http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」 p140  (未定稿)


   神々の歳時記     8月中2   但し方位による
次は
または
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・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
   
●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 8月号
http://www.matsuri.or.jp/cgi-bin/wforumcgi/wforum.cgi http://blog.mag2.com/m/log/0000026310/ 

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-9月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

8月・後半 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★



8/15 


■例年月遅れ盆・・・・・・この頃、各地にて月遅れの孟蘭盆会(うらぼんえ)。お盆の期間はこの日までなので、この日
は先祖霊に「お供え」を附けて野辺送りとなる。

■旧盆(月遅れ盆)・・・・・・・盂蘭盆会とはサンスクリット語で「逆さづり」を意味し、先祖が地獄で苦しむ姿を説いたも
の。ただ、お盆の期間だけは釈迦の慈悲で閻魔様から許されて、地獄の釜の蓋が開けられると言う信仰から先祖供養
の一環として残ってきた。昔のお盆は7/15日の満月と決まっていた。「盆踊り」も満月か十六夜のこの夜にしていた。

とすれば05年は8/30、06年は8/8日になるが、其れでは毎年日付が変わるので、全国の地方ではこの日に一律に旧
盆(月遅れ盆)を迎える。また外に旧暦のお盆も有るから都合三回である。お盆とお正月行事は、相反する時期に各家
庭で行う似た行事・祭りであり、旧暦でお正月を迎える所は矢張り旧暦、つまり満月のこの夜にお盆をする。

だが、明治の行政指導により、この西暦の8/15日にするようになった。従って満月が見られる確率は1/30以下となっ
た。因みに06/8/15日の月齢は22。08年は偶然にも旧7/15日となった。何れにせよ、一般に8/13日には墓参して「迎
え火」を焚き、14日と15日に盆供養と僧侶の読経、16日に「送り火」をするのが通例となった。文化の形骸化です。

■日本民族大移動・・・・・・・・関東のお盆は7/15日、其れ以外の各地では8/12から「月遅れの盆」をする。お盆とお
正月行事は、相反する時期に、仏式と神式と言う違った形式で似たような古式の行事・祭事を各家庭で行うもので、旧
暦でお正月を迎える所はお盆も矢張り旧暦に従い、一ヶ月ズラしで迎える。

此れは、明治の改暦による行政指導で、先の7/15日と、この8/15日の二本立てとしたためであり、また外に旧暦のお
盆も有るから厳密には都合三回となるが、08年は偶然にも旧7/15日となった。

■例年-黒石よされ(〜16日)【青森県黒石市】・・・・・・「日本三大流し踊り」の一つ。16日まで。
■08横手の送り盆・・・・・・・(秋田・横手市)で8/15〜16日。 

■06-09からかさ万灯・・・・・・茨城県土浦市(もと新治村大畑)の鷲神社で雨乞いの為の神事で、江戸時代から綱火(8/
23-24を参照)と言う導火線で「仕掛け花火」に点火して雨乞いを する神事。土浦市観光協会 029-824-2810

■06-09石下(いしげ)の将門まつり・・・・・・茨城県常総市、豊田城。石下駅東側駐車場で。常総市観光協会 0297-23-
2918

■09富岡八幡まつり・・・・・・・東京都江東区富岡 1-20-3、富岡八幡宮TEL 03-3642-1315 の例祭は、8月15日を中心
に行われます。俗に「深川八幡祭り」とも呼ばれ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と共に、「江戸三大
祭」の一つに数えられています。

3年に1度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、大小あわせて120数基の町神輿が担がれ、その内大
神輿ばかり54基が勢揃いして連合渡御する様は「深川八幡祭り」ならではのものです。

三年に一度のなのは本祭り(前回は2008年)で、毎年例大祭はあり、縁日や色んな催しが行われています。09年は陰祭
で、今日は泉谷しげるのライブとか、翌8月16日には、本社・二の宮の渡御があります。

■08施餓鬼会・・・・・・・神野寺(千葉県君津市)。 
■08「ぢ」のまじない・・・・・・・長妙寺(千葉県)。 
■08施餓鬼会・・・・・・・万福寺(千葉県印旛村)。 

■06-07-09東京・富岡八幡宮祭。
■08箱根大文字焼・・・・・・・明星岳の山腹に設けた「大」の字を焼く盆行事(神奈川県足柄下郡)。 

■北条早雲の命日・・・・・・・05/5/18日のNHK総合TV「そのとき歴史が動いた」によれば、彼の出身地は備前岡山荏
原庄、平家の名門であり、京都で足利に仕えていた。

だが応仁の乱を目の当たりにして出家して僧となり、やがて56歳で再び伊勢新繰九郎と言う武将として結局87歳で相
模の国主、つまり戦国時代の最初の大名となった人物と言う。何れにせよ彼は無位無官のまま早雲庵宗瑞と号したが
「国を盗った男」とも云われて領民に慕われ、韮山城で88歳で没し、後北条氏の祖となった。

韮山は玄武岩の山であり水陸交通の要衝でもあった。この日付が仮に和暦(太陽暦)であったとして其の方位を見れ
ば、蛭ヶ小島(頼朝が流された中州)←→願成就院跡(中條)←→そして本円寺方面となる(だが仔細不明)。

■08どみの踊・・・・・・・栄泉寺(福井県南条町)。 
■08竹生島・蓮華会・・・・・・・宝厳寺(滋賀・びわ町)で、二股の船に弁財天像をのせ、満艦飾の舟が供をし竹生島に
詣でる。

