http://kami.tudura.com 「神々の歳時記」 p120 (未定稿) 


  神々の歳時記 6月15  但し方位による
次は
または
トップへ
トップへ
戻る
戻る

●イベントや祭典と称する偽祭りが多い中で、昔から本物の祭りを続けて来た事例を此処に紹介し、併せてその縁起
の意味を解説し、方位から正当性を実証する。今月も一部、お祭り専門情報誌 月刊「わっしょい!」全国版 http://
www.omatsuri.com/link/linkvex.htmlから

及びhttp://www.kotobuki-p.co.jp/index2.html「ブッダワールド行事案内-6月」より一部引用・転載させて頂きました。

■各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年追加する形で示しています。ただ凡そ歳時記
には定例として固定されたものと月の暦で変わるものと星の曜日に従うものとの3種があります。このため開催日等の
詳細は主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。尚、「星の暦」にも雑節・行事を載せています。

6月・中旬 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★



6/15 日                        ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★


■06-07-09北海道神宮祭・・・・・・

★チャグチャグ馬コ・・・・・・岩手県岩手郡滝沢村と盛岡市。馬頭観音信仰。駒形神社(おそで様)の祭日が昔は旧暦
の端午の節句だったが、その後、西暦の6/15日に固定され、今は毎年6月第2土曜日としている。駒形神社から盛岡
八幡宮までの15キロを、岩手山を背景にして早乙女が鈴の音と共に馬で進む。09年は6/13


源 義経と武蔵坊弁慶の命日・・・・・・・・・山形と福島とに跨る蔵王には権現堂・薬師神社・温泉寺・地蔵尊などがあ
り、其の南には福島市飯坂温泉に61軒の温泉宿と義経と佐藤忠信兄弟の母(乙羽)に縁の八幡寺がある。

逆の時期に山形の鶴岡市では1/15に伝統行事として「とんど焼き」をする。此処には庄内藩があったので以来、庄
内神社として藩主・酒井公を祭っている(下記も参照)。

武蔵第六天神社・例大祭--------http://www.dairokuten.or.jp/yuisyo.html「武蔵第六天神社」より引用----6/15日
(今は7月15日)、さいたま市岩槻区大戸1752"TEL:048-799-1014"FAX:048-799-1485

当社には古来より、耳病・頭痛等の病に霊験著しい護符として、神錐(きり)が伝えられております。毎朝・毎夕、第六天
神の御名を唱えながら、耳(または悪い所)を突く真似事を3回繰り返し行います。そして、平癒の暁には、神錐を2本
にして納めて戴くものです。

現在、当社には数千本といわれる程の錐が納められております。その昔、岩槻城下の繁栄を極めたる当時、江戸城
の忌門寺として有名な華林山慈恩寺や、日光廟に往来した諸人は、日光街道を曲げて現在の元荒川沿いを下って岩
槻城外の第六天神社に奉拝したという記録が残されている。

また、戦国の世に、岩槻城主太田氏の将兵の信仰を得て、岩槻城下に暮らしをたてていた武士や町人や商人、農村
の人々が、この草深い祠に奉拝して霊宝を賜ったといわれている。

当神社は神系七代、即ち天神六代なる面足尊(おもたるのみこと)と吾屋●根尊(●=小に皇。あやかしこねのみこと)の二柱を主神
となし、相殿としては、経津主命(ふつぬしのみこと)・別雷神(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・熊野久須
美命(くまのくすみのみこと)・家津御子命(けつみこのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)の六柱神々を奉斎している。 
 
武蔵国第六天の一として、古来より火難除け・盗賊除け・疫病を除去し、以て家内安全、五穀豊穣、商売繁盛の霊験
著しい事は普く人の知るところであります。古来より、江戸界隈の人たちや武蔵国の諸処から、崇敬者が加わり、今日
では県内を始め、千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・東京都の関東各地より講中を結成し、毎年3月より5月にかけて、

大神の御加護を賜りて、自家の安泰と吾人永遠の幸福を祈り奉らんと、御眷属・授与品である天狗の神額を受ける参
拝者でにぎわい、一陽来福を祈る個人参拝者は全国より四季絶えることなく綿々と続き、これ偏に広大無辺、神徳無
量なる御神徳と御威光の賜と存じております。 
 
当社がもっとも栄えたのは、光格天皇・仁光天皇の御代の頃、即ち文化・文政年間の頃で、現在の水舎にあるある水
盤は、その当時に江戸講中より寄進され、社殿前の階段は文化年間に着工(平成9年に改築)。又、現在飾り御輿とし
て御輿殿に保存されている大御輿は天保9年戌歳4月に制作されたもので、当時の繁栄の様子が伺い知れる。 
 
尚、当社の創建は第119代光格天皇の御代、天明2年6月15日の御鎮祭と伝えられており、明治40年6月28日、村社香
取神社・無格社鳴雷神社・無格社厳島神社・無格社熊野神社を合祀し、現在に至っております(以上引用)。 

■隅田川神社・例祭・・・・・・東京・墨田区。
■役行者祭り・・・・・・東京・大島町。

■07-09日枝神社・山王祭・・・・・・東京。10日から明日まで。
■11山王祭【東京都千代田区、日枝神社】(西暦偶数年の6月15日前後の一週間。神幸祭は2012年6月に齋行)
動画http://www.omatsuri.com/movie/sannou.html   

