〜10月15日 平成18年は10月8日(日)9日(祝・月)15日(日)■場所: 粟田神社 ■住所: 京都
市東山区粟田山北町■お問い合わせ先: 粟田神社 TEL: 075-551-3154 

■概要: 粟田神社最大の祭礼行事です。下記の祭りを総称して粟田祭(粟田神社大祭)と呼ばれています。●御出祭
(おいでまつり)体育の日前日/9日10:00 ●夜渡神事 体育の日前日/9日17:30 
●神幸祭(しんこうさい)体育の日  /10日12:30  ●例大祭(れいたいさい) 15日11:00 舞楽奉納

粟田祭は一千年の歴史を持ちます。室町時代には祇園祭が斎行できない場合、粟田祭を以て祇園御霊会の代わりと
したそうです。また当社のホームページから引用すれば、旧社名は、感神院新宮(カンジインシングウ)、粟田天王宮と
称されていましたが、明治になり粟田神社と改称されました。

次にhttp://www.heiankyo.co.jp/cgi-bin/topics/cho/index.cgi「京の歳時記」からの引用では、■歴史を誇る粟田神社
の例大祭(あわたじんじゃたいさい)10月8日・9日・15日

粟田口はかつて京の東の出入口にあたり、粟田神社は疫病退散を祈願して876年に創建されたといわれています。祭
で氏小町に飾れる18基の剣鉾は、祇園祭の山鉾の原形といわれるもの。そのうちの数基が9日の神幸祭で、蹴上から
東大路にかけて練り歩きます。

祭の呼び物は順路の要所要所で剣鉾を1人で持って前後にしならせる鉾差で、沿道の人々の注目を集めます。【8日
出御祭(午前9時)見物は夜の十二灯行列、9日神幸祭(午後12時半)見物は鉾差です。15日例大祭(午前11時)】
粟田神社 075-551-3154(以上引用)。 

◆桓武天皇の命日は3/17だが、ユリウス暦では4/9。其の方位には粟田神社があって、逆方位の時期の此の10/9日
に大祭をしている。主座、左座、右座のご祭神に桓武天皇は入っていないが、右座の外殿合祀として崇徳天皇を祭っ
ている。また此のラインの先には日向神社(逆の園部町にも)がある。 

長岡天満宮・例祭・・・・・・菅原朝臣道真公を祭る長岡京市の長岡天満宮では、他の天満宮の縁日が決まって25日
であるのに対して、此処は3月、8月、11月に各々梅花祭、夏祭り、新嘗祭をするものの、例祭は他所とは例外的にこ
の日に行う。@

長岡天満宮は 075-951-1025

■34舒明天皇(田村皇子)の命日・・・・・・彼は33推古天皇の次に即位した天皇だったが、在位13年、明日香・岡
本、または百済の宮にて崩御により、押坂内陵に葬られた。@

因みに明日香村の岡寺は如意輪観音を本尊として祀り、厄除け観音として知られているが、悪龍を押し込めた所と言
うので龍蓋寺とも言い、西国33観音霊場第7番札所となっている。此れは特別史跡・石舞台の表土が剥がされている
のとは対照的である。 

同時にこの岡寺から舒明天皇(天智・天武の父)の命日である10/9方位には舒明天皇に縁りの所と見られる軽寺跡
(橿原市)が有る。此れは偶然だろうか(1/21を参照)。

因みに34舒明天皇は10/丁酉9に崩御した。これはユリウス・グレゴリオ暦で 641/11/17-11/20であり、次の35皇
極天皇が656年に吉野宮を造営して656年に吉野を訪れている。これは別荘地を造った訳ではない。百済宮は吉野
の宮滝遺跡から丁度11/18方位に当たる事が方位で判明するからである。

と言う事は、当時の百済宮は現在の広陵町百済地区と確定できると共に、この宮滝が舒明天皇の日迎えのために造
られた所と判明する。以来この吉野宮は歴史に度々登場するが、その意味が謎のままなので序に解説する。

その後は12/22命日の41持統天皇のため、次に6/15命日の42文武天皇の宮として、次に12/7命日の43元
明天皇のため、続いて4/21命日の44元正天皇のために45代・聖武天皇が736年にその西側に吉野離宮(とつみ
や)を造営した。何れも鎮魂の場ではなくて、神霊として迎えるための宮としての役割でした。 

■天武忌(万燈会)・・・・・・薬師寺。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 
■大茶盛・・・・・・第二日曜。西大寺。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900 

古室八幡宮・秋祭り・・・・・・・・藤井寺市で応神天皇を祭る古室八幡宮・秋祭りで10/8日は宵祭、10/9日に本宮であ
る。社伝では欽明(きんめい)天皇の詔勅で仲津媛(実は応神)陵の一部(前方部の一端)に設けた日本最古の八幡宮
と言う。