■08花背松あげ・・・・・・・京都市の奥地・左京区花背で愛宕の神様に火を捧げるもので、500年以上前から続く祭り。
夜9時頃、上桂川の河原に千本のたいまつが灯される。中央にある高さ約20mの「大笠」に、30人ほどの地元の人が手
投げ用のたいまつを投げて火を点ける。威勢の良い掛け声と共に、松明を振り回しながら投げ上げる様子が壮観。

区花背主張所075-746-0215----08/8/5日の朝日記事から引用。

■08松ケ崎題目踊・・・・・・・湧泉寺(京都市左京区)で8/15〜16日、太鼓に合わせ子どもたちが扇を持って踊る念仏
踊。 
■東大寺・万燈供養会・・・・・・2000基を超える献灯籠が参道に並び、観相窓から大仏様の顔を拝む。
■06-07-09奈良・春日大社万灯籠・・・・・・・詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900

■大文字送り火・・・・・・高円山。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900

■09奈良・ほうらんや火祭り・・・・・・・・奈良県橿原市の春日神社と八幡神社で、少なくとも300年の伝統が確認されて
いるものの、由来も不明な真夏のたいまつ祭り。昭和57年に奈良県の無形民俗文化財に指定された。

6つの字から練りだした大勢の村人が、直径1.5m、高さ3m、重さ500sを超える大松明を担ぎ出し、八幡神社と春日神
社の境内を暴れ回る勇敢で賑やかな祭り。

問合せ先:橿原市 市民経済部 観光課 0744-22-4001 http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/saijiki/houran.html

また「大和高田市文化財を守る会」09/6/10日の資料によれば、昔、東坊城の一角に有った村島家の墓地を移動させ
た時に、さ迷った亡霊を慰め鎮める為に始まったとも、或いは雨乞い祈願・火難・病難除け、または邪気封じ、或いは
お盆であるから、先祖霊を迎える「迎え火と送り火」が大規模化したなど、諸説があるようです。

此の日は先ず八幡神社で宵宮に松明の奉納。翌15日の午後1時から春日神社で祭事の後に行列が駅前から街道を
練り歩き、万田八幡神社に次々とタイマツが宮入りして、右回り1周。点火後に2周するなど、独特の動きが決まってい
て、午後5時まで「ほうらんや火祭り」となる。

http://home.att.ne.jp/wind/pei/my/2003/0809/1.htmlによれば、「ほうらんや火祭り」の日程は例えば、03/8/14日
(木)午後4時ごろ〜:八幡神社・宵松明の奉納、15日(金)午後1時〜2時半ごろ:春日神社。

午後3時〜5時過ぎごろ:八幡神社、場所:春日神社=近鉄南大阪線の坊城駅から東へ徒歩5分。そして八幡神社=
坊城駅南西すぐ近く。

所で上の二社が結ぶ方位は本日8/15日ではなくて、実は8/6日のラインであり、その先には慈明寺(じみょうじ)地区があ
る。其処にある寺は奈良県橿原市の畝傍山(慈明寺山)にある禅宗の仏教寺院。山号は雲飛山。この付近は安土桃
山時代の奈良大和郡山藩主慈明寺順国(筒井順国は・筒井氏の祖)の出身地でもあった。

因みに大和国守護は興福寺が務めており、筒井氏もその衆徒として組み込まれるが、戦国時代に入ると興福寺の勢
力が衰退し、筒井氏や越智氏の勢力が台頭してくる。1467年の応仁の乱では、河内国の守護大名である畠山氏の抗
争に巻き込まれて、大和国内は混乱する。

其処から推測すれば、筒井氏が興福寺の出先として、春日神社と八幡神社に此の祭りを「お盆」の前触れとして始め
たとも思えます。と言うのは、例え新旧暦で数字上の日付の変更があっても、この日8/6日は立秋であり、方位としては
不変でした。

従って此の祭りは此の日の方角にある葛城の水越峠から寺領へ雨を呼ぶ雨乞いと、同時にやって来る台風の風災か
らの無事を祈願しての祭事であったろうと思われます。

■09万灯会・・・・・・堺市郊外の法雲寺で。

敏達天皇の命日・・・・・・先ず経過から言えば、彼の父・29欽明天皇が其の先帝(28宣化)の娘、石姫を皇后としてシ
キ(磯城)島・金刺宮に即位した。石姫とはイシ姫ではなくてイワイ(祝い)姫、つまり弁天、即ち居着き姫、即ち跡取り娘
を意味する。ですから彼は言わば家付き娘の婿養子になって次のフトタマシキ(30敏達天皇)を儲けた。

やがて29欽明もこの日(欽明32/4/15壬辰/571/5/24−5/26)に崩御したので、桧隈坂合陵に葬られた。其の陵の場
所について、後に後妻であるキタシ(堅塩)媛を其処(桧隈大陵とされる)に改葬するとき、「軽」にもがり(殯)宮を建てて
「軽の街」で誅(シノビ事)を奉った、と日本書紀にある。

其処から今の橿原市大軽町の近くの丸山古墳こそ彼の陵(桧隈大陵と推定)するのが考古学的通説となった。其れに
対して本書は違う。欽明天皇は今の高取町・市尾山付近に居ついて先帝を若宮として日迎えする立場に立ったと見
る。

欽明として即位してやがて4/15日に崩御したので、御所市のカモツハ神社を通過し、河南町の持尾(城塞跡)を通過し
て堺市・百舌鳥大塚山古墳(墳長168m但し、削平された)に行き着く。なので、堺市・大塚山(上野芝4丁550)こそ彼・
欽明の墳墓と判定出来る(4/15欽明を参照)。