■10諏訪大社・上社 宝殿遷座祭  6月15日。
因みに御柱祭の日程詳細は、

4月2日〜4日  上社 山出し 木落し・川越し
4月9日〜11日  下社 山出し 木落し

5月2日〜4日   上社 里曳き 建御柱
5月7日       下社 宝殿遷座祭

5月8日〜10日   下社 里曳き
6月15日      上社 宝殿遷座祭
更に場所など詳しいことはこちら。http://onbashira.jp/

■07-09津島祭・・・・・・愛知。津島神社の祭礼。6/14〜15(または7月第4土日を参照)。京都祇園祭と同様、牛頭
天王(スサノオノミコト)を祭り、「天王祭」とも言われる。此処は古来、日本総社・津島牛頭大王と言われ、牛頭天王社・
実相院と言った。江戸期には朱印地1293石を領し、社僧32人が仕えた。楽車(だんじり)祭、提灯祭とも言う。

また津島川に数隻の華美な船を浮かべて管弦奏楽し、徹夜で下流の市江に至り、人形を載せた同数の船で迎えら
れ、歌舞、祭儀を行う。即ち「疫病送り」の形と言われている。御葦流(みよし)の秘事など伝統を残す。津島祭の日取り
については6/15の逆方位は羽島市の東本願寺別院があり、また6/15方位は木曾岬温泉に至る。

今は津島川がなくなったが、津島神社の南に天王川公園や秋葉神社、次に宮川町、そして市江や前ヶ須町のスサノヲ
社に至り、其の先は木曾岬や長島温泉に向うので、まだ精査していないが本来は此の6/15日が例祭であったと思わ
れる。其れに対して京都祇園祭と同じ7/16頃にすれば四日市市の菅原神社に向ってしまうので無意味となる。@

因みにスサノオノミコトの埋葬地は金剛山。そう断定できるのは此の津島神社で古来6/15日に向かって例祭をして来
たからであり、その逆方位が、朝鮮の金剛山(クムカン山1638m)に至るからです。

またクシイナダヒメノミコトについても、同様に生前のお住まいと命日、または彼女を祭る神社か寺の例祭日が分かれ
ば墓地も自動的に分かります。

■伊勢神宮・月並祭・・・・・・各地の神社では毎月月並祭を行うが、此処では年に何回かの大祭である。6/15〜17
(2002)。
■信楽大奥宮祭・・・・・・滋賀。

■源 義経と武蔵坊弁慶の命日・・・・・このお二人は05年のNHK大河ドラマで脚光を浴びる。弁慶は義経をかばって
総身に矢を受け止め 、「仁王立ち」で死んで「男を立て」、また義経は僅か2年に満たない合戦史で英雄となった人物
であるが、兄・頼朝との不仲が原因で悲劇となる。

ただその後の約800年間には多くの事が不明となったので改めて整理して見たい。先ず平家物語には弁慶が「熊野
の山伏の子供」と簡単に記されている。ともあれ義経と弁慶は主従関係となって以来、義経には常に弁慶が付き従っ
たとされている。

だが良く考えて見れば、義経はまだ少年であり、講談としては面白いが弁慶がいきなり家来になる状態ではない(ヒジリ
の「荒法師」を参照)。

義経は後になって(1184年にやっと)佐衛門尉(ショウジョウ)・検非違使(衛門の三等官、大夫尉・判官)、続いて「従
五位下」と言う貴族としては最下位の官位を後白河法皇から貰った。其の事が、「頼朝の代官の立場であるのに勝手
に官位を貰った」と言う点で兄・頼朝の勘気に触れたと言われるが、其れは今流の解釈であろう。

この解釈に少し無理があるのは、官位と言っても征夷大将軍の義仲を追い払っても征夷大将軍とは比べものにならな
いほどの官位であるからだ。因みに頼朝は12歳で佐兵衛尉になり、1184〜5年の頃には、従二位クラスであるから
義経とは月とスッポンだった。

義経はやっと最後に伊予の守に任じられたが、其れは頼朝が与えた所領(西国24ヶ所)を没収した為に、其の見返り
に法皇が伊予の守としたのである。頼朝の政治は御家人の所領を保証する立場だった。凱旋した義経を鎌倉にも入
れず、所領を勝手に奪ったと言う事は、「家来から外した」事である。

文治元年、京都では義経と行家が地頭補任を行ったが、在京の梶原景時が此の頃の両者の風聞を頼朝に色々書き
送って反逆の疑いを煽った外、土佐の坊昌俊一味を刺客として放った。堀川の義経の館(検非違使の館)を夜討ちし
た事はお上に対する反逆であり、よって義経が彼を斬首(蓮光寺の駒止地蔵)した。

だから法皇は義経と行家に「頼朝追討の院宣」を出した。此れに対して頼朝は10万の軍を出して鎌倉を発った。義経・
行家は孤立し、300名程となった(この部分は大河ドラマから引用)。何れにせよ、非は頼朝に有ると見るのが当然で
あり、其の世間の評価が「判官びいき」となったのだろう。

さて当初、判官の義経に対して家来となった弁慶はと言えば、これまた高位の熊野別当・湛増の子でした。当時、法皇
や上皇が京の都から熊野に度々行幸していた。行幸とは言っても其れは口実で有って、熊野水軍の援助を期待しての
外交活動であった筈だ。

その熊野別当の子であれば、天皇と直接会話する機会もあったろう(叡山に預けられていたとの話もあるが)。

何れにせよ別当の子ならば皇族や貴族と略同格であり、義経や頼朝よりも弁慶の方が元々格段に地位が高かった筈
だ。そして熊野水軍は元々平家の水軍であり、こうした親父の立場を知りながら闘鶏神社の占いを口実に源氏に寝返
りさせ、味方に付ける事に成功したのも弁慶の力であったろう。