誉田八幡宮のある伝・応神陵の主は応神天皇ではなくて実は成務天皇の可能性が強いが、考古学上は5世紀初頭の
もので、墳丘全長425m、長さは仁徳陵についで全国第2位、体積では日本最大と言う。其処に対して古室は伝・仲津
媛皇后陵と云うが、実は応神天皇の陵である可能性が大きい。

古室神社は其の前方後円墳の前方部一角の、更に別の墳丘にあって、一見して何の変哲も無い小さなお社である。
ただ、「古室」と言うネーミングは昔の古室村によるが、此の一帯の古墳の親元であるとも推定出来る。何故なら、幾つ
かの墳墓の主軸が古室で交差するからです。

此のためか、隣接する藤井寺市も此の10月9日10日、11日、に市内各地区で秋祭りとなる。所で此の八幡宮の本殿と
参道、そして鳥居をなす方位は2/19.5---8/21日を示している。更に其の後背部にも同軸上に神社があって其の前庭
との角度が応神天皇の命日2/15日である。

つまり何らかの事情で神社が遷されて、其れを印すために此の二つの地点に神社が置かれたと推定出来る。先の仲
津媛皇后(実は応神)陵も同方向を向いているので、此処が応神陵と確定できる。ただ折角此のように命日を示してい
るのに、現在の祭りが8/16日ではなくて7/25日を夏祭りとして、また10/9日に秋祭りとしている。

7/25日は八幡宮の8/16例祭に近いものの、此処・藤井寺では道明寺の天神さんの祭りですから残念である。

泣きずもう・・・・・・海南市。体育の日に。 

■丹波の柏原(かいばら)八幡神社の織田祭り・・・・・10/9〜10日。此処は品陀別、足姫、姫三神(弁天)を祭り、京
都の石清水八幡宮の別宮と言われ、2月には石清水と同様、最古の厄除け行事がある。ただ石清水との方位は略10
/17なので七日ほどズレる。

寧ろこの日は石清水よりも宇佐の中秋祭と同日になる。本日は織田信長に縁の祭りと言われるが、此処は明智光秀
に焼かれて、今は神宮寺の三重塔が残されている。信長の配下の明智光秀に焼かれているので仮に織田信長の縁
日でないとすれば前項の田村皇子か次項の孝徳天皇に縁の可能性もある。

■06-07金刀比羅宮例大祭・・・・・・香川県仲多度郡琴平町。例年の10月9日〜11日。金刀比羅宮は大物主神と、後
に崇徳天皇を相祭る金刀比羅大権現と言う宮になったが、同時に象頭山・ 松尾寺と言う寺院でもあった。785段と言
う観光客泣かせの長い石段がまた観光名物でもある。

縁日・例大祭はこの日10/9〜11の御神幸「お頭人さん」の神事である。@ 
■永渕神楽・・・・・・・旧暦9/18 (06/10/9)高知県・大豊町 (町役場・企画課 0887-72-0450)。

大神山神社の例祭・・・・・・鳥取・伯耆大山(標高1729m)の山麓の大神山神社(主神は大穴牟遅神)と地蔵菩薩
を本尊とする大山寺があり、この日10/9は大神山神社の例祭日である。@

■物部神社の例祭・・・・・・物部氏の祖神・ウマシマ遅の命を祭り、古の石見国の一ノ宮として島根・川合村に鎮座する
物部神社の例祭。また10/24日の夜には鎮魂祭がある。此れは11/22夜、宮中で行われる鎮魂祭の起源をなす
ものと言われる。

宇佐神宮の仲秋祭・・・・・・宇佐市で9〜11まで。和間の浜まで神輿で行幸し、海に蜷を放生するので「放生会」とも
言う。@

聖武天皇の勅願で弥勒寺が建立された。東大寺の大仏建立には全面的に協力し、次々と託宣を下して「八幡大菩薩」
の称号を賜った。其れに当時、和気清麻呂がこの神のご託宣で称徳天皇の時の弓削の道鏡を排除した事件は良く知
られている。

 こうした結果、宇佐の神が春日の手向け山の神として迎えられ、朝廷の政に影響を与え、やがて京都の守護神として
石清水にも迎えられ、更に頼朝の時に鎌倉に勧請されて鶴岡八幡宮となり、以後は武士の神として全国に広まり、今
では全国四万社の総本宮となっている。

例大祭は3/18、御神幸祭が7/3〜18/2、この外年間に80余りの祭がある。@ 

■06-07久留米・高良大社・例祭(高良山くんち)・・・・・・・筑後・一ノ宮・高良大社の例祭が9〜11日まで。福岡。
■横代神楽・・・・・・福岡・北九州市、高倉八幡神社。起源は約400年前、風水害に悩む藩主が社寺に祈祷させた事
から、天孫降臨神話を演じる「御先」など、八演目が奉納される。

★06-07万国郵便連合記念日。 
★06体育の日。





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