其れに対して史書は子である彼・30敏達(他ヲサ田)天皇が当初は百済大井宮にあり、やがて十市オサダ(譯語田)幸玉
宮に遷宮したと記録し、やがて敏達14/8/己亥15/585/9/14-9/16に崩御して御陵が川内科長也と。其処が磯長陵・
是其妣皇后所レ葬之陵也/河内磯長中尾陵とある。

所が其の宮の場所が現在諸説あるものの決め手がなく不明である。現在、伝・敏達天皇陵(河内磯長中尾陵)とされて
いるのは、太子町西山奥城の墳長113mの古墳である。ただ墳墓の築造方位が●5/16〜20▲11/15〜21日となるの
で、生憎、命日と暦・方位が合わないし、宮との位置関係も説明できない。

この古墳の形が彼の命日(8/15)とは全く異なる方角を向いているのでは話を振出しに戻さなければならない。先の
欽明の高取町と堺市・大塚山とにラインを引けば富田林市・北別井を通過する。此処に彼は日迎えの若宮として居着
いた事が方位で判明する。やがて8/15日に崩御したので、其処から其の方位に陵を作った。

佐備川(千早川)の近くである。ただ今は山手台と言う住宅地の池の中の何の変哲もない小山(墳長160m程度)に見
える。この為、最近になって大阪中央環状線が此の山を通り、道路敷きにしてしまった。ただ其のラインに沿って滝谷
不動公園の丘←→そして汐ノ宮の地名←→河内長野市の市町衆会所(寺院跡)←→住吉神社へと続く。@

とは言っても、大井宮の意味をこの方位から見れば、其処は彼が生前に居着いた宮ではなくて、死後に子孫が日迎え
の宮として設定したものである。さて次の天皇は31用明天皇となる。次の天皇となる皇子が先帝の命日とは逆の2/1
5方位に当たる所に若宮として遷宮するのが当時の方式でした。

よって次の用明天皇は雙ふたつきの宮に遷宮して先帝の日迎えに居着いた筈なので、其の場所を特定すれば敏達の大
井=北別井宮の関係が一層実証出来よう。だがそう簡単ではない。敏達のモガリを広瀬でしているが、広瀬の場所が
今は広陵町の広瀬と広瀬神社、其れに河合町の広瀬台の三ヶ所もあるからです。

ただ其の中間点をこの命日・日迎えラインが通る事と、また祟峻天皇4年に此の陵が改葬された。其れが先の「川内
科長也。磯長陵・是其妣皇后所レ葬之陵也/河内磯長中尾陵」である。因みに妣とは亡き祖母の事であり、キタシ(片
塩)媛の事。また片塩の地名は今も大和高田に残る。

此の陵は敏達の祖母(欽明妃)の陵だった。其の命日ラインに孫の用明が9/5日に雙ふたつきの宮に遷宮し即位した
事になる。敏達と祖母の陵から祖母の命日方位の片塩の地を軸に桜井市に遷していたのである。では何故、此処・十
市オサダを幸玉宮としたのか、については其の前の欽明天皇を見れば分かる(4/15を参照)。

次に京都・大原・寂光院について述べる。此処は彼(敏達)の皇后だった33推古2(594)、及び31用明天皇(聖徳太子の
父)を弔うために聖徳太子が建立したと伝える寺である。だが脈絡がない。寧ろ用明2(587)年、旧暦1/6日までに建て
られた可能性がある。@

八幡様(応神天皇)の日迎えの祭り・・・・・・・日本は永い間、神仏習合でしたから寺の中に神社があり、また神社
の中には宮寺があった。普通の八幡様には阿弥陀堂が有ってご本尊の阿弥陀様が即ち応神天皇でした。彼の命日は
2/15日でしたから其の時は寺で弔いをした。

従って其の逆の時期のこの8/15日は彼をホトケではなく、神(誉田別尊)として迎える祭りをした。其れが寺院の八幡神
社側で行う放生会でした。無論、八幡宮では年に一度の例祭となります。此の時期は丁度、旧正月の逆の時期で「お
盆」であり、お盆には彼の世、つまり阿弥陀浄土の世界から先祖を家に迎えて饗応する時期でした。

だが明治改暦によって寺社も祭りの時期もバラバラにされて何が何だか分からなくなって、日本の伝統も風習も宗教も
祭事も意味不明となったのですっかり廃れているのでしょう。

■八幡宮例祭・・・・・・・この日は応神天皇の命日とは逆の時期であり、彼の日迎えの祭りとして八幡様の例祭となって
いる(2/15日を参照)。但し、明治の改暦によって其の殆どが9/15に変更され、意味がなくなった(9/15を参照)。

■06紀の川祭・・・・・和歌山県橋本市。
■06興国寺の火祭り・・・・・和歌山県由良町。

■例年-デカンショ祭り(〜16日)【兵庫県篠山市】
■08提婆踊・・・・・・・徳正寺(愛媛県稲沢市)。 

■宇佐神宮・・・・・・八幡神は謎の多い神とされるので此処では円暦からもう一つの回答を出して見ます。欽明天皇32
(571)年2/10に「誉田天皇広幡八幡麻呂」として示現された地※で同天皇を祭る宇佐神宮ではこの日とは別の日に
例祭をしている。

※其れについて宇佐の御許山には大元神社(宇佐神宮の奥宮)があるが、此処は欽明天皇の時代に八幡神が初めて
御示現になったが、その後転々として現在地になった。広大な宇佐神宮を地図から見る限りでは本殿や鳥居が東北(2
/15)から南西(8/15) に向けて並んでいる。此れが即ちこの日の暦・方位を示している。