しかも彼は単なる「荒法師」ではなくて、安宅関で危機を迎えた際に、白紙の勧進帳を朗々と読み上げた程の、当代随
一の器量人・インテリだった事になる。しかし弁慶はそうした点よりも多くのエピソードに尾ひれがついて幾多の武勇伝
だけが広まってしまった。

インテリ貴族が山賊の親玉のようなイメージにすり変わってしまった事が歴史的事実を曲げているのではないか。
其処で原点に戻るために2人の命日を改めて見れば文治5(1189)閏4/30なのでユリウス暦の6/15に相当す
る。義経は平泉にいて31歳の時に藤原泰衡の手勢により衣川にて襲われ、この日に亡くなったとされている。

だが彼の終焉の地は不明であり、生き延びて渡道したとか、ジンギスハーン(1162?〜1227)になって蒙古軍として来
襲したと言う話にもなっている。先ず「北行伝説」の根拠としては、頼朝の首実検が1ヵ月もたってから部下に改めさせ
た、と言う不自然さ。

それに平泉から北へ逃げる途中に義経が立ち寄った所として、竜飛崎まで約30ヶ所の遺跡が一本の道になる(以上2
件は05/1/4の毎日新聞、盛岡市の高橋克彦氏の説)からです。其処でこの辺りから先ずハッキリさせよう。

今、平泉に判官館跡が残されている外、平泉の高田には義経堂があり、毎年義経の供養が行われている。だが武蔵
坊弁慶が義経を庇って義経より先に仁王立ちで亡くなった筈である。よって義経伝説が此処から更に北へ伸びる事に
もなった。

例えばNHK総合テレビ05/1/4日の放送によれば、岩手・山田町には箱石家があり、義経を匿ったとの言い伝えを残し
ていると言う。箱石の由来は山にある石棺形の石に由来し、しかも同家が50軒あって、其の本家は「判官」を屋号とし
ていると言う。

また同県の大船渡市の今野誠一家には「義経と家来が来た」との言い伝えと共に、「秀衡塗り」と言う三つ組椀の会食
膳が12脚伝わっている。その外にも将棋の駒が残されていて「禁讚祖王」と記して有り、「祖王」については語る事を禁
じた。 ただ毎年年末には義経の供養として親族がこの椀を使って会食をすると言う。

とすれば弁慶は先に果てたが義経は落ち延びたのであろうから、先の義経堂は弁慶の終焉の地であり、義経に代わ
って仁王立ちして果てた所となる。つまり此処は弁慶のための寺と見る事も出来る。因みに先の判官館跡と義経堂の
両地を暦・方位で結べば略この日6/15を示している。

◆さて別の話としてこの日は京都の八坂神社の例祭がある。八坂の祇園社は元々姫路の広峯神社を勧請した社であ
る。広峯神社の由緒について神戸大学附属図書館は、「奈良時代末の天平六年(734)に、吉備真備によって白幣山に
大社殿が創祀されたのがはじまりとされ、天禄三年(972)年現在地に遷座しました。

現在、本殿・拝殿とも国の重要文化財であり、国内最大級の大きさを誇っています。広峯神社は、素戔嗚尊を主神とし
て祀り、これは古く神功皇后の祭祀に始まるといわれています。貞観十一年(869)には分霊が山城国葛原に祀られま
した。これが「祇薗本社播磨国広峯社」といわれる所以です。

分霊の京都祇園八坂社が発展したため、広峯社はその末社の感が生じましたが、もとは本社の称を誇っていたので
す。中世からその存在は播磨国の惣社とともに中央に知られており、檀那は播磨国だけではなく、摂津・但馬・丹波・備
後・因幡・美作・丹後などの周辺諸国までおよんでいました。

広峯神社文書は、この広峯神社に伝来した文書であり、現在広峯神社と同神社の社家肥塚氏および神戸大学附属図
書館の三カ所に分散所蔵されています」と述べている。また法華山・一乗寺(加西市)0790−48−4000はその由来
について、法道上人に始まると言う。彼はインドの仙人だったがある時シナから朝鮮に飛んだ。

そして日本のある山に辿り着いて法華山と名付けた。そして大化5(649)年、孝徳天皇に招かれて病を治し、翌白雉
元年に寺を建てたのがこの寺であり、また法道上人は祇園精舎の牛頭天王を連れて来たので近くに祭ったのが今の
広峰神社であると言う(7/17「祇園祭」を参照)。

◆また京都祇園の八坂神社がこの日に例祭を行っているが、八坂神社のご祭神は姫路市広峯山から勧請した牛頭天
王である。ではあるが、他方、京都・祇園の八坂神社は、先ず藤原基経が感神院に精舎を建立し、或いは八坂郷の観
慶寺(祇園寺)に神殿一宇を建てて祭った。

つまり八坂は元々は宮ではなくて、八坂寺と言う寺であり、次の六月の御霊会が行われていた訳です。
先ずは「怨霊封じ」の勅会としたのがやがて京中の大祭となったもので、その後の974年に此処は奈良・興福寺から
離れて叡山の天台別院となり、6/14が御霊会、6/15が臨時祭となったと言う。

何れにせよご祭神が西からやって来たので此処は西に楼門があるのだろうか。この楼門が現在は国宝になっている
が、本殿と丸山公園の円墳状の丘とが楼門と直線上に並ぶ。その暦・方位は9/24.5←→3/26であるが、広峰神
社と八坂神社は9/11.5←→3/12.5方位であるから13日もズレて仕舞う。

では西楼門の先の9/24.5方位には何があるかと言えば、嵐山を越えて亀岡市の城跡に行き着く。此処は今、大本
教教団本部になっているが、全体の形は略この方位を主軸とした古墳形をしており、この区域を今も荒塚町と言う。と
すれば紛れもなく古墳だった。

ともあれ祇園祭が御霊会から始まり、今は古墳を守るように霊界物語を残した上田聖師の教団本部があると言うのも
何かの縁だろうか。ただ常識的な意見としては、「八坂神社は八坂氏の氏神の「牛頭天王・婆利女・蛇毒気神」を祭っ
ていた」とも言われる。

では八坂寺の歴史はどうか。此処は1400年の伝統と言う祇園祭が祇園会として昔は6/7にあった。この祭礼を御
霊会・天王祭・天下祭とも言ったが、それが今は7/1から約1ケ月続くうち、7/16(宵山)〜24日がピークになる。
何れにせよ下記の八坂神社の例祭も彼らの弔いに重ねた行事かも知れない。

彼らとは義経・弁慶の主従である。ただ命日が合うからと言う理由でご祭神にも入ってはいないのに仮定するのは暴論
であるが、一つの可能性として或いは三文小説か冗談として記して置く。・・・・・・八坂神社の先には八坂の塔があり、
其の先は吉野に向かう。

八坂の塔は大きいが、其れだけが其処にあるのではなくて、その裾には御堂や観音堂、或いは幾つもの小詞が立ち
並んでいる。中に入って確認した訳ではないが、上記のご祭神以外の神仏を祭っている筈であり、各々に故事来歴が
有る筈である。

◆次にこの八坂の塔から更に6/15の先に進めば何があるかと言えば天理・大和神社と其の手前の八坂権現を通
る。其の先は吉野に出るが、其処には蔵王堂があり、更に吉水院があって義経が匿われ、後に此処は後醍醐天皇の
行在所となった。また如意輪寺があり、義経のお籠もり堂が残されている筈です。

此処は平安時代から桜の名所であるが、何故か「義経千本桜」の言葉が有名である(今は3万本ある)。吉野を出れば
熊野新宮(速玉大社)に至り、此処が実は弁慶の里だった。そして逆方位の12/15方位は比叡山が有り、此処には
「弁慶の曳きづり鐘」の伝説が有り、その先へ進めば鞍馬寺が位置する。

この寺は義経が修業したと言われる所だ。そして更に進めば小浜市に至るが、此処にも広峰神社があるから驚く。
ご祭神も同じである。創建年代は明らかではないが、室町時代には鎮座していたようである。ただ今の位置は市街地
にあるが古くは千草の森に有った。

例祭日も7/14〜17と略同じであり、此れが実は6/15である事については前記した。こうして見れば、このラインは
2人の霊ラインであると判明する。いやもっとハッキリ言えば、この小浜・広峰神社と京都八坂神社、其れに熊野新宮
はお2人を祭るためのラインを設定し、祭りをして来た事実を示すものではないか。

ただ当時は鎌倉殿の手前、公式には表看板として義経・弁慶をご祭神名とする訳には行かなかったろう。だから広峰
からの借り物の「牛頭天皇」と重ねて弔ったとは言えないだろうか。そのため以来、多くの人士の謎とロマンを掻き立て
る事となったのでしょう。

ともあれ義経と弁慶とは京の五条の大橋の上(異説も有る)で戦い、以来主従関係となったと言われる。やがて義経は
大きな成果を挙げたが頼朝に疎まれ、追われて吉野へ逃れた。だから京童にとっては、義仲を京都から追い出してく
れた義経と弁慶こそ、頼朝よりも有り難い英雄とし人気が高まった事だろう。

彼ら主従は、鎌倉に奪われた主権を京都に再び取り戻してくれる英雄として期待された筈だ。其れが「判官びいき」と
弁慶人気の由来であろうし、だから今も違う形で祭られているものと推定する。京都の紫竹に常徳寺があり、常盤御前
が義経を生んだ時のエナ塚が今も有る(NHKTV「義経と弁慶」)。

この日のラインからは多少外れるが、寺であるから旧暦で祭った所かも知れない。ともあれこの6/15は祇園の縁日
であり、八坂の例祭日ではあってもお2人の祭りではなくてどちらかと言えば厄日、弔いの日でした。このため逆の時期
の12/15〜6日は神として彼らを迎える祭りとなる。因みに12/16、鎌倉鶴岡八幡宮では鎮座祭が行われる。

とすれば鎌倉もまた別な名目で二人を祭った事になる。この時代は親族同士でも殺し合った時代であり、それだけ祟り
を恐れたために怨霊封じの祭り事を重視した。鎌倉の基礎を作った第一の功労者である義経・弁慶の祟りを恐れ、北
条方でさえ神と認めて鎌倉でも密かに祭った様子が、こうした祭事暦の上からは偶然にも一致してしまうのです。

或いは全国に散った源氏の子孫が彼らのために旧暦行事として1/15、全国で小正月行事として例年、佐義長(トン
ド焼き)を行って来たのかも知れない。つまり此れもお2人の鎮魂儀礼と見れば、故事付けが過ぎるだろうか(1/15を
参照)。

弘法大師降誕会(真言宗)