此処はいち早く仏教と習合して八幡大菩薩の称号があった外、聖武天皇の勅願によって弥勒寺が建立された事から
仏式の祭りをして来た。多少前後するがこの日に関する祭りとしては2/13日に鎮疫祭(八坂神社)があり、また10/9〜1
1日には仲秋祭(放生会)をしている(10/9日を参照)。

尚、昔は「致祭」として2月と11月の初卯の日に神職が12日間斎戒し、中でも酉の日には柴挿神事を行った。@
また、改暦により9/15日に例祭をしている八幡宮が多いので後述の「9/15日」も参照下さい。

姫島・キツネ踊り・・・・・・大分の姫島で毎年行なわれる盆踊り。比売語曽社春の大祭(4月3日) を参照。以下、http:
//www.green.oit-net.jp/himesima/bonodori.html「姫島村」から引用する。姫島の盆踊りは、鎌倉時代の念仏踊りから
発展したものといわれている。毎年8月14日から17日までの4日間行われるが、15日・16日が特に賑わう。

伝統踊りと創作踊りがある。

キツネ踊り(きつねおどり)---以前は大人の踊りであったが、昭和20年代に大人から子どもの踊りとなり、北浦地区の
子供たちによって踊られるようになった、可愛らしいキツネの化粧とユーモラスなしぐさが受けて盆踊りを代表する踊り
のひとつになった。 外に、アヤ踊り(あやおどり)や猿丸太夫(さるまんだゆう)がある。
 
アヤ踊り---北浦地区の青年男女によって踊られるもので男女各々1名が一組となっておどる。男子はアヤ棒といわれ
る青竹をもち、女子の間を縫うように激しく踊る、男子の荒々しい踊りと女子の優雅な踊りとが対照的なおどりである。

猿丸太夫---西浦地区の女性によって踊られるもので、姫島在来の踊りではなく何時の時代か村外より移入されたも
のといわれている。

力強い踊りが多い中、優雅なおどりである。外に、銭太鼓(ぜにだいこ)---松原地区の青年男女によって踊られるもの
で男女各々1名が一組となっておどる。男子は銭太鼓といわれるフグの皮を張った片面の太鼓をもち、女子の間を縫う
ように腰を落とし踊る、男子の重厚荒な踊りと女子の優雅な踊りとが対照的なおどりである。

タヌキ踊り---大海地区の子ども達によって踊られるもので、姫島を代表するキツネがあるのならタヌキがあっても良い
のでは、ということから考案したものです。ひょうきんな化粧・衣装と、何ともいえないユーモラスな踊りとが融合して、発
表されるや好評を博し、地区を代表する踊りとして定着、踊り継がれています。姫島村役場 TEL.0978-87-2111

筥崎(はこざき)宮の例祭・・・・・・・福岡市。 以下、http://www.hakozakigu.or.jp/history.php 筥崎宮から引用する。
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。

御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになられた応神天皇(第15代天皇)を主祭神とし
て、神功皇后、玉依姫命をお祀りしています。

創建の時期については諸説あり断定することは困難ですが、古録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦
921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」(てきこくこうふく)の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御
社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分(だいぶ)宮(穂波宮)より遷座したことになっております。

創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしまし
た(引用以上)。さて、此処では現在8/15日前後に例祭をしている。御祭神である応神天皇の例祭日としては実に正し
い日取りですが、参道は別の日を指しているのが気になる。

其れについて08/6/22日に西埜先生の筥崎宮の鳥居のお話があった。其処で此の宮の履歴から参道の日取りを方位
から確認した。筥崎(はこざき)宮の意味(10/15日を参照)。

■例年-山鹿灯籠祭り(8月15日〜16日)【熊本県山鹿市、大宮神社】
■例年-精霊流し・灯籠流し(精霊会)・・・・・・・盆を送る精霊舟から変化した行事。長崎県長崎市はじめ各地。 

鹿児島神宮・例祭・・・・・・・山幸と応神天皇の祭り。此処は一般に八幡神の火(穂)々出見尊、即ち山幸彦を祭る所
として正八幡宮と称して来た神宮である。近くには溝辺町に高屋山上陵があり、其れは円墳であるが彼(山幸彦)を埋
葬した所と言う。ただ、何故この日に例祭が行われて来たのかについて述べて置く。

八幡様の祭りなどは全国何処でもこの日か9/15日に行われるので此処だけが特別とは言えないからです。では先ず
初午祭をヒントとして見て行けば、初午祭が旧暦1/18日に行われた(今はこの日に近い日曜日となっている)。

つまり西暦では2月頃になるので、仮に2/7日とすれば、其の方位には福井・小浜の鵜の瀬の神宮寺・若狭彦神社(同
神を祭る)が有り、また2/14日とすれば堺市の宿院(住吉頓宮に同神を祭る)に至る。何れも潮満珠・潮ひる珠の伝説
を伝える宮である。また2/21.5日とすれば、西都原古墳群を経て箱根神社に至る。

此処には彼が父母神と共に祭られている(例祭8/1)。所が、薩摩半島の開聞(ひらきき)神社にも彼の宮があったとの
伝承が有るので、其処から2/5日方位に向かえば敦賀小浜の鵜の瀬の神宮寺・若狭彦神社の元の宮があります。

また2/10日方位には堺市・宿院があり、或いは2/17日には逆方位の開聞神社で祈年祭があるが、この日の方位には
富士山の浅間神社があり、其処では彼の母神(此花咲夜姫)を祭っている。また2/15日の方位には揖宿(いぶすき)神社・
東の宮(同神を祭る)があり、そして2/18.5日方位には先の箱根神社がある。

この様な話を「偶然の一致」として見過ごすよりも、何故、各地に彼が祭られていたかの謎解きのヒントとなろう。要する
に彼の命日がこの頃、つまり初春だったと分かる。日付がズレるのは距離が遠いために北緯がズレ、方位、即ち日の
出角度もズレる。つまり地球が球面であるから暦日のズレとなっているものか。

或いは古来、日本では北緯ではなくて太陽黄径で天測をして来たので、方位としては正しいのかも知れない。何れにせ
よ、其の逆の時期の8/15日にこの鹿児島神宮では日迎えの例祭を行って来たと推定出来る。

そしてもう一つは、この神の父神を祭る霧島神宮から2/8←→8/8日の方位に来ればこの鹿児島神宮に至り、其処でこ
の例祭が行われる訳だが、更にこの日8/15日の方位に進めば、鹿児島市の平松神社(島津公を祭る)に至る。其処を
経て、其の先は同神を祭る竹屋神社のある加世田市を経て坊津の浜に出る。@

■次は応神天皇である。彼は先ず軽島豊明宮で即位した。羽曳野市には軽里の地があるが、其れは伝・仲津媛皇后
陵の軸線に近い所だ。つまり彼の元の宮に近い所には仁徳によって父(応神)の陵が築かれ、其処に仲津媛皇后が居
着いて応神の御霊を弔った。よって其の陵は応神や仁徳の名ではなく、彼女の名が残ってしまったのです。

大阪の大隈と並んで鹿児島にも大隈半島がある。其の根っこに隼人町があり、先の鹿児島神宮がある。此処は八幡
神の総本社とも言われる所です。そうするとどう言う事になるのかと言えば、八幡神とは一般には山幸ではなくて「応神
天皇」の事である。

彼の陵である羽曳野市の伝・仲津媛皇后陵(実は応神天皇陵)が2/14日の方位にあるので、其処から逆方位の8/15日
の方位に進めば、霧島神宮と高千穂の峰の東を掠めて釈迦ヶ嶽(831m)に至り、其の先は宮崎県の都農に至る。此
処に都農神社がある。ご祭神は八幡神ではなくて出雲の大黒様なので、彼との関係先ではない。

しかし更に進めばこの鹿児島神宮に達するのです。ですから古市があの世への入り口であり、また逆に隼人町の鹿児
島神宮こそ彼(応神)の御霊の再生・蘇りの宮だと判明する(2/15を参照)。だからこの日は山幸と応神天皇の祭りなの
です。但し陵と宮とは応神天皇の本家が司ったのに対して、時の政権を担う皇居は別の流れが占拠した事が分かる。

其れが大隈の宮から高津宮へ遷宮した仁徳天皇でした。此処にも応神天皇のラインがもう一本、東淀川から宇治まで
引かれていた。

仁徳天皇は本家としての祭りを応神の長子の額田大中彦命辺りに委ね、つまりこの鹿児島神宮と羽曳野の陵の法要
とを他の兄弟たちに委ね(或いは押し付けて)て代々続いて来た天照王朝の政権を日嗣し、実権を握った事になりま
す。要するにこの鹿児島神宮が仁徳より上位の、応神の本宗家だった事も分かる。

★s20/8/15、玉音放送(s12/11/20に宮中に大本営が設置され、s13/4/1には国家総動員法が敷かれていた)。
■例年-全国戦没者追悼式。08年は福田総理が日本国民の気持ちと言うより中国政府の代弁者のような弔辞を捧げ
た。310万の戦没者の殆どは悪者にされて・・・慙愧に堪えないに違いない(鎮魂にならず)。

■例年-終戦記念日。八幡祭りとお盆の日が敗戦記念日とは皮肉です。@
★韓国では戦勝記念日。ドイツではベルリンの壁の犠牲者1008人慰霊日。




























































8/16       


06-07-09月遅れ盆・送り火。
■例年-舟っ子流し【岩手県盛岡市】

■例年-西馬音内(にしもない)盆踊り・・・・・・・秋田県雄勝郡羽後町で8月16日〜18日。700年前から続く優雅な盆踊り
として、また日本三大盆踊りとしても知られる(国の重文に指定)。本日は盆の送り火。霊を慰めて送ると共に豊年祈願
の盆踊り。踊り手たちが当地の端縫いの浴衣を着て篝火に映える。

此の盆踊りは鎌倉時代の小野寺氏一族の菩提寺・西蔵寺と御嶽神社との行事である。以来終戦の年に1回中止した
だけで毎年続いている。昔は朝まで踊り続けたと言われる(読売テレビ「今日は何の日」より引用)。

2010年08月16日(月)〜18日(水):西馬音内本町通り 西馬音内盆踊り 動画
http://www.omatsuri.com/movie/nisimona.html

■06-07-09松島灯籠流し・・・・・・宮城・松島町。
■08九品仏二十五菩薩練供養会式・・・・・・・浄真寺(東京都世田谷区)で8/16〜17日(3年に一度)。
■例年-箱根大文字焼き【神奈川県箱根町】

■06-07-09三島大社祭・・・・・・・以下、http://www.ffortune.net/calen/maturi/08/misima-taisya.htm「三島大社祭」か
ら引用する。---8月16日は静岡県三島市の三嶋大社で例祭が行われます。これに合わせて三島市では三島祭が行
われます。ここ三島市の三島神社の御祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)と大山祇神(おおやまずみのかみ)