■08三千院のあじさい祭・・・・・・・京都市左京区大原来迎院町、三千院075-744-2531の奥の院で6/15日から7/15日
まで。拝観料700円。金色不動堂前の広場では採灯大護摩供法要もある。

■09京都・八坂神社の例祭・・・・・・京都の八坂神社はスサノヲノ命、クシイナダ媛、ヤハシラノ神子神を祭る。昨日は
神楽奉納し奉告祭。本日07時、摂末社巡拝、10時例祭。14時悪王子社祭、15時、献詠披講式。

八坂神社の歴史は平安建都の約150年前(斎明天皇2年=656)にスサノヲノミコトを此処に祭った事に始まり、以来永く
祇園社・感神院とも呼ばれた。今も全国3000社の八坂分社の本社である。他方、姫路の広峰神社の方が先との説も
ある。

さてこの日は10時から例祭に続いて、14時から摂社の悪王子社祭がある(因みに悪王子とはアテルイの事と思われ
る)。其処で方位から見れば、八坂神社の参道は西にある京都市街に向かっている楼門ではではなくて南にある鳥居
の先にある。

西の四条通りや祇園を向いて立っている壮麗な楼門は神社の鳥居ではなくて、寺から極楽浄土に向かう門であり、或
いは前記したように亀岡の古墳に向かっている。何れにせよ、この日は西ではなくて、八坂神社から南を向いた処の鳥
居がポイントになり、その先に「下河原通り」として参道が伸びている。

其のまま南に進めば一つの神社と寺院を突き抜けて八坂の塔に至る。因みにこの塔の昭和50年頃のご住職は浅野
春翁氏。八坂の塔は聖徳太子や八坂造の創建(祟峻天皇2年=589)とも言われるから八坂神社よりも古い。

今は法観寺とも言い、禅宗の寺になっているので八坂神社とは無縁になっているが、参道が伸びているので過去、密
接な関係であったと分かる。今は町家が建て込んで、参道がズレているが、両社の軸線に寺と神社が残っているの
で、その筋が旧参道だったろうと推定出来ます。

筆者は八坂の塔に立ち入って調べた事はないが、幾つものお堂や祠や墓石があった。つまり、その一つ一つに個別の
故事来歴がある筈なのです。また、この塔に登れば東山36峰を眺望出来る筈である。無論単なる「望楼」として築かれ
た訳ではないが、鞍馬から吉野・熊野を見通す目印としても建てられた筈である。

尚、貴船神社が逆方位の12/15日方位にあり、また本日6/15日方位の「八坂の塔」の先に進めば天理・八坂権現と大
和神社(4/1日を参照)を通ってホケノ山古墳を掠めて吉野・金峰山寺と後醍醐天皇陵を突き抜けて天川村の竜泉寺に
至る。

因みに、最古の前方後円墳とされたホケノ山古墳は、隣接する「堂の後」古墳の濠を削る形で築造されていた(05/11/
4日に天理大の調査)。もっと古い先輩がいた訳だ。さて先の金峰山寺は吉野修験、そして後者は大峰修験の拠点で
ある。其処を更に進めば熊野新宮町の須佐神社と勝浦の宇久井神社がある。

両社ともスサノヲノミコトを祭り、片や11/15日に例祭、或いは七五三祭りをしている。因みにこの11/15日を旧暦とすれ
ば12/15日と合致する。さて八坂神社の本日の祭りの由来は、貞観7年(865)6/14日の御霊会に由来する。以来6/15
日には勅使が立つを例とした。それにしても昔通りの祭日をこうして今に伝えていた事には感服する。

恐らく此処にも明治の改暦押し付けがあった筈であるが、恐らく旧暦とは別の和暦を熟知するヒジリがいてお上の無知
を跳ね返し、古式を守り通してくれたのでしょう。因みに、有名な祇園祭は7/17日がハイライトであるが、これもまたこの
御霊会から派生した祭りである。

其れが町衆の仏教的な盆の「祓い」の行事となった訳ですが、八坂神社から其の日の方位へ伸びる方位の「道しるべ」
は見当たらないので、この日の例祭は(詳しくは祇園祭へ)義経と弁慶を重ねて祭ったものと分かる。

さて、12/14.5←→6/15日のラインを更に進めば一体どのようになるでしょう。まだ精査してはいないが、京都から見て
見よう。

南極←フォークランド島←ブラジル高原←デンマークのヘクラ山←ビリランガ高原←ナホトカ←←小浜←←鞍馬←←
京都八坂神社→八坂の塔→平安神宮→→伏見稲荷→伏見桃山城→奈良・蟹満寺→帯解寺→八坂権現→三輪神社
(桜井市)→茶臼山古墳→吉野・金峰神社・・・・・

→弥山→→熊野新宮→神倉神社→三輪崎→→パプア島(パプアニューギニア)→ニューカッスル(オーストラリア東部)
→南極大陸東部・・・・と一巡する。こうして見れば神々の素性が一神に帰一する事になります。八坂の牛頭天王が鞍
馬では「大魔王」として火祭りで迎えられ、そして小浜では広峰の神となっている。

其れに伏見稲荷は稲作と商売繁盛の神であり、そして大和では甘南備の大三輪の神(大物主神)として、また其れが吉
野では恐ろしい蔵王権現(ニギハヤヒ)となり、熊野に行けば神武天皇のときの高倉下神とされて「熊野・那智の火祭り」
で迎えられる。こうして古い神ほど祭られる所が多くなり、また其の名が変化する事が分かる。