三宅島に伝わる「三宅記」によれば、この神社の神・三嶋大明神は初め妃神の伊古奈姫神とともに三宅島に降臨。そ
の後一緒に下田に移り、後に三嶋明神のみ現在地に移ったとされます。伊古奈姫神は現在、下田の白浜神社にお祀
りされています。

「三島」は「御島」でもあり、そもそもは伊豆の火山群の噴火と造山を司る神だったのでしょう。この三島神が事代主神
ではないかという説は管田正昭氏によれば明治時代の神道家・萩原正平から出ています。彼は伊豆諸島の民話を採
取し、伊豆に事代主の子孫を名乗る人々がいることを発見、この説を政府に報告しました。

事代主神はもともとは出雲の神ですが、国譲りの後、「いづも」から「いづ」へと移動してきたのではないか、という訳で
す。一方の大山祇神は、そもそも瀬戸内海・大三島の大山祇神社の神様で、日本全国の山の総管理者ですが、平安
時代の中頃、ここが伊豆国の総社とされた時に、大三島から勧請されてきて共に鎮座することになった模様です。

神道集には、大山祇神が伊予国の長者の子として生まれ、色々な冒険の後に三島にたどりつく物語なども収録されて
います。なお、大山祇神は古事記によればイザナギ・イザナミの間の子。大山祇神の子供には富士山の神様である木
花咲夜姫(このはなさくやひめ)がおり、また孫には須佐之男神の妻である櫛名田姫(くしなだひめ)がいます。

そばに富士山が控えている地故に、その父である大山祇神がここ三島に鎮座することは自然であると考えられたので
しょう。源頼朝が平家打倒のため挙兵した際、この三島神社に戦勝祈願をしました。そこで、その願いが成就したこと
からその後鎌倉幕府は神領を寄進するなどこの神社を篤く支援。

分社を鶴岡八幡宮に勧請したほか、毎年正月には将軍自ら参拝していました。その後も小田原北条氏や江戸幕府な
ど、歴代の東国の支配者の保護を受けています。なお、この神社の社家は物部一族の矢田部氏。瀬戸内海・大三島
の大山祇神社の社家・越智氏とも同族関係にあるようです(大山祇神社は07/6/7日を参照)。

■08神楽・・・・・・・竜雲寺(福井県芦原町)。 
■08野神祭・・・・・・・渡岸寺(滋賀)。

八幡宮祭・・・・・この日が本当の八幡祭(放生会)であった(2/15日の対極に当たる)。よって其の宵宮が昨日・8/1
5相当に行われて来た。例えば京都東山の天台宗門跡寺院の「妙法院日次記」にも「石清水放生會、従明十三日晩至
十六日朝、禁裏様御神事、自明後十四日晩至、十六日朝仙洞様御神事候」云々と有る。

■08不動尊開扉法要・・・・・・・金閣寺〔鹿苑寺〕(京都市北区)。 

■例年・京都「大文字五山送り火」(精霊会)・・・・・・京都の東山、如意ケ岳の大文字ほか合計五つの山に次々と点火
する盆行事。お盆で迎えた先祖を鎮魂し送り出すために五つの山で略同時に「大文字」や其の他の形の送り火を点
す。由来は諸説あり、以前は「い」、「一」、「竹の先に鈴」なども送り火として点火された。

平安初期の空海開始説、室町中期、足利善政開始説、江戸初期、公家の近衛信尹ただ開始説がある。また「妙」は万
灯籠山、「船形」は船形万灯籠と言うように五山送り火は万灯籠が大規模化したものとも言われるが、何れも決め手無
し。ただ応仁の乱後の京都は荒廃し、恨みを残す死に満ちていた。

恐るべき霊魂を鎮めるため、個人ではなく、地域の力が必要だったと言われる。戦時中は灯火管制や薪不足で一時中
断したり人文字でした事もあった。ともあれ今は前以て、浄土院前に集められた割り木や護摩木が積まれる。

「大文字」の場合は8/15-16日に、「船形」では8/5から護摩木や松割り木の志納の受付を始め、約1.2万本と地元の松
十数本が燃やされる。午後8時には如意ケ岳の「大」から、「妙法」、「船形」、左「大」文字、「鳥居形」の順で点火され
る。

送り火はそれぞれが勇壮、優美、実直、雄大、威厳、華麗に五山を彩りながら約一時間かけて夜空を焦がす炎で亡者
を見送る仕掛けである。此の京都の風物詩を見るために鴨川沿いには例年10〜12万人が訪れる。そして送り火の消
し炭は、その後に登山する人が家の厄除けとして持ち帰る(06/7/18朝日から引用)。

因みに07/8/16NHK総合TVによれば、五山全てを見られるのは右大文字山。広沢池では御詠歌を上げて灯篭流しを
行う。此処は鳥居型が最もよく見える位置にある。右大文字は東山で真言宗。此処では大師堂から聖火を移して着火
の儀を行う。其れに対して左大文字は西方にある。また妙法は日蓮宗による。

次に舟形は最もスケールが大きいが市街から遠いので目立たない。また鳥居型は篝火(かがりび)式の火床。妙法も
火床で地元の信者が各々受け持っている。因みに妙法では、終わった時には消火して麓の寺に下山し、「妙法踊り」で
締めると言う。

後醍醐天皇の命日・・・・・・後醍醐天皇は元弘の変によって吉野の行宮(吉水院)に入られ、続いて実城院に移って
8/16日に崩御された。この事から明治22年、明治天皇が蔵王堂跡に吉野宮を創立したのが今の吉野神宮である。其
れに対して、終焉の地の実城院は此処から西100mの地である。

従って次の後村上天皇が実城院で即位と共に、先帝を塔尾御陵に葬った。だが今治定の御陵を暦・方位で見れば其
れは内戦中の当然の措置として、実は敵を目を欺く偽墓であり、実の陵はもっと西にあるものと推定出来る。従って次
の後村上天皇は@

其の点について此れまでは当時の南北朝が、渡来の旧暦である仏教暦、具注暦(平安時代の道長や陰陽師が使っ
た)、宣明暦(859〜)、三島暦、伊勢暦の何れを使っていたかさえ定かではなかった。

其処で、本書は方位から見た結果、ユリウス暦と重なる和暦を使っていた事が判明した(「3/13日・後村上」も参照)訳
だが、和暦(円暦)で見れば、以後の数代の遷宮が全て天皇の命日方位で進められていた事が判明する。其の外、何
と、行宮で六方結界を形成していた事も判明した。何れにせよ、其の暦・方位が今の太陽暦に合致しているのです。

所が吉野神宮の例祭日は現在、9/27日としている。此れは当時の記録が今の太陽暦よりも優れた暦法による月日だ
った事を知らずに、旧暦と誤認して数字だけ西暦に換算するよう、政府が指導したからである。

暦法の問題をもう少し述べておけば、96後醍醐天皇は大覚寺統の吉野に行宮を置いた訳だが、延元元(建武3)年/8
/16己丑に崩御された。宝算52歳、御陵は吉野山如意輪寺の東丘塔尾陵とされる。此れを西暦にすれば1336/U9/21
/G9/29日となるが、寧ろ先の8/16日がユリウス暦であり、当時の和暦を方位で示している。

因みに和暦を逆に仏式の旧暦に読み替えていた可能性もあるのかどうか。だがそうするとU8/16日は旧暦の7/9癸
丑となるので其の可能性はなくなる。その例としては福知山市には足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈って建てたとさ
れる醍醐寺(南禅寺派)がある。

またその前に尊氏・直義兄弟が、暦応2(1339)年に巨費を投じて京都市嵯峨の天竜寺(臨済宗・天竜寺派)を夢窓疎
石に建てさせている。其の造営資金を得るためとして彼は元の国に有名な天竜寺船を派遣した。

けれどもこの天龍寺では当時の大極殿からは西(9/17日)の方位になるので命日(和暦8/16日)をユリウス暦に換算し
直して9/21日方位で弔った事にはなる。此れなら数字上は4日のズレである。尊氏と夢窓疎石は豪壮な天竜寺を建立
したものの、暦法が違えば弔いにならない。因みに先の西(9/17日)の方位の先には「三天皇火葬塚」がある。

この火葬塚がどの天皇の時なのか、また其の後に室町幕府を置いた室町からは天竜寺と火葬塚が一軸に並び、其の
ラインは9/6日方位となる点など深い意味は未調査なので即断は出来ないが、方位に合わせれば暦法や暦日が違っ
ても同一線になる。

だが数字に合わせて9/21日方位にすれば数字上では4日の差でも、実際の日数のズレも方位のズレも36日後になっ
てしまうので、暦法軽視・禅重視の悪しき例を此処では残したのではないか。

■09万灯会・・・・・・堺市の感応寺で、万物の霊に灯火を捧げ、無病息災を祈る伝統行事。
■08灯籠焼・火振舞・・・・・・・興国寺(和歌山県由良町)。 
■06椎出鬼の舞・・・・・和歌山県九度山町。

■旧正月の頃の2/16日とこの日8/16日(お盆)を縁日とするのが閻魔大王(浄土十王)信仰である(西国33/24札
所・中山観音寺)。
■08水まつり・・・・・・・神崎寺(兵庫県)。 

■精霊流し・・・・・・各地ではこの日に紙人形を川に流すか船で送る。

























































8/17  


■08花輪ばやし(〜20日)【秋田県鹿角市、幸稲荷神社】
■06-07-09鶴岡・庄内大祭。
■犬伏「裸まつり」・・・・・・新潟・松代町。

源 頼家の命日・・・・・彼は頼朝の後、鎌倉二代将軍となったが、政子のために伊豆の修善寺に幽せられ、23歳で
北条時政のために元久1/7/18戊寅に弑せられた。修善寺の向側には今も彼の墓地と寺が残されている。@

此の寺は我が国二番目の大きさの十一面観音立像(木像)があり、坂東33観音第四番札所となっている。そして少し
ズレた位置に熱海の「来の宮」がある。此処は伊豆山権現として鎌倉幕府が箱根と共に特に重視した宮だった(実朝に
ついては「1/27日」を参照)。@

■06-07-09建部大社・夏祭「船幸祭」・・・・・・滋賀県大津市の建部大社ほか。
■熊野 「大花火大会」・・・・・・三重・熊野市。
■大柳生の太鼓踊り・・・・・・大柳生町。詳しくは奈良市観光センター0742-22-3900

天誅組の蜂起・・・・・・文久3年(1863)旧8月17日に大和では、土佐脱藩の吉村虎太郎が、総勢30名の「天誅組」
を結成し、今の五条市の幕府代官所を襲撃し、代官の鈴木源内を斬殺し、桜井寺を本陣にする。

翌日18日の午前1時頃に、青蓮院宮朝彦親王・京都守護職の松平容保・所司代の稲葉正邦らが突如、御所に入り、
続いて 武装した会津藩・淀藩の兵が門を固めた。続いて、薩摩藩兵も近衛忠闌も御所にすすむ。公武合体派の強行
手段で、尊攘派を一掃し、攘夷派の公卿は失脚し、長州藩の桂小五郎・ 久坂玄瑞らに逮捕状がでる。