しかし明治改暦後は、新宮と那智大社(ケツミコ神)では6/15日ではなく、7/14日に扇立祭りや那智の火祭りを行ってい
る。このように見れば、改暦が伝統文化を破壊した真犯人と判明する。更に言えば、別紙の「日神」「一神教」でも述べ
た通り、スサノオノミコトは「所変われば品変わる」ように「所変われば名が変化」して行く。

朝鮮では檀君、それがヘブライ語ではユダヤのセム族のバアル(太陽)神となり、また北欧ではクリスマスのミトラ(太
陽)神として、そしてエジプトではラー、アモン(何れも太陽)神として祭られた可能性があります。ハッキリ断定しても良
いが、まだ調査中なので可能性として述べた。さぁどうでしょうか。

色々後から便乗して、このラインに並んだ神仏・寺社も有るとしても、一番古くからあって筋の通った神はスサノオノミコ
トと言う事が此処で一挙に判明した訳です。つまりこれで、出雲の神の謎と歴史の謎も同時に解けたのではないかな。

■06-07-09弘法大師の誕生会・降誕会・・・・・・・各地の真言宗寺院。
■07-08-09宗祖降誕会・・・・・・・東寺〔教王護国寺〕(京都市南区)。 

■07-08-09-10青葉祭・・・・・・・智積院(京都市東山区075-541-5362)。弘法大師と興教大師の誕生を祝う此の日、庭
園を無料で開放する。10時に金堂で雅楽演奏、11時には紫燈大護摩供、4時まで大書院の襖絵や障壁画(長谷川等伯
一門) 等も無料公開。

磐之媛の命日・・・・・・彼女は仁徳天皇皇后だったが、「六月中に崩御により奈良山に葬る」とあるものの、日付の記
録がない。今、奈良市の彼女の陵から其の方位に進むと、久御山町の甕栗神社がある。

彼女が居ました筒木の宮跡として今は、同志社大学のグラウンドに石碑が立つものの、其処とすれば彼女の霊ライン
から外れる。ただ、このラインに沿って、次の履中が石上、次に稚桜の宮へと一直線に遷宮した事実からこのラインの
重要性がハッキリ示されていたのである。

此処からまた履中は、母亡き後、母の弔いのためにそのラインに沿って石上に宮を置き、その後は更に南に進み、桜
井市の稚桜の宮へと遷宮した。此れは矢張り、母の弔いの宮だった事がこのラインから判明する。

この事実から言えば、履中は、父(仁徳)の日嗣をしたと言うよりも、母の後継ぎとして葛城氏に戻った事を示唆してい
る(3/15を参照)。

文武天皇の命日・・・・・・42文武天皇/かる皇子・倭根子豊祖父天皇(後藤原宮御宇天皇//藤原宮///檜隈安古岡
上陵////慶雲4/6/辛巳15/707/7/18-7/22)が即位した。系譜は天武-草壁(元明)-文武である。しかし在位10年
で息子(かるの皇子)が先立ってしまった。

其処でこの後を母が引き継いで即位したのが43代・元明天皇(阿閇皇女・日本根子天津御代豊国成姫天皇)である。
母は即位3年後の710年に藤原宮から平城宮へ遷都し、古事記と風土記の編纂をならしめた賢母であり、かつ優れ
た女帝だったと言える。

其処で方位から検証する。彼女は母として、また国事行為の国祭として、文武のために命日方位とは逆の平城に向か
い、今は旗塚古墳と言われる前方後円墳(主軸は12/17〜19←→6/17〜19)を造った。此処が文武の陵であ
る。そして其の文武の日迎えのために新宮を平城宮に遷した事になる。

同時に皇后・藤原宮子が命日方位の明日香村の岡寺・奥の院に籠って鎮魂に居着いた7/19を参照)。やがて元明天
皇が譲位し、太上天皇として平城宮の近くに隠棲した筈である。平城京の大極殿には向いていないが、もっと南方の四
条、柏木町辺りとなる。とすれば此処が平城の元の宮かも知れない。

無論、この旗塚古墳は記紀や延喜式の文献を基に今文武天皇陵として明日香村に治定している陵とは違う。違うけれ
ども暦・方位ではキチンと合致するのである。因みに来る2010年は平城遷都1300年に当る。此の為、国と県と奈良市
は記念事業として2010年1月から1年間、平城宮を主会場に県内各地で350億円規模のイベントを計画している。

天河弁財天社の本来の例大祭だったか・・・・・・奈良・天川村の弁天は市杵島姫命と吉野坐神と熊野坐神を祭る。
此処は吉野修験のメッカであり、かつて琵琶山白飯寺と言った。この辺りは鴨の役の小角に従った前鬼・後鬼の一族
の拠点だったので、今でも節分祭には「福は内、鬼も内」と言う。

さて例大祭では先ず7/14夕刻にみ弥山(奥宮)に登拝して御神火・御神水を戴いて来て、7/16に宵宮、7/17の
例大祭となるが、本来は本日6/17の祭りではなかったか(詳しくは7/17を参照)。

その理由とする所を述べる。先ず天河弁天の方位から言えば、天河弁天の西には古寺(確か大日寺とか言った)があ
り、其の背後に古墳状の丘が7/17←→1/16の方角に伸びていて、其の前後には7/19方位の和田地区の川べ
りに伊波田神社(式内・伊波田神)がある。

伊波田神とは「祝った」神と云う意味に過ぎないが、此処はかつて山の上手に有ったので其の方位は元々7/17だっ
たと推定出来る。此処までの所は7/17←→1/16の祭りで良い。しかし其の先は和歌山・すさみ町に至るまで特に
関連先が見当たらない。

また逆方位の1/16位には→八坂神社(須佐乃男命)→光遍寺・・・・→榛原町の仏隆寺が位置する。しかし其の先に
も生憎、目ぼしい関連先がないのです。

其れに対して仮に下記の宮島と同じ、6/17←→12/16とすれば、其の延長線上には南には那智の神山・烏帽子
岳(909m)→太地町の大泰寺←→八尺鏡野←→富久良門崎に至り、逆方位に北進すれば明日香村の雷丘方面に
向かう。北は不明としても南方に対しては、天河弁天が熊野灘から那智の神を迎えて祭った事になります。

そうすれば、下記の高野山の「青葉祭り」や、丹生姫都神社・御神事能、其れに厳島神社の管弦祭とも合致するので
す。所で、天河弁天には末社として弥山山頂部に奥宮としての弥山神社があり、5/15〜16日に弥山大祭を行って
いるが、天河との方位は生憎10/30←→5/1なので不一致である。

其れよりも竜泉寺の方が合致している(6/6を参照)。また因みに大峰修験の山上ヶ岳(1719m)との方位は天河か
ら3/3方位である。

■住吉大社の八所社・例祭・・・・・・八所社とは京都・八坂神社の祇園信仰。この日の10:00から。

阿麻美許曾(アマミコソ)神社の参道・・・・・・大阪・東住吉の飛び地で素盞鳴命を祭るこの神社は長い参道が
南に向いて伸びている。此れは何を意味するのか、と言えば主神の縁日を黙示するものでした。

今の例祭日は10/16〜17、夏祭りは7/16〜17であるが、参道の向きは6/15方位に向いて800m伸びてい
る。つまり前述の八坂神社と同じ形式になっている訳です。とすればご祭神は矢張り牛頭天王(素盞鳴命)となる。

しかも例祭日の7/15も同一なので、この日付は新暦のお盆であるから、此処にも天見山を山号とする神宮寺が有っ
て、今の出入り口も其の寺の山門であると言うものの、この日付はお盆を示したものではないと分かる。

暦・方位について見れば、他のお寺もこの寺と同様に、お盆や祇園会をするためにこの6/15の方位に参道を伸ばし
ているなら、この参道も「7/16〜17のお盆行事のため」と言えるけれども、他の寺が同じではない以上、此処だけの
方位を示している以上は此処だけの解釈を要します。

その点で此処はお盆ではなくて、ご祭神の固有の祭日・命日を特定したものと言える。そしてご祭神の素佐乃男命(素
盞鳴命)が牛頭天王とすれば、その方なら新羅の牛頭山から斎明天皇2(656)年に京都祇園の八坂の神として遷ら
れた方だ、と一般には理解されている。

結論から言えば、この神社の祭日は参道の向きが上記の通り6/15方位なので、古墳時代には6/15であった、と
分かる。ただ此処には奈良時代に行基が居ついて数多くの事績を残したのでやがて「行基の安住の地」と言われた。
菩薩となる以前の行基は優れた土木技術者であった。

そして大同(806〜809)年間には神宮寺が出来たと言われ、その後、明治には改暦によって例祭日が1ヶ月ズラされ
て7/15〜17に変わったものと思われるので、本来は6/15であったと結論する(改暦以外の方位については以下
に示す)。

此処は江戸時代、矢田村枯木・字「福井」の天見丘と言う地名の地に鎮座の式内社として「天岸の宮」と呼ばれた。大
和川の付け替え工事で大阪市から切り離され、川岸になってしまったからであろう。そしてご祭神については牛頭天王
の他に、小橋命の子の阿摩毘命とも言われている。小橋命は仁徳朝に橋を作った土木工事家だった。

名所図会には小橋里が味原郷としているが、味原の読みは今はアジハラだがミハラとも読めます。つまり「美原」とも響
きが合うし、この阿麻美許曾神社の鎮座地が天美であり、阿摩毘に響きが近い。此処(天美)は現在大阪市の飛び地
になっているが、歴史上は美原町と堺市との接点で地名だけがアチコチ動いて来た土地柄でした。

因みに本殿の様式は「阿麻美造り」と呼ばれる形であるが、許曾を付ける神社名は珍しく、全国に百数十社あるだけ
だ。其処から何れも朝鮮半島からの渡来人が祭った所とも推測する人がある。確かにコソは朝鮮語のコサ(告祀、古
祠)に響きが近い事と、また近くに渡来系の依羅郷が有ったからだが、「何でも朝鮮」式の理解は誤解かも知れない。

例えば景行天皇の時代に襲小橋命がある。襲は熊襲の襲から後に曽於郡にも付けられた「曽」であるからコソと混同
しては困る。ただ河内の小橋造と言う場合は新羅族と理解されている。其れは小橋命の一部門として新羅渡来人も働
きに来たからだろう。さて参道の向きに従って本殿を突き抜ければ大阪市の勝山地区に至る。

其処は小橋命の里で有り、更に進めば吹田市の式内社・垂水神社に至る。此処も水利の神の里であるが、今の例祭
は10/30、夏祭りが6/30になっているので若干かみ合わない。けれども、阿麻美許曾神社のご祭神は先の素盞
鳴命(牛頭天王)の他に、小橋命の子の阿摩毘命であった可能性が強まって来た。