尊攘派として鳴らした公卿の、三条実美・三条西季知・沢宣嘉・東久世通禧・四条隆謌・錦小路頼徳・壬生基修の七卿
が、長州に落ちる。これを、「七卿落ち」という(以上は「なっとく歴史館」http://1rekisi.jpメルマガ【1日1分歴史新聞】よ
り引用)。  

■08黒滝祭・・・・・・・黒滝寺(徳島県木沢村)  
■06旧・地蔵盆。


























































8/18   


■06-07-09伝教大師・誕生会・降誕会・・・・・・比叡山及び天台宗。
■08観音会・・・・・・・安居院(富山県福野町) 

■08八日薬師・・・・・・・宮部薬師堂(滋賀) 

■勝龍寺の「観音大祭」で十一面観音ご開帳・・・・・・京都・長岡京市の勝龍寺は075-951-6906。この寺の開基は弘法
大師。往時は恵解山・青龍寺と号したが、村上天皇の時に雨乞いを命じられた千観上人が其れに成功した結果、「以
後勝龍寺と名乗れ」との勅命により現在に至る。往時は九十九堂を数える寺院だった。ご本尊は国の重文。

■八幡太郎義家・・・・・石清水八幡宮で元服して義家と名乗った。天仁元(1108)年8/18日に薨去。年68歳。全国に八
幡宮は多いが、彼を今も源氏の氏神として祭っている神社は何処か。例えば壷井八幡宮は南河内にある。

■08じゃんがら・・・・・・・「じゃん」は鉦、「から」は小太鼓の音を表わすという、豊作祈願の踊り。(長崎県平戸市) 


































































8/19  


■例年-花輪ばやし(8月19日〜20日)【秋田県鹿角市、幸稲荷神社】
■06みたままつり・・・・・・常陸の国、出雲大社0296-74-3000。06年。
★06笠間まつり・・・・・・06年。笠間観光協会0296-72-9222

■06-07石和温泉祭り(8月19日〜21日)【山梨県東八代郡石和町、石和温泉】
■07天河大辨財天社・七夕祭・・・・・奈良県の奥地・天川村の弁天は市杵島姫命と吉野坐神と熊野坐神を祭る。此処
では8月19日 〔日〕 七夕祭(旧七月七日)(燈篭流し) 午後3時から。因みに08年は8/7日。
 
▼07七夕(旧暦の07/7/7)・・・・・満月になると星影が薄れて綺麗に見えないが、七夕の夜は七日月であるから星が見
やすい。昔はこの日に井戸浚いをした。因みに08年は8/7日。

■乙女神社の七夕・・・・・・この夜に天女が星となって夫と娘に会いに来る。と言う話が有るのですが、今は西暦の7/
7に行っている。

乞巧奠・・・・・・他方、シナでは陰暦のこの日の夜、牽牛と織姫の星を祭り、女児が手芸の上達を祈る。此れをキッコ
ウデン(乞巧奠)と言う。日本でも昔は宮中行事とし、また民間では女性たちが手芸や芸事の上達を願って竹の笹に短
冊を掛け、またお月様へのお供えのものを3、5、7、9など陽数作って、屋根など高い所に捧げた。

だが戦後になって西暦の7/7に七夕をしているが、其れでは梅雨の中や満月になる事も有って全く無意味となりま
す。



































































8/20   


▼09旧7月朔。

■07-09千葉・だらだら祭り・・・・・・・16〜22日。
■06-07-09鎌倉宮祭・・・・・・・鎌倉市。
 
■08薬師祭・・・・・・・横蔵寺(岐阜県谷汲村)。 
■08奉灯会・・・・・・・大覚寺(京都市右京区)では、大師縁日の21日の前夜(宵弘法)に、大沢池に万灯を浮かべ、弘
法大師を迎え法楽を捧げる。

▲安倍晴明の命日か・・・・・・・陰陽師。外に天文博士、左京権大夫などを歴任し、85歳まで現役として生きた。命日は
寛弘2(1005)/9/26(ユリウス暦10/31)だが方位では本日9/8日になるが、実は@

■桓武天皇后・酒人内親王の命日・・・・・・・・以下http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/koukyu/heian/kanmu.htm「桓
武天皇」から引用する。彼女(さかひと)は754〜829。父:光仁天皇母:皇后 井上内親王(聖武天皇の女)。同母弟に他
戸親王が有る。

[夫との血縁関係]:異母兄(2親等)・・・父・光仁帝の子 770(17才) 三品に叙される772(19才) 斎宮に卜定される(11
月)774(21才) 伊勢へ下向(9月)775(22才) 母・井上内親王と同母兄弟・他戸王没、斎宮を退下。この後、東宮・山部
親王(桓武天皇)の妃となる779(26才)。朝原内親王を生む781(28才)。

父・光仁天皇没、桓武天皇(45才)即位,妃となる806(53才)。桓武天皇(70才)没後の829(76才) 薨去〔8月20日U829/9
/21〕、ときに二品。所生の皇子女として朝原内親王(平城天皇妃,斎宮;在任782〜796)。薨伝に「容貌"女朱"麗、柔
質窈窕」と記されており、美麗な容貌を持ち上品な性格であったようです。

晩年は東大寺で万灯会を行い、天皇(3/17を参照)を弔いました。























































8/21 


■08戸津説法・・・・・・・東南寺(滋賀県大津市)で8/21〜25日に、天台座主への登龍門として行なう説法行事。






































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