其れに対して、垂水神社のご祭神は、豊城入彦命の四世孫(真若命)の五世孫(孝徳天皇の時代)の阿利眞公であ
り、高樋を作って通水した功績により、垂水公と言われたと社伝にある。とすれば先の阿摩毘命と似た響きであり、水
利と土木と言う点でも類似点が見られる。さあ具体的に方位を追って見ると公有地が多いのに気づきます。@

長野神社のライン・・・・・・・大阪・河内長野市。此処は昔から高野街道の宿場として栄え、当社は木屋堂(こやど)
の宮と呼ばれて来た。鎌倉後期の「後宇多院御幸記」には昼御饌をしたと記されている(10/11を参照)

此処の例祭は10/11日に松明立て(5mの左義鳥)神事があるが、其の由来は当初、ご鎮座の折り、鎮座地を間違
えないように松明を焚いて迎えたからだと言われる。確かにこの時期のこの日の方位は彼岸を過ぎた時期ですから日
暮れから夕闇が迫る時刻・方位になる。従って各地点で篝火を焚き、その間を松明のリレーで迎えた事だろう。

所で松明は昼間ではなくて夜に焚くものであり、或いは「太を待つ」火の神事である。さて長野神社の場合は主神が八
坂の神・牛頭天皇(スサノオノミコト)である。其の点については先ず八坂神社の例祭6/15(別項を参照)と同方向に
は、先ず三日市遺跡があり、環頭太刀などが出土している。

6/15方位には外にも大日寺跡、其の先の唐久谷にはかつて旧・和佐神社(蔵福寺跡)があり、主祭神がスサノオノミ
コトである。この為か本殿は本日の祭りの方位ではなくて、八坂神社と同様、ほぼ南向きに建ち、鳥居も西向きであ
る。しかも逆(12/15)方位には消防署の東に山上講の石塔群が残っている。

更に進めば原の天神、其の先の須賀地区には旧・鳴尾神社があり、此処も主祭神がスサノオノミコトである。しかも当
地では鳴尾と書いてドンドと呼ぶのであるが、その意味が謎だった。一説には「此の辺りは昔から滝畑や寺ヶ池からの
水が石川に流れ落ちる放出口になっていたので其の水音が鳴る音からだ」とも言われる。

だが、寧ろ左義長がドンドとも言われて来た事と重ねて見れば謎がハッキリ解ける。京都祇園では北に鞍馬が今は10
/22に火祭りが有るのに対して、此処、須賀の地の広い河原では昔は12/15か6/15にドンドを焚いてスサノヲの
神を迎えたと言う事になる。或いは義経や弘法大師とも重ね合わせた。

当地は源氏(行家)の里であるから義経を左義長で祭っても不思議ではない。また例えば当社の北に旧・延命寺があっ
た。此の寺は場所が神が丘に変わった今でも5/6に青葉祭りをしている。つまり次項の弘法大師の誕生会との習合
である。何れにせよ石川沿いに走るこの南北線が旧・高野街道の基軸となった可能性がある。

■恒例宗祖降誕会(青葉祭)・・・・・・・金剛峯寺(和歌山県高野町)で弘法大師の誕生を奉讃する行事。稚児大師渡御
と大師音頭がある。弘法大師・空海は讃岐の屏風浦で佐伯田公(善通)の子として生まれ、幼名は佐伯眞魚と言った。
高野山ではこの日、其の誕生会として高野町の表通りを「花御堂渡御」として練り歩く。

因みに香川の善通寺は父のため、そして九度山・慈尊院は母のために建てたものである。

■久留米・祇園祭・・・・・・篠山神社で15〜16日。当日は蟇目祭り、翌日が金達磨祭。
■長崎・聖体行列・・・・・・
★08蜘蛛合戦(6月第三日曜日)【鹿児島県加治木町】

▲10糸満ハーレー・・・・・・・・旧暦5月4日(10/6/15)・沖縄県糸満市。
動画http://www.omatsuri.com/movie/itoman.html
 



★父の日-----6/18-09/6/21日。























旧暦6/15 日 

●石崎・奉燈祭・・・・・・・・石川・七尾市。石崎八幡宮。猟師町の満月の祭りである。高さ10mの大奉燈(キリコ)が六
基と子供用の6mのものも六基祭られる。














































6/16 日以下、次ページへ次は「6月中旬」



■「神々の歳時記」の各項目のご理解には「366円暦」が必要です。円暦は別紙の「日読み1」http://toki.mikosi.com/
page044.htmlで公開していますが、其の実物を希望される方は末尾に従ってご請求下さい。

■尚、各行事は別記のない限り新旧暦に関わらず2003年の例に以後毎年06-07と追加する形で示していますので、
*開催日等の詳細には主催者にお問合せ頂くか、各ホームページにて御確認下さい。

■「神々の歳時記」に記した例は仮説ではなくて、太陽暦に重ねて古式祭による祭政一致を行っていた古からの日本
文化の原理です。其の具体例を今回、公開したものですが、海外への情報流失防止のため、特に「本文」については0
4/11月から「非公開」としました。

■@マークの付いた以下の部分が「非公開」部分です・・・・・・・@マーク以下には「地理・方位の具体例と其の意味や
暦との関係式」などの詳細を隠しています。この隠れた部分の資料をご希望の方は、「メールフォーム」または「掲示
板」からコンタクト下されば実費で郵送します。

■文中に誤記や間違いがありましたら、恐れ入りますが前項の方法で下記まで御一報賜れば幸いです。尚、参考文献
は巻末に記しました。  



次は
または・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ●○◎□◇■◆△▽▲▼☆★
トップへ
トップへ
戻る
戻る

パテント・著作権は本会に属します。    「鬼の会」